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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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    「具体的に祈るんです」


 秋田から東京に移り住んだ山本睦子もまた、池田との「路傍の出会い」を人生の原点に変えた一人である。

 石油会社に勤めていた父親が心筋梗塞で亡くなった時、山本は5歳だった。社宅を出た一家は、東京に住む叔父を頼り上京。杉並の6畳一間の貸家に母と子ども5人で暮らし始めた。

 「不運なことに、母は叔父の借金の連帯保証人を引き受けてしまい、やがて債権者に追い立てられる毎日が始まりました。思いつめた母から『もう死のうか』と聞かれ、小学一年生だった私は『うん』と言いましたが、姉が『いやだ!』と部屋の隅に逃げ込み、母は正気を取り戻しました。そんな一番つらい時に相談に乗ってくれたのが創価学会の人でした。


 母のウメノは1959年(昭和34年)に信心を始めた。少女時代に苦しい思いをした山本は「自分の心と体を使って、人の役に立つ仕事をしたい」と決意し、看護の道を選ぶ。

 田無市(当時)の病院に勤め、立川の看護学校で学んだ。

「働いては勉強の連続で、気力も体力も限界でした。あの学生時代、近所の学会員さんに何度も励ましてもらい、学会の温かさを知りました」。 


 ある日の夕刻、疲れた体を引きずり、信濃町で行われる白樺グループの会合に向かった。

「駅から歩いていると、本部別館(当時)の前で偶然、池田先生にお会いしたんです」。「ご飯は食べたの?」と尋ねられ、山本は「食べました」と答えた。本当は食べていなかった。「心配をかけたくなかったので、そう言ったのですが・・・」。

 「お母さんはお幾つ?」「68歳です」。トートバックを抱えたまま、山本は緊張していた。池田はじっとその眼を見つめ、「お母さんは、苦労されたね」と言った。山本は「はい」と答えた。

 白樺グループの会合に行く途中だとわかり、池田は「じゃあ看護婦さんだね。この時間に食事してないってよくないでしょう?」と言った。「思わず『はい』と答えてしまいました」。そばで妻の香峯子が微笑んでいる。池田は山本に果物を渡し、「荷物を持って電車に乗るのは大変?」と聞き「いいえ」と答えた山本に果物をもう一個渡した。さらに激励を重ね、その場を立ち去ろうとしたが、再び山本のもとへ歩み寄って握手した。

 「先生は『いい人と結婚できるよ。いい子どもを産んで、いい孫を育てなさい』と言われました。早くに父を亡くし、家族とともに苦労し続けた私にとって、とても心温まる一言でした。ほんの一瞬のやりとりでしたが、あの全身が包み込まれるような感じはなんだろう、と今でも不思議に思います」


 山本は、白樺グループのある会合で聞いた一言に「看護婦の姿勢」を学んだと振り返る。

「『私たちは、患者さん一人一人のことを具体的に祈るんです。たとえば、お小水が出なければ、出るように祈るんです』と。ああ、これこそ一流の看護婦だと目から鱗が落ちました。祈りが変わると、疲労困憊の職場は、看護体験のドラマの舞台に変わりました。話をしてくれたのは白樺グループ初代責任者の林栄子さんでした」。

 林栄子は白樺グループの土台をつくった一人である。山形の酒田に生まれた。

「中学時代はガキ大将と言われるくらい活発っだった」が、女子高に進んでから内向的になり、「看護学校、助産婦学校も同様で、それはだんだんひどくなって・・・・・人の前で話すことが『恐怖症』となっておそってくる」(林栄子の手記)ようになった。

 東京の新宿に住み、社会保険中央病院で働いた。

「母は『他人の前で話すことが死ぬよりつらい』というほど極度のあがり症だったそうです」。娘の星新子が語る。

「ずいぶん悩み、看護婦として限界を感じていた時、近所に住む婦人部の松岡さんから仏法の話を聞きました」。

 入会しても上がり症の悩みは続いた。1年ほど経った1962年(昭和37年)の12月、栄子が病院の廊下を歩いていると、向こうから池田がやってきた。心臓が飛び出るほど驚いた。鶴見支部の草創期に支部長を務めた森田悌二が、栄子の勤める病院に入院しており、池田がお見舞いに訪れたのである。

 「新宿・大久保の病院を訪れたおり、廊下で、一人の看護婦がすこしはにかみながら『先生、女子部の佐藤(旧姓)です』と駆け寄ってきた。お下げ髪で純朴な、その看護婦が栄子さんであった」(『忘れ得ぬ同志』第二巻)

 病院を後にする時、池田は栄子と握手を交わし、「明るくがんばりなさい」と声をかけた。「『明るく』と言われた一言が、私の人間革命の第一歩の目標でありました」(林栄子の手記)。

 この日を境に、栄子は徐々に変わっていく。白樺グループが誕生するのは、それから7年後である。

   「いのちの守り人」


 「看護師になったから、生命のすごさを垣間見た。だからこそ池田先生の振る舞いのすごさ、仏法の生命観の深さを知ることができた」。そう語る「白樺」のメンバーは多い。池田は彼女らを「いのちの守り人」と称し、一貫して励まし、讃えてきた。池田の提案で白樺グループの代表10人がノルウェーやデンマークで看護研修を行ったこともある。

