伊藤仁斎「語孟字義」下・読解14~附1(続) | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

(4)

・又曰、正心二字、又見於孟子。然尚有当議之者。孟子曰、我亦欲正人心、息邪説、距詖行、放淫辞、以承三聖者。所謂正人心者、謂禁民之非心、而俾之無邪説暴行之甚。与大学之意自異矣。若孟子之意、正心二字、当施之於民、而不可施之於己。故平生誨人、或曰存心、或曰養心、而未嘗言正心。其意可見矣已。存心云者、欲其不亡也。養心云者、欲其長也。而大学以為人之制心、当若造器物、其形方正端直、一定不可変焉。此豈識心者乎哉。

 

[またいわく、正心(せいしん)の二字、また孟子に見えたり。しかれども、なおまさにこれを議すべき者あり。孟子のいわく、「我また人心を正しゅうし、邪説を息(や)め、詖行(ひこう)を距(ふせ)ぎ、淫辞を放ち、もって三聖者に承(う)けんことを欲す」。いわゆる「人心を正しゅうす」という者は、民の非心(ひしん)を禁じて、これをして邪説・暴行の甚(はなは)だしきなからしむるをいう。大学の意と自ずから異なり。孟子の意のごとき、正心の二字、まさにこれを民に施すべくして、これを己(おのれ)に施すべからず。ゆえに平生(へいぜい)人に誨(おし)うる、あるいは心を存すといい、あるいは心を養うといい、いまだかつて心を正すといわず。その意、見るべきのみ。「心を存す」という者は、その亡(ほろ)びざらんことを欲するなり。「心を養う」という者は、その長(ちょう)ぜんことを欲するなり。しかして大学おもえらく、人の心を制する、まさに器物を造るがごとく、その形、方正・端直、一定して変ずべからざるべしと。これあに心を識(し)る者ならんや。]

 

《また(『大学』で)いう、正心(心を正す、伝7)の2字は、また『孟子』にも見える。しかし、なお当然これを議論すべきものがある。『孟子』によると、「私もまた人心を正しくし、邪説を止息し、かたよった行いを防ぎ、みだらな言葉を追放し、それで3聖人(禹/う・周公旦・孔子)に継承しようとする」(6-60)。いわゆる「人心を正しくする」というのは、民の悪心を禁止して、これによって邪説・暴行をひどくさせないのいう。『大学』の意味と自ずから異なる。『孟子』の意味のような、正心の2字は当然、これを民に施すべきで、これを自己に施すべきでない。よって普段、人に教え諭すのは、「心を存す」といったり、「心を養う」といったりして、今まで一度も「心を正す」といわなかった。その意味を、見ることができる。「心を存す」というのは、それで滅亡したくないのだ。「心を養う」というのは、それで成長したいのだ。そして、『大学』は、思うに、まさに器具を造作するように、その形は、四方が正確・端部が直角で、一定して変化することができないよう、人の心を制する。これがどうして心を知るものになるのか。》

 

※心

 ・『大学』=自己に施す:一定・不変の正心・制心

 ・『孟子』=人民に施す(悪心禁止、邪説・暴行阻止):存心→不亡(滅亡せず)、養心→長(成長)

 

 

(5)

・大学曰、大学之道、在明明徳。按明徳之名、屡見於三代之書。然三代之書、本記聖人之所行、或以此美聖人之徳、或曰明徳、或曰峻徳、或曰昭徳。其意一也。故雖数数見於典謨誓誥之間、然非学者之所能当。故至於孔孟。毎曰仁、曰義、曰礼、而未嘗有一言及於明徳者矣。作大学者、不知其意在。見詩書多有明徳之言、而漫述之耳。豈非不識孔孟之意乎。

 

