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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「自分の心に訴えるものならいいんだ」 ①


 「コンゴニアス空港に集まった人は20人ほどで、日本の創価学会を知らない人もたくさんいました。アメリカからやってくる先生は長旅できっと疲れておられるだろうから、少しでも安心してもらおうと、待っている間に学会歌の練習もしました」。ブラジルSGI参議のエイイチ・サゴウが語る。

 サゴウが選んだのは「威風堂々の歌」だった。理由があった。1956年(昭和31年)に17歳で信心を始めたサゴウは、東京の音楽隊の一員として、たびたび池田に接してきた。

「池田先生の第三代会長就任の日、日大講堂で私たち音楽隊の演奏した曲が『威風堂々の歌』だったのです」。


 空港ロビーで歌ったにわか仕込みの学会歌は、音程も歌詞も不安定なものだった。しかし池田は彼らに感謝し、同行していた幹部も「ブラジルは事前に連絡もなかなかとれない国であり心細かった。空港で聞いた彼らの歌は非常に懐かしく、また頼もしく聞こえた」と語り残している。


 サゴウは1938年(昭和13年)、東京で生まれた。父は海を挟んだ朝鮮半島からの留学生で、5カ国語をマスターした優秀な大学生だった。

「人種差別のひどい時代で、母は父と一緒になる時、親戚中から反対され、勘当同然で結婚したそうです」。

しかしサゴウが3歳の時、父は病死してしまう。母一人、子一人の家庭で育った。

 「東京の武蔵野に住んでいましたが、国民学校の帰り道に米軍の空襲に遭ったことがあります。1年生の友だちが、私の目の前で機銃掃射を受けて殺されました。なぜあんな田舎に来て、しかも子どもを狙ったのか・・・・・。今でもわかりません」

 敗戦後、1954年(昭和29年)封切りの映画「グレン・ミラー物語」を観てジャズ音楽の虜になった。

「NHK交響楽団の首席トランペット奏者だった北野勝曠さんの自宅に飛び込み、弟子入りしました」。

 母のフミは、手作りの料理を飲食店に卸して生計を立てていた。サゴウはその配達を手伝いながら、1日5時間以上トランペットを吹き、音楽の道に没頭した。

「ちょうどそのころ、中学時代の先輩に誘われて学会の座談会に行きました」。

 学会に入ってまもなく、音楽隊の中心者だった有島重武と出会う。有島は『生まれ出づる悩み』や『或る女』などで知られる作家・有島武郎の甥である。サゴウは有島らとともに、音楽隊の技術指導にあたるようになった。有島に連れられ、大田区小林町にあった池田の自宅を訪れたこともある。

「あの時、先生は私の目をじっと見つめて『これからお互い男として、戸田先生の弟子としてつきあおう』『仏法者として一生をまっとうしよう』と言われました。私の原点です」。

 戸田城聖の「原水爆禁止宣言」を間近で聞いた。戸田が亡くなる半月前には、池田の配慮で、戸田の休んでいる部屋に聞こえるように「星落秋風五丈原」を演奏した(1958年3月16日)。戸田の葬儀でも、学会本部から青山葬儀所まで追悼の行進を行い、涙をこらえながらトランペットを吹いた。



「日本はこの歴史を忘れてはならない」


 この日、空港で池田を出迎えた草創期の一人に重田ツキがいる。新潟で生まれ、第一次世界大戦が終わった1918年(大正7年)、ブラジルに渡った。まだ15歳にもならない少女だった。この年、のべ七隻の移民船が日本からサントス港に到着している。長旅であり、船内で亡くなる人もいた。4月に日本を出発した『若狭丸」では流行性脳脊髄膜炎が流行し、航海中に60人が病死した。

