古代日本の統治体制の変遷8~徴兵6・鎮兵3 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

‐51代・平城

 

○鎮守副将軍

・「日本後紀」808(大同3)年5月28日:従5位下の坂上の大宿禰大野を、陸奧鎮守副将軍に任命

 

○鎮守将軍、鎮守副将軍

・「日本後紀」808年6月9日:鎮守将軍・従5位下の百済王教俊(きょうしゅん)を、兼任で陸奧介に、外従5位下の道嶋の宿禰御楯(みたて)を、陸奧鎮守副将軍に任命

 

○鎮将は鎮守府に常駐、鎮守将軍、鎮所

・「日本後紀」808年7月4日:天皇が、そもそも鎮守府の将軍の任務は、辺境の守衛の寄託が功績で、不慮の保護で、わずかに欠陥があるべきでなく、今の聞き伝えによると、鎮守将軍・従5位下・陸奧介の百済王教俊は、鎮所(胆沢城)から遠く離れた国府(多賀城)に常時いて、もし非常があれば、重要なことをどう決済するのか、辺境の将軍の道徳が、このようなものは合格ではない、今後は、さらにそうならないよう命令

 

○鎮守官人の任期6年

・「日本後紀」808年7月16日:天皇が、陸奥国の鎮守府の官人は、遷移・交代の時期に、いまだ年限がないので、今後は、国司(の6年)と同一とし、医師は8年を限度にするよう命令

 

○鎮守の兵が疫病で動員できず

・「日本後紀」808(大同3)年12月17日:東山道の観察使・正4位下・右衞士督・陸奧・出羽国の按察使の藤原の朝臣緒嗣が、臣下(の私)は空っぽで、誤ってよりどころ(よい地位)を受け、両使(観察使・按察使)の役目を委任され、食封(じきふ)200戸と、また、武力の禁圧(右衞士督)も住所され、宿直護衛の準備を寄託され、御恩は丘・山よりも重荷で、建議・功労は滴(しずく)・塵(ちり)ほども効果がなく、心は飛び散り、置くところを知らない

・臣下(の私)は、聞き伝えによると、才能ある官人の選択が、天皇のすぐれた規範で、力量で進取するのが、臣下の恒常的な分際なので、名声・器量は濫用せず、授受・思案すべきだ

・臣下(の私)は、以前数度、陸奥国が成熟し、事態が困難だと発言し、今日まで臣下を利用し、彼(天皇)が委任したが、退任だと考慮した前言は、役目に耐え切れないのがわかり、それとともに、今の聞き伝えによると、陸奥国中が疫病を罹患し、庶民が死亡、鎮守の兵に派遣する人がなく、また、狂気の外敵は病気にならず、通常のように強健・勇敢で、投降者の集団が、すでに反乱の端緒が見え、これにより、奥地の郡の庶民が数度出走し、もし隙に乗じて妨害すれば、どう支援・思案しようか

・臣下(の私)は、生まれてから、いまだ幾年もせず、眼精が少し暗く、また脚気も罹患し、発動も無期で、この病気は年で積み重なり、兵法の戦略も欠乏しているので、もし卑賤な臣下(の私の辞任)を許可せず、なおその事態を委任したままで、もし万一失政があれば、臣下(の私)自身が処罰されるだけでなく、国家の大事に還り乱すことになり、そうなると、上は朝廷の威厳を損失させ、下は先人の名声を腐敗させるので、皇帝陛下が、さらに優良な人材を選出し、愚劣な臣下(の私)にかわって、一方の方隅の鎮守府に、その人を早速寄託するよう平伏して請願

・臣下(の私)は、京城で生長し、いまだ宣下の風紀で(地方を)閑静にできないので、引き受けていた封戸・官職の権威を返上し、成熟した国の長官に任命されるよう要望・請願し、百姓の苦労を慰問したり、自身の病気を治療し、製錦(せいきん)の誠・昔の恥といえども、天皇が曲った光を照覧し、曲って憐れみを許してもらうよう特別に請願、おそれながら、任命なしには満足せず、真心を尽くすに至り、謹んで傾聴のために表を献上し、穢れ厳しい衝立を治めるよう、戦慄を越えるほど深く平伏

・勅があり、許可せず

 

‐52代・嵯峨

 

○鎮守将軍

・「日本後紀」809(大同4)年1月16日:従5位下の佐伯の宿禰耳麻呂を、陸奧鎮守将軍に任命

 

‐52代・嵯峨

 

