筑紫政権から大和政権へ3~神功皇后の筑後平定 | ejiratsu-blog

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(つづき)
 
 
■神功皇后(14-15代の間)の筑前からの筑後平定
 
 記紀神話での、日本列島内の征討は、神武天皇(初代)の大和平定、崇神天皇(10代)の4道か3地域に将軍派遣、景行天皇(12代)の熊襲平定(紀のみ)、ヤマトタケルの熊襲平定・出雲平定(記のみ)・蝦夷(東国・陸奥)平定、仲哀天皇(14代)・神功皇后(紀のみ)夫妻の熊襲平定があります。
 このうち、崇神天皇の将軍派遣とヤマトタケルの蝦夷平定は、九州とは無関係な、大和政権の物語なので除外し、景行天皇は、九州北部に侵入しておらず、九州中部・南部に遠征し、神功皇后は、筑前から筑後への遠征のみで、そののちに新羅出陣となっています。
 なお、仲哀天皇は、「古事記」では、熊襲征討の計画段階に、神託で、新羅平定の進言がありましたが、筑前から新羅が見えないので、神を不信に思うと、それなら天皇が統治すべきでないと、神に激怒され、神託の途中で急死しています。
 一方、「日本書紀」では、本文は、仲哀天皇が、熊襲に攻め込み、戦勝できず、香椎宮に帰還し、そののち、病気で急死していますが、一説として、天皇自身が出陣し、熊襲の矢で戦死したとあり、君主として格好よくない、こちらが史実で、神託や病気での急死は、後世の潤色だと推測できます。
 また、景行天皇は、九州遠征の途中で、これから京まで、筑紫国の巡狩(じゅんしゅ、辺境地の視察)だと明記されているので(景行18年3月)、前半の九州中東部・南部が征討、後半の九州中西部が巡行と二分でき、九州中西部は、すでに筑紫国の勢力下で、九州北部からの遠征だったことがわかります。
 そうなると、熊襲の勢力範囲が、景行天皇の時代には、九州北部(筑紫=筑前+筑後)・中西部以外だったのが、仲哀天皇・神功皇后の時代には、筑前以外で、筑後まで押し込まれて拡大したことになってしまい、まるで時代が逆行しているようです。
 他方、邪馬壱(台)国=九州北部説をとり、3世紀前半の「魏志倭人伝」の世界を、邪馬壱国をはじめとする倭の7ヶ国は、九州北部、狗奴国は、九州東部、投馬国は、九州南部とすれば、倭の21ヶ国は、邪馬壱国以南なので、筑紫平野・熊本平野まで勢力下となり、ほぼ九州中西部と推測できます。
 そして、九州北部を中心とする倭国の勢力は、4世紀終り~5世紀初めに、朝鮮半島へ渡海し、高句麗と交戦したので、その最中に、背後の九州中部・南部の熊襲から攻撃されると、国家滅亡の危機になるで、4世紀代には、九州全域を、ほぼ平定していたと推測できます。
 つまり、3世紀前半は、熊襲の勢力範囲が、大幅に縮小されていた時期で、その前の時代が、景行天皇の筑紫からの九州平定、その前の時代が、神功皇后の筑前からの筑後平定とみるのが自然です。
 その前の時代が、紀元前2世紀頃の、海上武装船団の壱岐からの筑前平定(天孫降臨)なので、神功皇后の筑前からの筑後平定→景行天皇の筑紫からの九州平定は、1~2世紀頃だったと推測できます。
 
 神功皇后の筑前からの筑後平定は、「古事記」にはなく、「日本書紀」のみで、その前後の足跡を列挙すると、次に示す通りです。
 
○橿日(かしひ、香椎)宮
・仲哀8年1月21日:仲哀天皇(14代)が、筑紫の儺県(ながあがた、現・福岡県博多区)の橿日宮(香椎宮)に一時滞在
・仲哀8年9月5日:仲哀天皇が、群臣に、熊襲征討を相談していると、天皇と皇后に、天皇の船・水田を、その神に献上・祭祀し、荒廃した土地の熊襲よりも、良好な土地の新羅に攻め込めば、新羅が服従し、熊襲も服従するとの神託があったが、天皇はそれを無視、熊襲に攻め込んだが、戦勝できず帰還
・仲哀9年2月9日:仲哀天皇が、神託を信用しなかったので、筑紫・香椎宮で、病気により急死、一説として、天皇自身が、熊襲征討に出陣し、敵の矢で戦死したとあり
・仲哀9年3月1日:神功皇后が、神主となり、斎宮で祭祀、神託があり、皇后は、熊襲国を平定するため、カモノワケ(鴨別、吉備の臣の祖)を派遣し、すぐに服従
 
