古代日本の統治体制の変遷7~徴兵5・鎮兵2 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

◎天智系

 

‐49代・光仁

 

○鎮守将軍

・「続日本紀」770(宝亀元)年9月16日:正4位下の坂上の大忌寸苅田麻呂を、陸奥鎮守将軍に任命

 

○鎮守将軍

・「続日本紀」771(宝亀2)年閏3月1日:従4位下の佐伯の宿禰三野を、兼任で陸奥守・鎮守将軍に任命

 

○鎮守将軍

・「続日本紀」773(宝亀4)年7月21日:正4位下の大伴の宿禰駿河麻呂を、陸奥国鎮守将軍に任命、陸奥国按察使(あぜち、地方行政を監督する令外官)・陸奥守はそのまま

 

※「続日本紀」774(宝亀5)年7月23日~775(宝亀6)年11月15日:蝦夷を征討(4度目、鎮守将軍・大伴の宿禰駿河麻呂)

 

○鎮守将軍、鎮守副将軍

・「続日本紀」774年7月23日:河内守・従5位上の紀の朝臣広純を、兼任で鎮守副将軍に任命

・天皇が、陸奥国按察使・陸奥守・鎮守将軍・正4位下の大伴の宿禰駿河麻呂に言及し、将軍等は先日、蝦夷を征討する適切な処置を奏上し、ある者は討伐すべきでない、ある者は必ず当然討伐すべきといい、私は、人民が苦労するため、事態を広く含んだが現在、将軍等の奏上があり、愚かな蝦夷は、野心を改めず、しばしば辺境に侵略し、果敢に帝王の命令を拒絶、事態はやむをえず、一切は送って来た奏上により、早急に軍隊を発動し、時機に対応して討ち滅ぼすよう命令

 

○鎮守之兵が無用で、軍団兵士が活躍

・「続日本紀」774年7月25日:陸奥国が、海道の蝦夷は、突然集団を発動し、橋を焼き、道を塞いで、すでに往来を断絶、桃生城に侵攻し、その西郭が敗北、鎮守の兵士は、攻勢に支援不能で、国司は事態を推し量り、軍隊を興し、これを討った、ただし、その交戦で殺傷された人数は、いまだ認識していないと言上

 

○鎮守将軍

・「続日本紀」774年8月24日:これ以前に、天皇が、鎮守将軍等の要請により、蝦夷を討伐させ、これにいたって、さらに、臣下等は、蝦夷のすることが、まるで犬・鼠の窃盗で、侵入・掠奪が時々あるが、大害にはならず、現在は草が繁茂した段階で攻撃すれば、臣下はおそらく後悔すると推し計れると言上

・天皇は、軽い議論で軍隊を興したのに、首尾一貫でない推し計りだと、命令を下して深く責任追及

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」775(宝亀6)年9月13日:従5位上の紀の朝臣広純を、陸奥介に任命し、鎮守副将軍はそのまま

 

○鎮兵を東国4ヶ国から動員

・「続日本紀」775年10月13日:出羽国が、蝦夷の燃え残りは、いまだなお平らげ尽きていないので、3年間で鎮兵996人を請求し、要害に鎮座させたり、国府に遷移したりすると言上

・天皇は、相摸・武蔵・上野・下野の4ヶ国の兵士を派遣し、差し向けるよう命令

 

○鎮守将軍、桃生城

・「続日本紀」775年11月15日:陸奥国に使者を派遣し、天皇が、蝦夷の俘囚等は、すぐに反逆の心を発動し、桃生城を侵攻、鎮守将軍の大伴の宿禰駿河麻呂等は、朝廷の委任を謹んで受け、自身の命を顧みず、反乱の外敵を討ち治め、思い通りに帰順・服従させ、勤労の重さは、まさに賞賛に適合するので、駿河麻呂以下1790余人に、功勲にしたがって位階を追加で授与すると宣下

・正4位下の大伴の宿禰駿河麻呂に、正4位上・勲3等を、従5位上の紀の朝臣広純に、正5位下・勲5等を、従6位上の百済王(こにきし)俊哲(しゅんてつ)に、勲6等を授与、その他各々に差あり、功績が少なく、叙勲に及ばない者も、差ありで物品を授与

 

