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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   戦争は死の使い 看護は生の使い


 「さらっとした言い方だが、それは勇気ある言葉だった。心で思っていても、なかなか口に出せないことだった。当時、『ひどい世の中だ』と言っただけで、『非国民』として逮捕された人さえいたのである。

 私は、看護婦さんの一言に、女性として、人間としての真実を聞いた。私を励ますための言葉だったが、あるいは家族のだれかが戦地に行っておられたのかもしれない」(同)

 池田は医師から、茨城の鹿島にある療養所に二年ほど入るよう言われる。だが、ベットの空きを待っている間に敗戦を迎えた。

 「絶対に生き抜いていくのですよ」と励ましてくれた看護婦の振る舞いに、池田は何度となく言及している。白樺会総主事の稲光禮子は、この話を池田から直接聞いた一人である。

 「心優しく、戦争を批判するあの看護師との出会いが、先生ご自身の看護師像の原点であるとうかがいました。看護師は、死を前にすれば社会的立場などまったく無力だという現実を嫌というほど知っています。だからこそ、相手が誰であろうと本当のことを言うのだと思います」


 戦争と病と───「二つの死」の影に池田少年が苦しめられた時代、従軍看護婦として辛酸をなめ尽くした人々が、後に一冊の証言集をまとめた。創価学会の100冊を超える反戦出版シリーズの中の『白衣を紅に染めて』(第三文明社)である。20人を超える従軍看護婦たちの体験が収められている。戦地で看病した人に、敗戦後、逆に命を助けられた人もいた。軍医から「天皇陛下の命令だから」と諭され、泣く泣く安楽死の注射を打った人もいた。「戦争の最大の犠牲者は女であり母親である」という叫びが、読む者の胸を刺す。戦争の地獄を生き延びた彼女たちは、やがて創価学会の信仰を選び、それぞれの人生の道を切り開いていく。

 この証言の冒頭に登場する木須マサ子は、「満州での看護生活に、中国人も日本人もありませんでした」。と振り返る。「分厚い満服の綿を切り裂いて弾丸を体から取り出す時、中国人の患者は『アイヤ!マーマ!』と叫びました。日本人が『お母さん!』と叫ぶのと何も変わりません」。

 敗戦前後、「その日の命がどうなるかわからない」毎日が続いた。

「引き揚げ列車が出発する直前、役人から『三歳以下の子どもは列車に乗せられない』と告げられ、涙をのんだ母親たちがたくさんいました」。

人のよさそうな中国人を見つけ、泣きながらわが子を渡す母親の姿を幾人も目にした。「再会した時、わかるように」と赤ん坊の腕に傷を残す親もいた。

 新京の病院で数百人の引き揚げ者に予防接種をしていると、若い女性に看護服の袖を引っ張られた。「助けて、看護婦さん」と泣いている。わが子を遠い土地に置き去りにしてしまった自分を責め続けていた。

 「新京から引き揚げる時は、天蓋(てんがい)のない貨車に乗りました。途中で半狂乱になってしまい、貨車から飛び降りるお母さんもいました」。

奉天に着くと「医者や看護婦はソ連兵に連れて行かれる」という噂を聞いた。

「密告されるのが怖くて、それまで太ももに巻いて隠し持っていた看護学校の卒業証書も焼き捨てました」。

 引き揚げ後は福岡の済生会病院や孤児収容所で働いた。「弾丸が飛んでこないだけで幸せだった」という。すぐに縁談をもちかけられたが、断った。どうしても、そんな気にはなれなかった。

 「たくさんの戦争孤児がいました。収容所では、夜になると『お母さん、お母さん』と涙まじりの声が聞こえました。苦しむ人々の中に、まだ私はいなければならない、彼らの声に耳を傾けなければ、と思ったんです」

 木須は引き揚げ後も4年間、看護婦を続けた。結婚後、3人の子育てに疲れ果てた頃、創価学会と巡りあった。

「夫も入会し、最後まで純粋な信心を貫きました。昭和55年、義父の各務原に来られた池田先生と記念撮影をする機会がありました。私の誇りですよ」。90歳になる木須はそう言って笑った。

