荻生徂徠「弁名」下・読解3~天・命・帝・鬼・神(5)-(8) | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

(5)

・命者、謂天之命於我也。或以有生之初言之、或以今日言之。中庸曰、天命之謂性。是以有生之初言之者也。書曰、惟命不于常。是以今日言之者也。仁斎先生引子夏孟子之言、必以命定於有生之初者、非矣。殊不知、子夏孟子、皆以在彼者為天、以至于是者為命、其実則命是天之所命。天与命、豈可岐乎。因是而遂以五十而知天命為知天与命。豈有是乎。且孟子所謂莫之致而至者、亦以貧賤言之耳。孔子曰、富与貴、是人之所欲也。不以其道得之不処也。貧与賤、是人之所悪也。不以其道得之不去也。是得富貴之道仁、而得貧賤之道不仁也。君子行仁以致命。故書曰、祈天永命。易曰、致命遂志。又曰、正位凝命。唯君子無致貧賤之道。故孟子云爾。

 

[命なる者は、天の我に命ずるをいうなり。或いは生あるの初をもって、これをいい、或いは今日をもって、これをいう。中庸にいわく、「天命をこれ性という」と。これ生あるの初をもって、これをいう者なり。書にいわく、「惟(これ)命、常においてせず」と。これ今日をもって、これをいう者なり。仁斎先生、子夏(しか)・孟子の言を引きて、必ず命は生あるの初に定(さだま)ると以(おも)える者は、非なり。殊(こと)に知らず、子夏・孟子は皆、彼(かしこ)に在(あ)る者をもって天と為(な)し、ここに至る者をもって命と為せども、その実は、すなわち命はこれ天の命ずる所と。天と命とは、あに岐(わか)つべけんや。これに因(よ)りて、遂に「五十にして天命を知る」をもって、天と命とを知ると為す。あに、これあらんや。かつ孟子のいわゆる「これを致すことなくして至る」という者も、また貧賤をもって、これをいうのみ。孔子いわく、「富と貴とは、これ人の欲する所なり。その道をもって、これを得ざれば、処(お)らざるなり。貧と賤とは、これ人の悪(にく)む所なり。その道をもって、これを得ざれば、去らざるなり」と。これ富貴を得るの道は仁にして、貧賤を得るの道は不仁なり。君子は仁を行いて、もって命を致す。ゆえに書にいわく、「天の永命を祈(もと)む」と。易にいわく、「命を致し志を遂(と)ぐ」と。またいわく、「位を正して命を凝(な)す」と。ただ君子のみ貧賤を致すの道なし。ゆえに孟子しかいう。]

 

《命なるものは、天が私に命ずることをいうのだ。生がある最初に、これ(命)をいったり、現在に、これ(命)をいったりする。『中庸』によると、「天命、これを本性(生まれ持った本来の性質)という」(1-1)。これは、生がある最初に、これ(命)をいうものなのだ。『書経』によると、「これで命は、いつもしない」。これは、現在に、これ(命)をいうものなのだ。伊藤仁斎先生が、子夏(孔子の弟子)・孟子の言葉を引用して、必ず命が、生がある最初に定まると思うのは、非(誤り)なのだ。意外にも、子夏・孟子は、両者とも、〈あちら〉にあるものを天とし、〈こちら〉に至るものを命としたが、その実際には、つまり命は、これが天の命ずることを、知らない。天と命は、どうして分岐できるのか(いや、できない)。これによって、結局、「50歳で、天命を知る」(『論語』2-20)によって、天と命を知ることになる。どうして、これがあるのか(いや、天と命の分岐は、ない)。そのうえ、孟子の、いわゆる「これを(人為で)致すことがなくて、(自然に)至る」(『孟子』9-128)というものも、また、貧乏・卑賤によって、これ(命)をいうのだ。孔子がいう、「富裕と高貴、これは、人がしたいことなのだ。その道によって、これ(富裕と高貴)を得なければ、(そこに)いられないのだ。貧乏と卑賤、これは、人が憎むことなのだ。その道によって、これ(貧乏と卑賤)を得なければ、(そこを)去らないのだ」(『論語』4-71)と。これは、富裕・高貴を得る道が、仁で、貧乏・卑賤を得る道が、不仁なのだ。君子(立派な人)は、仁を行って、それで命を致す。よって、『書経』によると、「天の長命(長寿)を祈る」。『易経』によると、「致命(尽力)し、意志を成し遂げる(遂志)」。また、いう、「位置を正して(正位)、命を尽くす」と。ただ君子だけが、貧乏・卑賤を致す道でない。よって、孟子は、そのようにいう。》

