筑紫政権から大和政権へ1~国生み | ejiratsu-blog

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 「後漢書倭伝」「魏志倭人伝」「宋書倭国伝」「隋書俀国伝」「旧唐書倭国伝」「旧唐書日本伝」「新唐書日本伝」等、古代中国の歴史書での倭国や日本国の記事を読み解くと、かつては、九州北部が中心の筑紫政権と、畿内が中心の大和政権の、二大勢力が存在していたことがわかります。
 それが、663年の白村江の合戦での大敗後から、大和政権が徐々に、筑紫政権を乗っ取る格好となり、701年の大宝律令で、大和政権が、東北南部~九州中部を、ほぼ掌握するようになりました。
 ちょうどその時期の、681年に、天武天皇(40代)が、国史の編纂を命令し、712年に、対内的な「古事記」が、720年に、対外的な「日本書紀」が完成、記紀神話でも、大和政権が、筑紫政権を乗っ取ったかにみえましたが、そこには、筑紫政権の隠し切れない痕跡が散見できます。
 ここでは、筑紫・大和の両政権の優勢・劣勢が、時代とともに、どう移り変わったのかを、記紀神話の中で、みていくことにします。
 
 
■国生み
 
 兄で夫のイザナギと妹で妻のイザナミによる国生みには、[努矛(ぬぼこ、玉で飾り付けた矛、本)・天(あま)の瓊戈(ぬぼこ、1)・天の瓊矛(ぬぼこ、2・3・4)・天(あめ)の沼矛(ぬぼこ、記)]と、矛や戈(か)の道具が使用されています。
 一方、弥生中期・紀元前2世紀頃から西日本で普及した青銅器は、弥生後期・紀元前後頃になると、九州を中心に、銅矛・銅戈・銅剣が、近畿を中心に、銅鐸が分布するようになったので、国生みは元々、矛や戈の祭器文化をもつ、筑紫政権の神話だったのを、大和政権が乗っ取ったと推測できます。
 記紀神話の国生みに登場する「洲」「島」は、次に示す通りですが、「日本書紀」神代上4段の本文には、「洲国」とあるので、「しま」とするよりも、「くに」と解釈すべきです。
 なお、「大洲」は、大国と変換すれば、大国主(オオクニヌシ、出雲大社の主祭神)の神が連想でき、記紀神話にも出雲が登場し、国作り・国譲りがあるのに、出雲の国生みがないのは、不自然なので、出雲国とみるべきです。
 「大日本(倭)豊秋津州(島)」は、豊国の秋津とすれば、大日本の添付で、「魏志倭人伝」で中心地だった筑紫国よりも、豊国が中心地になってしまううえ、大和政権が編纂した記紀神話に、大和の国生みがないのは、不自然なので、大和国とみるべきです。
 
○大八洲国(おおやしまのくに、紀・神代4段本・1)・大八島国(記、神代2‐2段)
・淡路国:淡路洲(本・1・6・7・8・9・10)、淡路之穂之狭別(さわけ)島(記)
・大和国:大日本豊秋津洲(本・1・6・7・8・9)、大倭豊秋津島(記)
・伊予国:伊予の二名洲(本・1・7・8・9)、伊予洲(6)、伊予之二名(ふたな)島(記)
・筑紫国:筑紫洲(本・1・6・7・8・9)、筑紫島(記)
・隠岐国:億岐洲(本双・6双・7・8)、億岐の三子洲(1・9)、隠岐之三子(みつご)島(記)
・佐渡国:佐度洲(本双・1・6双・7・8・9)、佐度島(記)
・越国:越洲(本・1・6・8)
・大国(出雲国):大洲(本・6・9)
・吉備国(吉備の子洲(本・1・8・9)、子洲(6)、吉備の児島(記)
・阿波国:淡洲(6・9)
・壱岐国:壱岐島(1)、壱岐洲(7)、伊伎(いき)島(記)
・対馬国:対馬島(1)、対馬洲(7)、津島(記)
○六島(吉備の児島以外、記)
・小豆(しょうど)島(現・香川県):小豆(あずき)島(記)
・周防大島(屋代/やしろ島):大島(記)
・姫島(現・福岡県糸島市):女(ひめ)島(記)
・五島列島(現・長崎県):知訶(ちか)島(記)
・男女群島(現・長崎県):両児(ふたご)島(記)
 