「絶対に生き抜いていくのですよ」


結核の体を押して軍需工場で働いていた時、


戦争を美化せず励ましてくれた一人の看護婦。


池田は、その少年の日の”原点”を忘れず、


看護に携わる女子部・婦人部のメンバーを


「いのちの守り人」と称し、讃えてきた。


医療の現場で生老病死と向き合う一人一人に


自らの生命との格闘のドラマがあった───。


 「体はやせて、頬はこけ、注射を打っても、すぐまた熱が出る」───。

 池田大作は「白樺会」(=看護に従事する婦人部のグループ)との懇談で、少年時代の闘病を語ったことがある(『池田大作全集』第六六巻)。

 「職場から人力車に乗せられて帰ったこともあります。39度の熱を押して仕事したこともありました」。

 当時、池田は蒲田駅にほど近い新潟鉄工所で、ディーゼル機関の製造に携わっていた。三番目の兄が勤めていた関係で、14歳から働き始めた。真珠湾攻撃の翌春(1942年)のことである。

「鉄工所は、まもなく軍需工場となった。鉄の削り屑が飛び散る工場は、結核の私にとって、最悪の環境であった」(同全集、第九六巻)。

 軍事教練で木銃を抱え、多摩川の土手まで行進させられ、疲れ果てることもたびたびだった。

 新潟鉄工所の医務室に40代半ばの看護婦(=現在の看護師)がいた。ある日、池田の病状を見かねた彼女は、仕事を早退させ、レントゲン撮影のためにわざわざ病院まで付き添ってくれた。

 「看護婦さんに、私は何度も頭を下げた。『いいのよ。いいのよ。当たり前のことしているだけなんだから

 その『当たり前のこと』が、どれほど、ありがたかったか。戦争と病気という二つの『死』に直面していた私にとって、枯れ野で巡り合った明るい花のようだった」(2001年3月4日付「聖教新聞」)

 「本当は、働ける体じゃないんだけど・・・・・・池田さん、何とかして転地療養したほうがいいですよ」と看護婦は池田に勧めた。そして「戦争っていやね。早く終わればいいのにね」と言った。

   「私は泣いた。慟哭した」


 河原麻理子は、「岩手の大槌で被災した白樺会メンバーは、避難先の小学校で、被災者に一人ずつ声をかけ、即席のカルテをつくったそうです。『当初は被災者の傷を洗い流す水もなく、励ますか、祈ることしかできなかった。本当に悔しかった』と語っていました。そういう思いをしたメンバーが、各地にいました」と語る。

 「まさに爆撃を受けたような光景が広がっていた」───東京からの救護派遣隊が、初めて石巻文化会館へ向かった時に書いた「救援支援記録の一文である。

 その石巻文化会館でも、すでに避難者のカルテがつくられていた。

「被災者の中に白樺会の方が二名おり、救護ブースをつくり、物品などを管理してくださっていた」(同記録)───その一人が鈴木公美だった。

 地震の後、認知症の父も含めた家族全員と友人を連れて、同会館向かった。

「ちょうど会館の鍵を持った壮年の方が玄関におられました。『白樺の先輩から、会館には緊急物資もあり、避難できると聞いています』と伝えて、一番最初に入りました。次々と避難者がやって来ました」。

 椅子を並べ、シーツを敷き、臨時の救護ブースをつくった。

「理学療法士の学校に通っていた息子にも手伝ってもらいました」。

外部と連絡がとれず、どの病院が開いているのかもわからない。鈴木自身、肝炎のインターフェロン療法を受けている最中だった。

「治療の副作用で、話をしても息切れするような体調でした。でも『ほっとけない』って思っちゃうんですよ。白樺だから」。

 自分の体とも相談しながら、避難者に「血圧を測りましょう」と提案し、持病のある人をチェックし始めた。

「名前、年齢、性別、症状とどういう処置をしたか、ノートに書いておきました」。

一週間で救護の流れをつくり、同じ白樺会の高橋良子たちに引き継いだ。高橋は「不安で無我夢中でしたが、今でも『あの時はありがとう』と声をかけられます。そういう時、やはり必要とされていたのかな、と感じます」と振り返る。

