中江兆民「三酔人経綸問答」考察4~紳士君(続)・まとめ | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●平和主義

 

◎不戦の道徳

 

 政論では、個々を集団にまとめる手段として、法治(法律による統治)・徳治(道徳による統治)等があり、まず、以下のように、国には、法律に違反すれば、懲罰させる、役所があり、役人がいるので、法治です。

 しかし、世界には、そのような強制力のある、役所も役人もないので(兆民没後の、国際連盟も国際連合も、機能不全)、徳治にならざるをえず、国際法も、世界の道徳として取り扱われているのが、現実です。

 

○国際法=道徳

「其(そ)の意思えらく、凡(およ)そ法律と云(い)う者は、必ず之(これ)を司掌(ししょう)し之を施行するの公官有りて、且(か)つ又違反する者ある時は、必ず之を懲罰(ちょうばつ)する有り。否(しから)ざれば、竟(つい)に真の法律と為(な)す可(べ)からず。若(も)し夫(そ)れ道徳は、履行すると否ざると、唯人々の衷情に在るのみ。世の所謂(いわゆる)公法も亦(また)此(かく)の如(ごと)し。既に施行に任ずる法衙(ほうが)無く、又懲罰を司(つかさど)る公吏無し。是(こ)れ固(もと)より法律と為(な)すことを得ず、と。」(p.248-249)

《その意味は、思うに、「だいたい法律というものは、必ずこれをつかさどり、これを施行する公的官吏がいて、そのうえ、また、違反する者がある時には、必ずこれを懲罰することがある。そうでなければ、結局、本当の法律とすることができない。もし、そもそも道徳は、履行しても・しなくても、ただ人々の真心に存在するだけだ。世の中のいわゆる国際法も、また、このようなものだ。すでに施行に任命された司法の役所もなく、また、懲罰をつかさどる公的官吏もいない。これは、元々、法律とすることを得られない」と。》

 

 だから、以下の6文のように、文明先進強大国も戦争し、文明後進弱小国は、それにとても対抗できず、軍備しても無駄なうえ、理学的な趣旨を厳守するために、正当防衛でさえも拒否する、非暴力の無抵抗主義へと、主張が過激化しています。

 

○文明先進大国=民主制・道徳の義・経済の理に背反、常備軍が国家財政を圧迫、功名で戦争

「欧州諸国は、既に自由、平等、友愛の三大理を覚知しながら、何故に民主の制に循(したが)わざる邦国、猶(なお)多きに居(お)る乎(や)。何故に極めて道徳の義に反し、極めて経済の理に背きて、国財を蠧蝕(としょく)する数十百万の常備軍を蓄え、浮虚(ふきょ)の功名を競うが為(ため)に無辜(むこ)の民をして相共に屠斬(とざん)せしむるや。」(p.210)

《ヨーロッパ諸国は、すでに自由・平等・友愛の3大理を悟り知りながら、なぜ民主制にしたがわない国々が、なおも多数あるのか。なぜ、とても道徳の義に背反し、とても経済の理に背反し、国の財政を浸食する数十万・数百万の常備軍を蓄え、うわついてむなしい功名を競うために、罪のない民を一緒に殺し合いをさせるのか。》

 

○文明後進小国=兵力配備を撤廃→純粋な理学に注力すべき:道徳の学を探究、技工の術を工夫

「文明の運に於(おい)て後進なる一小邦にして、頭(こうべ)を昂(あ)げて亜細亜の辺陬(へんすう)より崛起(くっき)し、一蹴して自由友愛の境界に跳入し、堡塁を夷(たい)らげ、熕礟(こうほう)を銷(とか)し、艦を船にし、卒を人にし、専(もっぱ)ら道徳の学を究(きわ)め、工伎(こうぎ)の術を講じ、純然たる理学の児子(じし)と成るに於ては、彼(か)の文明を以て自ら夸(おご)る欧洲諸国の人士は、能(よ)く心に愧(は)ずること無き乎(や)。彼或(ある)いは兇頑(きょうがん)にして、心に愧じざるのみならず、我の兵備を撤するに乗じ、悍然(かんぜん)として来寇(らいこう)する時は、吾が儕(せい)尺寸の鉄を帯びず、一粒の弾を挟(さしは)さまず、迎えて之(これ)を礼せば、彼果して何事を為(な)す可(べ)き乎(や)。剣(つるぎ)を揮(ふる)うて風を斬らんに、剣如何(いか)に鋭利なるも、風の飄忽(ひょうこつ)茫漠(ぼうばつ)たるを奈何(いかん)せん。我其(そ)れ風と為らん哉(かな)。(p.210)

