日本住居集合論9~質の時代の戸建的な低層集合住宅 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●質の時代の戸建的な低層集合住宅

 

 敗戦直後の日本は、戦災で住宅不足になったので、中・高層の集合住宅を、大量同種供給しましたが(標準化)、住宅数が世帯数以上になり(1973年)、住宅政策を量から質へと転換すると、都市近郊から郊外にかけて、戸建的な低層の集合住宅を、少量異種供給するようになりました(個性化)。

 戸建には、個別性・独立性・接地性があり、まず、個別性とは、住戸の過度な平等性により、個体を全体の犠牲にせず、部分そのものの便利さ・快適さから発想することです。

 たとえば、平面で、住戸を一直線に並べるのではなく、多少ずらしてギザギザの外形平面にしたり、隙間を空けて、専用部に日照を確保したり、共用部に変化や動きを作ったり、断面で、フラット(1層)だけではなく、メゾネット(2層)・スキップフロア等にする選択肢もあります。

 つぎに、独立性とは、住戸の四周のうち、できるだけ多方面に窓を設置することで、採光・通風・眺望と、プライバシーの、両方を確保すべきです。

 さらに、接地性とは、家の周囲の庭(テラス・バルコニー等)を充実させることで、玄関前のアプローチ庭・LD前のリビング庭・キッチン前のサービス庭の、3種を中心に確保すべきです。

 人間と自然の関係も、量の時代には、土地の有効利用のため、中・高層化すべきだったので、住棟の周囲を、まとまった大きな自然とし、人と緑を垂直方向で、ゾーニング的に分離しました。

 それが、質の時代には、低層化できたので、住戸の周囲を、身近で小さな自然とし、人と緑を水平方向で、モザイク的に融合させようとしました。

 ここで注目すべきは、量から質への転換期が、団塊の世代(第1次ベビーブーム、1947~1949年)の結婚・団塊ジュニア(第2次ベビーブーム、1971~1974年)の誕生した時期と、ちょうど重なっていることです。

 当時の子育て生活は、気軽に、子供が、地面の土に触れたり、友達と一緒に遊んだり、専業主婦の母親が、日中に近所の母子と交流できるのを、大切にしていたと推測でき、それには、戸建的な低層が適切でした。

 専門家は、共空間(コモンスペース)と、コミュニティの形成を、短絡的に結び付けがちでしたが、当時の核家族用の戸建住宅地・集合住宅では、子供を媒介にしたコミュニティが成り立っていました。

 ですが、そもそも共空間を充実させても、住人のコミュニティが形成されるわけでなく、その証拠に、子供がまったく介在しない、大人だけの地縁は、コミュニティが醸成されにくく、少子高齢化になると、それが顕著になっています。

 公園等での遊び場も、昔は、子供のいる核家族が多数派で、少数派の子供のいない単家族は、それを我慢していたためか、遊びをあまり制限していませんでしたが、今は、それが逆転したので、子供の声は、騒音だという苦情が通りやすくなり、あれもこれもと制限するようになったのではないでしょうか。

 住人が良好な住環境の共空間を維持管理する動機は、もし、荒廃させれば、自分の住戸の資産価値も下落してしまうため、それを阻止しようとすることで、区分所有という運命共同体でこそ、成り立ちますが、公共の賃貸は、予算がないので、維持管理しやすい、無難な共空間になるのが現状です。

 

 さて、質の時代の戸建的な低層集合住宅の動向をみると、菊竹清訓の弟子の内井昭蔵や、大高正人の弟子の藤本昌也の、活躍の先行が顕著です。

 かれらの集合住宅に共通するのは、個別性・独立性・接地性で、特に公営住宅では、戸内に規定が多いので、積層化しても、広いテラス・バルコニーを確保し、戸外を充実させています。

 

○内井昭蔵の桜台コートビレジ(1970年)