 鈴木は2013年の11月まで、壊滅的な被害を受けた海沿いの地域で地区婦人部長を務めた。

「地区の7人の方が命を落としました。あの時は、どん底だけれども、少しでも安心感を与えてあげたい、声をかけて、体をさすってあげるだけでも違うのかな、という思いでした」

「震災直後に励ましのメッセージを贈ってくださった池田先生と、私は一度も会ったことはありません。でも、毎日、先生の弟子として、共に生きていると感じています」。そう鈴木は語る。


 震災から11日経った3月22日。金守合い亜伊はその日の夜、東北文化会館で聞いた池田からの伝言を、今も胸に刻んでいる。

「大津波で九死に一生を得て、しかもなお救護活動に身を挺し続ける、被災三権の青年部の方々の涙ぐましい様子は、先生にまで伝わっていました。先生はその方々に伝言を贈られたのです。忘れることができません」。

 混乱を極める渦中、池田からの伝言は、静かに、深く、被災地の友のもとへ口伝えに広がっていった。聖教新聞の体験談などでも、被災した同志たちはこの伝言に勇気づけられたことを語り、繰り返し掲載された。金守たちが日々の状況を綴った「救護支援記録」にも記されている。

 「あなたたちの懸命な体験を聞いて、私は泣いた。慟哭した。よく戦ってくださった。よく生き抜いてくださった。よく耐え抜いてくださった。そして、創価の精神を発揮して、人々の大救済に命をかけて戦い続けてくださっている。感謝しても、感謝しても、感謝しきれない。あなたたちの献身こそが、学会精神の真髄であり、誉れである。あなたたちの献身こそが、姉弟の魂の脈動であり、誇りである。この尊き決死の方々を、国家も最大に感謝し顕彰すべきであると訴えたい」

 白樺会の河原麻理子は、震災当日から仙台の青葉平和会館に毎日通った。

「その後、気仙沼、石巻、岩沼を回りました。2012年の1月からは担当の地域を決めて、白樺の有志で被災地の健康訪問を始めました。今も続けています」。

 毎晩うなされている壮年がいた。

「苦しみを人に話すことをよしとしなかったのか、眠ると『ずっとあれ以来』うなされている、という方でした。東北の被災者のなかには、我慢すれば時が解決する、と思っている方もいます。心が傷つき、それを忘れようとして動き、疲れ、自分も知らないところでうなされている。多くの方が『こんなことくらいで』『もっと大変な人がいるのに』とおっしゃるんです。私は『違いますよ。どんどんしゃべっていいんですよ』と伝えています。『もうダメだ』と言っていた人が元気になり、頑張っていた人が落ち込み、上がったり、下がったりの波の繰り返しのなかで、みんなでしゃべりながら、『負けてたまっか』と祈りながら、乗り越えていくんです」。

 被災地の再生の歩みは、消えることのない悲しみとの共栄でもある。忘却との闘いでもある。その歩みはすべて現在進行形で続いている。

     季節外れの「雪虫」


 多くの「白樺」のメンバーが、それぞれの職場で大震災に遭遇した。

 宇渡亮子は航空自衛隊の松島基地にほど近い病院の透析室にいた。地震で揺れ動く制御卓を2台、両手でつかみ、必死で押さえた。

「ちょうど休憩中で、看護師は私一人でした。天井から、ぱらぱらと破片が落ちてきた時、この人たちを置いていけない、私はここで死ぬのかなと思いました」。

 技師が床を這って、同僚の看護師たちが転びながら戻ってきた。立てる患者は車椅子に、寝たきりの患者はストレッチャーなどに乗せて、全員が一つの部屋に集まった。しばらくして「津波だどー!」という叫び声が聞こえた。