《文明の運動において後進である一小国で、頭をあげて、アジアの辺境から立ち上がり、一気に自由・友愛の境地に飛び入り、要塞を壊して平らにし、大砲を溶かして戦艦を商船にし、兵士を人民にし、ひたすら道徳の学を探究し、技工の術を工夫し、純粋な理学の申し子となるのにおいては、あの文明を自分で誇示するヨーロッパ諸国の人々は、充分に心に恥じることがないのか。彼らが凶暴・頑固で、心に恥じなかったりするだけでなく、我らの兵力配備を撤廃するのに付け込んで、強引に来襲する時には、我らは、わずかな兵器も携帯せず、1発の弾丸も装填せず、迎え入れて、これに礼をすれば、彼らは、本当に何事をすることができるのか。剣を振り回して、風を切り裂けば、剣がどんなに鋭利でも、風が突然出没し、取り止めがないのを、どうするのか。我らは、その風になろうか。》

 

○無抵抗主義:弱小国の軍備=無駄(算数の理)→無形の理義>有形の腕力

「弱小の邦に拠(よ)りて、強大の邦と交わる者は、彼の万分の一にも足らざる有形の腕力を奮(ふる)うは、鶏卵を巌石に投ずると一般なり。彼文明を以て自ら誇れり。然(しか)れば則(すなわ)ち、彼固(もと)より文明の原質なる理義の心無きの理有らず。然れば則ち、我が小邦たる者、何ぞ彼の心に慕(しと)うて未だ履行すること能(あた)わざる無形の理義を以て、兵備と為(な)さざる乎(や)。自由を以て軍隊と為し、艦隊と為し、平等を以て堡塞(ほうさい)と為し、友愛を以て剣砲と為すときは、天下豈(あに)当る者有らん哉(や)。若(も)し然らずして、我専(もっぱ)ら我が堡塁を恃(たの)み、我が剣砲を恃み、我が兵衆を恃む時は、彼も亦其(そ)の堡塁を恃み、其の剣砲を恃み、其の兵衆を恃むが故に、其の堡塁最も固き者、剣砲最も利なる者、兵衆最も多き者、必ず勝ちを得んのみ。是(こ)れ算数の理なり、極めて明白の理なり。何を苦しみて、此(こ)の明白の理に抵抗することを試むる乎(や)。彼果して兵を引て、敢(あえ)て我が邦に来り拠らん乎(か)。土地は共有物なり。彼居り我れ居り、彼れ留(とど)まり我留まらんには、何の葛藤か有る乎(や)。彼果して我が田を奪うて耕し、我が屋(おく)を奪うて入り、或(ある)いは重税して我を苦むる乎。忍耐力に富む者は、忍耐せんのみ。忍耐力に富まざる者は、各々自ら計(はかりごと)を為(な)さんのみ。」(p.210-211)

《弱小国によって、強大国と交戦するのに、彼らの1万分の1にも満たない有形の腕力を奮うことは、ニワトリの卵を岩石に投げ付けるのと同様なのだ。彼らは、文明によって、自分で誇示する。それならば、つまり彼らは、元々、文明の本来の性質である理義の心がないわけではない。それならば、つまり我らの小国であるものは、なぜ彼らの心に思いを寄せ、まだ実行することができない無形の理義によって、兵力配備をしないのか。自由を軍隊・艦隊とし、平等を要塞とし、友愛を砲銃とするならば、天下には、どうして対抗するものがあるのか(いや、ない)。もし、そのようでなく、我らがひたすら、我らの要塞を頼り、我らの砲銃を頼り、我らの軍勢を頼る時には、彼らも、また、その要塞を頼り、その砲銃を頼り、その軍勢を頼るために、その要塞が最も堅固なもの、銃砲の最も有利なもの、軍勢の最も多数のものが、必ず勝ちを得るのだ。これは、算数の理なのだ、とても明白な理なのだ。何を苦しんで、この明白な理に抵抗することを試みるのか。彼らは、本当に兵士を引き連れて、あえて我らの国に来襲するのか。土地は、共有物なのだ。彼らがいて、我らがいて、彼らが留まり、我らが留まろうとするには、何の葛藤があるのか。彼らは、本当に我らの田地を奪って耕し、我らの家屋を奪って入り、重税して我らを苦しめたりするのか。忍耐力に富む者は、忍耐するだけだ。忍耐に富まない者は、各々自分で計策をするだけだ。》

 