○御笠(みかさ、現・福岡県太宰府市御笠)
○松峡宮(まつおのみや、現・福岡県筑前町栗田)
・仲哀9年3月17日:神功皇后が、荷持田村(のとりたのふれ、現・福岡県朝倉市秋月野鳥)のハシロクマワシ(羽白熊鷲、翼があり、高く飛べる半神半人)を討ち取るため、香椎宮から松峡宮へ移動し、その途中で、笠が風で吹き飛ばされ、御笠(みかさ)と命名
 
○層増岐野(そそきの)
○安(やす、旧・福岡県夜須郡、現・筑前町安野)
・仲哀9年3月20日:神功皇后が、層増岐野へ移動し、ハシロクマワシを殺害し、安心になったので安と命名
 
○山門県(やまとのあがた、旧・福岡県山門郡、現・柳川市・みやま市)
・仲哀9年3月25日:神功皇后が、山門県へ移動し、ツチグモ(土蜘蛛)のタブラツヒメ(田油津媛)を殺害し、ナツハ(夏羽、タブラツヒメの兄)が逃走
 
○松浦県(まつらのあがた、北~東松浦半島、現・長崎県~佐賀県)
・仲哀9年4月3日:神功皇后が、肥前国・松浦県の玉島里(たましまのさと、現・佐賀県唐津市の玉島川河口)で、食事をした際、魚が釣れたら、新羅に攻め込むという占いをし、珍しいアユが釣れたので、実行することにし、梅豆羅(うめずら、松浦)と命名、それがきっかけで、女性のみ4月上旬から、アユ釣解禁(「古事記」神功3段では、新羅平定後の訪問で、釣をした川を小河/おがわ、岩を勝門比売/かちどひめと命名)
 
○裂田溝(さくたのうなで、現・福岡県那珂川町)
・神宮皇后が、新羅出発の準備のため、食糧確保の神田を設定し、那珂川の水を引き入れようとしたが、水路の途中に岩があったため、武内の宿禰に、祭祀で水路を完成させるよう命令、雷で岩を破壊できたので、裂田溝と命名
 
○香椎宮
・神功皇后が、香椎宮に帰還し、髪を海水につけ、2つに分かれれば、新羅が平定できると占うと、その通りになったので、男性の髪形に束ね、群臣にも、相談したうえで、新羅出陣を決意
 
 以上より、神功皇后軍が戦闘したのは、層増岐野(安)と山門県の2ヶ所で、それらは、筑後の筑紫平野ですが、それ以外は、筑前の福岡平野~糸島平野で、そこは、神功皇后の元々の勢力範囲だったと推測できます。
 
  ところで、九州北部の人骨を調査すると、紀元前3~紀元前2世紀には、福岡平野~糸島平野で、戦争犠牲者のが、多数出土し、紀元前1世紀には、福岡平野~糸島平野で減少する一方、筑紫平野で増加しています。
 特に、隈・小西田遺跡(現・福岡県筑紫野市)では、無惨な戦争犠牲者のが、多数出土しており、筑前から筑後へと、勢力拡大したとも読み取れます。
 
 ここまでみると、筑紫政権は、壱岐から筑前→筑後→九州と、徐々に勢力拡大しましたが、大和政権は、それを逆手にとり、崇神天皇の将軍派遣や、ヤマトタケルの蝦夷平定で、東日本に勢力拡大しつつ、西日本の出雲や、九州→筑紫と、徐々に筑紫政権を追い込んだ歴史を、「日本書紀」で捏造しています。
 
(つづく)