日本住居集合論10~住宅団地と街づくり | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

●住宅団地と街づくり

 

 住宅団地を、住居が集合し、生活関連施設も併設するものと、定義すれば、日本初の継続的な、戸建住宅地は、小林一三の箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)による、沿線開発の分譲住宅地(1910/明治43年~)、集合住宅は、同潤会による、東京・横浜のアパートメント(1926/大正15年~)といえます。

 この戦前の両者は、西田幾多郎的にいえば、「多と一との絶対矛盾的自己同一」を追求し、敷地の内と外を、過度に切断しないように計画していたとみられる一方、戦後の量の時代には、公団が南面平行配置偏重で、周囲と断絶し、質の時代には、その切断・断絶を改正しようとしたようにみえます。

 ここでは、その変遷を取り上げることにします。

 

○箕面有馬電気軌道の戸建住宅地(1910年~)

 小林一三は、大阪梅田~宝塚・箕面間に鉄道を敷設すると、その中間地である都市近郊の、まず池田・室町に、月賦方式の住宅分譲を開始し(1910年)、つぎに箕面・桜井(1911年)、さらに豊中(1913年)と、宅地開発していきました。

 それとともに、郊外の箕面には、動物園(1910年)を、宝塚には、新温泉(1911年)・歌唱隊(1913年、現・歌劇団)を、都心の梅田には、百貨店(1920年、白木屋出張店が最初)を、設置することで、電車の人流を促進させましたが、これは、近年まで、私鉄の大都市圏でのビジネスモデルでした。

 池田・室町住宅は、1区画を100坪とし、20~30坪の和風木造2階建住宅を、1,800~2,500円で販売しましたが、当時急増していたサラリーマン層を対象に、劣悪な住環境の都市での借家よりも、良好な住環境の近郊での持家の生活を提案、頭金300円で3~10年の月賦返済は、日本初の住宅ローンです。

 分譲した207区画中、1期は、82区画で、そのうち77区画を、4タイプ(北入の天・月型、南入の地・日型)の建売住宅とし、その他の区画は、注文住宅にしており、購買組合(購買部)・社交場(倶楽部)や店舗・公園等が併設されました。

 建売住宅は、4タイプに限定し、工費を削減し、安価で販売しつつ、同種が隣接・連続すると、単調・画一化するので、変化をつけながら、まばらに配置しました。

 また、建売住宅は、開発地の中央に配置する一方、注文住宅は、それらの間と、開発地の外縁に、まばらな建売を取り囲むように配置していますが、これにより、中央での統一性と、外縁での多様性を、両立させようとしたと推測できます。

 家族生活が中心なので、いずれの住戸も、冠婚葬祭に最適な続き間とせず、部屋を縁側や廊下でつないで独立させ、便所が2ヶ所あり、井戸も設置しています。

 その次の箕面・桜井住宅は、1戸1,200円均一で販売し、頭金200円で、月賦返済を10年とすれば、月々12円(総額1,440円)、3年返済とすれば、月々32.222円(総額1,160円)になります。

 

○同潤会アパートメント(1926~1934年)

 同潤会は、関東大震災の復興支援のために設立され(1924~1941年)、その一環として、耐震性・耐火性のある、鉄筋コンクリート(RC)造の集合住宅を、東京14ヶ所・横浜2ヶ所で建設し、それらは、都市のサラリーマン層が対象でした。

 ちなみに、同潤会は、最初に長屋形式の木造住宅を供給しましたが、すでに私鉄が郊外で、庭付の戸建住宅地を普及させていたので、それと比較すると、不便な立地しかなく、長屋を低所得層が対象とみられていたため、不評だった一方、RC造のアパートは、好評だったので、それに特化していきました。

 同潤会アパートは、上水道・都市ガス・電気・水洗式便所等を完備し、共同浴場や洗濯場・物干場等を設置、食堂・娯楽室・児童遊園等を併設するものもありました。

 同潤会アパートの特色は、街路を意識した住棟配置で中庭を形成したこと、核家族と単身者を混住させたこと、核家族用でも多様な住戸を提供したこと、共用施設を設置したことで、それらを外観に表出させることで、単調・画一化しないようにしています。

