「ここでも一人も死なせない」 ②
2011年3月。白樺グループの金守亜伊たちは、創価学会の救護派遣隊として仙台の東北文化会館に向かった。
「すぐ参考にできる資料はほとんどありませんでした。東日本大震災の少し前、たまたま『潮』に『民衆こそ王者』の阪神・淡路震災が載っていましたが、あのページだけ切り抜いて仙台に持って行き、看護師の仲間とミーティングした際に読み合わせました」。
東京から向かった白樺グループがドクター部とともに東北文化会館に到着したのは、3月13日の夕刻である。
「それまで看護の陣頭指揮をとってくださっていたのが、豊北白樺グループの小野寺幸恵さんです」(川本純子)。
13日に綴られた「救護支援記録」には「(東北文化会館の)救護室(健康管理室)はまったく現状を留めていない」と記されている。3月11日の午後2時46分、小野寺幸恵はその部屋にいた。
「警報が鳴ったのですが、強烈な揺れで歩けませんでした」。
部屋の外に飛び出し、ロビーの柱のそばに座り込み、揺れが収まるのを待った。
「1階の事務所に移動して同僚の無事を確かめると、やっと膝の擦り傷や、自分のジャンパーが壁から崩れ落ちた粉で真っ白になっていることに気づきました」
学会の本部職員になって2年目だった。それまで7年間、仙台市内の総合病院で働いてきた。
「夕方には電気も水もガスも使えなくなりました」。
ラジオを聴く限り、誰も経験したことのない甚大な被害が出ている。まだ避難者は少ないが、間違いなく殺到する。どうやって看護すればいいのか。会館に備蓄してあった食糧や水、避難者用の布団を倉庫から運び、簡易トイレを設置しながら、必死で頭をめぐらせた。
「3月11日に会館に来られた避難者は600人でした。電気が復旧したのは15日、水道は16日の夕方です」。
一夜が明けた。広い東北文化会館全体が救護室になっていた。学会員であろうとなかろうと、避難者たちが次々と増えていく。病院勤務の合間を縫って駆けつけることのできる白樺グループの人員は限られている。避難者数はついに1000人に至った。救急車に連絡がつかない。透析を受けている避難者もいた。使い慣れない無線機を手に、小野寺は「ここでは一人も死なせない」と心に決めた。