日本住居集合論6~菊竹清訓の初期の住宅と日本の住居の原型 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

■私論

 

 ここからは、住宅について、私論を自由に書き留めていきます。

 

 

●菊竹清訓の初期の住宅と日本の住居の原型

 

 菊竹の初期の住宅の代表作は、集合住宅では、殿ヶ谷第一アパート、戸建住宅では、スカイハウスといえますが、私は、殿ヶ谷第一アパートが、近世の古民家(農家型)の、スカイハウスが、古代の寝殿造の、進化形とみており、いずれも日本の住居の原型で、それは、以下の理由からです。

 

○菊竹清訓のブリヂストンタイヤ横浜工場・殿ヶ谷第一アパート(1956年)

 :16坪、7階建、130戸

 前近代日本で最小限に定型化された集合住宅は、江戸期の9尺2間(間口2.7m×奥行3.6mの3坪)の裏長屋で、その1住戸は、手前を土間の出入口+台所、その奥を畳敷の4畳半とし、共同の井戸・便所は、裏長屋の門口の木戸の内側にあり、風呂は、木戸の外側にある銭湯でした。

 明治期・大正期に、集合住宅が近代化しても、この単身者用住戸の形式は、おおむね変化なく、たとえば、東京市営古石場住宅(1923年)1号館の単身者用住戸は、手前が1畳の土間の出入口+台所、その奥が押入付の6畳の畳敷でした。

 この手間と奥の形式は、核家族用住戸も同様で、戦前から戦後にかけての集合住宅の変遷は、住戸内に、もともと台所があり、便所・風呂等を徐々に取り込んでいった歴史といえます。

 ちなみに、東京の、近代上水道は、1898年の淀橋浄水場から、近代下水道は、1922年の三河島処理場からで、コンクリート造による不燃化の集合住宅内に、台所や便所を設置するということは、井戸や汲み取りからの脱却を意味します。

 しかし、集合住宅の住戸内に、便所・風呂等を取り込んでも、裏長屋のように、玄関の手前にキッチン(玄関と一体か、廊下で独立か)・DK+水廻りを、奥に居室群を、配置したのが大半で、これは、同潤会、都営高輪、51C型、55型、晴海高層、基町・長寿園高層、川崎河原町の集合住宅も、同様です。

 つまり、日本の集合住宅の初期は、裏長屋形式の拡張にすぎず、それとは対照的に、殿ヶ谷第一アパートは、玄関(サニールーム)の手前に居室群、奥に勝手口付のキッチン+水廻りと、真逆の配置とし、これは、東か西半分が座敷・板の間等で、他の半分が土間の、南入の農家型古民家の形式と同様です。

 この形式にしたのは、菊竹が、庶民出身でなく、地主出身だったことが、影響しているのではないでしょうか(現在も保存されている伝統的な古民家は、当時の地主層の住宅が多数で、その縮小版が、殿ヶ谷第一アパートの住戸といえます)。

 ブリヂストンが、独立直後の菊竹に、仕事を依頼したのは、久留米の大地主だった菊竹の祖父が、地元のブリヂストンの創業者に、事業資金を提供していたのが、きっかけです。

 

○菊竹清訓のスカイハウス(自邸、1958年):29.6坪

 菊竹は、古い伝統の中にある、形態・秩序や技術性・地域性等の精神を発見し、そのうえで新しく創造することが必要で、現代建築の形態は、技術をもとに、「空間」と「生活装置」の2者の機能を明確に区分・調和させることで、秩序を追求すべきと主張しています。

 よって、スカイハウスは、まず、家族にとって中心で主要な、かけがえのない「空間」を、不変・不動な構造として、象徴的に表現し、つぎに、取り替え可能な、キッチン・水廻り等の「生活装置」(ムーブネット)を、変化・変動する道具や設備として、「空間」を邪魔せず、別の表現にして付着させました。

 そして、この住宅が独特なのは、動物の親が、子を生んで育てるために、巣づくりするように、近現代の核家族も、生まれた子供を育てるために、マイホームを取得するのが大半ですが、菊竹は、夫婦が家族の中心で、子供は、成長すれば、独立するので、子供室も、ムーブネットに位置づけたことです。

 この2者の区分は、ルイス・カーンのサーブド・スペース(奉仕される空間)とサーバント・スペース(奉仕する空間)の分離を想起しますが、寝殿造での、寝殿・対屋(たいのや)と、付属施設の便所(樋殿/ひどの)・風呂(湯殿)・給仕の台所(台盤所)等の、分棟関係が接近・接続したともいえます。

