伊藤仁斎「語孟字義」下・読解15~附2 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

●附2:尭(ぎょう)・舜(しゅん)すでに没して邪説・暴行また作(おこ)るを論ず(論尭舜既没邪説暴行又作)

 

・予頃私策問諸友曰、世所伝諸子百家異端邪説、皆聖遠経残之所致。実戦国以来有之、上世無有。然孟子嘗曰、尭舜既没、聖人之道衰、邪説暴行又作。而於文武周公之後、又曰、世衰道微、邪説暴行有作。臣弑其君者有之。子弑其父者有之。孔子懼作春秋。窃思、孟子所謂邪説者、必有所指。若楊墨之徒、是也。而以又作二字観之、則邪説之害、非啻戦国以来有之、実孔子以前既有之。非啻孔子以前既有之、亦似乎尭舜以前実有之。吾不知其如何説。豈許行所為神農之言、漢世所尚黄老之術者、本非戦国之間所偽撰焉、而上世実有之。抑上世所謂邪説者、非後世諸子百家之類、而別有所可斥名之者歟云云。而及閲諸友所対、多揣量模写、依傍名理、而未有明拠事実、足以取信於後世者。故又自代諸友、為之擬対焉。究論尭舜以前、実有邪説暴行、且併及于孔子之聖、於是為最大、而生民以来未嘗有之実。

 

[予(よ)頃(このご)ろ私(ひそ)かに諸友に策問していわく、「世に伝うる所、諸子百家、異端邪説、皆、聖遠く経残(そこな)わるの致す所、実に戦国以来これあり。上世(じょうせい)あることなし。しかれども孟子かつていわく、「尭・舜すでに没して、聖人の道衰(おとろ)う。邪説・暴行また作(おこ)る」。しかして文・武・周公の後において、またいわく、「世衰え道微(び)にして、邪説・暴行有(また)作る。臣その君を弑(しい)する者これあり。子その父を弑する者これあり。孔子、懼(おそ)れて春秋を作る」。窃(ひそ)かに思う、孟子のいわゆる「邪説」といふ者は、必ず指す所あらん。楊(よう)・墨の徒(と)のごとき、これなり。しかして「又作」二字をもってこれを観るときは、すなわち邪説の害、啻(ただ)に戦国以来これあるのみにあらず、実に孔子以前すでにこれあり。啻に孔子以前すでにこれあるのみにあらず、また尭・舜以前、実にこれあるに似たり。吾(われ)そのいかなる説ということを知らず。あに許行(きょこう)なす所、神農(しんおう)の言(げん)、漢世(かんせい)尚(とうと)ぶ所、黄(こう)・老の術という者、もと戦国の間、偽撰する所にあらずして、上世より実にこれあるか。そもそも上世のいわゆる「邪説」という者は、後世諸子百家の類(たぐい)にあらずして、別にこれを斥(さ)し名づくべき所の者あるか」とうんぬん。しかして諸友の対(こた)うる所を閲(み)るに及んで、多くは揣量(しりょう)・模写、名理に依傍して、いまだ明らかに事実に拠(よ)り、もって信を後世に取るに足る者あらず。ゆえにまた自ら諸友に代って、これがために擬対す。尭・舜以前、実に邪説・暴行あることを究(きわ)め論じ、かつ併せて孔子の聖、ここにおいて最も大なりとなして、生民(せいみん)以来、いまだかつてあらざるの実に及ぶ。]

 