 

 

(6)

・仁斎先生曰、何謂知命。安而已矣。何謂安。不疑而已矣。本非有声色臭味之可言。蓋無一毫之不尽、処之泰然、蹈之坦然、不弐不惑、方謂之安。方謂之知。豈見聞之知哉。伊川云、知命者、知有命而信之也。此視知字太浅。所謂知命者、処乎死生存亡窮通栄辱之際、泰然坦然、煙銷氷釈、無一毫動心、而後謂之知命。所謂知有命而信之、是不待君子而能知之。是仁斎先生、得意之言也。然以予観之、亦与伊川何択也。祇敷衍其言与否之異耳。且孔子所謂不知命無以為君子也者、本謂知天之命我以此道也。先王之所以安民為心立斯道者、亦以知天命也。故非知此則無以為君子也。宋諸老先生忘先王之道以敬天安民為本、而専求諸已、遂陥於荘周内聖外王之説。自爾以来、雖有俊民、迷而不悟。如仁斎先生之聡敏、亦為其余習所痼。故究其所見、豈与達磨恵能相遠哉。可惜之至。

 

[仁斎先生いわく、「何をか命を知るという。安んずるのみ。何をか安んずるという。疑わざるのみ。もと声色臭味のいうべきものあるにあらず。けだし一毫(ごう)の尽くさざることなく、これに処して泰然、これを蹈(ふ)みて坦然(たんぜん)、弐(うたが)わず惑(まど)わずして、方(まさ)にこれを安んずというべし。方にこれを知るというべし。あに見聞の知ならんや。伊川いう、「命を知るとは、命あるを知りて、これを信ずるなり」と。これ知の字を視ること、太(はなは)だ浅し。いわゆる「命を知る」とは、死生・存亡・窮通・栄辱の際に処して、泰然・坦然、煙銷(えんしょう)氷釈し、一毫の心を動かすこともなく、しかる後これを「命を知る」という。いわゆる「命あるを知りて、これを信ず」とは、これ君子たるを待たずして、よくこれを知るなり」と。これ仁斎先生、得意の言なり。しかれども予をもって、これを観るに、また伊川と何ぞ択(えら)ばんや。祇(ただ)その言を敷衍(ふえん)すると否との異のみ。かつ孔子のいわゆる「命を知らずんば、もって君子為(た)ることなきなり」とは、もと天の我に命ずるに、この道をもって、すると知ることをいうなり。先王の民を安んずるを心と為(な)し、この道を立つる所以(ゆえん)の者も、また天命を知るをもってなり。ゆえにこれを知るにあらずんば、すなわち、もって君子為ることなきなり。宋の諸老先生は、先王の道の、天を敬し民を安んずるをもって、本と為すことを忘れて、専(もっぱ)らこれを己(おのれ)に求め、遂に荘周の内聖外王の説に陥る。これより以来、俊民ありといえども、迷いて悟らず。仁斎先生の聡敏のごときも、またその余習の痼(こ)する所と為(な)る。ゆえにその見る所を究(きわ)むるに、あに達磨(だるま)・恵能(えのう)と相遠からんや。惜しむべきの至りなり。]

 

《伊藤仁斎先生がいう、「何を〈命を知る〉というのか。安寧することなのだ。何を〈安寧する〉というのか。懐疑しないことなのだ。元々、声・色・臭い・味は、いうことができるものでない。思うに、わずかも尽くさないことがなく、ここにいては落ち着き、これをしては引き受け、疑わず、迷わず、まさに、これを安寧というべきだ。まさに、これを知るというべきだ。どうして見たり聞いたりした知なのか(いや、そうでない)。程頤(ていい)がいう、『〈命を知る〉とは、命があることを知って、これを信じることだ』と。これは、知の字を見ることが、とても浅い。いわゆる〈命を知る〉とは、生か死か・生存か滅亡か・困窮か栄達か・栄誉か恥辱かの際に対処して、落ち着き・引き受けて、煙が晴れて氷が解け、わずかも心が動くことなくて、はじめて、これを〈命を知る〉という。いわゆる〈命があることを知って、これを信じる〉とは、これが君子なのを待たないで、充分にこれを知ることなのだ」(『語孟字義』天命7条)と。これは、伊藤仁斎先生が得意な言葉なのだ。しかし、私によって、これを観察すると、また、程頤と何を選別するのか。ただその言葉を説明したか否かの違いなのだ。そのうえ、孔子の、いわゆる「命を知らなければ、それで君子(立派な人)であることはないのだ」(『論語』20-499)とは、元々、天が私に命ずるのに、この道によって、すると知ることをいうのだ。先王が、民を安寧することを、心とし、この道を確立する理由も、また、天命を知ることによってなのだ。よって、これ(天命)を知るのでなければ、つまり、それで君子であることがないのだ。宋代の様々な老人の先生は、先王の道が、天を敬し、民を安寧することによって、根本とすることを忘れて、ひたすら、これ(道)を自己に探し求め、結局、荘子の内聖外王(内に聖人・外に帝王の徳を兼ね備えた者)の説に陥落する。これ以来、俊才な民があるといっても、迷って悟らない。伊藤仁斎先生が、聡明・鋭敏のようなものも、また、その古い習慣が残されたこととなる。よって、その見ることを探究すると、どうして達磨(中国禅の始祖)・恵能(6祖)と互いに遠いのか(いや、遠くない)。惜しむことができる至極なのだ。》