○鎮守権副将軍

・「続日本紀」776(宝亀7)年5月12日:近江介・従5位上の佐伯の宿禰久良麻呂を、兼任で陸奥鎮守権副将軍に任命

 

○鎮守将軍

・「続日本紀」776年7月7日:参議・正4位上・陸奥按察使・鎮守将軍・勲三等の大伴の宿禰駿河麻呂が死去し、従3位下を追贈、絁(あしぎぬ)30匹・麻布100端を贈呈

 

○鎮守将軍、鎮守権副将軍

・「続日本紀」777(宝亀8)年12月14日:はじめ、陸奥鎮守将軍の紀の朝臣広純が、志波村の外敵は、蟻の勝手気ままな毒が結集し、出羽国の軍と交戦・敗退したと言上

・そこで、近江介(すけ、次官)・従5位上の佐伯の宿禰久良麻呂を、鎮守権副将軍に任命し、出羽国の鎮圧を命令

・これにより、正5位下・勲5等の紀の朝臣広純に、従4位下・勲4等を、従5位上・勲7等の佐伯の宿禰久良麻呂に、正5位下・勲5等を、外正6位上・吉弥侯伊佐西古(きみこのしさせこ)+第2等・伊治の公(きみ)呰(あざ)麻呂に、ともに外従5位下を、勲6等の百済王俊哲に、勲5等を授与し、その他各々に差あり

 

○鎮守権副将軍

・「続日本紀」778(宝亀9)年6月25日:陸奥・出羽の国司以下で、(蝦夷)征討の戦功者2267人に、爵位を授与

・按察使・正5位下・勲5等の紀の朝臣広純に、従4位下・勲4等を、鎮守権副将軍・従5位上・勲7等の佐伯の宿禰久良麻呂に、正5位下・勲5等を、外正6位上の吉弥侯伊佐西古+第2等の伊治公呰麻呂に、ともに外従5位下を、勲6等の百済王俊哲に、勲5等を授与、その他各々に差あり、爵位が授与されなかった者は禄で、また差あり、戦死した父子も、また例によって叙位

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」780(宝亀11)年2月1日:陸奥按察使・鎮守副将軍・従4位下の紀の朝臣広純等、3人を参議に任命

 

※780(宝亀11)年3月22日~781(天応元)年8月25日:伊治(これはり)呰(あざ)麻呂(蝦夷の俘囚の子孫)が反乱(5度目、持節征東大使・藤原の朝臣継縄/つぐただ→藤原の朝臣小黒(おぐろ)麻呂+出羽鎮狄将軍・安倍の朝臣家/やか麻呂)

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」780年3月29日:従5位下の大伴の宿禰真綱を、陸奥鎮守副将軍に、従5位上の安倍の朝臣家(やか)麻呂を、出羽鎮狄将軍に任命し、軍監・軍曹は各2人で、征東副使・正5位上の大伴の宿禰益立を兼任で陸奥守に任命

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」780年6月8日:従5位上の百済王俊哲を、陸奥鎮守副将軍に任命

 

○鎮狄将軍、由理柵(ゆりのき、秋田県由利本荘市)、河辺府(払田/ほった柵?、秋田県大仙市払田)

・「続日本紀」780年8月23日:出羽国の鎮狄将軍の安倍の朝臣家麻呂等が、蝦夷の志良須(しらす)・俘囚の宇奈古(うなこ)等は、自己等が官に寄り掛かって守衛し、永年城下に居住してきたが、今この秋田城を、ついに永久放棄するのか、旧来による番上に戻って保つのかと求めると、次のように宣下して知らせたと言上

・そもそも秋田城は、前代の将軍・宰相が評議して建設しており、敵を防禦、人民を保護し、長年経過したので、一旦挙行したのを放棄するのは、あまりよい計画でないので、ここを鎮守するために、多少の軍士を派遣すべきで、かれら(俘囚)の帰順・服従の感情を挫折させないように命令