《私は、近頃ひそかに、多くの友人に質問していう、「世の中に伝わる諸子百家(中国・春秋戦国時代の学者・学派)の異端・邪説は、すべて聖が遠く経(大筋)が損なうのに至ること、実に中国・戦国時代以来、これがある。大昔にあることではない。しかし、かつて『孟子』によると、「尭・舜(古代中国の伝説上の帝王)がすでに死没して、聖人の道が衰退した。邪説・暴行がまた起こった」(6-60)。そして、(周の)文王・武王・周公旦以降において、また(『孟子』で)いう、「世の中が衰退し、道が衰微して、邪説・暴行がまた起こった。臣下がその主君を殺す者、これがあり、息子がその父を殺す者、これがあった。孔子は、恐れて『春秋』を著作した」(6-60)。ひそかに思う、孔子のいわゆる「邪説」といものは、必ず指すものがあるだろう。楊子(中国・戦国時代の思想家)・墨子(中国・戦国時代の思想家、墨家の開祖)の門徒のようなものは、これだ。そして、「又作(また起こる)」の2字によって、これを見るならば、つまり邪説の害は、ただ中国・戦国時代以来、これがあるだけでなく、実に孔子以前もすでにこれがあった。ただ孔子以前もすでにこれ(邪説の害)があるだけでなく、また尭・舜以前も、実にこれがあるのに似ていた。私は、それがどんな説かということを知らない。どうして、許行(中国・戦国時代の楚の思想家、百家のうちの農家)がなした神農の言葉や、漢代に貴んだ黄帝・老子の道術というものを、元々中国・戦国時代の間に、偽造編集することがなく、大昔から実にこれがあるのか。そもそも大昔のいわゆる「邪説」というものは、後世の諸子百家の同類にあるのではなく、(それとは)別にこれ(邪説)を指し名づけるものがあるのか」、等々。そして、多くの友人が答えることを見るに及んで、多くは推量・援用で、名ばかりの理に依存して、まだ明らかな事実に基づき、それで信頼を後世に取るに足るものになっていない。よって、また自ら多くの友人に代わって、このために模擬答案をする。尭・舜以前は、実に邪説・暴行があることを探究して論じ、しかも併せて孔子の聖を、ここにおいて最大として、人民がいるようになって以来、今まで一度もなかった実に及ぶ。》

 

※古代中国の聖人

 ・?:伏犠、神農、黄帝(以上、3皇)、少昊、顓頊、高辛(以上、3帝) → 邪説の害と類似

 ・虞:尭、舜 → 以降に邪説の害・暴行

 ・夏:禹

 ・殷(商):湯

 ・周:文、武、周公旦 → 以降に邪説の害・暴行

 ・春秋・戦国:孔子

 

・曰。按周礼外史、掌三皇五帝之書。春秋左氏伝、楚左史倚相、能読三墳五典八索九丘。説者謂、即上世帝王遺書也。而漢孔安国曰、伏犧神農黄帝之書、謂之三墳。言大道也。少昊顓頊高辛唐虞之書、謂之五典。言常道也。可見孔子時、三皇五帝之書尚在、而三墳言大道、五典言常道、則夫子皆当祖述之、而特断自唐虞以下、三皇三帝之書、皆在所黜焉者、何哉。夫聖人之道、万世通行之典也。故其道謂之常道、其書謂之経典。言其当万世通行也。豈常道之外、別有所謂大道者乎哉。外常道而別有大道焉、則可知大道云者、便非万世通行之典矣。

 

[いわく。按(あん)ずるに、周礼(しゅうらい)、「外史、三皇・五帝の書を掌(つかさど)る」。春秋左氏伝(さしでん)に、「楚の左史(さし)倚相(いしょう)、よく三墳・五典・八索・九丘を読む」と。説く者いう、すなわち上世帝王の遺書なりと。しかして漢の孔安国いわく、「伏犧(ふっき)・神農(しんのう)・黄帝(こうてい)の書、これを三墳という。大道をいうなり。少昊(しょうこう)・顓頊(せんぎょく)・高辛(こうしん)・唐・虞(ぐ)の書、これを五典という。常道をいうなり」。見るべし、孔子の時、三皇・五帝の書、なお在(あ)り、しかして三墳は大道をいい、五典は常道をいうときは、すなわち夫子、皆まさにこれを祖述すべくして、特に唐・虞より以下を断じ、三皇・三帝の書、皆、黜(しりぞ)くる所に在る者は、何ぞや。それ聖人の道は、万世通行の典なり。ゆえにその道これを常道といい、その書これを経典という。そのまさに万世通行すべきをいうなり。あに常道の外(ほか)、別にいわゆる「大道」という者のあらんや。常道を外にして、別に大道あるときは、すなわち大道という者は、すなわち万世通行の典にあらざることを知るべし。]

 