[大学にいわく、「大学の道は、明徳を明らかにするに在り」。按(あん)ずるに、明徳の名、しばしば三代の書に見えたり。しかれども三代の書、もと聖人の行う所を記し、あるいはこれをもって聖人の徳を美(び)して、あるいは明徳といい、あるいは峻徳といい、あるいは昭徳という。その意、一(いつ)なり。ゆえに数数(さくさく)典(てん)・謨(ぼ)・誓(せい)・誥(こう)の間に見るといえども、しかれども学者のよく当たる所にあらず。ゆえに孔・孟に至っては、毎(つね)に仁といい、義といい、礼といいて、いまだかつて一言(いちごん)も明徳に及ぶ者あらず。大学を作る者、その意の在ることを知らず。詩・書、多く明徳の言(げん)あるを見て、漫(みだ)りにこれを述ぶるのみ。あに孔・孟の意を識(し)らざるにあらずや。]

 

《『大学』によると、「大学の道は、公明正大な徳(明徳)を明らかにすることにある」(経)。考えるに、明徳の名称は、しばしば3代(夏・商=殷・周)の『書経』に見える。しかし、3代の『書経』は元々、聖人が行ったことを記し、これによって聖人の徳を美化したり、明徳といったり、峻徳といったり、昭徳といったりする。その意味は、ひとつだ。よって、しばしば典範・計謀・誓約・命令(いずれも『書経』の篇名に使用)の間に見えるといっても、しかし、学ぶ者が充分に該当することではない。よって、孔子・孟子に至っては、常に仁といい、義といい、礼といって、今まで一度も一言も明徳に及ぶものがなかった。『大学』の作者は、その意思があることを知らなかった。『詩経』・『書経』に、多くの明徳の言葉があるのを見て、みだりにこれを述べたのだ。どうして孔子・孟子の意思を知らないことはないのか(いや、知らない)。》

 

※徳

 ・『大学』=抽象的な徳:明徳(公明正大な徳)・峻徳・昭徳、聖人の徳を美化(『詩経』『書経』の影響)

 ・孔子・孟子=具体的な徳:仁・義・礼

 

 

(6)

・又曰、為人君、止於仁。夫孔孟之学、以仁為宗、而凡学者莫不従事於此。今大学独属之於人君。而無為学者道之者。是亦与孔孟之旨異矣。

 

 [またいわく、「人の君となるは、仁に止(とど)まる」。それ孔・孟の学は、仁をもって宗(そう)として、およそ学者、事にここに従わずということなし。今、大学、独りこれを人君に属して、学者のためにこれを道(い)う者なし。これまた孔・孟の旨(むね)と異なり。]

 

《また(『大学』で)いう、「人の君主となれば、仁に留まる」(伝3)。それは、孔子・孟子の学問が、仁を教義として、そもそも学ぶ者は、事あるごとに、これ(仁)にしたがわないということがない。現在、『大学』は、唯一これ(仁)を人の君主に属して、学ぶ者のためにこれ(仁)をいう者はいない。これもまた、孔子・孟子の主旨と異なる。》

 

※仁

 ・『大学』:仁=君・人君(君主)に止(留)まる・独属(唯一属する、学ぶ者に仁なし)

 ・孔子・孟子:仁=宗(教義)

 

 

(7)

・又曰、欲正其心者、先誠其意。夫意一也。論語説毋。大学説誠。一正一反、必不可無是非。而中庸曰誠身、而不曰誠意、則誠字当施之於身、而不可施之於意明矣。

 

[またいわく、「その心を正しゅうせんと欲する者は、まずぞの意を誠にす」。それ意は一(いつ)なり。論語に「なかれ」と説く。大学「誠にす」と説く。一正一反(いっせいいっぱん)、必ず是非なくんばあるべからず。しかして中庸に「身を誠にす」というて、「意を誠にす」といわざるときは、すなわち誠の字、まさにこれを身に施すべくして、これを意に施すべからざること明らかなり。]

 