 :21~29坪、実質2階建(名目6階建)、40戸

 この集合住宅は、北西下がりの急斜面に立地し、南北に細長い西入の敷地で、南東からの日照が確保しにくい、最悪条件なので、山影で埋没しないよう、ピロティで床版(スラブ)を持ち上げ、外壁の直角の連続と呼応させるように、スラブの裏面も、直角の連続の目地で装飾しています。

 内井は、菊竹清訓の設計事務所員を経験しており、独立直後の実作なので、天空派を受け継いだともいえます(スカイハウスを上下階で千鳥状に増殖させたイメージです)。

 住戸は、南西から日照を確保しようと、住棟が雁行状に配置され、中2階の高さを共用廊下とし、2階建のフラット(1層)住戸へは、半階上がるのと、半階下りるので、アクセスを振り分け、高さが異なることで、共用廊下から東側の個室への視線をずらしています。

 リビングテラスは、上階住戸では、正方形平面で、すべて上空が空いていて、下階住戸では、細長形平面で、半分上空が空いています。

    

 

○内井昭蔵の茨城県営小野崎団地(1985年)

 :16~25坪、3階建、120戸

 茨城県は、建設省から出向した蓑原敬の尽力により、県営住宅の質を向上させようとしたので、建築家を登用するようになり、まず、藤本昌也が、水戸六番池(1976年)・水戸会神原(1977年)・三反田や双葉台(1977年)団地を担当しました。

 そのつぎに、山下和正が、双葉台(1979年)・大角豆(1980年)・上田沢(1983年)団地を、さらに、内井昭蔵が、土浦ひばり(1980年)・上田沢(1981年)や小野崎(1985年)団地を、担当しています。

 藤本の住棟は、後述することとし、山下の住棟は、2戸1の直通階段の3階建で、藤本の住棟と類似している一方、内井の小野崎団地は、それらよりも時期が遅く、規模のやや広い住戸も提供できたので、上階になるほど、規模の小さい住戸とし、階段状に広いコートテラスを確保しています。

 

○内井昭蔵の桜台ビレジ(1969年)

 :15~17坪、5・6階建、124戸

 こちらの集合住宅は、南北に細長い土地が、東西2列に分かれた敷地で、高低差が大きく、南西から日照を確保しようと、テラスを斜めに張り出しています。

 大通り沿いは、1階を店舗とし、テラスを階段状に張り出していますが、階段室ごとに、途切れているので、店舗の軒先としては、連続していません。

 

○内井昭蔵の茨城県営土浦ひばり団地(1980年)

 :15坪(5階)・17坪(2~4階)・21坪(1階)、5階建、210戸

 内井の初期の集合住宅は、2・3階程度の低層(桜台コートビレジ・小野崎団地)と、4・5階程度の中層(桜台ビレジ・土浦ひばり団地)に、大別できます。

 前者では、ゆとりがあるために(フロンテージワイド型)、セットバックでテラスを確保し、後者では、ゆとりがないために(フロンテージセーブ型)、それとともに、突出が狭いか広いかでバルコニーを確保しています。

 ここでは、南面する2居室の、どちらかを出っ張らせたり・引っ込ませたり、2者を操作することで、様々なテラス・バルコニーを作り出しています(上田沢団地も同様の方法)。

 

○内井昭蔵の茨城県営上田沢団地(1981年)

 :15坪(5階)・17坪(3・4階)・18坪(2階)・22坪(1階)、2棟(12・13号棟)5階建、60戸

 

○藤本昌也の茨城県営水戸六番池団地(1976年)

 :17坪、3階建、90戸

 藤本は、大高正人の設計事務所員を経験しており、独立直後の実作なので、大地派を受け継いでいるともいえます(大地性の復権を主張しています)。

 この団地は、南側の住棟をイレギュラーな北入にすることで、すべての住戸が共用庭から入る、コモンアクセス型とし、各戸の北側が半階のスキップフロアで、南面を左右交互にセットバックさせることで、すべての住戸に、上空の空いた4畳半のテラスを、専用庭として確保しています。