・よって、すぐに使者か国司1人を差し向け、専任に割り当て、また、由理柵は、外敵の要害が居留し、秋田の道につながるので、また兵士を派遣し、援助・防禦すべきで、ただし、宝亀(770~781年)のはじめに、国司が、秋田城は保護が困難で、河辺府は統治が容易と言上したので、当時の評議で、河辺府を統治したが、現在まで歳月を積み重ねても、いまだなお集団が移住せず、この言葉は、百姓が移住に重いのは明らかで、この感情があるはずなので、蝦夷の俘囚・百姓等へ次々に質問し、あれこれの利害を具体的に言上

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」780年12月27日:陸奥鎮守副将軍・従5位上の百済王俊哲等が、自己等は、外敵に取り囲まれ、兵士は疲労し、矢が尽きたが、桃生・白河等の郡の神11社に祈祷すると、囲いをつぶすことができ、神の力によらなければ、何が軍士を生存させたのか、弊社(幣帛する神社)を引き受けるよう請願したと言上

・これを許可

 

‐50代・桓武

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」781(天応元)年12月1日:陸奥守・正5位上の内蔵(くら)の忌寸(いみき)全成(またなり)を、兼任で鎮守副将軍に任命

 

○鎮守将軍、鎮守権副将軍

・「続日本紀」782(延暦元)年6月17日:春宮大夫・従3位の大伴の宿禰家持を、兼任で陸奥国の按察使・鎮守将軍に、外従5位下の安倍猿嶋(さしま)の臣墨縄を、鎮守権副将軍に任命

 

○鎮所に食糧補給、鎮兵の酷使・私用禁止

・「続日本紀」783(延暦2)年4月15日:天皇が、聞き伝えによると近年、坂東8国は、鎮所に穀物を運搬すると、将軍・役人等が、稲と交換し、その穀物のかわりは、絹布(軽物)で京に運送し、いやしくもその利得を恥じていない

・また、鎮兵を濫用・使役し、私田を多数経営、それが原因で鎮兵が疲弊し、戦争を委任できず、国の規定を考えると、深刻な罪罰に適合しているが、恩赦にあって放蕩を寛大に許されているので、今後は、さらにこのようなことがあってはならず、もし違犯があれば、軍法の罪で逮捕すべきで、侵し貪る集団が勝手気ままに汚く乱れることのないように命令

※「類聚三代格」巻20・断罪贖銅事・3、783(延暦2)年4月15日と、ほぼ同一

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」785(延暦4)年2月12日:従5位上の多治比の真人宇美(うみ)を、兼任で陸奥国の按察使・鎮守副将軍に任命し、国守(陸奥守/かみ、長官)はそのまま

 

○鎮守将軍

・「続日本紀」785年4月7日:中納言・従3位・春宮大夫・陸奥国の按察使・鎮守将軍の大伴の宿禰家持等が、名取以南14郡は、山・海の僻地にあり、要塞(多賀城)から遠く懸け離れているので、所属に徴発があっても、急な時機だと間に合わないので、仮に多賀・階上(しなかみ)の2郡を設置し、百姓を募集し、人・兵を国府に充足させ、東西の防禦を設置、本当にこれは、不慮に備え受け、鉾先を万里に推測するもので、ただし、無駄に名ばかりの開設であり、いまだ統領の人は委任されておらず、百姓が振り返って遠くを見ても、心のよりどころがないので、正規の郡を建造し、役人を準備・設置するよう要望・請願し、そうすれば、人民は全体の管理への回帰を知り、外敵は隙をうかがいねらう望みを絶たれると言上

・これを許可

 

○鎮守権副将軍

・「続日本紀」785年5月20日:従5位下の百済王英孫を、陸奥鎮守権副将軍に任命

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」787(延暦6)年2月5日:陸奥介・従5位下の佐伯の宿禰葛城を、兼任で鎮守副将軍に任命

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」787年2月25日:従5位下の池田の朝臣真枚(まひら)を、鎮守副将軍に任命

 

○鎮守将軍

・「続日本紀」787年閏5月5日:陸奥鎮守将軍・正5位上の百済王俊哲が、事件に連座し、日向権介に左遷

 

○鎮守将軍、鎮守副将軍

・「続日本紀」788(延暦7)年2月28日:陸奥国の按察使・陸奥守・正5位下の多治比の真人宇美を、兼任で鎮守将軍に、外従5位下の安倍の猿嶋(さしま)の臣墨縄(すみただ)を、鎮守副将軍に任命

 

