民衆こそ王者ー池田大作とその時代 「白樺」──生命を護る者(3) 10 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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     季節外れの「雪虫」


 多くの「白樺」のメンバーが、それぞれの職場で大震災に遭遇した。

 宇渡亮子は航空自衛隊の松島基地にほど近い病院の透析室にいた。地震で揺れ動く制御卓を2台、両手でつかみ、必死で押さえた。

「ちょうど休憩中で、看護師は私一人でした。天井から、ぱらぱらと破片が落ちてきた時、この人たちを置いていけない、私はここで死ぬのかなと思いました」。

 技師が床を這って、同僚の看護師たちが転びながら戻ってきた。立てる患者は車椅子に、寝たきりの患者はストレッチャーなどに乗せて、全員が一つの部屋に集まった。しばらくして「津波だどー!」という叫び声が聞こえた。

「一斉に患者さんを屋上に運びました。幸い、津波は玄関あたりで止まって、気がついた時は病院の周りが一面海になっていました」。

寝たきり患者の多い透析病棟を24時間体制で守ることに全力を注いだ。

 宇渡は女子部時代、仙台で行われた「宮城平和希望祭」に参加している(1982年8月)。「未来部(=高校・中・小学生のメンバー)だけで演技する文化祭でした。私は場外の整理役員で、ものすごく暑い日だったことを覚えています」。

 池田はこの日、吹き出る汗も拭わず未来部員たちの演技に拍手を送った。

───諸君たちが雄々しく活躍していく姿を見定めることが、私の人生の勝負であり、楽しみである───

県スポーツセンターに響く池田の声を、宇渡は場外で聞いた。「この暑さの中でやったことが、一生涯の思い出となるんだよ」。という池田からの伝言も届いた。

 「先生の振る舞いには心尽くしを感じます。震災の後、いっそう感じます」と語る。

「実家の姪が嫁ぎ先で亡くなった時、学会員ではないそのご家族が『創価学会はすごいね』と驚いておられました。池田先生からのお悔みが届いていたんです。私も『そこまで手を差し伸べてくださるのか』と感じました」。

 「また「救援物資として、学会本部から地域の友に自転車も届きました」と振り返る。「自宅は応急修理しましたが、全壊扱いで、のちに解体しました。それまでは縁側に米や塩やしょうゆやみりんや、学会本部からの救援物資を置き、歩けないおばあちゃんたちに配って回りました」。

 「震災直後、夫は支部長として安否確認に奔走しました。今も寝たきりの方などに声をかけて回っていますが、『一人一人の家を訪ねることが本当に大事だ』と話しています。私は、必ず春は来る、必ず再生できると思っています」


 田五島邦子は福島県の大熊町に住み、双葉町の特別養護老人ホームで働いていた。

「90歳を超えた母が入所していました。大震災の起きた3月11日はお休みで、近所の人と声をかけ合い、集会所で一晩過ごしました」。

夫の武司たちが野外でストーブを焚き、暖をとった。

 「12日は朝から仕事に行きました」。出勤前、近所の人たちが空を指していた。「季節はずれの雪虫が飛んでいる」。邦子も一緒に空を見上げ、夫の武司に「珍しいね」と言った。

 それは、雪虫ではなかった。約2年後、「毎日新聞」に次の記事が載った(2013年2月22日付)。

 「(2011年)3月12日に(東京電力福島第一原子力発電所の)一号機格納容器の水蒸気を外部に放出する『ベント』を始める約5時間前から、放射性物質が約10㌔圏に拡散していたことがわかった」

「放射線量が通常の700倍超に達していた地点もあり、避難前の住民が高線量にさらされていた実態が初めて裏づけられた」

 邦子は夫の武司に車で職場まで送ってもらった。

「妻を送った後、大熊町の役場まで車で8回ほど往復し、集会所の人たちを運びました。その後、皆を乗せたバスで受け入れてくれる避難所を探し、何カ所もたらい回しにされ、やっと小野町の避難所にたどり着きました」(武司)。

 邦子のいる老人ホームには、他の病院の患者たちもバスで運び込まれた。電気も水道もガスも止まった。食糧の備蓄もわずかだった。12日も、13日も、救助のバスも救援物資も来なかった。

「14日になってバスが1台来ました」。到底、全員は乗りきれない。警官から「もう避難用のバスが来る予定はない」と聞かされた。私たちを見捨てるのか。ここで死ねというのか。邦子たち看護師と介護士はその場を去ろうとする警官を必死で問い詰めた。

「夕方、ようやく県警の護送バスが来ました。高速道路の対向車両は、パトカーと救急車と自衛隊の車だけで、最初は数えていたんですが、80台を超えたあたりでやめました」。

最高齢の101歳を先頭に、200人近くがようやく原発から離れることができた。

 「避難してからが大変でした。野戦病院ってこんな感じなのかなと思いました」。邦子はそれから半年以上、避難先の体育館や宿泊施設で看護に携わった。「最初は多くの人が褥瘡(=圧迫による皮膚の壊死)の痛みでうなっている状態でした」。

点滴台などあるはずもなく、体育館の階段の手すりに点滴や経管栄養をぶらさげた。ホテルの従業員だけでは食事の準備が間に合わず、三食とも配膳を手伝った。お箸の持ち方がおかしい患者を見つけ、病院に連れて行ったら脳梗塞が見つかり、事なきを得た。風呂場で転んだ人のそばで、従業員が「救急車を呼びますか」と声をかけていた。邦子は「呼びますか、じゃなくて、呼んでちょうだい!」と一喝し、病院に運ぶと、くも膜下出血だった。一命をとりとめ、医師から「15分遅かったら助からなかった」と言われた。

 「私が宿泊施設にいる間は幸い、一人も亡くなることはありませんでした」

 邦子と武司が大熊町の家から持ち出した数少ない品物のなかに、


     忍耐の

       土壌の上に

           幸の城


 という池田の句がかかれた色紙がある。

「平成14年、福島研修道場で白樺会の研修があったんですが、ちょうど夫の病気の手術と重なり、参加できませんでした。その時、先生からいただいた励ましです」。

 御本尊に向かう時、邦子はいつもこの句を見つめてきた。仮設住宅に移ってからは、「見守り隊」をおつくって健康相談に回った。

「誰に頼まれたのでもありません。『一銭にもならないことをやって、疲れるでしょう』という人もいましたが、私の根っこには『白樺』があるんです。女子部の時も、婦人部の今もですね」。静かに語った。