民衆こそ王者ー池田大作とその時代 先駆者たち 中南米篇(1)  | EIKOの気まぐれ闘病日記

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  「そこで倒れたっていいではないか」


 これまで池田大作が会見し、対話を重ねてきた各界リーダーの名まえを並べると「世界一流の識者の紳士録ができあがる」(マレーシア全国作家協会連盟のイスマイル会長)といわれる。ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ=カレルギー、東西冷戦終結の立役者である元ソ連大統領ゴルバチョフ、経済学者のガルブレイス、経営の神様と呼ばれた松下幸之助・・・・・対談集だけでも60点を超える。その中に、異彩を放つ一冊がある。児玉良一と編んだ『太陽と大地開拓の曲』だ(『池田大作全集』六一巻に収録)。副題は「ブラジル移住八十年の庶民史」である。

 児玉良一は今から106年前の1908年(明治41年)、ブラジルへの第一回契約移民781人の一人として「笠戸丸」に乗り込んだ。わずか13歳だった。

「サンパウロで初めて車の運転免許をとった日本人」であり、ブラジル移民史の「生きた百科事典」とも呼ばれた。児玉の長男はブラジルSGIのメンバーである。

 児玉の「人生最後の訪日」だった。日伯毎日新聞(現・ニッケイ新聞)社長の高木ラウルが尽力した。

「ブラジル日本移民80周年を記念して、日伯毎日新聞社が全面的に応援させていただきました。その際、児玉さん親子が池田SGI会長との面会を強く希望され、私もその実現のために協力させていただいたのです」と語る。

 児玉は池田との対談の冒頭、「私」はそんな、人に何か言えるような立場の人間でもないし、学があるわけでもない。明治の生まれですので、昔の記憶も少々、薄らいできているところなんです」と語った。

 池田はこう応じている。「私だって庶民です。しかし、平凡にして飾り気のない庶民のなかにこそ、すばらしき人生のドラマがある。陰に隠れた庶民の尊き歴史を顕彰したい──これが私の一貫した信条です」。

 池田と語り合った翌年、児玉は94年の生涯を閉じる。

「私に答えられることであれば、何でも聞いてください。そのあとはいっさい、池田先生におまかせします」と託したこの対談集は、ブラジル移民史の貴重な証言にもなっている。


 おもに池田が聞き役に徹した対談だったが、児玉良一は「池田先生が初めてブラジルに来られたのは・・・・・」と尋ねている。

 「1960年(昭和35年)の10月18日です。その時、訪問したのはアメリカ、カナダ、そしてブラジルの三カ国でした」。池田は当時の思いを児玉に吐露した。

 「じつを言うと、アメリカの各地を回るうちに体調を崩しまして。時差という感覚もあまりなかったし。で、ニューヨークを発つ前に、みんなが『熱が40度近くもあるのだから、ここで安静にしていてください』って心配するし。

 しかし、待ってくれている人たちがいる。私はどうしてもブラジルに行きたかった。当時は、生活もたいへんな人が多かった。日本に来ることなど、とても考えられる状況ではなかったですからね」

 32歳の会長就任から半年、初めての海外指導だった。「海外初の支部」はこの時、ブラジルで結成された。池田が日本に戻った直後の聖教新聞には、ブラジル行きをやめるよう進言した幹部を厳しく叱った池田の言葉が記されている。

「行く。ブラジルに支部を作ろうとして、アメリカへ来たのに、途中でやめるなんてできるものか。絶対行く。たとえ、そこで倒れたっていいではないか」

 児玉との対談で語ったとおり、池田はサンパウロのコンゴニアス空港に到着した時、疲労の極みにあった。

「ニューヨークを発ったのは午前10時。夜半にブラジリアに着きました。そこでプロペラ機に乗り換えて、サンパウロに着いたのは19日の午前1時ごろでした。深夜の空港に数十人の方々がわざわざ出迎えてくださった」(『太陽と大地 開拓の曲』)

 通関手続きを終えた池田は、照明も暗くなった空港ロビーに踏み出した。すでに午前2時を回っていた。

「ありがとう!遅くなってすいません」。かぶっていた中折れ帽子を胸にあて、池田は頭を下げた。「待ったでしょう。疲れたでしょう」。

 衰弱した体をおして、「どうしても行きたかった」激励行が始まった。待っていたのは、「日系移民一世」として辛酸をなめながら信仰を貫いてきた人々だった。