○無抵抗主義:非暴力で主張

「彼猶(なお)聴かずして銃礟(じゅうほう)を装して我に擬する時は、我が衆大声して曰(い)わんのみ、汝(なんじ)何ぞ無礼無義なるや、と。因(よ)りて弾(たま)を受けて死せんのみ。別に繆巧(びゅうこう)の策有るに非(あら)ざるなり。」(p.257)

《彼らが、なおも聞き入れないで、銃砲を装着して、我らに突き付けた時には、我が民衆が、大声でいうだけだ「あなた達は、何と無礼・無意義なのか」と。(それに)よって、弾丸を受けて死ぬだけだ。別に巧妙な計策があるのではないのだ。》

 

○人の正当防衛:彼の殺したいで我が殺す=理学的な趣旨でない、殺人=悪事、生理的な秩序を破壊

「欧洲学士戦争を非とする者皆曰(いわ)く、進撃は義に反するも、防禦は義に合す、と。其(そ)の意、各個人有する所の正当防禦の権を把(と)り来りて、之(これ)を邦国に移さんと欲す。僕の意を以て之を考うれば、此(こ)れ甚(はなは)だ理学的の旨趣に非(あら)ざるなり。何ぞや。元来、人を殺すは悪事なり。生理的の秩序を壊(やぶ)るが故なり。是(こ)の故に寧(むし)ろ人我を殺すも、我人を殺すこと勿(なか)れ。其の人の盗賊兇漢(きょうかん)たると否(しから)ざるとは、問う所に非ざるなり。何となれば、彼我を殺さんと欲す、故に我も亦(また)彼を殺す、と曰(い)うときは、是れ猶(なお)彼悪事を為さんと欲す、故に我も亦悪事を為す、と曰うが如(ごと)くなればなり。」(p.258)

《ヨーロッパの学者で、戦争を非とする者は皆、いう、「進撃は、義に背反するが、防御は、義に適合する」と。その意味は、各個人がもつ正当防衛の権利を持って来て、これを国々に適用したいとする。僕の意思によって、これを考えれば、これは、とても理学的な趣旨でないのだ。なぜか。本来、人を殺すことは、悪事なのだ。生理的な秩序を破壊するためなのだ。それで、むしろ人が私を殺しても、私が人を殺すことがないように。その人が盗賊・危害を加える悪者であるか・ないかは、問うことでないのだ。なぜかといえば、彼が私を殺したいとし、よって、私も、また、彼を殺す、という時には、これは、なおも彼が悪事をしたいとし、よって、私も、また、悪事をする、というようなものだからなのだ。》

 

○国の正当防衛:防御中の進撃=理学的な趣旨でない、理に不合理、悪事、非暴力での死=道徳教化

「然(しか)るに此(こ)れを以て之(これ)を邦国に移すときは、益々理に合せざるを見る。何となれば、敵国来寇(らいこう)するに方(あた)り、我苟(いやし)くも我が軍を列し、我が銃を発して、自ら防ぐときは、既に是(こ)れ防禦中の進撃にして、悪事たるを免れざればなり。故に曰(いわ)く、各個人正当防禦の権を移して邦国の間に用ゆるときは、益々理学的の旨趣に非(あら)ざるなり。豪傑君、僕の意に於(おい)て、我が邦人が一兵を持せず一弾を帯びずして、敵寇(てきこう)の手に斃(たお)れんことを望むは、全国民を化して一種生きた道徳と為(な)して、後来社会の模範を垂れしむるが為(ため)なり。彼悪事を為すが故に我も亦(また)悪事を為すと曰(い)うが如(ごと)きは、是れ即(すなわ)ち君の旨趣なり。何ぞ其(そ)れ鄙(ひ)なるや。」(p.259)

《ところで、これによって、これを国々に適用する時には、ますます理に合わないことを見る。なぜならば、敵国が来襲するにあたって、我らが、もしも、我らの軍隊を配列し、我らの銃砲を発射して、自分で防御する時には、すでに、これは、防御中の進撃で、悪事であるのを免除されないのだ。よって、いう、各個人の正当防衛の権利を適用して、国々の間に応用する時には、ますます理学的な趣旨でないのだ。豪傑君、僕(紳士君)の意思において、我が国民が1個の兵器も所持せず、1発の弾丸も携帯せず、敵軍の手で死ぬことを望むのは、全国民を教化して、一種の生きた道徳にして、後世の社会の模範を教示させるためなのだ。彼が悪事をしたために、私も、また、悪事をするというようなもの、これは、つまり君の趣旨なのだ。どうして、それ(非暴力での死)に価値がないのか。》

 