○鎮兵の食糧調達

・「日本後紀」810(弘仁元)年5月12日:東山道の観察使・正4位下・陸奥・出羽国の按察使の藤原の朝臣緒嗣が、国は人民が根本で、人民は食によって命をなすが、鎮兵3800人の1年の食糧50余万束が原因で、百姓は疲弊し、米倉は空虚で、もし蓄積がなければ、非常にどう防御するのか、そのうえ、過去には毎年征伐があり、必ず軍隊の食糧を坂東国に援助を求めた

・(そこで、)坂東の官稲(かんとう、諸国の正倉に収納した田租)を陸奥国の公廨(くがい、出挙用の官稲)に割り当て、陸奥国の公廨を官の倉庫に留置・収納するよう平伏して要請、こうすれば公私に利得で、実際に便宜で満足すると言上

・ともにこれを許可

 

○鎮守将軍

・「日本後紀」811(弘仁2)年3月20日:天皇が、陸奧・出羽国の按察使・正4位上の文室の朝臣綿麻呂+陸奧守・従5位上の佐伯の宿禰清岑(きよみね)+陸奥介・従5位下の坂上の大宿禰鷹養(たかかい)+鎮守将軍・従5位下の佐伯の宿禰耳麻呂+鎮守副将軍・外従5位下の物部の匝瑳(そうさ)の連足継(あしつぐ)等に命令

・去年2月5日の奏上を述べると、陸奥・出羽の両国の兵の合計2万6000人を徴発し、爾薩体(にさちて)・幣伊(へい)の2村を征討するよう請願したとあり、人数によって派遣し、早期に襲撃・討伐、事態の絶滅を約束し、軍隊の労力で後に煩わしさを残すべきでない

・また、3月9日の奏上を得ると、兵士1万人に減少したと知り、将軍等は、憂国の感情で、中心は深く、隠れ家を捜し窮めるのは、大勢の力が元手で、先の奏上によるので、(兵士の)労力の減少を定めず、将軍等は、これを承知し、力を合わせて意志を同じにして、ともに功労を完了させるべき

・この時には、出羽守・従5位下の大伴の宿禰今人が、計画し、勇敢な俘囚300余人を徴発、不意に外敵に出撃し、雪中を侵攻して襲撃・討伐、爾薩体の残党の子孫60余人を殺戮し、すぐに軍功を得て、名声は不朽で伝わった

 

※「日本後紀」811年4月17日~閏12月11日:蝦夷を征討(10度目、征夷将軍・文屋/ふんやの朝臣綿麻呂)

 

○鎮兵

・「日本後紀」811(弘仁2)年7月3日:出羽国の鎮兵に3年間の課税免除を授与、辺境の守衛の家業廃絶があるから

 

○鎮守府の変遷

・「日本後紀」811年12月13日:天皇が、天皇の御言葉と命令を大勢に召し上がるよう宣下し、陸奥国の蝦夷等は、歴代に渡って時々、辺境を侵攻・混乱させ、百姓を殺害・略奪したので、口に出して言うのも恐れ多い、柏原の朝廷(桓武天皇)の時代に、故・従3位の大伴の宿禰弟麻呂等が、派遣され、討伐・平定したが、他の燃え残りがなお残って、鎮守府はいまだ休息できない

・また、故・大納言の坂上の大宿禰田村麻呂等が、派遣され、討伐・平定し、遠方の閉伊村まで略奪・一掃したが、山・谷に逃げ隠れ、最終的に絶やし究められなかった

・これにより、正4位上の文室の朝臣綿麻呂等が派遣され、その(蝦夷)勢力が返り傾きかけて、討伐・平定・一掃・統治し、副将軍等は、各々が心を同じくして力を合わせ、殉死を忘れず、自身の命を惜しまず、勤労・奉仕し、はるかに軽薄な討伐で、隠れ家を破壊・覆滅させ、ついにその種族を絶滅

・また、1人・2人残らず、辺境の蝦夷の官職を解任、干し米を送るのを停廃止し、その功労を推し量り、上位を授与し、治め給うのに充分だと御配慮する

・それだから、その奉仕の状況は、重い軽いにしたがい、上位を授与し、治め給うと、天皇の命令を大勢が召し上がるよう宣下

 

○鎮兵の停止、志波城

・「日本後紀」811年閏12月11日:征夷将軍・参議・従3位・大藏卿・陸奧・出羽国の按察使の文室の朝臣綿麻呂が、次の5つを奏言

・今回は官軍が一挙で、蝦夷の残存がなく、事態は、すべて鎮兵を廃止し、永年百姓を安楽にすべきで、城柵等に収納する武器・軍隊の食糧は、少数でないので、遷移・収納するまで、守衛を廃止すべきでなく、1000人を設置し、その守衛に割り当てるよう平伏して要望