 移民たちは、たいていブラジル人が経営する農園で働いた。その多くが、日本で聞かされた条件とはまるで違う、ひどい労働条件だった。

 19世紀半ばに奴隷制が廃止され、代わりになる労働力が国境を越えて求められた。その代表格は、ハワイのサトウキビ農園、北米の大陸横断鉄道の工事、そしてブラジルのコーヒー農園である。(『人の移動辞典』丸善)。ブラジル移民は「コロノ」、住む場所は「コロニア」と呼ばれた。奴隷同然に扱われ、家具もトイレもない小屋に住まわされた人もいた。

 「錦衣帰国」。これが日本人移民の合言葉だった。「移住」ではなく「海外への出稼ぎ」を目的に、「数年働いて故郷に錦を飾ろう」と意気込む人たちが多かった。移民事業を担った「皇国植民会社」は、パンフレットに「舞楽而留(ブラジル)楽しく舞い留まる国)と銘打ち、コーヒーは「金のなる木」と夢をかき立てた。だが、その実態は惨憺たるものだった。

 児玉良一は池田との対談で、ブラジル移住1年目の様子を語っている。「その年は凶作でね」「(皇国植民会社の)初めの宣伝の四分の一でした。収穫がないから皆、収入もない」「とても食べていけない」。

 あまりの定収入とひどい待遇に怒り、耕地から引き上げる人が続出した。第一回移民のうち、1年経って最初の耕地に残っていた人の率はわずか18パーセントだった。


 重田ツキもまた、兄夫婦とともにコーヒー農園で重労働にあえいだ。16歳で結婚した。やがて子宝にも恵まれたが、家族で日本に帰る直前、夫が事故死してしまう。

 帰国をあきらめた。その後も苦労が続いた。虫垂炎の手術をするため、サンパウロの病院に担ぎ込まれたこともある。やがて日本は真珠湾攻撃でアメリカと開戦し、ブラジルとも国交断絶。日本人は「敵性国民」になった。サンパウロの日本人街は強制立ち退きを命じられて崩壊し、屋外では日本語を禁じられ、息をひそめて暮らした。

 池田は、児玉良一との対談で「敗戦国・日本は、国土の復興に精いっぱいで、海外移住者の人々を”置き去り”の状態にしてしまった。”棄民”とも言われた」と指摘している。さらに「祖国に見放された心境が、どんなものであったか。それは、味わった人でなければわからない」「日本はこの歴史を忘れてはならない」と語った。

 重田は負けなかった。日本の敗戦後、サンパウロ市内で始めた旅館業があたった。200人規模の旅館を切り盛りしながら5人の子を育てる力強い生き方から『女侠客」と呼ばれるまでになった。しかし「胃潰瘍を手術し、そのうえ重い糖尿病で、医者に助からないといわれた」(重田の手記)──創価学会と巡りあったのはその時である。

 「ブラジルで初めての創価学会の座談会」は、池田が初訪問する前年(1959年)、この重田の家で行われ、7人が参加した。第一回のブラジル支部総会も重田宅で開催された。

 深夜のコンゴニアス空港で初めて池田を目にした重田は、「あまり達者なお体ではなさそうだ」と心配した。ロビーのベンチに座った池田を、待ちわびた人々が取り囲んだ。池田は「今日は本当にご苦労さまでした。明日またお会いしましょうね」と皆に声をかけ、短時間で懇談を切り上げた。

 重田たち数人が宿泊先まで見送った。もう午前3時を過ぎている。池田は重田の目をみつめ、「おばあちゃん、しっかり信心しましょうね」と励まし、明日の座談会でまたお会いしましょうと約束した。重田は不思議な感覚に包まれた。「これまで味わった苦労という苦労が、すっぽり包み込まれてしまうような、温かな安心感にひたった」と述懐している。