「一斉に患者さんを屋上に運びました。幸い、津波は玄関あたりで止まって、気がついた時は病院の周りが一面海になっていました」。

寝たきり患者の多い透析病棟を24時間体制で守ることに全力を注いだ。

 宇渡は女子部時代、仙台で行われた「宮城平和希望祭」に参加している(1982年8月)。「未来部(=高校・中・小学生のメンバー)だけで演技する文化祭でした。私は場外の整理役員で、ものすごく暑い日だったことを覚えています」。

 池田はこの日、吹き出る汗も拭わず未来部員たちの演技に拍手を送った。

───諸君たちが雄々しく活躍していく姿を見定めることが、私の人生の勝負であり、楽しみである───

県スポーツセンターに響く池田の声を、宇渡は場外で聞いた。「この暑さの中でやったことが、一生涯の思い出となるんだよ」。という池田からの伝言も届いた。

 「先生の振る舞いには心尽くしを感じます。震災の後、いっそう感じます」と語る。

「実家の姪が嫁ぎ先で亡くなった時、学会員ではないそのご家族が『創価学会はすごいね』と驚いておられました。池田先生からのお悔みが届いていたんです。私も『そこまで手を差し伸べてくださるのか』と感じました」。

 「また「救援物資として、学会本部から地域の友に自転車も届きました」と振り返る。「自宅は応急修理しましたが、全壊扱いで、のちに解体しました。それまでは縁側に米や塩やしょうゆやみりんや、学会本部からの救援物資を置き、歩けないおばあちゃんたちに配って回りました」。

 「震災直後、夫は支部長として安否確認に奔走しました。今も寝たきりの方などに声をかけて回っていますが、『一人一人の家を訪ねることが本当に大事だ』と話しています。私は、必ず春は来る、必ず再生できると思っています」


 田五島邦子は福島県の大熊町に住み、双葉町の特別養護老人ホームで働いていた。

「90歳を超えた母が入所していました。大震災の起きた3月11日はお休みで、近所の人と声をかけ合い、集会所で一晩過ごしました」。

夫の武司たちが野外でストーブを焚き、暖をとった。

 「12日は朝から仕事に行きました」。出勤前、近所の人たちが空を指していた。「季節はずれの雪虫が飛んでいる」。邦子も一緒に空を見上げ、夫の武司に「珍しいね」と言った。

 それは、雪虫ではなかった。約2年後、「毎日新聞」に次の記事が載った(2013年2月22日付)。

 「(2011年)3月12日に(東京電力福島第一原子力発電所の)一号機格納容器の水蒸気を外部に放出する『ベント』を始める約5時間前から、放射性物質が約10㌔圏に拡散していたことがわかった」

「放射線量が通常の700倍超に達していた地点もあり、避難前の住民が高線量にさらされていた実態が初めて裏づけられた」

 邦子は夫の武司に車で職場まで送ってもらった。

「妻を送った後、大熊町の役場まで車で8回ほど往復し、集会所の人たちを運びました。その後、皆を乗せたバスで受け入れてくれる避難所を探し、何カ所もたらい回しにされ、やっと小野町の避難所にたどり着きました」(武司)。

 邦子のいる老人ホームには、他の病院の患者たちもバスで運び込まれた。電気も水道もガスも止まった。食糧の備蓄もわずかだった。12日も、13日も、救助のバスも救援物資も来なかった。

「14日になってバスが1台来ました」。到底、全員は乗りきれない。警官から「もう避難用のバスが来る予定はない」と聞かされた。私たちを見捨てるのか。ここで死ねというのか。邦子たち看護師と介護士はその場を去ろうとする警官を必死で問い詰めた。

「夕方、ようやく県警の護送バスが来ました。高速道路の対向車両は、パトカーと救急車と自衛隊の車だけで、最初は数えていたんですが、80台を超えたあたりでやめました」。