・その志波城は川岸に近く、度々水害に被災しているので、その場所を去り、便利な立地に遷移すべきで、2000人を設置し、しばらく守衛に割り当てるよう平伏して要望、その城の遷移が完了すれば、1000人を駐留させ、永年守衛に鎮座させ、その他を全員解任・退却

・また、兵士の設置は、非常の準備のためなので、すでに蝦夷の残存がないのに、なぜ兵士を設置するのか、ただし、辺境の国の守備は、突然に停止できないので、2000人を設置し、その他を解任・退却するよう平伏して要望

・また、774(宝亀5)年から当年まで、合計38年間、辺境の蝦夷は、度々騒動し、絶えず警戒しており、老いも若きも男性は衰弱し、征討・守衛に疲労したり、頻繁な運送に倦怠したりし、百姓は困窮・疲弊、いまだ休息がないので、4年間は課税免除し、特に疲弊を休止するよう平伏して要望

・その鎮兵は、順次徴発し、輪転して課税免除者に

・これらをともに許可

 

○鎮守将軍

・「日本後紀」812(弘仁3)年2月10日:外従5位上の物部の匝蹉の連足継を、鎮守将軍に任命

 

○鎮守府の官員を規定

・「日本後紀」812年4月2日:鎮守府の官員を規定し、将軍1人・軍監1人・軍曹2人・医師・弩(ど、大弓)師各1人

 

・「類聚三代格」812年4月2日:将軍1人、軍監1人、軍曹2人、医師・弩師各1人

・右について、右大臣の宣下を受けて述べ、天皇が、鎮兵の人数削減規定を、すでに完了し、その鎮守府の官員の人数を、前の件によってすべきよう命令(巻5・加減諸国官員并廃置事・4・太政官符・定鎮守府官員事)

 

○鎮守府の田

・「日本後紀」812年7月17日:陸奥国が、屯田は元々200町だが、100町を鎮守府の貯蓄のために規定するよう、平伏して要望した言上

 

※812年頃:徳丹城(岩手県矢巾町徳田)を築造

 

○鎮兵の停止

・「類聚三代格」815年(弘仁6)年8月23日:鎮兵を停止し、兵士を徴兵(巻18・軍毅兵士鎮兵事・15・太政官符・一分番令守城塞事)

 

‐54代・仁明

 

○鎮守将軍

・「続日本後紀」834(承和元)年5月19日:主殿(とも、宮内省の機関で、内裏の施設・備品を管理)允(じょう、判官)・正6位上の物部の匝瑳の連(むらじ)熊猪(くまい)に、外従5位下を授与し、鎮守将軍に任命

 

○鎮守府に印を授与

・「続日本後紀」834年7月22日:陸奧鎮守府に、印1面を授与、元々は国印に使用していたが、今回これを特別に授与

 

○鎮守将軍

・「続日本後紀」835(承和2)年3月16日:下総国の人・陸奧鎮守将軍・外従5位下・勳6等の物部の匝瑳の連熊猪が、連を宿禰に改姓

 

○鎮守府に蝦夷の俘囚の出国を禁止

・「続日本後紀」835年12月4日:蝦夷の俘囚が、国境を出るのは、すでに長年禁止していたが、近頃は任意で、入京する集団もあるので、官符を下し、陸奧・出羽国の按察使・国司・鎮守府等を、厳しく責めた

 

○鎮守府と同様、国府に弩(ど、大弓)師を設置

・「続日本後紀」837(承和4)年2月8日:陸奥国が、剣・矛(ほこ)は交戦の武器で、弓・弩は遠方に強力な機具で、5兵器(弓矢、殳/しゅ、矛/む、戈/か、戟/げき、弓矢以外はホコ)を変更しながらの使用を認知しているので、ひとつも廃棄できず、ましてや弓馬の戦闘は、蝦夷の生来の習性で、平民の10人と蝦夷1人でも敵対できないが、この弩での戦闘は、全方面に荒々しい外敵がいても、ひとつの弩から飛び出る鏃(やじり)に対抗できず、これがつまり夷狄を威圧するすばらしいものだ

・現在、倉庫の中の弩を見ると、大体が不調だったり、機具に誤差があったりし、生徒がいるといっても、習得を監督する人がおらず、これは、それを取り締まる費用を設置していないからで、鎮守府に準拠し、弩師を設置するよう要望・請願し、その公廨(正)はさらに出挙を加増せず、史生(しじょう、さかんの下位)の給与に準拠して分配すると言上

・これを許可

 