 

 

(7)

・孔子五十而知天命。知天之命孔子伝先王之道於後也。孔子又曰、下学而上達。知我者其天乎。是孔子自言我能下学而上達、故天命我以伝道之任者、為知我也。它如儀封人言亦爾。孔子学先王之道、以待天命。五十而爵禄不至。故知天所命、不在行道当世、而在伝諸後世已。不爾、孔子知天命、何待五十乎。後儒之解、不能直斥其事、而徒論其心。如仁斎先生、不疑而已矣、安而已矣、是也。嗚呼、聖人之心、安可窺乎。且如仁斎之説、徒言不以名利動其心已。嗚呼、不以名利動其心、豈足以尽聖人乎。亦以己心窺聖人已。陋哉僭哉、僭哉陋哉。

 

[孔子は「五十にして天命を知る」と。天の孔子に命じて先王の道を後(のち)に伝えしむることを知るなり。孔子またいわく、「下学して上達す。我を知る者は、それ天か」と。これ孔子、自(みずか)らいう、我よく下学して上達す、ゆえに天の我に命ずるに道を伝うるの任をもってする者は、我を知るが為なりと。它(た)の儀の封人の言のごときも、またしかり。孔子は先王の道を学びて、もって天命を待つ。五十にして爵(しゃく)・禄(ろく)、至らず。ゆえに天の命ずる所は、道を当世に行うに在(あ)らずして、これを後世に伝うるに在ることを知るのみ。しからずんば、孔子の天命を知るは、何ぞ五十を待たんや。後儒の解は、直ちにその事を斥(さ)すこと能(あた)わずして、徒(いたず)らに、その心を論ず。仁斎先生の「疑わざるのみ」、「安んずるのみ」のごときも、これなり。ああ、聖人の心は、いずくんぞ窺(うかが)うべけんや。かつ仁斎の説のごとくんば、ただ名利をもって、その心を動かさざるをいうのみ。ああ、名利をもって、その心を動かさざるは、あに、もって聖人を尽くすに足らんや。また己(おのれ)の心をもって聖人を窺うのみ。陋(ろう)なるかな、僭(せん)なるかな。僭なるかな、陋なるかな。]

 

《孔子は、「50歳で、天命を知る」(『論語』2-20)。天が、孔子に命じて、先王の道を後世に伝えさせたことを知るのだ。孔子は、また、いう、「下から学んで、上へ達した。私を知るもの、それは天か」(『論語』14-369)と。これは、孔子が自分でいう、「私は、充分に下から学んで、上へ達した、よって、天が私に命じるのに、道を伝える任務にするのは、私を知っているためなのだ」と。他の(衛の国の)儀の関所の役人の言葉のようなものも、また、そのようだ。孔子は、先王の道を学んで、それで天命を待った。50歳で、爵位・俸禄(官僚の給与)は、至らなかった。よって、天が命ずることは、道を当時に(出仕して)行うことにあるのではなく、これ(道)を後世に伝えることにあると知るのだ。そうでなければ、孔子の天命を知るは、なぜ50歳を待ったのか。後世の儒学者の解釈は、すぐに、その(孔子の)事を排斥することができなくて、無駄に、その(孔子の)心を論考した。伊藤仁斎先生の「懐疑しないことなのだ」・「安寧することなのだ」のようなものも、これなのだ。ああ、聖人の心は、どうして、うかがうことができるのか(いや、できない)。そのうえ、伊藤仁斎の説のようなものであれば、ただ名声・利益によって、その(聖人の)心を動かさないことをいうのだ。ああ、名声・利益によって、その(聖人の)心を動かさないのは、どうして、それで聖人をいい尽くすのに充分なのか(いや、充分でない)。また、自己の心によって、聖人をうかがうのか(いや、うかがえない)。いやしいな、おごっているな。おごっているな、いやしいな。》