《解答。考えるに、『周礼』(周王朝の礼制が記載)の春官によると、「外史は、3皇・5帝の書物をつかさどる」。(孔子の弟子・左丘明/さきゅうめいの)『左氏伝』(『春秋』の注釈書)によると、「楚の国の左史(右史とともに、君主の言動の記録官)の倚相は、充分に3墳・5典・8索・9丘を読んだ」。つまり大昔の帝王の遺書だと、(これを)説く者がいう。そして、孔安国(中国・前漢の学者、孔子の10世孫)がいう、「伏犠・神農・黄帝(古代中国の伝説上の帝王、3皇)の書物、これを3墳という。大道をいうのだ。少昊・顓頊・高辛・堯・舜(古代中国の伝説上の帝王、5帝)の書物、これを5典という。常道をいうのだ」孔子の時代には、3皇・5帝の書物が、なおも存在し、そして3墳が大道をいい、5典が常道をいう時は、つまり(孔子)先生がすべて当然、これを継承して補い述べるべくして、特に堯・舜以下を分断し、3皇・3帝の書物はすべて、退けることにあったのは、どうしてか。そもそも聖人の道は、長く続く時代に通行する典(道の手本)だ。よって、その道、これを常道といい、その書物、これを経典(大筋の道の手本)という。それで当然、長く続く時代に通行すべきというのだ。どうして常道の他に、(それとは)別のいわゆる「大道」というものがあるのか。常道の他に、(それとは)別の大道があるならば、つまり大道というものは、つまり長く続く時代に通行する典(手本)にないことを知るべきだ。》

 

※書と道

 ・3墳=伏犧・神農・黄帝の書→大道

 ・5典=少昊・顓頊・高辛・唐(堯)・虞(舜)の書→常道

※孔子:堯・舜の書(2典)以後を断(分断→重視)、それ以前の3皇・3帝の書を黜(軽視)

 ・孔子の常道=聖人(堯・舜以降)の道:万世通行の典(長く続く時代に通行する道の手本)

  →孔子の常道の書=経典(大筋の道の手本)

 ・孔子の大道=3皇・3帝:万世通行の典にない

 

・窃以謂彼所謂大道者、則必是虚無恬澹無為自化之説、而非尭舜孔子之所取焉。想虚無恬澹無為自化之説、匪柱下漆園剏倡其説、蓋自上世已有之。世所伝黄帝内経者、恐非悉七国時書。又屈子所述周霊王太子晋之語、及周廟金人銘、孔父鼎銘、亦往往与其意相符焉、則虚無恬淡無為自化之説、自上世已有之、彰々然明矣。而漆園鄭圃之書、屡屡称黄帝之名。孟子時、楚許行者、為神農之言、有与民並耕之説矣。則知自上世別有非尭舜之道、而号神農黄帝之道、相称述於世者焉。其為孔子之所黜、宜矣。由是推之、則知雖宓犧之学、亦不得為全与堯舜之道相同。太史公曰、余登箕山、其上蓋有許由冢云。乃実其有是人也。凡広成子卞隨務光之流、蓋皆古隠君子、有奇行者、曠代相伝称、則未必無其人也。孟子所謂尭舜孔子以前邪説暴行者、是已。

 

[窃(ひそ)かにおもえらく、かのいわゆる「大道」という者は、すなわち必ずこれ虚無・恬澹(てんたん)・無為自化の説にして、尭・舜・孔子の取る所にあらず。想うに虚無・恬澹・無為自化の説、柱下・漆園、その説を剏倡(そうしょう)するのみに匪(あら)ず、けだし上世よりすでにこれあり。世に伝うる所、黄帝内経という者、恐らくはことごとく七国の時の書にあらず。また屈子が述ぶる所、周の霊王の太子晋の語、および周廟金人(しゅうびょうきんじん)の銘、孔父(こうほ)が鼎(かなえ)の銘、また往往その意と相符(ふ)すときは、すなわち虚無・恬澹・無為自化の説、上世よりすでにこれあること彰彰(しょうしょう)然として明らかなり。しかして漆園(しつえん)・鄭圃(ていほ)の書、しばしば黄帝の名を称す。孟子の時、楚の許行(きょこう)という者の、神農の言(げん)をなし、民と並び耕すの説あり。すなわち知る、上世より別に尭・舜の道にあらずして、神農・黄帝の道と号し、世に相称述する者あること。その孔子のために黜(しりぞ)けらるること、宜(むべ)なり。これによってこれを推すときは、すなわち知る、宓犧の学といえども、また全く堯・舜の道と相同じとなることを得ず。太史公いわく、「余、箕山(きざん)に登る、その上にけだし許由(きょゆう)が冢(つか)ありという」。すなわち実にそれこの人あるなり。およそ広成子(こうせいし)・卞隨(べんずい)・務光(むこう)の流、けだし皆、古(いにしえ)の隠君子(いんくんし)、奇行ある者、曠代(こうだい)相伝称するときは、すなわちいまだ必ずしもその人なくんばあらず。孟子いわゆる「尭・舜・孔子以前の邪説・暴行」という者、これのみ。]

