EIKOの気まぐれ闘病日記 -52ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  「その話は大事だ。後でメモを下さい」 ②


 こうした時、池田の発想のスケールは周りの予想を軽々と超えていく。

「インド、中国、アメリカ、メキシコ、カナダ・・・・・」。池田はゆびを折りながら次々と国名を挙げていく。

「東南アジアからは二、三ヵ国。南米からはブラジル、ペルー」「アメリカはバージニアとか、州ごとでもいいのではないか」(干拓地の)大潟村の視察もしてはどうか」。

 青年部からの提案は、提案した本人たちが呆然とするほどの早さで形になり、広がっていった。

 「農村の人は大事にしなくてはいけない」。池田の話が続いた。「私の願いは、ゆっくりと農村に行って、手を泥んこにして、ダイコンを抜いたり、ネギを抜いたりしたいということです。イモ堀りもやりたい。ナスやキュウリもとってみたい。メダカを網ですくってみたい」。


 はやくも翌日、秋田県青年部総会で、「世界農村青年会議」の開催が発表された。その後も池田は会議の成功のために労を惜しまなかった。実行委員会が行われるたび、内容を細かく聞いた。テーマもシンボルマークも東北の青年たちと一緒に考えた。

「この会議は二回、三回と継続してやっていくんだよ」とも言い添えた。

 同年九月、秋田市文化会館で「第一回世界農村青年会議」が行われた。国内の農村青年1000人に加え、南北アメリカ大陸、欧州、東南アジア、さらにオブザーバーとしてソ連(当時)、中国を含む15ヵ国から24人が参加した。カナダ、インドネシア、ブラジル、イタリア、日本の代表が、それぞれの営農体験や食糧問題への提言を語った。

 同会議はその後、滋賀、山形、新潟、福島で開催されてきた。そして昨年の9月8日、「農村」を「農漁村」に改め、新時代第一回「世界農漁村青年会議」が宮城の石巻市で開かれた。海外からは10カ国24人が参加した。報告を受け、体験発表の原稿に目を通した池田は、登壇者たちに「みんなを励ます発表を」と伝言していた。アメリカ──都市農業の挑戦。オーストラリア──故郷に尽くす農学博士。ブラジル──南米最大のキノコ栽培。そして気仙沼の復興を目指すフカヒレ水産加工・・・・・多士済々のメンバーが登壇するたび、満場の歓声に包まれた。


読者の皆さん、いつもありがとうございますm(__)m

以前のブログでも書きましたが、一昨年に

父方の叔父、昨年は亡くなった叔父の次

男と長女の叔母が亡くなりました。

2年連続喪中となり、来年も続くのではと

恐れていたら、姉の嫁ぎ先の義父が亡くな

りました。

そんな不幸続きの我が家ですが、私を心配

してくれた友人数名から年賀状が届きました。
とても嬉しかったので、真心込めて寒中見

舞いを送りました。

父の姉弟にはまだまだ長生きしてもらわな

くっちゃ!




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  その話は大事だ。後でメモを下さい」 ①


 山口が熱心に話している最中だった。

「池田先生は、私が話していた幹部と背中合わせに座っておられたのですが、突然ぐるりと振り返って、『その話は大事だ。しっかり聞いて、後でメモを下さい』と言われたんです」。

山口の正面に座っているその幹部が返事をするや、池田はすぐに向き直った。一瞬の出来事だった。

 「あれは本当にびっくりしました。他の人と一生懸命話しておられたのに、なぜこちらの内容がわかるのか。現場の声を聞き漏らすまいという姿勢に胸が熱くなりました」(山口裕)

 主張大会をスタートした当初、壮年や婦人からは「意味があるのか」と疑問の声もあった。池田の一言が背中を押してくれた。宮崎の青年部は、農漁村の主張大会を活動の柱に据え、音楽や映写、専門家の講演などを織り交ぜて工夫を凝らした。やがて九州全県で「主張大会」が開かれるようになっていく。


 いっぱう、東北で初の「主張大会」が行われたのは、1975年(昭和50年)9月、山形県の上山市だった。8人が営農体験を語り、市長が祝辞を述べた。それ以降、地域友好の伝統を積み重ねていく。

 約6年後の82年(昭和57年)1月、池田は秋田を訪れた。秋田は「第一次宗門事件」において、塗炭の苦しみを受けた地である。「衣の権威」の暴力を耐え抜いた同志の中に、池田は飛び込んだ。

 その4日目(1月30日)。池田は東北青年部の代表と懇談した。

「数年前、池田先生は『食糧問題』について提言を発表されていました。私たちも何かできないか考えたんです」。

東北青年部長だった山田邦明(総東北長)は語る。

「山形や岩手などで主張大会の実績もある。今度は世界中の青年を集めてできないか、と。この案を先生に伝えました」。

 「いいね!」SGI(創価学会インターナショナル)会長である池田は即答した。

「早速、具体的に考えよう。各国から農業従事者を招待してはどうか」「時は9月だね(海外の学会員が参加する)文化祭と連動してテーマを決めてはどうか」。

  漁村の浜辺で踏み出した一歩 ②

 

 酒井は三代続く漁師の家に生まれた。短気で喧嘩っ早く、「悪太郎」と呼ばれていた。

 荒れた青春だった。7年も病に臥せっている母、肺を患いながら漁に出る父を見て、何も親孝行できない現状を悔しくも思った。23歳の時、漁師の先輩から初めて創価学会の話を聞いた。「この信心で、本当に強い人間になれる。絶対に願いは叶う」という言葉に心を動かされ、1968年(昭和43年)に入会する。

 翌日から弘教に励んだが「ついに気が狂った」と言われた。それまで喧嘩に明け暮れてきた酒井に耳を貸す者はいない。学会に対する「反対同盟」までできる始末だった。

 酒井は信心を始めてから、漁にも人一倍、真剣に取り組むようになった。村の青年団から酒井だけが弾き出された時は、真正面から抗議し団員になった。

 青年団が中心になり、地元の発展を考える「一日役場」を開いた。酒井は、町長や教育長を前にして「村の小学生は今、山道を6キロも歩いて通学している。マイクロバスを買うべきだ」「ダム工事の被害を受けた家庭への補償をもっと充実させるべきだ」と話した。的を射た提言だった。「あの悪太郎が」と、裏人の評価が変わり始めた。やがて青年団長に推薦された。

「青年団の皆と、池田先生の『私の人生観』や『人間革命』を通して話し合うこともありました」。


 山口裕は「あのころ酒井さんと相談して『主張大会』を企画したのが始まりです」と振り返る。

 酒井は会場の手配に走った。しかし「前例がない」「創価学会には貸せん」と、にべもない。しかたなく自分の「仕事場」である浜辺に櫓を組み、即席の会場をつくった。

「古江浜にドラム缶を並べ、板敷きの舞台をつくり、大漁旗を張り巡らせました」。

 宣伝のためにトラックで町内を回った。当日は浜辺で男子部の有志が太鼓を叩いて盛り上げた。面白がって子どもたちが集まってきた。太陽が沈み、少しずつ大人たちの姿も見え始めた。

「最初は皆、遠巻きに見ていました。でも男子部と女子部の話が始まると、近づいてきて、じっと耳を傾けてくれた。一から十まで手作りの試みだったが、気づけば浜辺に人があふれていた。二回目からは、屋内の会場を借りることができるようになった──。