《また(『大学』で)いう、「その(自身の)心を正しくしようとする者は、まずその意思(意)を本物(誠)にする」(経)。その意味はひとつだ。『論語』では、「(意する)なかれ(必なかれ、固なかれ、我なかれ、この4つを絶ち切る)」(9-209)と説く。『大学』では、「(意を)誠にする」と説く。一方は正しく、他方は誤りで、必ず是非がないべきでない(是非がないわけにはいかない)。そして、『中庸』に「自身(身)を本物(誠)にする」といって、「意を誠にする」といわないならば、つまり誠の字は当然、これ(誠)を自身に施すべきで、これ(誠)を意思に施すべきでないことが明らかだ。》

 

※意(意思)

 ・『大学』:正心=誠意(意を誠にする)→誠(本物、真実)を自分の意に施す ~ 自己中心的

 ・『中庸』:誠身(自身を誠にする)→誠を自身に施す

 ・『論語』:毋意(意するなかれ)→自分の意を絶ち切る

 

 

(8)

・又曰、楚書曰、楚国無以為宝。夫楚南蛮鴃舌之俗、中国之所不歯、而陳良楚之産、乃不学於其国、而北学周公仲尼之道於中国。今大学不引文武周公之訓、而遠用楚人之言。最不可解焉。

 

[またいわく、「楚(そ)書にいわく、「楚国は、もって宝とすることなし」」。それ楚は南蛮・鴃舌(げきぜつ)の俗、中国の歯(し)せざる所、しかして陳良は楚の産、すなわちその国に学びずして、北のかた周公・仲尼(ちゅじ)の道を中国に学ぶ。今、大学、文・武・周公の訓を引かずして、遠く楚人(ひと)の言(げん)を用ゆ。最も解すべからず。]

 

《また(『大学』で)いう、「楚書によると、「楚の国は、それで宝とするものがない(善だけが宝だ)」」(伝10)。そもそも楚は、南方の野蛮(夷狄/いてき)・奇怪な言葉の風俗で、中央の国(中華)が仲間にしなかったところで、そして、陳良(当時最高の儒学者、豪傑の士『孟子』5-50)は楚の出身だが、つまりその国で学ばないで、北方の周公旦・孔子の道を中央の国で学んだ。現在、『大学』は、(周の)文王・武王・周公旦の教訓を引用せずに、遠くの楚の人の言葉を用いる。最も不可解だ。》

 

※引用先

 ・『大学』=孫引き:楚(南方・夷狄)の言葉を引用 ~ 最も不可解(仁斎が批判)

 ・孔子=子引き:周(北方・中華)の教訓を引用

 

 

(9)

・又曰、生財有大道。夫財者、生民之所資以生者、固不可不為之立禁設厲、量入為出、預講度支之方。然均無貧、和無寡、安無傾。君子詎求生財之道乎。況礼義信三者、猶不謂之大道。其於生財有大道、何哉。非孔氏之徒之言可知矣。

 

[またいわく、「財を生ずるに大道あり」。それ財は、生民(せいみん)の資をもって生ずる所の者、固(まこと)にこれがために禁(きん)を立て厲(れい)を設け、入るを量(はか)って出(い)だすことをなし、預(あらかじ)め度支(たくし)の方(ほう)を講ぜずんばあるべらず。しかれども均しきときは貧しきことなく、和らぐときは寡(すく)なきことなく、安きときは傾くことなし。君子、詎(なん)ぞ財を生ずるの道を求めんや。いわんや礼・義・信の三つの者は、なおこれを大道といわず。その財を生ずるにおいて大道あるは、何ぞや。孔氏の徒(と)の言(げん)にあらざること知んぬべし。]

 