 

○団地とニュータウン

 敗戦直後の住宅不足のため、住宅公団が設立されると(1955年)、関西では、大阪・堺の金岡団地(1956年)や大阪・吹田の千里山団地(1957年)が、関東では、千葉・稲毛団地(1956年)や東京・三鷹の牟礼団地(1956年)が、開発されて以降、都市近郊を中心に、様々な団地が大量供給されていきました。

 一方、ニュータウンとは、都市の人口集中を抑制するため、その近郊で大規模に宅地開発し、インフラの整備で、生活水準を向上させた、集合住宅や戸建住宅を大量供給する、新市街地化をいい、日本では、高度経済成長をきっかけに、大阪の千里ニュータウン(1962年)以降、全国各地に普及しています。

 当初の団地やニュータウンの特色は、集合住宅での板状住棟の南面平行配置で、これは、建設省のガイドライン(1953年、住宅建設要覧/公営住宅の一団地建設のための設計資料)により、冬至4時間日照の確保を基準に、隣棟間隔を確保すべきとされたからです。

 この南面平行配置が、単調・画一化の要因とされ、住宅数が世帯数以上になり(1973年)、住宅政策を量から質へと転換すると、しだいに同潤会アパートのように、街路を意識した囲み型配置で、中庭を形成するようにもなったといわれています。

 しかし、南面平行配置か、囲み型配置かは、団地が登場してしばらくし、ニュータウンが登場した当初から、論争になっていたようです(1964年)。

 千里ニュータウンでは、当初から、大坂府が、囲み型の住棟配置を推進しようと、弱い囲み型が採用され、それに住宅公団が、日照や西日が問題だとし、南面平行配置にすべきと反論しました。

 そこで調査・研究すると、両者に大差がみられなかったため、府営新千里東住宅(1965年)・府営新千里竹見台住宅(1966年)で、強い囲み型が採用されるようになりました。

 特に、府営千里桃山台住宅(1966年)・府営新千里南住宅(1967-68年)は、コの字形の配置を互い違いに連続させ、コの字形の中庭を共用庭、逆コの字形の中庭を駐車場にすることで、歩車分離しています(ラドバーン方式)。

 他方、住宅公団は、あくまでも南面平行配置を基本としましたが、千里竹見台団地(1967年)では、やや囲み型もみられ、新千里東町団地(1970年)で、変形囲み型にし、歩み寄りも散見できます。

 このように、量の時代は、南面平行配置の一辺倒で、囲み型配置が、まったく忘れ去られていたわけではありません。

 ですが、近代社会は、生産・消費が中心になり、成長で世界が開かれ、人間(主観)・個体(→住戸)を重視し、核家族・専業主婦(日中、家にいる)が多く、内包(→家)を優先しがちなので、日照が絶対的な、南面平行配置と結び付きやすかったとみられます。

 その逆で、現代社会は、廃棄・再生が中心になり、成熟で世界が閉じられ、環境(客観)・全体(→住棟)を重視し、単家族・共働き(日中、家にいない)が多く、外延(→街)を優先しがちなので、日照が相対的な、囲み型配置と結び付きやすくなったのではないでしょうか。

 専業主婦家庭と共働き家庭の割合の推移は、1991(平成3)年に、ほぼ同数になり、1996(平成8)年に、共働き家庭が専業主婦家庭を追い抜くと、それ以降、差が拡大していき、現在は、共働き家庭が7割、専業主婦家庭が3割ですが、平均世帯数が2.37人(2021年)なので、単家族が中心といえます。

 余談ですが、平均世帯数が、4人を切ったのが、1961年(3.97人)で、3人を切ったのが、1992年(2.99人)なので、量の時代から質の時代へと、住宅政策を転換した1970年代(1975年前後)の他に、1990年代(1995年前後)も、転換期とみるべきではないでしょうか。

    

    

 

○ベルコリーヌ南大沢(1989年~1993年)

