筑紫政権から大和政権へ2~天孫降臨 | ejiratsu-blog

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(つづき)
 
 
■天孫降臨
 
 記紀神話によると、[アマツヒコヒコホノニニギ(紀)・アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ(記)(以下、ニニギ)]の降臨地や、そののちの移動地(居住地)は、次に示す通りです。
 
・日向の襲(そ)之高千穂の峯(たけ)…槵日(くしひ)の二上の天の浮橋(紀・神代下9段本)
→吾田(あた)の長屋の笠狭(かささ)之碕(みさき)
・筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)之峯(1)
・日向の槵日の高千穂之峯(2)
・日向の襲之高千穂の槵日の二上峯(ふたかみのたけ)の天の浮橋(4)
→吾田の長屋の笠狭之御碕
・日向の襲之高千穂の添(そほり)の山の峯(6)
→吾田の笠狭之御碕
・竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)(記・神代6‐3段)
→笠沙(かささ)の御前(みさき)
 
※本:「日本書紀」の本文、数字:「日本書紀」の一書第○、記:「古事記」
 
 「古事記」では、ニニギが、降臨した際、「この土地は、韓国と向かい合い、笠沙の御前に、まっすぐ道が通じていて、朝日がまともに差す国、夕日が明るく照らす国である。よって、この土地は、とてもよい土地だ。」と、いっています(記・神代6‐3段)。
 また、「日本書紀」では、ニニギの死後、筑紫の日向の可愛之山陵(かあいのやまのみささぎ)で埋葬されています(紀・神代下9段本)。
 つまり、ニニギは、日向国ではなく、筑紫国の日向に降臨し、そののちも、その周辺に定住したと推測でき、福岡平野と糸島平野の間の高祖(たかす)山系には、日向山(飯盛山の西側)・日向峠・日向川やクシフルタケがあるので、そこに比定するのが自然です。
 「隋書俀国伝」「旧唐書倭国伝」では、倭(俀)王の姓は、アメ(天)氏で、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓も、アメ氏としています。
 日本国王のアメ氏は、祖先の初代・アメノミナカヌシから32代・ウガヤフキアエズ(ニニギの孫)まで、筑紫城に居住していたとあり、「宋史日本伝」では、ウガヤフキアエズは、23代に訂正され、歴代の名前を列挙し、23代まで、筑紫・日向宮を都としたとあります。
 
 降臨地のうち、「添(そほり)」は、大年(おおとし)神(スサノオとオオヤマツミの娘・オオイチヒメの子)とイノヒメの子の、曽富理(そほり)神を想起させます(「記」神代4‐7段)。
 曽富理神の兄弟には、大国御魂(おおくにみたま)神(オオクニヌシの別名、出雲)・韓(から)神(韓半島)・白日(しらひ)神(白日別、筑紫)・聖(ひじり、日後)神(筑紫後国/つくしのみちのしりのくに→筑後)がいます。
 かれらは、出雲・韓半島・筑紫の神なので、神曽富理神も、日向方面というよりは、筑紫方面と導き出せます。
 高千穂は、高く積んだ稲穂を意味し、神が降臨するとされていたようですが、そこに、襲(現・宮崎県南部+鹿児島県)が付け加えられることで、日向国(宮崎県高千穂町か霧島山の高千穂峰に比定)へと引き寄せようとしているようです。
 そのうえ、吾田(あた、阿多、現・鹿児島県西部に比定)の(長屋の)笠狭の御碕(鹿児島県南さつま市笠沙町の野間岬に比定)も、付け加えることで、何とか、韓国と向かい合わせようとしているようにもみえます。
 また、「日本書紀」にあるのに、「古事記」にないのは、地元の事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ、イザナギの子、シオツツノオジ)が、国を譲り、ニニギが、そこに住む場面ですが(本・2・4・6)、それがあるものには、日向の前に筑紫の記載がありません。
 さらに、ニニギは、移動地で、コノハナノサクヤヒメ(イザナギとイザナミの子・オオヤマツミの娘)と結婚しますが、彼女の別名は、[神吾田鹿葦津姫(かんあたかしつひめ、紀・2・3・5)・神吾田津姫(かんあたつひめ、紀・本・6、記・神代6‐5段)]と、九州南部の阿多出身のようです。
 ニニギとコノハナノサクヤヒメの間には、ホオリ(記・3、アマツヒコヒコホホデミ/記・神代6‐5段、ヒコホホデミ/本・2・3・5・6・7・8、ホノオリ/2・6)、ホデリ(記、ホノスソリ/本、ホノスセリ/2・3・6・8、ホノススミ/3・5、ホノヨオリ/7)、ホスセリ(記、ホノアカリ/本・2・3・5・7)が誕生しました。
 ホオリ(山幸彦)は、ウガヤフキアエズ‐イワレヒコ(神武天皇)とつながる直系、ホデリ(海幸彦)は、[隼人等(紀・神代下9段本、10段2)・吾田の君小橋(おばし、紀・神代下10段本)・隼人の阿多の君(記)]の祖、ホスセリは、尾張の連等の祖(本)で、ホデリも、九州南部と結び付けています。
 このように、一書を利用することで、天孫降臨を、筑紫から日向へと摩り替えようとしているのが読み取れます。
 
