「元気そうでよかった」 ①
創大看護学部の落成式(3月30日)は大勢の来賓で賑わった。人混みの中には、長年、看護師として働き、今は杖をついて集う人の姿もあった。
翌日付の「聖教新聞」を手にした池田は、一枚の写真に目を留めた。落成を祝うテープカットの瞬間である。何人も写っている写真の端に、一人の老婦人の笑顔があった。見落としてしまうほど小さな笑顔だった。池田は、
「元気そうでよかった」
と伝言を託した。その女性──大塚トメは、創価大学の開学時から同大学の保健センターに勤め、約30年にわたって学生たち面倒を見てきた功労者である。
「看護学部に男子学生も入ってきてくれてうれしい」と語る。
「男性の患者には、やはり男性看護師でなければ共感できないこともあるだろうと思いますから」。
大塚トメは1920年(大正9年)、群馬県の黒岩村(現・冨岡市)の農家に生まれた。女学校に行きたかったが、支払う学費は無かった。
「勉強を続けたいから、働きながら学べる東京の看護学校を選んだ」と語る。
看護婦(=現在の看護師)の試験に合格した大塚は、横浜の病院などを経て、東京の日本赤十字病院で「救護看護婦」の教育を受けた。「真珠湾攻撃の翌年でした」。
召集され、中国の南京に渡った。もともとあった大学の校舎が病院がわりになった。寄宿舎と大学を往復し、傷病兵を看護する毎日だった。召集直後、大塚は「未だに脳裏から離れません」という光景を目にしていた。
「現地のひとたちがとても貧しい身なりで、日本人が使った食器を洗いながら、その食器の残骸をかき集めて食べていたんです。そういう人々を、日本兵が軍刀の柄で殴りつけているところも見ました」
同じ人間なのに、なぜだ?中国の人々は、苦い疑問を胸の底に抱えたまま続いた。
「合歓の花を見ては、故郷の景色を思い出して何度も泣きました」。
敗戦の色が濃くなると、看護婦にも車の運転や乗馬の練習、薬草採りなどが命じられた。
戦争が終わっても「看護の戦争」は続く。大塚たちのもとには日本兵だけでなく、中国兵も運ばれてくるようになった。国籍に関係なく手当てを続けた。「ある中国人将校からは『残って看護を続けてほしい』と懇願されました。あんなひどい戦争をしても、人の心には思いやり残っていることもあると感じました」。
上海に移って傷病兵の看護を続けた。敗戦の7カ月後、上海から北九州の門司港に渡り、4年ぶりに母国の土を踏んだ。