《また(『大学』で)いう、「財を生み出すのに、大道がある」(伝10)。そもそも財は、人民の原資(資本)によって生み出すもので、本当にこれ(人民の財)のために、(君子が、)禁制(厲禁)を設立し、収入を量って支出を定め、あらかじめ財政の方法を講じないべきではない(講じないわけにはいかない)。しかし、等しければ、貧しいことはなく、和やかならば、少ないことはなく、安らかならば、傾くことはない(『論語』16-421)。君子は、どうして財を生み出す道を追求するのか。ましてや、礼・義・信の3つは、なおもこれを大道といわない。その財を生み出すことにおいて、大道があるのは、どうしてか。孔子門徒の言葉でないのを知るべきだ。》

 

※大道

 ・『大学』:君子の大道=財を生み出す ~ 孔子門徒の言葉でない(仁斎が批判)

  → 財は生民(人民)の資(原資)で生み出すもの(君子が追求するものでない)

 ・孔子:君子の大道=徳(礼・義・信)、均(均等)・和(調和)・安(安定)で国・家を保有

 

 

(10)

・又曰、此謂国不以利為利、以義為利也。是亦以利心言之者也。孟子曰、王何必曰利。亦有仁義而已矣。夫君子之行道也、惟義是尚。而不知利之為利也。苟有以義為利之心焉、則其卒也、莫不捨義而取利也。蓋戦国之間、陥溺之久、人皆悦利。而自王公大人、以至於庶人、惟利之欲聞。故雖被服儒者、毎憂其術之不售、必以利啗人。所謂生財有大道、又曰、以義為利、蓋用此術也。大学非孔氏之遺書、彰彰然明矣。

 

[またいわく、「これを国は利をもって利とせず、義をもって利とすというなり」。これまた利心をもってこれをいう者なり。孟子のいわく、「王、何ぞ必ずしも利といわん。また仁義あるのみ」。それ君子の道を行うや、ただ義これ尚(とうと)ぶ。しかして利の利たることを知らざるなり。いやしくも義をもって利とするの心あるときは、すなわちその卒(おわ)りや、義を捨てて利を取らざることなし。けだし戦国の間、陥溺(かんでき)の久しき、人皆、利を悦(よろこ)ぶ。しかして王公・大人より、もって庶人(しょじん)に至るまで、ただ利のみこれ聞かんことを欲す。ゆえに被服の儒者といえども、毎(つね)にその術の售(う)れざるを憂(うれ)い、必ず利をもって人に啗(くら)わしむ。いわゆる「財を生ずるに大道あり」、またいわく、「義をもって利とす」、けだしこの術を用うるなり。大学、孔氏の遺書にあらざること、彰彰(しょうしょう)然として明らかなり。]

 

《また(『大学』で)いう、「これ(財を生み出すこと)を、国は利によって利とせず、義によって利とするというのだ」(伝10)。これはまた、利の心によって、これを(義を利とせよと)いうものだ。『孟子』によると、「王はどうして必ず利というのか。やはり仁義があるだけだ」(1-1)。そもそも君子の道を行うには、ただ義を貴ぶだけだ。そして、利の利たることを知らないのだ。もしも、義を利とする心があるならば、つまりその終りには、義を捨てて利を取らないことはない(利を取る)。思うに、戦国時代の間、没落が長く、人は皆、利を喜んだ。そして、王族・公族・大人(立派な人)から、それで庶民に至るまで、ただ利だけ、これを聞こうとした(聞食/きこしおす=治国)。よって、学問に没頭した儒学者といっても、常にその(義を貴ぶだけの)手段が行われないのを悩み、必ず利を人に食べさせた(聞食)。いわゆる「財を生み出すのに、大道がある」、またいう、「義を利とする」は、思うに、この(義を捨てて利を取る)手段を用いるのだ。『大学』は、孔子の遺書でないことが、全く明らかだ。》

 

※君子の道

 ・『大学』=利心:義を利(利益)とする→義を捨てて利を取る ~ 孔子の遺書でない(仁斎が批判)

 ・『孟子』=仁義:義を貴ぶだけ(利を知らない)

 

 

(結)