 

《ひそかに思うに、あのいわゆる「大道」というものは、つまり必ず空虚・無執着・無為自化(何もせず自然に教化)の説で、尭・舜(古代中国の伝説上の帝王)・孔子が取り上げることでない。思うに、空虚・無執着・無為自化の説は、老子・荘子が、その説を初めて唱えただけではなく、思うに、大昔からすでにこれ(空虚・無執着・無為自化の説)があった。世の中に伝わる『黄帝内経』(中国の現存最古の医学書)というものは、恐らくすべて中国・戦国時代(7強国あった)の書物ではない。また、屈子(中国・戦国時代の楚の政治家)が述べる周の霊王の息子・太子晋の語句、または周王朝の先祖の祭祀施設の金属像の銘文、孔父嘉(孔子の先祖)の3本足青銅製祭器の銘文、またしばしばその意味と相互に符合すれば、つまり空虚・無執着・無為自化の説が、大昔よりすでにこれがあることは、全く明らかだ。そして、荘子・列子(いずれも中国・戦国時代の思想家、道家)の書物には、しばしば黄帝の名前が登場する。孟子の時代には、楚の許行という者が、神農の言葉をなし、民と並んで耕す伝説がある。つまり大昔から、別に尭・舜の道があるのではなく、神農・黄帝の道と呼び、世の中には互いに称賛して述べる者がいることを、知る。それを孔子がなして、退けたことは、なるほどだ。これによって、これを推しはかるならば、つまり、伏犠の学問といっても、また全く堯・舜の道と互いに同じとなることはできない。司馬遷がいう、「私は、箕山に登り、その上に、思うに、許由(隠者)の墓があるという」。つまり、実にそれでこの人(許由)がいたのだ。そもそも広成子・卞隨・務光(いずれも隠者)の流派は、思うに皆、昔の隠棲の君子や、奇抜な行動がある者を、長い年月を経て、互いに称賛して伝えれば、つまりまだ必ずしもその人がいないということはない。孟子のいわゆる「尭・舜・孔子以前の邪説・暴行」というものは、これなのだ。》

 

※孔子の大道(3皇・3帝):上世(大昔)から存在する伝説を、後世に称述・伝称(称賛して伝述)

  →虚無(空虚)・恬澹(無執着)・無為自化(何もせず自然に教化)の説が形成=邪説・暴行

 ・道家:荘子・列子→黄帝の道

 ・農家:許行→神農の道

 ・神仙:広成子・卞隨・務光の流(流派)→許由、古の隠(昔の隠棲の)君子・奇行ある者

※孔子の常道(2典以降)

 ・儒家:孔子→堯・舜の道

 

・蓋邪説者、暴行之本、暴行者、邪説之発、有則倶有、非有二也。大凡害於人倫、遠於日用、無益乎天下国家之治焉者、皆謂之邪説、皆謂之暴行。惟尭舜之君在位焉、則天下一家、道徳一而風俗同、君君臣臣、父父子子、夫夫婦婦、兄兄弟弟、忠信和睦之風隆、詭行異論之徒熄。蕩蕩平平、無偏無党、家自斉、国治自、而天下自平矣。虚無恬澹之説、自無所興、無為自化之教、自無所倡。是為中庸之至、是為王道之極。

 

[けだし邪説は、暴行の本、暴行は、邪説の発、あるときは、すなわち倶(とも)にあり、二つあるにあらざるなり。おおよそ人倫に害あり、日用に遠ざかり、天下国家の治に益なき者は、皆これを邪説といい、皆これを暴行という。ただ尭・舜の君、位(くらい)に在(あ)るときは、すなわち天下一家、道徳一(いつ)にして風俗同じく、君君たり臣臣たり、父父たり子子たり、夫夫たり婦婦たり、兄兄たり弟弟たり、忠信和睦の風、隆(さか)んに、詭行(きこう)・異論の徒、熄(や)む。蕩蕩(とうとう)・平平(ぺんぺん)、偏(へん)なく党なく、家、自ずから斉(おさ)まり、国、自ずから治って、天下、自ずから平かなり。虚無・恬澹(てんたん)の説、自ずから興(おこ)る所なく、無為自化の教え、自ずから倡(とな)う所なし。これを中庸の至りとし、これを王道の極みとす。]