◎大国の軍事支援を前提とした小国の平和主義

 

 この弱小国の軍備撤廃・無抵抗主義には、以下のように、豪傑君が、民主制どうしで、強大国の軍事支援を期待しているのではないかと、質問し、紳士君が、各国の事情しだいなので、関知せず、自分で計策すると、回答していますが、現実は、戦後日本が、対米国に従属するようになりました。

 

○軍備撤廃→他国の軍事支援を期待

「抑(そもそも)紳士君が諸弱小国に勧(すす)めて、速やかに民主の制に循(したが)い、且(か)つ速やかに兵備を撤せしめんと欲するは、其(そ)の意窃(ひそ)かに米利堅(メリケン)、仏蘭西(フランス)の如(ごと)き民主国が、其の志を偉なりとし、其の業を奇なりとして、来(きた)り援(たす)くることを冀幸(きこう)するに非(あら)ざる無きを得ん乎(や)」(p.256)

《そもそも紳士君が、様々な弱小国を勧誘して、すぐに民主制にしたがい、そのうえ、すぐに兵力配備を撤廃させたいとするのは、その意思に、秘密でアメリカ・フランスのような民主国が、その意志を偉大なのだとし、その事業を奇抜なのだとして、来て助けることを願わないことはないのを得ているのか。》

 

 そこでは、米国が作成を主導した、現行憲法のもとで、軍事を、政事から切り離し、米国に外注したので、経済(財利)・学術が、文明先進国並みに発展を遂げましたが、専守防衛のため、自衛隊を保持し、平和主義は、しだいに名目上になり、実質上は、軍備拡張の一途が、近年の日本です。

 たとえば、専守防衛の中身(実)を議論せず、外枠の予算(名)だけが独り歩きすれば、戦後日本での紳士君の極端から、再度の豪傑君の極端へと、知らないうちに変わっていってしまうのが、普通の人の「情」です(『一年有半』第3:恐外病と侮外病)。

 なので、南海先生の「理」(理義)による、折衷案が大切になり、その際には、以下の2文のように、虚声(根拠のないウワサ)の推測(憶測)ではなく、実形の洞察で、国が神経症にならないことを、注意すべきとしています。

 

○国の神経症=実形を洞察せず、虚声を予測して疑いを抱く

「大抵(たいてい)国と国と怨みを結ぶ所以(ゆえん)の者は、実形に在らずして虚声に在り。実形を洞察するときは少しも疑いを置くに足らざるも、虚声を預測するときは頗(すこぶ)る畏(おそ)る可(べ)きを見る。故に各国の相疑うは、各国の神経病なり。」(p.305)

《たいてい、国と国が怨み合う理由は、実形にあるのでなく、虚声にある。実形を洞察する時には、少しも疑いを抱くのに充分でないが、虚声を推測する時には、とても恐るべきものを見る。よって、各国が疑い合うのは、各国の神経症なのだ。》

 

○国に神経症なし→不戦か、専守防衛で余裕・大義名分あり

「若(も)し其(そ)の一邦(いっぽう)神経病無きときは大抵戦いに至ること無く、即(すなわ)ち戦争に至るも、其の邦の戦略必ず防御を主として、余裕有り義名有ることを得て、文明の春秋経に於(おい)て必ず貶譏(へんき)を受くること無きなり。」(p.306)

《もし、その一方に神経症がない時には、たいてい、戦いに至ることがなく、つまり戦争に至っても、その国の戦略が、必ず防御を主として、余裕があり、大義名分があることを得て、文明の歴史書(『春秋』の経書は、天下の秩序を維持するための、大義名分の教科書)において、必ず批判を受けることがないのだ。》

 

 つまり、実(実質)や「理」(論理)の中身がなく、名(名目)ばかり・形だけの外枠のみになれば、その中身に「情」(感情、「気」・「心」)が入り込んで、空気が醸成するおそれがあるので、実(主)が名(賓客)からズレて、有名無実化すれば、その都度、名実一体にすることが必要です。

 

 

■まとめ

 

 無制度の世→専制→立憲制→民主制の大局的な移り変わりを、紳士君も、南海先生も、時間的な変化とみていましたが、現実は、諸国の政治体制を、空間的な差異とみたほうがよく、多様性も勘案し、人間社会も、生物全般・地球環境等、世界・自然の一部としてみるべきでしょう。

 その中で、結局、その時機に・その土地で、行うべき事業を行う(行うべきでない事業を行わない)ことが得策だと、兆民のいう、陳腐な言葉が、結論になるのではないでしょうか。

 

(おわり)