 ただし、寝殿造は、高床・横長の平面で、母屋が切妻、庇(ひさし)が下屋なので、入母屋の屋根となり、母屋(もや)の一部が塗籠(ぬりごめ)です。

 一方、スカイハウスは、超高床(ピロティ)・純粋な正方形の平面に、庇が四周均等で、寄棟の屋根・天井とし、四辺の中間に配置した4本の壁柱が、四隅を解放しています。

 寝殿造では、眺望が池のある南庭への1方のみでしたが、この住宅では、階段と水廻りを北隅に集め、キッチンを南東側の壁柱に近づけ、朝食での朝日を期待、子供室等を床下に設置し、東・南・西隅の3方の眺望を確保するのが、当初の計画だったとみられます(キッチンと水廻りは、そののち西隅に移動)。

 地主だった菊竹の実家は、4間四方の平面で(これは、座敷だけで、その脇に、広くて天井の抜けた土間もあったでしょう)、夏には、北側の部屋で、冬には、南側の部屋で、生活して、寒暑を住戸内で対処・住み分け、親戚や近所の出入も頻繁だったようで、この住宅では、その4間角を踏襲しています。

 こうして、機能が限定した空間で、不純性・雑然性を受け入れることで、機能が無限定の空間で、純粋性・整然性を守り保とうとしたようにみえます。

 

 

●菊竹2作の前と後

 

 菊竹の2作は、寝殿造的な系譜でみると、スカイハウスが、丹下健三の自邸の後継で、古民家的な系譜でみると、殿ヶ谷第一アパートが、バルコニーアクセス型の先駆といえ、それらは、次のようです。

 

◎スカイハウスの前

 

○丹下健三の自邸(1953年):32.8坪

 寝殿造は、外に開放的な母屋(人が居る場)と、内に閉鎖的な塗籠(人や物を寝かす場)の、両者で構成され、それらの周囲に開放的な庇等が取り付き、それらを開放させるために、寝殿造の四周は、閉鎖的な築地(ついじ)塀で取り囲みました。

 他方、丹下の自邸は、2階平面の母屋部分が南北に分割され、北側中央が閉鎖的な塗籠部分に相当し、それ以外の東・南・西面の3方を開放的にすることで、隠したいキッチン・水廻り・収納と、見せたいLDK等を、対比させています。

 庇(南側が屋外、北側が屋内)は、南北の2方なので、切妻屋根になりますが、キッチン・水廻りが、外気に面さないので、換気が必要で、完全な対称形にしたいためか、母屋部分全体に、煙出し屋根を付けています。

 丹下の自邸も、スカイハウスも、ピロティが共通で、ピロティは、ル・コルビュジェが提唱した、近代建築の5原則(1926年)のひとつで、地面を建築から解放させるのが理念ですが、全面開放と、一部開放に、大別でき、コルビュジェの住宅でも、両者を使い分けています。

 たとえば、集合住宅のユニテ・ダビタシオン・マルセイユ(1952年)は、建主≠住人なので、建築家の意志を表明しやすく、全面開放ですが、戸建住宅のサヴォア邸(1931年)は、建主=住人なので、現実的な一部開放で、1階平面の3方開放により、視覚的に解放し、実際は、駐車場に利用されています。

 スカイハウスのピロティは、やがて個室群が入り込み、徐々に開放がなくなった一方、丹下の自邸のピロティは、手狭になったので、増築案も検討したようですが(1964年頃)、実現させず、マンションに引っ越し、そののち取り壊されたので(1974年頃)、地面が解放されたまま、終わりを迎えました。

 

◎殿ヶ谷第一アパートの後:バルコニーアクセス型

 

 大半が裏長屋形式の拡張にすぎなかった、日本の集合住宅の初期は、北側を共用廊下・階段(片廊下型・階段室型)とし、そののち、住戸の規模が拡大すると、LDKは、日照を確保するため、南側に配置するようになったので、個室群は、北側にせざるをえません。

 個室群は、法規上、共用廊下に面する窓から、採光・通風を確保するしかないので、これでは、最もプライバシーを確保したい寝室が、落ち着いた部屋にはなりませんが、この片廊下型は、エレベーターを設置し、高層化・バリアフリー化する中で、全国各地に蔓延している形式になりました。

 そのような中、殿ヶ谷第一アパートは、希有な例で、その形式に類似したのが、バルコニーアクセス型といえます。

 バルコニーアクセス型は、南側の階段室から、広いバルコニーを通って、住戸へ入る形式で、南側の深いバルコニーで、夏の日射を遮断したい、沖縄・鹿児島(奄美大島)の南方の県営住宅の一部に採用され、戸外でも楽しく過ごせ、住人と触れ合いやすくなるとともに、落ち着ける奥の部屋ができます。

 

○市浦都市開発建築コンサルタンツの鹿児島県営高丘団地(1981年)

 :16坪、5階建、111戸

 

○市浦都市開発建築コンサルタンツの高崎市営旭町団地(1989年)

 :19坪、2棟、3か5階建、25戸

 

○沖縄県営団地・標準設計84型:19坪、5階建(1984年)

 

○沖縄県営団地・標準設計91型:20坪、4階建(1991年)

 

(つづく)