 

《思うに、邪説は、暴行の根本、暴行は、邪説の発端で、(それが)あるならば、つまり一緒にあり、(発言と行為の)2つが(別々に)あるのではない。そもそも人倫に害があり、日常使用から遠ざかり、天下国家の統治に利益がないものは、すべてこれを邪説といい、すべてこれを暴行という。ただ尭・舜(古代中国の伝説上の帝王)の君主が地位にあった時は、つまり天下が一家のようで、道徳を統一して、風俗が同じで、君主は君主として臣下は臣下として、父は父として子は子として(『論語』12-289)、夫は夫として婦は婦として、兄は兄として弟は弟として、忠・信・和睦の風習が盛んで、あやしい行為・異論の徒党がいなくなる。広大・平坦で、かたよりなく徒党なく、家は自ずから治まり、国は自ずから治まって、天下は自ずから平らかだ。空虚・無執着の説は、自ずから起こることもなく、無為自化(何もせず自然に教化)の教えは、自ずから唱えることもない。これを中庸の至りとし、これを王道の極みとする。》

 

※邪説・暴行:人倫に害あり、日用(日常使用)に遠ざかる、天下国家の治(統治)に益(利益)なし

 ・邪説=暴行の本(根本)

 ・暴行=邪説の発(発端)

※尭・舜が君主に在位:天下一家、道徳・風俗同一、忠・信・和睦の風(風習)、斉家・治国・平天下

  →中庸の至り・王道の極み、虚無(空虚)・恬澹(無執着)・無為自化(何もせず自然に教化)の教説なし

 

・聖人既没、世衰道微、異端蜂起、邪説並興、敢肆私説、無所顧諱。以常道為卑、而不足為、以綱常為近、而不加勤、家家道異、人人説殊、先王之道術、於是瓦解瓜裂、不復統一矣。不識道者、為其所眩瞀蔽錮、驚以為至言、為妙道、匍匐而従之、以為遠勝於尭舜之道、而非周孔之所及。悲哉。

 

[聖人すでに没し、世衰え道微(び)にして、異端蜂起(ほうき)し、邪説並び興(おこ)り、あえて私説を肆(ほしいまま)にして、顧りみ諱(い)む所なし。常道をもって卑(ひく)しとなして、するに足らずとし、綱(こう)・常(じょう)をもって近しとなして、勤めを加えず。家家(かか)道を異にし、人人(じんじん)説を殊(こと)にし、先王の道・術、ここにおいて、瓦(かわら)解(と)け瓜(うり)裂(さ)け、また統一せず。道を識(し)らざる者、そのために眩瞀(げんぼう)蔽錮(へいこ)せられ、驚いてもって至言(しげん)とし、妙道とし、匍匐(ほふく)してこれに従い、おもえらく、遠く尭・舜の道に勝(まさ)って、周・孔の及ぶ所にあらずと。悲しいかな。]

 

《聖人はすでに死没し、世の中が衰退し、道が衰微して(『孟子』(6-60))、異端が暴動し、邪説が並び起こり、あえて私説をほしいままにして、省みて忌み嫌うこともない。常道を低いとなして、する(務める)には不足し、3綱(君臣・父子・夫婦)・5常(仁・義・礼・智・信)を近いとなして、務めを加えず、家(学派)どうしで道が異なり、人どうしで説が異なり、先王の道・方法は、ここにおいて崩壊・分裂し、再び統一しなかった。道を知らない者は、そのために目がくらみ・ぼんやりして、おおい・ふさがれ、驚いてそれで至極の言葉とし、微妙な道とし、腹ばいでこれにしたがい、思うに、遠く尭・舜の道にまさって、周公旦・孔子の及ぶところにない。悲しいな。》

 

※聖人の没後=1回目が尭・舜以降、2回目が周公旦以降

 :常道・3綱(君臣・父子・夫婦)・5常(仁・義・礼・智・信)を軽視、私説の至言・妙道を重視

  → 先王の道・術(方法)が瓦解(崩壊)・瓜裂(分裂)、再統一せず

 

(つづく)