EIKOの気まぐれ闘病日記 -36ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「どんな犠牲を払ってでも貫き通す」 ①


 「週刊朝日」の記者だった江森陽弘が、ブラジルで出会った学会員たちの明るさが忘れられないと語る。

「昭和49年、創価学会が海外で伸びている様子を取材しました」。

 江森は朝日新聞の社会部次長や編集委員などを経て、テレビの「江森陽弘モーニングショー」メーンキャスターとして広く親しまれた。80歳を超えた今もかくしゃくとしている。「週刊朝日」時代、ブラジルのルポで次のように綴った。

 「私は、(ブラジルの創価学会員である)どんな有名なテレビタレントや、名高い人の名を聞いても、別に驚かなかった。最も感動したのは、かつて政府の圧迫や経済的な困窮に耐え、何十年も生き続けてきた。一世(=移民一世)たちの、いまなお変わらぬ笑顔を見たときである。

 たとえば、アマゾンの周辺でコショウの栽培と輸出命をかけてきた中尾久侍さん。『孤独と貧しさとの戦いだった。山の上でオーイと、日本に向かって怒鳴ったこともあった。このまま野たれ死にあするのではないか、と思ったこともある』。しかし中尾さんは生き続けた。さわやかな感じで、明るい人である」(1974年1月18号)

 移民一世の心意気を生き生きと描いた。「ジャナリストとして、いいものはいいと書いてきたつもりです」江森は語る。「こういう言い方はゴマをすってるみたいで嫌なんだけども、創価学会の人を取材して、嫌な感じを受けた人は一人もいない。細かいことは忘れたけど、ぼくの感想はその記事の通り。日本に戻ってからもあちこちで話しました」。

 江森にとって創価学会の取材はカルチャーショックの連続だったという。最も驚いたのは池田本人へのインタビューだった。

「昭和56年、パナマで取材しました。弁護士の山崎正友が恐喝事件で東京地検から起訴された後です。2日がかりで7時間の独占インタビューでした」。

 インタビューは1981年(昭和56年)の3月から4月にかけて連載された。創価学会と日蓮正宗マッチポンプになり、暗躍を重ねてきた山崎正友が馬脚をあらわした直後だった。仕組まれた誹謗中傷が毎週のように報じられ、「創価学会叩き」の暴風雨が吹き荒れた時期でもあった。


 インタビューの前、江森はパナマの空港などで池田とSGIメンバーの出会いを垣間見た。「びっくりしたよ、僕は。池田さんのことをふんぞり返っている人かと思っていたけど、全然そんなことない」。

 「現地の学会員さんに『おじょうさん、風邪治ったかい』『体を大事にしなさいよ』と話しかけている。そして『ちょっと僕はこれから会議があるからね』と言って立ち去る。一瞬の会話でも『これはすごく親しまれているな』と感じた。要するに、上から見下ろして『こうしなさい』という人じゃない。池田さんはまず『どうなんだい?』『そうかい?』と語りかける人です」

 「だから学会員の皆さんは、自分の一番親しみやすい、尊敬できる人に自分の心の中を訴えれば、自分が安心できるというか、池田会長はそういう存在なのではないかと感じた」


  希望の船は出港した ②


 「三日がかりで座談会に来る奥地の人の求道心には頭が下がった」。中尾久侍は聖教新聞の取材に協力し、幾つかの記事を書いた。そのなかに、マナウスに入植したある一家のドラマがある。

 木村芳利と妻の二三枝は、佐賀の炭鉱を離れ、家族五人でマナウスのタイアーノという町に入植した。池田が代三代会長に就任した翌年(1961年)のことである。荷物の中には一冊の「御書」(日蓮の遺文集)が詰め込まれていた。ビメンタの栽培を志した。だが入植先は、聞かされていた条件とまったく違う石ころだらけの土地だった。学会員は他にも二世帯いた。木村たちは「学会員だから」という理由で、村で共同使用している機械を使うなといじめられた。

 それだけにとどまらず、芳利は気性の荒い村人から川べりに連れ出され、猟銃を突きつけられ、「信心をやめろ」とすごまれた。その場に座り込んだ芳利は「俺は正しい信心をやっているんだ。けっしてやめない」と言いきり、村人は恫喝をあきらめた。

 4年後、マナウスに引っ越した。芳利は、雇ってくれる約束だったゴム工場から就職を断られ、野菜の行商で食いつないだ。初めて買った魚の缶詰人缶を、家族5人で3日分に分けて食べた。

 そのころ芳利は交通事故に遭い、右足の骨を折ってしまう。それでも弘教の火を消さなかった。家族に「自分たちはアマゾンに金儲けをしに来たんじゃない。自分たちより不幸な人を救うためにやってきたんだ。な、そうだろう?」「悲しい時こそ題目を唱えるんだ」と話し、支え合った。