・大凡愚所著十証者、雖不悉繋乎血脈之合否、然其一二命意措詞之差、本皆因不識血脈然、則今亦不得不為之弁。世衰道微、邪説暴行又作。孟子既言之。今観柱下書遠遊篇、邪説之行、固已尚矣。況乎戦国之際、去聖既遠、経残言闕。世之学士大夫、自以為至宝、而不知実為邪説之所誤也。今不全為左衽之俗者、幸孔孟之遺教尚存故也。漢儒択之不精、識之不徹、貪多務得、不知其害道之甚至于此。

 

[おおよそ愚(ぐ)が著(あら)わす所の十証の者は、ことごとく血脈の合否に繋(かか)わらずといえども、しかれどもその一・二、意を命じ詞を措(お)くの差、もと皆、血脈を識(し)らざるに因(よ)って、しかるときは、すなわち今また、これがために弁ぜざることを得ず。世衰え道微(び)にして、邪説・暴行また作(おこ)る。孟子、すでにこれをいう。今、柱下(ちゅうか)の書・遠遊の篇を観るに、邪説の行わるること、固(まこと)に已(すで)に尚(ひさ)し。いわんや戦国の際、聖を去ることすでに遠く、経(けい)残(そこな)われ言(げん)闕(か)く。世の学士・大夫(だいふ)、自らもって至宝として、実に邪説のために、これ誤らるる所を知らざるなり。今、全く左衽(さじん)の俗とならざる者は、幸いに孔・孟の遺教、なお存するがゆえなり。漢儒、これを択(えら)んで精(くわ)しからず、これを識って徹せず、多きを貪(むさぼ)り得るを務めて、その道を害するの甚(はなは)だしき、ここに至ることを知らず。]

 

《おおむね愚者(の私)が著作したことの10の証明は、すべて(孔子・孟子の)血脈の合否にかかわらないといっても、しかし、その1・2の意味するところ・言葉づかいの食い違いが、元々すべて血脈を知らないことによって、そうならば、つまり現在また、これ(食い違い)のために弁明しないことができない(弁明しないではいられない)。世の中が衰退、道が衰微し、邪説・暴行がまた起こる(6-60)。『孟子』は、すでにこれをいっていた。現在、『老子』・『楚辞』の遠遊篇を見ると、邪説が行われたことは、本当にすでに長い。ましてや、戦国時代の際には、聖を離れ去ることが、すでに遠く、経典は損われ、言葉は欠いた。世の中の知識人・大夫(中級役人)は、自らそれで至宝として、実に邪説のために、これ(孔子・孟子の教え)を誤ったことを知らないのだ。現在、まったく着物の左前の(野蛮な異民族の)風俗とならないのは、幸いにも孔子・孟子の残した教えが、なお存在するからだ。漢代の儒学者は、これ(孔子・孟子の教え)を選んだのに詳しくなく、これ(孔子・孟子の教え)を知っていても徹底せず、多くを貪欲に得ようと務めて、その(孔子・孟子の)道を害したのはひどく、ここ(誤り)に至ったことを知らない。》

 

※『大学』:孔子・孟子の血脈を知らずに、孔子・孟子の教えを誤解した邪説

  → 孔孟の道を害した(仁斎が批判) → 仁斎の10証(証明)

 

・大学本在礼記、則為一篇書。而不詳出於誰人之手。至於朱考亭氏、始分為経一章伝十章。経以為夫子之言、伝以為曽子之意、而門人記之。蓋出於其意之所好尚、而非有所考証而言。後学不知自弁、直以為孔子之言、而曽子伝之。可謂害道之尤者也。

 