 重田ツキはこの時の出会いを支えに信仰を貫き、1990年(平成2年)、85年の生涯を終えた。晩年まで数多くの御書をそらんじていた。

  「そこで倒れたっていいではないか」


 これまで池田大作が会見し、対話を重ねてきた各界リーダーの名まえを並べると「世界一流の識者の紳士録ができあがる」(マレーシア全国作家協会連盟のイスマイル会長)といわれる。ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ=カレルギー、東西冷戦終結の立役者である元ソ連大統領ゴルバチョフ、経済学者のガルブレイス、経営の神様と呼ばれた松下幸之助・・・・・対談集だけでも60点を超える。その中に、異彩を放つ一冊がある。児玉良一と編んだ『太陽と大地開拓の曲』だ(『池田大作全集』六一巻に収録)。副題は「ブラジル移住八十年の庶民史」である。

 児玉良一は今から106年前の1908年(明治41年)、ブラジルへの第一回契約移民781人の一人として「笠戸丸」に乗り込んだ。わずか13歳だった。

「サンパウロで初めて車の運転免許をとった日本人」であり、ブラジル移民史の「生きた百科事典」とも呼ばれた。児玉の長男はブラジルSGIのメンバーである。

 児玉の「人生最後の訪日」だった。日伯毎日新聞(現・ニッケイ新聞)社長の高木ラウルが尽力した。

「ブラジル日本移民80周年を記念して、日伯毎日新聞社が全面的に応援させていただきました。その際、児玉さん親子が池田SGI会長との面会を強く希望され、私もその実現のために協力させていただいたのです」と語る。

 児玉は池田との対談の冒頭、「私」はそんな、人に何か言えるような立場の人間でもないし、学があるわけでもない。明治の生まれですので、昔の記憶も少々、薄らいできているところなんです」と語った。

 池田はこう応じている。「私だって庶民です。しかし、平凡にして飾り気のない庶民のなかにこそ、すばらしき人生のドラマがある。陰に隠れた庶民の尊き歴史を顕彰したい──これが私の一貫した信条です」。

 池田と語り合った翌年、児玉は94年の生涯を閉じる。

「私に答えられることであれば、何でも聞いてください。そのあとはいっさい、池田先生におまかせします」と託したこの対談集は、ブラジル移民史の貴重な証言にもなっている。


 おもに池田が聞き役に徹した対談だったが、児玉良一は「池田先生が初めてブラジルに来られたのは・・・・・」と尋ねている。

 「1960年(昭和35年)の10月18日です。その時、訪問したのはアメリカ、カナダ、そしてブラジルの三カ国でした」。池田は当時の思いを児玉に吐露した。

 「じつを言うと、アメリカの各地を回るうちに体調を崩しまして。時差という感覚もあまりなかったし。で、ニューヨークを発つ前に、みんなが『熱が40度近くもあるのだから、ここで安静にしていてください』って心配するし。

 しかし、待ってくれている人たちがいる。私はどうしてもブラジルに行きたかった。当時は、生活もたいへんな人が多かった。日本に来ることなど、とても考えられる状況ではなかったですからね」

 32歳の会長就任から半年、初めての海外指導だった。「海外初の支部」はこの時、ブラジルで結成された。池田が日本に戻った直後の聖教新聞には、ブラジル行きをやめるよう進言した幹部を厳しく叱った池田の言葉が記されている。

「行く。ブラジルに支部を作ろうとして、アメリカへ来たのに、途中でやめるなんてできるものか。絶対行く。たとえ、そこで倒れたっていいではないか」

 児玉との対談で語ったとおり、池田はサンパウロのコンゴニアス空港に到着した時、疲労の極みにあった。

「ニューヨークを発ったのは午前10時。夜半にブラジリアに着きました。そこでプロペラ機に乗り換えて、サンパウロに着いたのは19日の午前1時ごろでした。深夜の空港に数十人の方々がわざわざ出迎えてくださった」(『太陽と大地 開拓の曲』)

 通関手続きを終えた池田は、照明も暗くなった空港ロビーに踏み出した。すでに午前2時を回っていた。

「ありがとう!遅くなってすいません」。かぶっていた中折れ帽子を胸にあて、池田は頭を下げた。「待ったでしょう。疲れたでしょう」。

 衰弱した体をおして、「どうしても行きたかった」激励行が始まった。待っていたのは、「日系移民一世」として辛酸をなめながら信仰を貫いてきた人々だった。

皆さん、暑い日が続いていますがお元気ですか?