「昭和50年のことです。出発前に先生は『これから高齢化社会になるから。行ってらっしゃい』と言われ、全員と握手していただきました。ヨーロッパで進む地域看護の現場を見て、大きな刺激を受けました」(桜木幸子、白樺会主事)

 1993年(平成5年)、東京牧口記念会館が八王子に完成した。軍国主義に異を唱え、73歳で殉教した初代会長・牧口常三郎を顕彰する会館である。当時、白樺グループ委員長だった中村康子は「先生から『(東京牧口記念会館の)最初の会合は白樺で』『ピアノの弾き初めも白樺で』と提案があり、皆で懸命に準備しました」と振り返る。

 当日、ピアノを弾いた西澤奈津子。「演奏したのはブラームスのワルツと、池田先生が作詞・作曲された『人間革命の歌』です。富士合唱団の方に、会合用にアレンジした楽譜まで作っていただきました」。

 西澤が引いた後、「あらためてピアノを演奏してくれませんか」という連絡が届いた素晴らしい演奏だと伝え聞いた池田からの伝言だった。

「この日、先生からは『白樺の会合を見守っているよ』という伝言もありました。一つの会合にここまで心を砕かれるのかと痛感しました」(中村)。


 波木井良子は2003年(平成15年)5月、池田を囲んだ懇談会での出来事が忘れられないと語る。

「白樺会や教育者の代表などが参加していました。先生は教育者の方々の方を向いて『明日は何の日?5月12日だよ。わかる?』と言われました。私たちには聞かれませんでした」。

その場にいた白樺会メンバーは全員、知っていた。池田は「明日はナイチンゲールの誕生日だ。看護の日なんだよ」と言い、白樺会がどれほど大切な存在かを語った。「『白樺は命の先生だ。生命の師匠なんだよ。よく覚えておきなさい』と言われ、身の引き締まる思いでした。生命の本質を求めるのが私たちの使命だと心に刻みました」。

 池田が「白樺」の友に注ぐまなざしは常に優しい。「慢性疾患看護専門看護師」として働く本城綾子は、池田との出会いを機に、それまで悩み抜いてきた父親との葛藤を乗り越えた。


 「その時、私は高齢のご婦人のそばにいました)。1999年(平成11年)5月、京都で本部幹部会が行われた。救護役員の本城は、その場で表彰を受ける予定だった老婦人の体調が気になり、そばに控えていた。

 池田が入場した瞬間、「救護役員の自分が目立ってはいけない」と思い、視線を下に向けた。「するとうつむいている私の頭に、ぽんぽん、と軽く掌を当ててくださったんです」。顔を上げると、池田はうなずいてそのまま壇上に上がり、会合が始まった。

 一瞬の、無言の出会いだった。本城にとっては「堂々と顔を上げていいんだよ」というメッセージのようにも、「ご苦労様」といういたわりの表れのようにも思えた。

 会合が終わると、他に具合が悪くなった女性と、付き添って帰った人宛てに、池田と妻の香峯子からお見舞いの伝言や書籍が届いた。本城のいる救護室にも新しい花が届いた。

「いつもここまで気を配っておられるのか、とあらためて驚きました」。

 本城は16歳の時、父の事業が破綻して、債権者に待ち伏せされた辛い記憶がある。

「私の通う高校まで押しかけてきました。退学せざるをえなくなり、親戚のつてを頼って、両親も知らない土地へ行きました」。

 近くの病院で働きながら准看護学校へ通った。

「親は創価学会に入っていましたが、私にはその自覚はありませんでした。当時、来てくれた女子部の先輩から『宿命転換』という言葉を教えてもらいました。一流の看護師になりたい、と思ったのもこの時です」。

准看護学校を卒業した本条は、看護短大を経て看護師になる。三交代勤務の合間を縫って、学会の圏女子部長や関西の白樺グループ委員長を歴任した。学会活動にも夢中で打ち込みながら、本部幹部会を迎えた。


 何年経とうと、家族を盾にして債権者から逃げ続けた父を許せなかった。しかし池田との出会いは、その「恨む心」が変わるきっかけになった。

「思いもよらない心の変化でした。目の前の一人を励ます先生の振る舞いが、私自身の本当の気持ちに気づかせてくれたのです。『ああ、わたしはずっと父親の愛情を求めていたんだ』と。父のせいで高校を中退させられ、父に愛されずに育ってきたと感じていました。でも、あの日を境に、父のおかげでこの信仰に巡り合えた、人生の師匠にも出会えた、と思えるようになったんです」。

 その後、本条は「慢性疾患看護専門看護師」の資格をとる。

「私がなった時には全国で20人もいませんでしたが、今は100人以上います」。慢性疾患の患者は10年、20年単位で病気と付き合う。自分に何ができるのか、「抜苦与楽」をモットーに試行錯誤の日々を送っている。