 質の時代の建築家が、点的な建築のスケールを超越した、面的な都市のスケールに関与する際に追求するのは、個体の多様性と全体の統一性の調和で、敷地内で統一を強制しすぎると、敷地外との不統一が強調される、ジレンマがあります。

 ベルコリーヌ南大沢は、多摩ニュータウン15住区の公団の団地で、8ブロックあり、街路に沿って中層住棟が配置され(5本の高層住棟以外)、マスター・アーキテクト方式(建築家は、個体を直接設計しない)で、景観の全体をコントロールし、やわらかく統一した街並みを形成しようとしました。

 景観は、南欧の山岳都市がイメージで、遠景・中景・近景の3段階を設定し、遠景では、隣接する都立大学とデザインを呼応させています(南大沢駅北口の三井アウトレットパークも、自然に呼応)。

 近景では、ブロック・アーキテクトが自由に個性を発揮し、中景では、マスター・アーキテクトが作成したデザイン・ガイドライン(壁面線・屋根勾配・開口部比率等の形や色)をもとに、ブロック・アーキテクトとデザインを相互調整しています。

 マスター・アーキテクトは、内井昭蔵が担当しましたが、ブロック・アーキテクトを、もっと自由にさせたかったのに、多様性よりも、統一性のほうが、勝ちすぎたので、参加した建築家の個性がもっと発揮できる、ゆとりや、デザイン・コードの縛りを崩すことも、時には必要だと、感想を述べています。

 なお、マスター・アーキテクトをはじめ、ブロック・アーキテクトも、デザインのみの契約で、工事監理は、公団に責任があった中で、42棟のうち、20棟が施工不良の欠陥で解体・建て替えられており、公団は、美(外見)を重視するあまり、強(中味)を軽視したといわれても、仕方ありません。

 

○幕張ベイタウン(1995年~)

 幕張ベイタウンは、郊外のベルコリーヌ南大沢よりも、都市に立地し、中央は、おおむねロの字形の囲み型・沿道型の中層住棟(パティオス1~22番街)、外縁は、高層・超高層住棟で、構成されています。

 ただし、業務・商業地の幕張新都心とは、巨大な公園で分断され、高架線路・海岸道路や川・海に、四周を取り囲まれているので、孤島化した住宅地といえます(複合性・開放性・場所性を標榜していますが、住宅地と業務・商業地が連続していないのは、大変残念です)。

 街区の軸線は、南北軸から大きく振れており、東西軸の住棟がつくられにくいのが、好都合で(富士山の方角といわれていますが、そうすれば、南北軸・東西軸に近似するので、ややズレています)、ロの字形の街区は、好条件の南東面が長く、西日でやや悪条件の南西面が短い、長方形平面としています。

 ここで特筆すべきは、マスタープラン作成の際に、設計事務所のシーラカンスが、デザイン・ガイドライン作成の際に、曽根幸一が、具体的な空間・形態のイメージを検討したことで、たとえば、ひとつの街区に複数の設計者が参加し、複雑・面倒な手続で、デザインの密度を向上させようとしています。

 ベルコリーヌ南大沢のような、マスター・アーキテクトは、不在で、個体では、各街区に計画設計調整者が1人いて、複数の設計者と事業者をまとめ、全体では、計画デザイン会議で、デザイン・ガイドラインのもと、相互調整していますが、ガイドラインの逸脱にも、柔軟に対応したようです。

 バブル崩壊(1991~1993年)の影響により、分譲住宅の土地を売却せず、千葉県(企業庁)が、民間の各事業者に、土地転賃借契約をし、住戸の購入者は、事業者に、事業者は、千葉県に、地代を支払う仕組みに切り替えましたが、土地所有者が公共であれば、修繕か建替かを主導しやすくなります。

 中央の沿道型の中層住棟には、上中下の3層構成・外壁と開口の比率(壁面主体で、開放的な外廊下・連続したバルコニーを禁止)・バルコニー突出の制限・平坦な屋根の回避等、詳細なガイドラインがあり、ヨーロッパ旧市街地の沿道型・中庭型をイメージしているようです。