いつもありがとうございます(^^)/


早いもので、千葉の田舎から横浜へ引っ越して2カ月経ちました。


横浜といっても川崎にちかい田舎の街なので、実家の方が便利でした。( 一一)


私の体調は、いつも変わらず午前中はだるさで起き


れなかったり、ふらつきがすごかったりするので、朝


のごみ出しに苦労しています。


マイペースで掃除や洗濯、買い物など頑張っています。


息子は掃除や洗濯の家事から解放されたので、土


日が休日出勤になっても、以前のように精神的に不


安定になることはなくなりました。


以前の1Kから2DKに広くなったので、お互い自分の


部屋が持てました。


毎日帰りの遅い息子のために、スタミナがつくご飯


を作って待っています。


家事に追われてアメーバにインする時間が減ってし


まいましたが、皆さんのブログに元気をもらっています。

皆さん、熱中症に気をつけて暑い夏を乗り切りましょうね!


  「どんな犠牲を払っても貫き通す」 ②


 信仰を失った山崎の姿が露わになっていた時期である。江森は池田へのインタビューで「かわいがってきた人間に裏切りというか、思いもかけないことをされていたことを知ったときの心境はどうだったんですか」と尋ねている。

 池田は自らの会長辞任前、周恩来(中国の首相)の妻・鄧穎超(とうえいちょう)と会見した際、同じ話題が出たことを紹介した。鄧穎超は池田に「林彪もそうでした」と言った。「私どもが注意すると、私どもの前では『その通りにします』といい、陰に回ると、いつも陰謀、策略をめぐらし、あのような結果になった」。この鄧穎超の言葉を紹介し、池田は「どの国でも大なり小なり避けることのできない人間界のエゴと欲望があると思ったものです」と答えている。

 「大河の流れをつくりあげていくことが大切なのです」とも語った。「他の教団と違って(創価学会は)365日、何百万の人が動き、語り、前進させていくという団体ですからね。ですから、そういうこと(=裏切り)にのみ神経質になっていたら、とても大胆な目標へ進んでいくことはできません」。

 江森は「偉ぶるわけでもないし、きちっと対応していただいたし、『ああ、創価学会の会長を辞めようが辞めまいが、池田会長は池田会長なんだ。人間くさいこういう人だから皆がついてくるんだ』とわかった」と語る。

 池田自身が先頭に立って進めている平和運動についても尋ねた。

 「軍備の増強をしたから平和になるのではない。むしろ脅威をつのらせてしまう」。池田は小説『人間革命』をはじめ、あらゆる機会をとらえて訴え続けてきた信条を繰り返した。

 「仏法者としてどこでもいいから、だれでもいいから平和希求の思想を訴え、事実のうえで行動していく以外にないというのが、私の信条なんです。やむを得ないという退嬰的な理論でなく、積極的、進取的理論しかない。行動しかない。訴えていく」

 さらに、この取材の少し前にも別の懇談の場で同じ主張を述べたことに言及し、「学会がどうあれ、また公明党がどうあれ、これはその状況によっていろんな指導者が出て、どうするかわからないが、私はいままで学生部の会合などでいってきたこの(平和への)信念だけは、どんな犠牲を払っても貫き通すから、それだけ胸においてください、こういったんです。そうでなかったならば、時代迎合になりますしね」と強調した。

 江森は「池田会長の意見が載るのは不愉快だと思った人もいっぱいいた。批判の手紙もすいぶん来た」と振り返る。「でも、そんなの百も承知ですよ。いちいち動じていられません。学会の人からも朝日の上の人からも『いいことを書け』と言われたことはない」という。

 「公明党には個性のある党になってほしい」とも語る。「福祉政策もそうだし、ぼくは東京の町田市で教育委員をやったことがあるけど、教育は今、ものすごく大事です。公明党がもっと踏ん張るべきだとお願いしたい」。