最高齢の101歳を先頭に、200人近くがようやく原発から離れることができた。

 「避難してからが大変でした。野戦病院ってこんな感じなのかなと思いました」。邦子はそれから半年以上、避難先の体育館や宿泊施設で看護に携わった。「最初は多くの人が褥瘡(=圧迫による皮膚の壊死)の痛みでうなっている状態でした」。

点滴台などあるはずもなく、体育館の階段の手すりに点滴や経管栄養をぶらさげた。ホテルの従業員だけでは食事の準備が間に合わず、三食とも配膳を手伝った。お箸の持ち方がおかしい患者を見つけ、病院に連れて行ったら脳梗塞が見つかり、事なきを得た。風呂場で転んだ人のそばで、従業員が「救急車を呼びますか」と声をかけていた。邦子は「呼びますか、じゃなくて、呼んでちょうだい!」と一喝し、病院に運ぶと、くも膜下出血だった。一命をとりとめ、医師から「15分遅かったら助からなかった」と言われた。

 「私が宿泊施設にいる間は幸い、一人も亡くなることはありませんでした」

 邦子と武司が大熊町の家から持ち出した数少ない品物のなかに、


     忍耐の

       土壌の上に

           幸の城


 という池田の句がかかれた色紙がある。

「平成14年、福島研修道場で白樺会の研修があったんですが、ちょうど夫の病気の手術と重なり、参加できませんでした。その時、先生からいただいた励ましです」。

 御本尊に向かう時、邦子はいつもこの句を見つめてきた。仮設住宅に移ってからは、「見守り隊」をおつくって健康相談に回った。

「誰に頼まれたのでもありません。『一銭にもならないことをやって、疲れるでしょう』という人もいましたが、私の根っこには『白樺』があるんです。女子部の時も、婦人部の今もですね」。静かに語った。

   「ここでも一人も死なせない」 ②


 2011年3月。白樺グループの金守亜伊たちは、創価学会の救護派遣隊として仙台の東北文化会館に向かった。

「すぐ参考にできる資料はほとんどありませんでした。東日本大震災の少し前、たまたま『潮』に『民衆こそ王者』の阪神・淡路震災が載っていましたが、あのページだけ切り抜いて仙台に持って行き、看護師の仲間とミーティングした際に読み合わせました」。

 東京から向かった白樺グループがドクター部とともに東北文化会館に到着したのは、3月13日の夕刻である。

「それまで看護の陣頭指揮をとってくださっていたのが、豊北白樺グループの小野寺幸恵さんです」(川本純子)。

 13日に綴られた「救護支援記録」には「(東北文化会館の)救護室(健康管理室)はまったく現状を留めていない」と記されている。3月11日の午後2時46分、小野寺幸恵はその部屋にいた。

 「警報が鳴ったのですが、強烈な揺れで歩けませんでした」。

部屋の外に飛び出し、ロビーの柱のそばに座り込み、揺れが収まるのを待った。

 「1階の事務所に移動して同僚の無事を確かめると、やっと膝の擦り傷や、自分のジャンパーが壁から崩れ落ちた粉で真っ白になっていることに気づきました」

 学会の本部職員になって2年目だった。それまで7年間、仙台市内の総合病院で働いてきた。

「夕方には電気も水もガスも使えなくなりました」。

ラジオを聴く限り、誰も経験したことのない甚大な被害が出ている。まだ避難者は少ないが、間違いなく殺到する。どうやって看護すればいいのか。会館に備蓄してあった食糧や水、避難者用の布団を倉庫から運び、簡易トイレを設置しながら、必死で頭をめぐらせた。

「3月11日に会館に来られた避難者は600人でした。電気が復旧したのは15日、水道は16日の夕方です」。

 一夜が明けた。広い東北文化会館全体が救護室になっていた。学会員であろうとなかろうと、避難者たちが次々と増えていく。病院勤務の合間を縫って駆けつけることのできる白樺グループの人員は限られている。避難者数はついに1000人に至った。救急車に連絡がつかない。透析を受けている避難者もいた。使い慣れない無線機を手に、小野寺は「ここでは一人も死なせない」と心に決めた。