※本:「日本書紀」の本文、数字:「日本書紀」の一書第○、記:「古事記」
 
 以上より、大八洲(島)国+六島をまとめると、次のようになります。
・日本海側:男女群島・五島列島・対馬国・壱岐国・筑紫国・姫島・大国(出雲国)・隠岐国・越国・佐渡国
・瀬戸内海側:周防大島・伊予国・吉備国・小豆島・淡路国・阿波国
・その他:大和国
 
 大八洲(島)国の各国は、当時の日本列島のほぼ西半分の主要国だったと推測でき、大和国以外は、海岸に立地しているので、交易の拠点で、海人(あま)族が活動していたとみられます。
 このうち、筑紫国は、壱岐国・対馬国・朝鮮半島への南北軸と、佐渡国から男女群島までの東西軸が、直交する交点に位置するとともに、瀬戸内の国・島とも接続するので、大八洲(島)国の中心といえる一方、大和国のみ、内陸の異質な存在で、まるで後世に追加されたようです。
 ここで、日本列島のほぼ西半分しかないのは、古代日本では、国土を、都のあるアメ(天、葦原中つ国)→アズマ(東、東国)→ヒナ(鄙、夷狄/いてき)の3領域に序列化し、ほぼ西半分はアメ、北陸以外の中部・関東はアズマ、東北・九州南部はヒナ(蝦夷/えみし・熊襲)に相当していたからです。
 「古事記」でも、雄略天皇(21代)の時代に、伊勢国・三重郡の采女(うねめ)による歌謡(天語歌/あまがたりうた)で、アメ・アズマ・ヒナが取り上げられています(雄略6段)。
 
 大日本(倭)豊秋津洲(島)は、「日本書紀」では、神武天皇(初代)が、掖上(わきかみ)の頬間(ほほま、現・奈良県御所市本間)の丘で国見し、奈良盆地周囲の山々を、トンボ(蜻蛉/あきつ)が交尾しているようだといったので、秋津洲(あきつしま)と命名されたとしています。
 また、イザナギやニギハヤヒ(物部氏の祖先、天磐船/アメノイワフネで大和へ降臨)が、そこを「日本(やまと)」と表現したともあり(神武31年4月1日)、「古事記」では、孝安天皇(6代)の宮殿が、葛城の室(現・奈良県御所市室)の秋津島宮とされています。
 さらに、雄略天皇(21代)が、川上の小野(現・奈良県吉野郡川上村)で狩をした際、アブが、天皇の肘をかみ、トンボが、そのアブをくわえて飛び去ったので、天皇は、トンボを和歌で称賛、大和を蜻蛉島とし、そこが、蜻蛉野(雄略4年8月20日)・阿岐豆野(あきずの、雄略4段)と命名されました。
 このように、大日本(倭)豊秋津洲(島)は、けっして本州を指し示す言葉ではなく、狭義の大和国か、「大」を添付しているので、せいぜい広義の畿内程度の範囲を想定すべきです。
 「古事記」では、伊予之二名島を、伊予国・讃岐国・粟(阿波)国・土左(土佐)国の四国全域に、筑紫島も、筑紫国・豊国・肥国・熊曽(くまそ、熊=現・熊本県南部、曽・襲=現・宮崎県南部+鹿児島県)国の九州全域に拡大させたので、四国・九州に匹敵するよう、本州を持ち出したのでしょう。
 
 他方、大八洲(島)国は、孝徳天皇(36代)が、「現為明神御八嶋国天皇(あきつみかみとやしまぐにしらすすめらみこと)」(646/大化2年3月20日)、天武天皇(40代)が、「明神御大八洲倭根子天皇(あきつみかみとおおやしましらすやまとねこのすめらみこと)」(683/天武12年1月18日)といわれています。
 つまり、大八洲(島)国は、7世紀半ば~後半に登場しているので、古い言葉ではなく、比較的新しいようで、8の吉数に合わせるように、国が選ばれており、最多登場数は、淡路国の8個、大和国・伊予国・筑紫国・隠岐国・佐渡国の7個なので、これらが重視されていたといえます。
 
 ところで、「古事記」の国生みでは、島(国)の大半に、別名(亦/またの名)が併記されており、それらは、次に示す通りですが(神代2‐2段)、神の名前のようで、「天」がつくもの、「日」がつくもの、その他の3つに大別できます。
 