 入植から10年──とうとうマナウスに創価学会の「班」が誕生した。翌年、木村の家で男子部の座談会が開かれ、参加者は36人を数えた。芳利は事故の後遺症もあり、すでに重病で伏せっていた。座談会の後、息子の始生たちに「希望の船は出港した。しっかり舵を取れ。一人の同志も船から落とすな」「前進、また前進だぞ」と言い残した。

 翌日、芳利の危篤を知って集まった学会員の数は50人を超えた。

「アマゾンの公布を頼んだよ。私が倒れたとしても、一歩もさがってはいけない」。

小さな声をしぼりだした。「芳利さんは、もうほとんど見えない目で居合わせたメンバー一人一人に声をかけては、信仰のこと、生活のこと万般にわたって指針を告げていった。その声もやがて小さくなり、眠るように息をひきとった」(「聖教グラフ」1976年新年号)。

 商売が軌道に乗り、妻の二三枝や息子たちが念願の来日を果たし、池田と出会うのは、芳利が亡くなった翌年以降のことである。

 どの地域でも、無名の、無数の人々の祈りがつながり、創価学会はつくられていった。アマゾンのメンバー数は四半世紀も経たずに2000世帯を超えた。8割以上が日系人ではないブラジル人である。

 1989年(平成元年)には、ベレンで出演者1700人、観客7000人の文化祭を開催した。その5年前、池田は3度目のブラジル訪問を果たしていた。(1984年2月)。サンパウロの会館の庭で、アマゾンから集った老若男女と記念のカメラに納まった。その写真には、中尾夫妻も笑顔で写っている。

「夫は平成17年に亡くなるまで、『池田先生の指導がすべて』という人生を貫きました」中尾喜多子)。久侍は「アマゾンでは、皆がそれぞれの分担を受けもっているという感じですね。誰も切り離しても今の組織はない」と語り残している。



   希望の船は出港した ①


 「あそこに学会員がいるらしい」と聞けばバイクを走らせた。久侍の残した手記には「一度家を出るとだいたい1週間の旅となった。メンバーを訪ねてジャングルの中を40キロ、そこからカヌーに乗って20キロというような家庭訪問もあった」と記されている。訪問先には、周りに道路などない家もあった。リュックサックには米,味噌、缶詰、そしてハンモックや毛布を詰めこんだ。ジャングルは昼でも暗い。倒れた巨木に行く手を阻まれ、野宿を強いられることもあった。久侍は「アマゾンでは雨期が明けると、黄色い蝶々の大群が一斉に飛ぶんです。見渡す限り、長さが3キロにも及ぶ列をつくって。まるで『蝶の吹雪』の中にいるようです」と語り残している。バイクのガソリンを1週間で20リットルも使い、知り合いから「ガソリンを飲んでいるのか」と驚かれたこともあった。

 3年後、学会員の数は50世帯になり、トメアスに「地区」が生まれた。サンパウロで南米総会が行われた時、初めて3人が参加した。当時はサンパウロまでバスで向かった。50時間から70時間も揺られた。その3000キロの道のりを、彼らは「黄金の道」と呼んだ。

 中尾一家はトメアスで7年暮らした後、子どもを学校に通わせるため、ベレンに引っ越した。ビメンタは6000本まで増やした。ベレンでは、町で初めての絨毯のクリーニング業を始めた。生活にゆとりができるとセスナ機で同志のもとに飛んだ。

 1500キロ離れたマナウスへはジェット機で向かった。「(マナウスに)初めて行った時、川の中から4メートルほどの柱が立っていて、その上に家があった。ところが次に行ったらその柱がない」(久侍の手記)。

 アマゾンの水位は増水期と減水期でじつに数メートルの落差が生じる。一度目の訪問は減水期だった。その時に見上げた柱は、増水期のアマゾンに水没してしまい、家だけが浮かんでいたのだ。川沿いの住人たちが船から直接、家々の窓に出入りする様子に目を丸くした。

  「支部といってもブラジルの半分」 ②


 1カ月の船旅を経て、ベレンというアマゾン河口の都市に着いた。悠々と流れる茶褐色の海のようなアマゾンを初めて目にして、呆気にとられた。さらに支流のアカラ川を250キロ南下。12時間ほど船で下ると、ようやく日本人移住地のトメアスに着いた。

 両親に連れられ、3歳で海を渡った中尾吉雅は「薄い板で作った、震度1でも壊れそうな家でしたよ」と笑う。夫婦はビメンタ(黒胡椒)の栽培に打ち込んだ。まず密林を焼き、大木の根を引き抜き、土地を耕すとことから始まった。ビメンタは、人間の背よりも少し高い柱を立て、苗を植えると、その柱を登って育つ。第二次世界大戦後、日本による甚大な戦禍をこうむったインドネシアなどが、食糧自給のためにビメンタ栽培を稲作に切り替えた。その影響でビメンタの価格は高騰し、「黒いダイヤ」と呼ばれた。

 「最初の1年間で2000本植えました。収穫が始まるまでの3年間は本当に苦しかった」と喜多子は振り返る。中尾が育てているビメンタだけ、緑の葉が急に黄ばんだこともあった。伝染病だった。周囲から「信心をしているくせに」と陰口を叩かれた。幸い3カ月で治った。