 住棟は、2戸1の3層を基本単位とし、路地的な直通階段が6戸をつなげており、この構成は、会神原団地も同様です。

 他方、三反田団地は、南下がりの緩斜面に立地し、北側の幹線道路から敷地へ入るので、特に奥の住棟の3階住戸の動線を短くするため、1・2階住戸を共通としつつ、3階住戸を南入と北入の両方を用意しています。

 そして、比較的手前にある、敷地の北側道路に面する住棟を南入、それ以外を北入にすることで、アクセスが多少分散化され、路地的な直通階段は、幾分希薄化しました。

 

○藤本昌也の水戸会神原団地(1977年)

 :17坪、3階建、192戸

         

 

○藤本昌也の三反田団地(1980年)

 :18坪、3階建、270戸

 

○山下和正の双葉台団地(1979年)

 :18坪(3階)・19坪(1・2階)、3階建、10棟(10~19号棟)、204戸

 山下の住棟は、ほぼ1種類を一時期に供給したようで、住戸は、双葉台から上田沢まで同様です。

 

○山下和正の大角豆団地(1980年)

 :18坪(3階)・19坪(1・2階)、3階建、156戸

 

○山下和正の阿見団地(1981年)

 :18坪(3階)・19坪(1・2階)、3階建、102戸

 

○山下和正の上田沢団地(1983年)

 :18坪(3階)・19坪(1・2階)、3階建、22棟(1~11、14~24号棟)306戸

 

○現代都市建築設計事務所のライブタウン浜田山(1977年)

 :26~29坪、3階建、97戸

 一般的に、核家族用の戸建住宅は、南側にリビング、北側に廊下・階段や水廻りを配置するので、そのアクセス方式(玄関)は、リビング側からの南入か、廊下・階段側からの北入か(東入・西入も)に、二分できます。

 これを集合住宅に当て嵌めると、戸建の南入がリビングアクセス型・バルコニーアクセス型、戸建の北入(東入・西入)がシングルアクセス型といえます。

 これらは、方位を重視したアクセス方式ですが、中庭を重視すると、中庭側から入るのが、コモンアクセス型なので、中庭の反対側から入るのが、反コモンアクセス型(香川県営一宮団地、熊本県営保田窪団地)としておきます。

 ライブタウン浜田山は、民間の分譲で、表通り沿いを店舗併用住宅、その裏側を専用住宅とし、1階がフラット住戸、2~3階がメゾネット(2層)住戸で、フラットでは、玄関が隣り合うことなく、メゾネットでは、専用の直通階段で入る等、完全なシングルアクセスといえます。

 フラットは、庭付で、メゾネットは、上空の空いた8畳のテラスと、屋上テラスまで設置し、専用庭を充実させ、駐車場は、数台ずつ分散する等、個別性・独立性・接地性が徹底され、住棟の中の画一化された住戸でなく、街の中の多様化した家を意識して計画されています。

 各戸の窓は、LDで大きくとり、個室でやや小さく、メリハリがつけられ、塀・柵等で強固に囲い込まず、戸外の専用部・共用部の充実した生垣・植栽で、ゆるやかにプライバシーを確保しています。

 

○住宅公団+山田正司のタウンハウス諏訪(1979年)

 :25~27坪、3・2階建、58戸

 タウンハウス諏訪は、住棟間の共用庭から各戸へ入る、コモンアクセス型が一部で取り入れられ、北入住戸(B・Cタイプ)のダイニングを共用庭側に向け、南入住戸(Aタイプ)のリビングと向かい合わせ、リビング・ダイニングでの生活感と、共用庭での気配を、感じ合わせようとしています。

 東西入住戸(Dタイプ)以外は、フロンテージセーブが、ほぼ1室に切り詰めていますが、すべての住戸に、広い専用庭が確保され、戸外の専用部・共用部が、豊かな緑地を形成しています。

    

    

 

(つづく)