○「天」がつくもの
・隠岐国:天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
・壱岐国:天比登都柱(あめひとつばしら)
・対馬国:天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
・大和国:天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
・姫島:天一根(あめひとつね)
・五島列島:天之忍男(あめのおしお)
・男女群島:天両屋(あめふたや)
○「日」がつくもの
・吉備国の児島:建日方別(たけひかたわけ)
‐九州(島の体1つに4つの顔の名)
・筑紫国:白日別(しらひわけ)
・豊国:豊日別(とよひわけ)
・肥国:建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)
・熊曽(熊襲)国:建日別(たけひわけ)
○その他
・小豆島:大野手比売(おおのでひめ)
・周防大島:大多麻流別(おおたまるわけ)
‐四国(島の体1つに4つの顔の名)
・伊予国:愛比売(えひめ)
・讃岐国:飯依比古(いいよりひこ)
・粟(阿波)国:大宜都比売(おおげつひめ)
・土左(土佐)国:建依別(たけよりわけ)
 
 まず、「天」がつくものは、大和国以外、対馬海流上の島々で、アメと読まれ、海人族の活動が推測でき、大和国のみ、島でない異質な存在で、しかも唯一アマと読まれており、まるで後世に追加されたようです。
 記紀神話では、天上(高天原)‐地上(葦原の中つ国)‐地下(黄泉の国)という垂直的な世界観と、海の彼方(龍宮等)‐国土(葦原の中つ国)‐陸の彼方(根の国)という水平的な世界観を、交錯させていますが、各神が、地上・国土のどこに登場したかを列挙すると、次のようになります。
 
・イザナギ:イザナミのいる黄泉の国から、[竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわきはら、記・神代2‐6段)・筑紫の日向の小戸の橘之檍原(あわきはら、紀・神代上5段6)・橘之小門(おど、10)]に帰還し、水で穢れを清め、アマテラス・ツクヨミ・スサノオ等が誕生
・スサノオ:天から、[出雲国の簸(ひ)之川上(紀・神代上8段本)・出雲国の肥の河上の鳥髪(記・神代3‐5段)・新羅国(そこから出雲国の簸の川上の鳥上/とりかみ之峯に移動、紀・神代上8段4)]に降臨
・ニニギ:天から、[日向の襲(そ)之高千穂の峯(たけ)…槵日(くしひ)の二上の天の浮橋(紀・神代下9段本)・筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)之峯(1)・日向の槵日の高千穂之峯(2)・日向の襲之高千穂の槵日の二上峯(ふたかみのたけ)の天の浮橋(4)・日向の襲之高千穂の添(そほり)の山の峯(6)・竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)(記・神代6‐3段)]に降臨
・[フツヌシ(紀)・アメノトリフネ(記)]+タケミカツチ:[オオアナムチ(紀)・オオクニヌシ(記)]に国譲りを迫るため、天から、[出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀(おはま、神代下9段本・2)・出雲(1)・出雲国の伊耶佐(いざさ)の小浜(記・神代5‐3段)]に降臨
・ニギハヤヒ:天から、アメノイワフネで、大和に降臨
 
 このように、ニギハヤヒの大和以外、天から、筑紫・出雲・新羅に降臨しているので、天上(高天原)の世界を、地上に比定すると、経由地なしで直接到着できる場所は、筑紫・出雲と新羅の間になり、それは、亦の名に「天」がつく、対馬海流上の島々の中で、壱岐・対馬近辺になります。
 
 つぎに、「日」がつくものは、筑紫国・豊国・肥国・熊襲国と吉備国の児島で、これらの地域は、「魏志倭人伝」で、対馬国・壱岐国以外の、邪馬壱国を中心とした倭の28ヶ国+倭種の国の範囲と、おおむね一致します。
 肥国の建日向日豊久士比泥別は、建日別(熊曽国)に向かう途中にある、奇霊(くしひ、有明海・八代海の不知火/しらぬい)が出る、豊国の分国という意味になります(淡路は、淡/阿波への道で、後述の筑紫後国/つくしのみちのしりのくには、筑紫の道の尻の国です)。
 これは、筑紫国からの視線なので、筑紫国が中心地だったと推測できますが、その反対方向には、天一根(姫島)・天一柱(壱岐国)と、「天」への一本の根源柱という海路が、軸線として強調されています。
 筑紫国の白日別は、大年(おおとし)神(スサノオとオオヤマツミの娘・オオイチヒメの子)とイノヒメの子の、白日(しらひ)神と推定されます(「記」神代4‐7段)。
 白日神の兄弟には、大国御魂(おおくにみたま)神(オオクニヌシの別名、出雲)・韓(から)神(韓半島)・曽富理(そほり)神(筑紫の日向の高千穂→筑前)・聖(ひじり、日後)神(筑紫後国/つくしのみちのしりのくに→筑後)がいて、筑前・筑後・出雲・韓半島と、ここでも天からの降臨先です。
 余談ですが、粟国のオオゲツヒメは、亦の名の中で唯一、他の段にも登場し、イザナギとイザナミの子で、食物の女神とされています。
 スサノオが、オオゲツヒメに、食事を要求すると、彼女は、鼻・口・尻から取り出して調理しようとし、それをスサノオが、穢して差し出すのだと思い、彼女を殺しました。
 すると、彼女の頭からカイコ、目からイネ、耳からアワ、鼻からアズキ、陰部からムギ、尻からダイズが生まれ、それをカミムスヒが取り、五穀の種となりましたが(記・神代3‐4段)、彼女は、大年神の子のハヤマトと結婚し、8神を誕生させてもいます(記・神代4‐7段)。
 