 ビメンタ栽培と同時並行で弘教に励んだ。サンパウロやリオデジャネイロなどの大都市では学会員が増えていたが、サンパウロから約300キロも離れたアマゾンには、まだまだ人のつながりはなかった。

 「私と同じ南無妙法蓮華経を唱えている人を知らないか」。ある日、いつも村を回っている豆腐屋に尋ねた。「『いますよ』と言うんです。そして、二軒の家を教えてくれた。50キロ先にあるというので腰弁当で、バイクに乗って訪ねました」(久侍の手記)。そのうちの一人は、戸田城聖(創価学会第二代会長)の時代に日本で信心を始めて、アマゾンに移住した老人だった。「この信心はすごいぞ」と近所の人たちに対話を重ねていた。

 「老人の家に一泊して、次の日もう一軒の人を訪ねた。玄関を入ったとたん、池田会長の写真が目に入ってきた」どんな地であろうと、人間のいるところには必ず弘教の旗を立てる───すでに点在している先駆者たちと出会い、胸を熱くした。

 「1年目にはトメアス在住の6人の学会員が集まって、アマゾンで初めての座談会を開きました」(中尾喜多子)

  「支部といってもブラジルの半分」 ①


 中尾は走った天地は、ブラジルのアマゾン河領域である。

「夫の久侍はブラジルSGI(創価学会インターナショナル)の初代アマゾン支部長でした。支部といっても『ブラジルの半分』ですけど」。その広さを想像できない記者に、中尾は「日本の面積の11倍ほどですよ」と教えてくれた。

 日本を訪れるたびに、中尾夫妻は池田大作と言葉を交わし、信仰を貫く支えにしてきた。

 「アマゾンから来ました」「奥地のトメアスからきました」「ぜひブラジルへお越しください」───遠来の友からそう請われるたび、池田は「待っててね!」「(ブラジルに行った時は)いい思い出をつくろう!」御本尊を抱きしめていきなさいね」と応じた。ブラジルには合計4度、訪れている。

 池田は文字通り「地球の反対側」にまで日蓮の仏法を伝えてきた。国境。言葉。風習。多くの壁を越え、池田の弟子として先駆けた人々の物語が、世界の各地に息づいている。

 「移民」の苦闘を出発点にして、池田の励ましの旅路を巡りたい。


 中尾久侍は1931年(昭和6年)、現在の山口県光市で生まれた。父親は建設会社の社長で、県議会議員も務めた。息子の久侍も日本大学で建築を学んだ後、父の会社に入り、28歳で市議会議員になった。

 親子二代、実業家にして政治家である。若くして「地元の名士」としてもてはやされた久侍は、派手な生活を送り始める。交際の幅が広がり、朝帰りが増え、借金で首が回らなくなった時、友人から創価学会の話を聞かされた。1961年(昭和36年)のことである。

「無類の道楽好きだった夫が変わり始めたのは、創価学会に入ってからです」(妻の喜多子)。

 2年後(1963年)の夏、久侍は「青年よ世界の指導者たれ」と題された池田の文章を読む(月刊誌「大白蓮華」の巻頭言)この短い文章が久侍の人生を変えた。

 ───創価学会は仏法を根本に据えて「だれ人もなしえなかった民衆の福祉を確立する」。

 これまで政界でも、経済界でも、教育界でも、誰もが求めながら得ることのできなかった、すべての思想を包み込んだ新しい文明をつくる。その主人公は他ならぬ君たちだ───そう呼びかけられたのである。創価学会に入り、信仰の手応えはつかんでいた。しかしこの文章を一読して、久侍は今まで触れたことのない壮大なロマンを感じた。

「青年部の団体こそ、永遠のきずなであり、民衆救済の命綱であることを瞬時も忘れてはならない」「青年部の活躍は、ただ単に国内のみに止まるものではない。宗教、思想、哲学に国境はない」「一閻浮提とは、世界の異名である」

 

 広島で行われた会合に駆けつけ、池田の指導に接したのもこの頃だった。池田が示す未来図に胸打たれ、埋もれていた夢に火がついた。

「夫は少年時代から、もともとブラジルかアルゼンチン、できればアマゾンに移住して、誰も行ったことのない大地を開拓したい、と憧れていたそうです。ずいぶんと祈り、考え込んでいました」(中尾多喜子)。

 久侍は「妻に反対されたらやめよう。これ以上、妻に迷惑はかけたくない」と思っていた。夫の生活が少しずつ良くなっていく様子を目にして、喜多子も信心を始めていた。二人の子供が寝静まった夜更け、「アマゾンに妙法を弘めにいこう」と言われた喜多子は「あなたの決めたことなら、私は満足です」と答えた。

 中尾一家が横浜港からブラジル行きの「さくら丸」に乗り込んだのは、久侍が池田の文章を読んでからちょうど3年後の夏だった。