 [大学、もと礼記(らいき)に在るときは、すなわち一篇の書たり。しかして誰人(たれびと)の手に出(い)ずることを詳(つまび)らかにせず。朱考亭氏(しゅこうていし)に至って、始めて分って経一章・伝十章とす。経は、もって夫子(ふうし)の言(げん)とし、伝は、もって曽子(そうし)の意にして、門人これを記すとす。けだしその意の好尚(こうしょう)する所に出でて、考証する所あっていうにあらず。後学、自ら弁ずることを知らず、直(ただ)ちにおもえらく、孔子の言にして、曽子これを伝すと。道を害するの尤(はなは)だしき者というべきなり。]

 

《『大学』は元々、『礼記』にある時は、つまり書物の1篇だった。そして、誰の手で取り出したのかは、不詳だ。朱子に至って、はじめて分けて経1章・伝10章とした。経は、それで(孔子)先生の言葉とし、伝は、それで曽子(孔子の弟子)の意思で、門人がこれ(曽子の意思)を記したとする。思うに、その(朱子の)意思を嗜好したものから取り出し、証拠で考察したものであるとはいえない。後世の学者は、自ら弁明(批判)することを知らずに、(経は)孔子の言葉で、(伝は)曽子がこれ(孔子の言葉)を伝承したと、素直に思った。道を害したので、ひどいものというべきなのだ。》

 

※朱子『大学章句』:『大学』の注釈書、朱子の意(意思)の好尚(嗜好)で考証(証拠での考察)なし

   → 孔孟の道を害した(仁斎が批判)

 ・経=1章:孔子の言葉

 ・伝=10章:曽子(孔子の弟子)意を門人が記す

 

・愚之至無似、何敢望考亭。徳行之勤也、学問之博也、文章之富也、其相懸絶、不翅万分之一。其不可跋及、固不待言之矣。然窃自思、於識孔孟之血脈、則不敢自譲焉。於是窃不自揣、漫述孔孟之血脈、以附之児曹。実恐孔孟之旨、不大明于後世也。孟子曰、予豈好弁哉。予不得已也。憂道之君子、其諒諸。

 

 [愚の至って無似(ぶじ)なる、何ぞあえて考亭を望まん。徳行の勤たる、学問の博(ひろ)き、文章の富める、その相懸絶(けんぜつ)すること、翅(ただ)に万分の一のみならず。その跋(つまだ)て及ぶべからざること、固(まこと)にこれをいうことを待たず。しかれども窃(ひそ)かに自ら思う、孔・孟の血脈を識(し)るにおいては、すなわちあえて自ら譲らず。ここにおいて、窃かに自ら揣(はか)らず、漫(みだ)りに孔・孟の血脈を述べて、もってこれを児曹(じそう)に附(ふ)す。実に恐る、孔・孟の旨(むね)、大いに後世に明らかならざらんことを。孟子のいわく、「予(よ)あに弁を好まんや。予已(や)むを得ざればなり」。道を憂うるの君子、それこれを諒(まこと)とせよ。]

 

《愚者(の私)が至って不肖なのに、どうしてあえて朱子を信望するのか。徳行の務め、学問の広さ、文章の豊かさ、それ(私と朱子)が相互に懸け離れていることは、ただ万分の1だけではない。その(私の)ツマ先立ちも及ばないことは、本当にこれをいうまでもない。しかし、ひそかに自ら思う、孔子・孟子の血脈を知ることにおいては、つまりあえて自ら譲らない。ここにおいて、ひそかに自ら推しはからず、みだりに孔子・孟子の血脈を述べて、それでこれ(賛否)を後世の人々に付託する。孔子・孟子の主旨が、大いに後世に明らかにならないことを、実に恐れる。『孟子』によると、「私はどうして弁明を好むのか。私はやむをえない(が弁明する)のだ」(6-60)。道に悩む君子は、それだからこれ(孔子・孟子の主旨)を真実とせよ。》

 

※弁(弁明)の賛否を児曹(後世の人々)に附す(付託する)

 ・朱子学:孔子・孟子の血脈を知らない

 ・仁斎学:孔子・孟子の旨(主旨)の諒(真実)を明らかにせよ

 

 

(つづく)