※「続日本紀」788年3月2日~789(延暦8)年9月19日:蝦夷を征討(6度目・敗戦、持節征東大将軍・紀の朝臣古佐美/こさみ)

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」789(延暦8)年9月19日:天皇が、大納言・従2位の藤原の朝臣継縄+中納言・正3位の藤原の朝臣小黒麻呂+従3位の紀の朝臣船守+左兵衛佐(すけ)・従5位上の津の連真道+大外記(げき)・外従5位下の秋篠の宿禰安人等を、太政官の庁舎に派遣し、征東将軍等が駐留、軍隊が敗戦した状況を尋問

・大将軍・正4位下の紀の朝臣古佐美+副将軍・外従5位下の入間の宿禰広成+鎮守副将軍・従5位下の池田の朝臣真枚+外従5位下の安倍の猿嶋臣墨縄等が、各自の理由を申告し、ともに全員承知・服従

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」789年10月23日:従5位下の巨勢の朝臣野足(のたり)を、陸奥鎮守副将軍に任命

 

○鎮守副将軍

・「続日本紀」791(延暦10)年2月21日:陸奥介・従5位下の文室の真人大原を、兼任で鎮守副将軍に任命

 

○鎮守将軍

・「続日本紀」791年9月22日:下野守・正5位上の百済王俊哲を、兼任で陸奥鎮守将軍に任命

 

※「類聚三代格」792(延暦11)年6月14日:東北・九州等以外の軍団兵士を廃止し、健児制に転換

※「日本後紀」794(延暦13)年1月1日~795(延暦14)年1月29日:蝦夷を征討(7度目、征夷大将軍・大伴弟/おと麻呂)

 

○鎮守将軍

・「日本後紀」795(延暦14)年8月7日:陸奥鎮守将軍の百済王俊哲が死去

 

○鎮守将軍・鎮守軍監

・「日本後紀」796(延暦15)年10月27日:近衛少将・従4位下の坂上の大宿禰の田村麻呂を、兼任で鎮守将軍に、?を鎮守軍監に任命

 

※「日本後紀」797(延暦17)年11月5日:坂上の大宿禰田村麻呂を征夷大将軍に任命

 

○鎮守府将軍

・「日本後紀」800(延暦19)年11月6日:征夷大将軍・近衛権中将・陸奥・出羽国の按察使・従4位上・陸奥守・鎮守将軍の坂上の大宿禰の田村麻呂を派遣し、諸国の蝦夷の俘囚を監督

 

※「日本後紀」801(延暦20)年2月14日~10月28日:蝦夷を征討(8度目、征夷大将軍・坂上の大宿禰の田村麻呂)

 

※「日本後紀」802(延暦21)年1月9日:胆沢城(いさわのき、岩手県奥州市水沢)を築造(鎮守府も移転)

 

○鎮兵に食糧補給

・「日本後紀」802年1月13日:越後国の米1万600石(斛/こく)と、佐渡国の塩120石を、毎年出羽国の雄勝城に運送、鎮兵の食糧のため

 

・「日本後紀」802年4月15日~8月13日:蝦夷を平定(9度目、夷大墓/えみしおおもの公/きみ阿弖利為/あてりい+磐具/いわぐの公母礼/もれ等を斬首刑に)

 

○鎮守軍監

・「日本後紀」802年12月8日:鎮守軍監・外従5位下の道嶋の宿禰御楯(みたて)を、陸奥国の大国造に任命

 

※「日本後紀」803(延暦22)年2月12日:志波城(しわのき、岩手県盛岡市太田)を築造

 

○鎮兵の半分は勲位者・半分は21~65歳男性

・「日本後紀」805(延暦24)年2月5日:相模国が近頃、鎮兵350人を差し向け、陸奥・出羽の両国を守衛させたが、現在は徭丁(ようてい、雑徭に従事する正丁/21~60歳男性)が充分でなく、勲位者が多数なので、鎮兵を二分にし、半分を勲位者に差し向け、もう半分を白丁(はくてい、正丁・老丁、21~65歳男性)に差し向けるよう平伏して要請すると言上

・これを許可

 

※「日本後紀」805年12月7日:徳政相論で、軍事(蝦夷征討)と造作(平安京造営)を停止

 

(つづく)