民衆こそ王者ー池田大作とその時代 先駆者たち 中南米篇(1) 5 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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  希望の船は出港した ②


 「三日がかりで座談会に来る奥地の人の求道心には頭が下がった」。中尾久侍は聖教新聞の取材に協力し、幾つかの記事を書いた。そのなかに、マナウスに入植したある一家のドラマがある。

 木村芳利と妻の二三枝は、佐賀の炭鉱を離れ、家族五人でマナウスのタイアーノという町に入植した。池田が代三代会長に就任した翌年(1961年)のことである。荷物の中には一冊の「御書」(日蓮の遺文集)が詰め込まれていた。ビメンタの栽培を志した。だが入植先は、聞かされていた条件とまったく違う石ころだらけの土地だった。学会員は他にも二世帯いた。木村たちは「学会員だから」という理由で、村で共同使用している機械を使うなといじめられた。

 それだけにとどまらず、芳利は気性の荒い村人から川べりに連れ出され、猟銃を突きつけられ、「信心をやめろ」とすごまれた。その場に座り込んだ芳利は「俺は正しい信心をやっているんだ。けっしてやめない」と言いきり、村人は恫喝をあきらめた。

 4年後、マナウスに引っ越した。芳利は、雇ってくれる約束だったゴム工場から就職を断られ、野菜の行商で食いつないだ。初めて買った魚の缶詰人缶を、家族5人で3日分に分けて食べた。

 そのころ芳利は交通事故に遭い、右足の骨を折ってしまう。それでも弘教の火を消さなかった。家族に「自分たちはアマゾンに金儲けをしに来たんじゃない。自分たちより不幸な人を救うためにやってきたんだ。な、そうだろう?」「悲しい時こそ題目を唱えるんだ」と話し、支え合った。

 入植から10年──とうとうマナウスに創価学会の「班」が誕生した。翌年、木村の家で男子部の座談会が開かれ、参加者は36人を数えた。芳利は事故の後遺症もあり、すでに重病で伏せっていた。座談会の後、息子の始生たちに「希望の船は出港した。しっかり舵を取れ。一人の同志も船から落とすな」「前進、また前進だぞ」と言い残した。

 翌日、芳利の危篤を知って集まった学会員の数は50人を超えた。

「アマゾンの公布を頼んだよ。私が倒れたとしても、一歩もさがってはいけない」。

小さな声をしぼりだした。「芳利さんは、もうほとんど見えない目で居合わせたメンバー一人一人に声をかけては、信仰のこと、生活のこと万般にわたって指針を告げていった。その声もやがて小さくなり、眠るように息をひきとった」(「聖教グラフ」1976年新年号)。

 商売が軌道に乗り、妻の二三枝や息子たちが念願の来日を果たし、池田と出会うのは、芳利が亡くなった翌年以降のことである。

 どの地域でも、無名の、無数の人々の祈りがつながり、創価学会はつくられていった。アマゾンのメンバー数は四半世紀も経たずに2000世帯を超えた。8割以上が日系人ではないブラジル人である。

 1989年(平成元年)には、ベレンで出演者1700人、観客7000人の文化祭を開催した。その5年前、池田は3度目のブラジル訪問を果たしていた。(1984年2月)。サンパウロの会館の庭で、アマゾンから集った老若男女と記念のカメラに納まった。その写真には、中尾夫妻も笑顔で写っている。

「夫は平成17年に亡くなるまで、『池田先生の指導がすべて』という人生を貫きました」中尾喜多子)。久侍は「アマゾンでは、皆がそれぞれの分担を受けもっているという感じですね。誰も切り離しても今の組織はない」と語り残している。