 

 

(8)

・帝亦天也。漢儒謂天神之尊者。是古来相伝之説也。宋儒曰、天以理言之。帝以主宰言之。其意以理為主宰、則帝天何別。亦雖其解已。蓋上古伏羲神農黄帝顓頊帝嚳、其所制作、畋漁桑衣服宮室車馬舟楫書契之道、亘万古不墜。民日用之、視以為人道之常、而不復知其所由始。日月所照、霜露所墜、蛮貊夷狄之邦、視傚流伝、莫不被其徳。雖万世之後、人類未滅、莫之能廃者。是其与天地同功徳、広大悠久、孰得而比之。故後世聖人、祀之合諸天、名曰帝。如月令所載五帝之名是也。夫人死、体魄帰於地、魂気帰于天。夫神也者不可測者也。何以能別彼是乎。況五帝之徳、侔于天、祀以合之、与天無別。故詩書称天称帝、莫有所識別者、為是故也。如堯舜以下、作者七人、既祀之学、万世不替。而五帝之徳若是之大、豈泯泯乎不祀。先王之道、断乎不然矣。所謂祀其始祖、配諸所自出之帝者、即五帝也、即上帝也、可知已。至於漢儒以上帝為天神之尊者、又就五帝別五行之神与人帝、則臆説耳。大氐、古之礼、祀后土、以禹配、祀祖先、既立主、又立尸。祀天亦然。是先王之道、合天人而一之。故伝曰、合鬼与神、教之至也。制礼之以如是夫。且帝之名奚昉也。若是天子之名、而推以命諸天、則先王尊天之至、必不敢。若是天之名、而推以命諸天子、則先王之恭、必不敢。以此観之、帝是五帝、合諸天也。尊聖人之至、豈不然乎。

 

[帝もまた天なり。漢儒は天神の尊き者という。これ古来相伝の説なり。宋儒いわく、「天は理をもって、これをいい、帝は主宰をもって、これをいう」と。その意、理をもって主宰と為(な)さば、すなわち帝・天、何ぞ別(わかれ)たん。またその解を難(かた)くするのみ。けだし上古の伏羲(ふくぎ)・神農(しんのう)・黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)、その制作する所の畋漁(でんぎょ)・農桑・衣服・宮室・車馬・舟楫(しゅうしゅう)・書契の道は、万古に亘(わた)りて墜(お)ちず。民、日(ひび)にこれを用い、視て、もって人道の常と為(な)し、しかも復(ま)たその由(よ)りて始(はじま)る所を知らず。日月の照(てら)す所、霜露の墜つる所、蛮貊(ばんばく)夷狄(いてき)の邦(くに)も、視傚(しこう)流伝し、その徳を被(こうむ)らざるはなし。万世の後といえども、人類、未だ滅びずんば、これをよく廃する者なし。これその天地と功徳を同じゅうし、広大悠久なること、孰(たれ)か得て、これに比せん。ゆえに後世の聖人は、これを祀(まつ)りて、これを天に合し、名づけて帝と曰(い)う。月令(がつりょう)に載する所の五帝の名のごとき、これなり。夫(そ)れ人、死すれば、体魄(たいはく)は地に帰し、魂気は天に帰す。夫(そ)れ神なる者は測るべからざる者なり。何をもって、よく彼是(ひし)を別(わか)たんや。いわんや五帝の徳は天に侔(ひと)しく、祀りて、もってこれを合し、天と別なし。ゆえに詩・書に天と称し帝と称し、識別する所あることなき者は、これが為のゆえなり。堯(ぎょう)・舜(しゅん)以下、作者七人のごときは、すでにこれを学に祀り、万世、替(すた)れず。しかも五帝の徳、かくのごときの大なる、あに泯泯(びんびん)乎(こ)として祀られざらんや。先王の道は、断乎として、しからず。いわゆる「その始祖を祀り、これを自(よ)りて出(い)ずる所の帝を配す」という者は、すなわち五帝なり、すなわち上帝なること、知るべきのみ。漢儒、上帝をもって天神の尊き者と為し、また五帝に就きて五行の神と人帝とを別つに至りては、すなわち臆説のみ。大氐(たいてい)、古(いにしえ)の礼は、后土(こうど)を祀るに、禹(う)をもって配し、祖先を祀るに、すでに主を立て、また尸(し)を立つ。天を祀るもまた、しかり。これ先王の道、天・人を合して、これを一つにす。ゆえに伝にいわく、「鬼と神とを合するは、教えの至りなり」と。礼を制するの意は、かくのごときかな。かつ帝の名は奚(なに)に昉(はじま)るや。もし、これ天子の名にして、推して、もってこれを天に命(なづ)くとならば、すなわち先王、天を尊ぶの至り、必ず敢(あ)えてせず。もし、これ天の名にして、推して、もってこれを天子に命くとならば、すなわち先王の恭なる、必ず敢えてせず。これをもって、これを観れば、帝はこれ五帝にして、これを天に合するなり。聖人を尊ぶの至り、あに、しからざらんや。]