 でも、それらのガイドラインは、アジア・日本の風土・生活に合致しているとはいえないうえ、経験不足の日本でヨーロッパを真似れば、本場よりも、不出来な表現になりがちです。

 それとは対照的に、外縁の高層・超高層の住棟には、それらの詳細な制限がないので、比較的自由に設計され、もし、孤島化せず、周囲の市街地と連続していれば、池田・室町住宅のように、中央での統一性と、外縁での多様性の、両立が効果的だったでしょう。

 

○東雲キャナルコート(2003年)

 東雲キャナルコートは、都市の幕張ベイタウンよりも、都心に立地し、中央は、板状の高層住棟(CОDAN)、外縁は、塔状の超高層住棟やスーパーマーケット・行政施設で、構成されています。

 この、中が低く・外が高い配置は、幕張ベイタウンと類似していますが、隣棟間隔が密集しているため、中央での日照は、とても期待できないので、公団(5街区のみ民間)の賃貸住宅とし、外縁の中でも好条件の東面・南面を、民間の分譲住宅にしたのでしょう。

 中央を貫通する、逆S字形の歩行者専用道路は、外縁のうち、南東隅一帯の超高層住宅から、北西隅のスーパーマーケットへ、行き来するのに、ショートカットできるようにしたとみられ、この沿道のみ、建物の高さが四周よりも抑えられ、ヒューマン・スケールが確保され、店舗等を設置しています。

 CОDANの設計は、コンセプトとガイドラインをもとに、山本理顕がまとめ役となり(1街区の設計者も兼任)、1~6街区の建築家と、ランドスケープ・照明・サインのデザイナーが、デザイン会議で相互調整しました。

 四周の街路・逆S字形の道路と、板状で、ヴォリュームが相当限定されるので、個々の建築家を拘束しない、ゆるいガイドラインだったようで、特徴的なデザイン・コードは、高さを同じにし(すべて14階建・47m以下に制限)、住棟の板状壁面の所々に、横穴(ヴォイド)をあけたことです。

 

 ここまでみると、量の時代に、公団は、南面平行配置に偏重し、その異議申し立てとして、質の時代に、建築家は、団地での南面平行配置の一辺倒に嫌悪し、それとともに、フラットルーフ(陸屋根)や、掃き出しの引き違い窓+連続するバルコニーの、敬遠もあったようです。

 だから、南大沢・幕張のガイドラインは、やや開口部を少なく・壁面を多くしたり、傾斜屋根を多用し、ほとんどの設計者も、それにしたがったのでしょう。

 ところが、たとえば、幕張の4番街(松永安光・坂本一成)では、生活上の通風確保を優先し、2戸1の分棟型や、ルーバー付の外廊下型とし、壁面が主体とはいえません。

 さらに、11番街(スティーブン・ホール)では、複数の設計者のデザインとみえず、古典的なイメージに束縛されたくないためか、3層構成でもありませんが、それらは、議論の末、最終的に容認されています。

 そののちの、東雲では、南大沢・幕張に比べると、敷地が小さく、アル程度の建築家を集めたので、悪くならないはずだとの前提で、ガイドラインが金科玉条にならず、共通理念になるよう、コラボレーション(協働)したようです。

 1(山本理顕)・2(伊東豊雄)街区では、非連続バルコニーで田の字形の外観が、3(隈研吾+RIA)・5(渡辺真理・木下庸子+高橋寛・高橋晶子)街区では、連続バルコニーで一文字形の外観が、支配的で、双方は、両極端ですが、外観にほぼ表裏がないのが、共通します。

 4(山田正司)・6(元倉眞琴+山本圭介+堀啓二)街区では、外観に表裏があり、数種の表情をつけており、双方の中間に位置づけられ、3者3様といえます。

 戸建住宅の街づくりでは、設計に素人の住人・工事業者等、不特定多数が関与するので、ガイドラインの規制・誘導を必要とするのもわかりますが、集合住宅の街づくりでは、設計に玄人の建築家等、特定少数の関与であれば、ガイドラインをタタキ台とし、ヨリよくしていくのが、得策かもしれません。

 

(つづく)