 「天」と「日」の関係で思い起こすのは、「隋書俀(倭)国伝」で、600年に、俀(倭)王が、隋の文帝(初代、楊堅/ようけん)に朝貢した記事です。
 そこでは、倭王の使者が、「俀王は、天を兄とし、日を弟としている。天は、まだ夜が明けない時に出て、政務を聴き、あぐらをかいて座り、日が出れば、政務を止め、わが弟(である日の働き)に委ねよう、といいます」と説明しています。
 ここは、兄弟統治説もあるようですが、もし、そうであれば、王(兄)や妻子の名前が記載されているのに、妻子よりも重要な弟が、まったく登場しないので、兄は、倭王のアメ(天)氏、弟は、太陽と解釈するのが自然で、隋皇帝が批判したのは、倭王に日中の政務がないことではないでしょうか。
 官僚の朝廷出仕は、「日本書紀」によると、大派王(おおまたのおおきみ、敏達天皇/30代の子)が、大臣の蘇我蝦夷に、群臣・官僚は、朝廷の出仕を怠けているので、午前6~10時の勤務時間とし、鐘で時刻を知らせるようにといったのに、蝦夷は、それにしたがわなかったとあります(636/舒明8年7月1日)。
 そののち、孝徳天皇(36代)は、小郡(おごおり)宮で、官僚の出仕の礼法を作成しており、午前4時に南門外で左右に整列し、日の出まで待機、広場で再拝して登庁し、遅刻は入庁禁止で、正午の鐘で帰宅してよいとなっています(647/大化3年)。
 これらから類推すると、倭王は、「天」で、兄的な存在とされ、日の出前に仕事し、官僚は、「日」で、弟的な存在とされ、日の出後に(午前中のみ)仕事していたと推測できます。
 人民については、前述の、壱岐国・対馬国等、天がつく国(島)は、漁労・交易等の海洋民が主流で、天候に左右され(雨か日か・波・潮等)、日の出前に、出航・出漁等を決断しなくてはいけないので、先行型といえます。
 筑紫国・豊国・肥国等、日がつく国は、水田稲作・加工作物等の農産民が主流で、太陽に左右され(雨か日か等)、日の出後に、作業を開始するので、後行型といえます。
 そして、天がつく国(島)は、先行型なうえ、生死に関わるため、雨か日(晴)かだけでなく、波・潮も読む必要があるので、兄的な存在、日がつく国は、後行型なうえ、雨は休み、日(晴)は働き、雨が降り出せば、作業を中断すればよいので、弟的な存在だと導き出せます。
 よって、「隋書俀国伝」「旧唐書倭国伝」では、倭(俀)王の姓が、アメ(天)氏なので、「天」と「日」の兄弟関係を、国土にあてはめると、当初は、兄的な天のつく国が、弟的な日のつく国を、統治していたと推測できます(大和国や四国は圏外)。
 それが、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓も、アメ(天)氏なので、大和政権が、筑紫政権の姓を、乗っ取っており、後世に、大和国の亦の名も、天がつくようにし、天(アメ)→東(アズマ)→鄙(ヒナ)の序列も創り出したのでしょう。
 そうして、天と日を統合させ、中国の皇帝と同様、一元化・絶対化したのが、太陽神・アマテラス(天を照らす)を特別視し、国史の編纂を命令した、天武天皇(40代)です。
 しかし、天皇の超越性は、それほど長くは続かず、天と日の二分や、夜と昼の二分は、やがて、権威と権力の二分や、神事・祭事と人事・政事の二分へと、移り変わっていきました。
 
(つづく)