 では、なぜ、そうしたのかといえば、「旧唐書日本伝」にあるように、筑紫政権の倭国と、大和政権の日本国は、別種で、筑紫から大和へと、直接移動すれば、同一政権の遷都になってしまうからです。
 なので、倭国の中心である筑紫から、周縁の日向へと、いったん下らせ、そこから、大和へと上らせることで、日本国が、倭国と連続していないように、みせかけようとしているのでしょう。
 ここまでみると、ニニギの降臨地・居住地は、「魏志倭人伝」での倭の5ヶ国(末盧国・伊都国・奴国・不弥国・邪馬壱国)一帯だということがわかります。
 
 そして、前章より、当初は、兄的な天のつく国が、弟的な日のつく国を、統治していたと推測できますが、倭の7ヶ国(5ヶ国+対海/対馬国・一大/壱岐国)は、伊都国の一大率に、監視・統治され、畏怖していたとあるので、この一大率は、一大国の出身者に由来するのではないでしょうか。
 「古事記」での壱岐国の亦の名は、「天比登都柱(あめひとつばしら)」=天一柱と、中心が表現されているようで、ニニギ降臨地の「槵触・久士布流(両方とも、くしふる)」は、現在の壱岐の農村の地名にも多用されている、「触(ふれ)」を想起させます(ちなみに、壱岐の漁村の地名は「浦」です)。
 天孫降臨の実際は、おそらく海上武装船団の筑前侵攻ですが、国作り・国譲り後なので、ニニギが、稲穂の神として、五穀豊穣をもたらすとしたのではないでしょうか。
 「魏志倭人伝」には、一大率が、伊都国に常駐したとあるので、周船寺(すせんじ、福岡市西区)は、律令制の主船司(しゅせんし、兵部省内で、船舶・船具を管理する役所)の前身と推測できます。
 
 他方、日向国や阿多(吾田)は、「魏志倭人伝」で、九州南部にあったと推定できる、投馬国(不弥国から南へ水行20日)の位置にあたります。
 ちなみに、狗奴国は、「魏志倭人伝」では、邪馬壱(台)国をはじめとする、倭の28ヶ国の南とありますが、「後漢書倭伝」では、東に1000余里と訂正されたので、九州東部にあったと推定でき、投馬国とは別所になります。
 投馬国では、役人の職務の、官をミミ、副をミミナリといいますが、神武天皇(初代、カンヤマトイワレヒコ)の息子達には、タギシミミ・キスミミ(記のみ)・カンヤイミミ・カンヌナカワミミ(のちの綏靖天皇/2代)と、ヒコヤイ(記のみ)以外に、ミミが名づけられています。
 それに、神武天皇の兄弟には、イツセ・イナイ・ミケイリ(ミケヌ、記)がいて、自分の別名は、サノですが、それぞれ五ヶ瀬川(ごかせがわ、日向)・荷原(いないばる、福岡県朝倉市→筑紫)・三毛郡(みけのこおり、豊)・佐野町(宮崎県延岡市→日向)と、九州の地名が名づけられています。
 このように、天皇は、大和政権にもかかわらず、建国期前後には、九州を相当意識していることがわかります。
 
 ニニギの降臨地である、筑紫国の日向山・日向峠・日向川近辺には、吉武高木遺跡(福岡市西区吉武)があり、そのうち、紀元前2世紀頃の3号木棺墓には、細形銅剣2・細形銅矛1・細形銅戈1・銅鏡1・勾玉1・管玉95が副葬され、剣・鏡・勾玉の三種の神器がそろう、最古の王墓と有力視されています。
 吉武高木遺跡には、集団墓地だけでなく、紀元前1世紀頃の大型掘立柱建物跡(廻縁付)も発見され、壱岐から筑前へと侵攻し、最初に定着した地区と推測できます。
 邪馬壱(台)国=九州北部説をとり、「魏志倭人伝」の世界は、3世紀前半、壱岐から筑前への侵攻は、紀元前2世紀頃なので、筑前から筑後への平定→九州全土の平定は、1~2世紀頃と算定できます。
 
(つづく)