 

《帝も、また、天なのだ。漢代の儒学者は、天神の尊いものという。これは、古来相伝の説なのだ。宋代の儒学者がいう、「天は、理によって、これをいい、帝は、主宰によって、これをいう」と。その意味は、理を主宰とすれば、つまり、帝と天は、なぜ分別するのか。また、その(天と帝の)解釈を困難にするのだ。思うに、大昔の伏羲・神農・黄帝・顓頊・帝嚳(5人とも、古代中国の伝説上の帝王)が、その(5人の)制作する狩猟+漁労・農耕+養蚕・衣服・宮殿・車+馬・船運・文書の道は、大昔から行き渡って落ち込まない。民は、日々これ(5帝の道)を用いて見て、それで人の道の通常とし、しかも、再びそれ(5人の道)によって、始まることを知らない。日・月が照らすこと、霜・露が落ちること、南+北・東+北の異民族の国も、見習って広く伝わり、その(5人の)徳を受け取らないことはない。全時代の後といっても、人類がまだ滅亡しなければ、これ(5人の道)を充分に廃棄するものでない。これは、それで天地と功徳(善行)を同様とし、広大・長久になることは、誰が得て、これ(5人)に比類するのか。よって、後世の聖人は、これ(5人)を祭祀して、これ(5人)を天に合一し、名づけて帝という。(『礼記(らいき)』の)月令篇に記載された、5帝の名のようなものは、これなのだ。そもそも人は、死ねば、体・魄(陰の霊気)は、地に帰結し、気・魂(陽の霊気)は、天に帰結する。そもそも神なるものは、測ることができないものなのだ。何によって、充分に〈あれ〉と〈これ〉を分別するのか。ましてや、5帝の徳は、天と同様で、祭祀して、それでこれ(帝)を合一し、天と分別がないのは、なおさらだ。よって、『詩経』・『書経』に、天と称し、帝と称して、識別することがないものは、これ(5帝の徳)のためだからなのだ。堯・舜(古代中国の伝説上の帝王)以下、作者7人のようなものは、すでにこれ(作者7人)を学校に祭祀し、全時代が衰退(衰替)しない。しかも、5帝の徳は、このように偉大で、どうして乱れ滅びて、祭祀されないのか(いや、祭祀される)。先王(人の帝)の道は、きっぱりと、そのようでない。いわゆる「その始祖を祭祀し、これ(天)から出現したことが、帝を配置した」というものは、つまり5帝なのだ、つまり上帝(天帝)なのを知ることができるのだ。漢代の儒学者は、上帝を天神の尊いものとし、また、5帝について、5行(火水木金土)の神と人の帝(先王)を分別するに至っては、つまり憶測の説なのだ。たいてい、昔の礼は、地母神を祭祀するのに、禹(夏王朝の創始者)を配置し、祖先を祭祀するのに、すでに神体を立て、神像を立てた(尸主/ししゅ、かたしろ)。天を祭祀するのも、また、そのようだ。これは、先王の道が、天と人を合わせて、これをひとつにする。よって、伝によると、「鬼(霊)と神を合一するのは、教えの至極なのだ」(『礼記』)。礼を制する意味は、このようなのかな。そのうえ、帝の名は、何に、はじまるのか。もし、これ(帝)が天子の名で(帝王)、推察して、それでこれ(帝)を天に命名するならば(天帝)、つまり先王が、天を尊んだ至極なので、必ず、あえてしない。もし、これ(帝)が天の名で(天帝)、推察して、それでこれ(帝)を天子に命名するならば(帝王)、つまり先王が、恭なので、必ず、あえてしない。これによって、これ(天と帝)を観察すれば、帝は、この5帝で、これ(5帝)を天に合一するのだ。聖人を尊んだ至極は、どうして、そのようでないのか(いや、そのようだ)。》

 

 

(つづく)