○鎮守将軍

・「続日本後紀」837年4月21日:陸奧・出羽国の按察使・従4位下の坂上の大宿禰浄野(きよの)が、馳せ伝え奏上、鎮守将軍の匝瑳の宿禰末守(すえもり)の書状を得て述べると、去年の春から今年の春にかけて、百姓の妖しい言葉で、騒乱が止まず、奥地の村の人民が住居を捨て去り逃げ出し、守衛の兵を添加する事態で、騒動を鎮静化して農業に向き合うべき

・また、栗原・賀美(かみ)の両郡の逃げ出した百姓は多数で、抑留できず、臣下の浄野が考え量るに、災禍を防止し、騒動を鎮静化するには、未然に気をつけるべきで、それとともに、栗原・桃生以北の俘囚は、弓引の兵士が多数で、朝廷にしたがっているようにみえるが、反抗を繰り返して安定せず、4~5月は、いわゆる馬が肥え、蝦夷が驕る時期で、もし非常があれば、支援・防禦が困難なので、援軍の兵士1000人を徴発・差し向け、4~5月の間、上下回で結束し、しばらく事変に控え備えるよう平伏して要望

・その食糧は、当場所の穀物を使用し、例によって支給、ただし、奏上の報告を待つと、事態の時機を失うおそれがあるので、つまり一方で徴発し、一方で奏上

 

○鎮守将軍

・「続日本後紀」839(承和6)年4月26日:天皇が、陸奧守・正5位下の良岑(よしみね)の朝臣木連(いたび)+鎮守将軍・外従5位下の匝瑳の宿禰末守等に、勅符し、今月13日の奏状を得て、援軍の兵士1000人を発送したのを知り、奏状の案内によると、災禍の星が度々出現し、地震が頻発、奥地の県の百姓が、多数畏れて逃げ、また、胆沢・多賀の両城の間に、異類(蝦夷)が蔓延し、弓引の兵士が数千人

・もし警戒すべき急変があれば、支援・防禦を輸送できるよう、援軍の兵士を徴発し、人民を鎮静化し、農業に向き合うようにすべき

・また、加賀城は、胆沢城の後援のため、兵数を増益しないと、どう救急するのか、この件によって配置を追加し、4~5月の間、上下回で結束し、しばらく事変に控え備えるよう平伏して請願

・その食糧は、当場所の穀物を使用、ただし、奏上の報告を待つと、事態の時機を失うおそれがあるので、つまり一方で徴発し、一方で奏上、兵士の予備がなければ、時機に対応できない

・今回の請願により、これを許可、要害を守備し、臨機応変に処置・制圧すべきと命令

 

○鎮守将軍

・「続日本後紀」840(承和7)年1月30日:従5位下の御春(みはる)の朝臣浜主を、鎮守将軍に任命

 

○鎮守将軍

・「続日本後紀」843(承和10)年4月19日:陸奧鎮守将軍・従5位下の御春の朝臣浜主が、健士(こんし、陸奥国の辺境警備の兵士)は元々、勲位の人で、すでに調・庸を免除され、また、課役もなく、前例を継承し、武芸でかれらを選出、特別に健士と称号、食糧を支給して祖を免除し、番を結束して直接守衛させたが、勲位は全員なく、所領・俸禄を給与する人もないので、格の主旨に任せて、白丁を差し行かせ、公的食糧を全員支給し、調・庸を免除、人は同じでも、役目が異なり、弓が下手な健士は、下等の兵士に準じ、城・堀の修理を使役させるよう請願したと言上

・これを許可

 

○鎮守府に府掌を設置

・「続日本後紀」843年9月19日:はじめて陸奥国の鎮守府に、府掌(最下級の官職)1人を設置し、帯刀・把笏(はしゃく、細長の板をもつこと)を許可

 

○鎮守将軍

・「続日本後紀」846(承和15)年2月11日:従5位下・陸奧介の坂上の大宿禰正宗を、兼任で鎮守将軍に任命

 

○鎮守将軍

・「続日本後紀」848(嘉祥元)年9月25日:従5位下の坂上の大宿禰当宗(まさむね、正宗)を、陸奧介に任命、鎮守将軍はそのまま

 

‐57代・陽成

○鎮兵が防守

・「日本三代実録」878(元慶2)年3月29日:出羽国守・正5位下の藤原の朝臣興世(おきよ)が、飛駅に、蝦夷の俘囚が反乱し、今月15日に秋田城・郡家の屋舎城近辺の民家が延焼・破損したので、鎮兵が防守したり、諸郡の軍隊を徴発したと奏上

 

(つづく)