鴨長明「方丈記」読解4~福原への遷都 | ejiratsu-blog

ejiratsu-blog

人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)
 
 
 [4]福原への遷都
 
・また、治承四年水無月(みなづき)の頃、俄(にはか)に都遷(みやこうつ)り侍りき。
《また、治承4(1180)年6月の頃、急に遷都がありました。》
・いと、思ひの外(ほか)なりし事なり。
《まったく思いがけないことだった。》
・大方(おほかた)、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後(のち)、既に四百余歳を経たり。
《そもそも、この京都のはじまりを聞いたところでは、嵯峨天皇(52代)の時代に、都と定まって以降、すでに400年あまりが経過している。》
・異なる故(ゆゑ)無くて、容易(たやす)く改まるべくも有らねば、これを世の人、安からず、憂へ合へる、実(まこと)に理(ことわり)にも過ぎたり。
《特別な理由がなくて、簡単に改められるはずがないので、これ(遷都)を世間の人々が不安に思い合っていることは、まったく道理をも超越している。》
 
・されど、とかく言ふ甲斐(かひ)無くて、御門(みかど)より始め奉(たてまつ)りて、大臣・公卿、皆悉(ことごと)く移ろひ給ひぬ。
《しかし、あれこれ言ってもどうしようもなくて、天皇をはじめとして、大臣・公卿も皆ことごとく、お移りになった。》
・世に仕(つか)ふる程の人、誰か一人、故郷(ふるさと)に残り居らむ。
《朝廷に仕えるほどの人は、誰ひとり、旧都に残っていられようか。》
・官・位に思ひを懸(か)け、主君の蔭を頼む程の人は、一日成りとも、疾(と)く移ろはむと励む。
《官職・官位に望みをかけ、主君の恩恵を頼みにするほどの人は、一日でも急いで移ろうと励む。》
・時を失ひ、世に余されて、期(ご)する所なき者は、憂へながら止まり居(を)り。
《時流に乗り遅れ、世間から取り残されて、期待するものがない者は、嘆きながら旧都に留まっている。》
・軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れ行く。
《軒を争っていた人々の住居は、日が経つにつれ、荒れていく。》
・家は毀(こぼ)たれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。
《家は取り壊されて、(新都の建材として)淀川に浮かび、宅地は目の前で畑となっていく。》
・人の心、皆改まりて、唯(ただ)、馬・鞍をのみ重くす。
《人の心は、すっかり変わってしまって、ただ馬や鞍ばかりを重んずる。》
・牛・車を用とする人なし。
《牛・牛車を必要とする人はいない。》
・西南海の所領を願ひて、東北の荘園を好まず。
《西南海方面の領地を欲しがり、東北方面の荘園を好まない。》
 
・その時、自(おのづか)ら事の便り有りて、津の国の今の京に至れり。
《その時、たまたま用事のついでがあって、摂津の国の新都に行った。》
・所の有様を見るに、その地、程狭(せば)くて、条里を割るに足らず。
《その場所の状況を見ると、土地の面積は狭くて、区画を分割するのに不足している。》
・北は山に沿ひて高く、南は海に近くて下れり。
《北側は、山に沿って高く、南側は、海が近くて下っている。》
・波の音、常に喧(かまびす)しく、潮風殊(こと)に激し。
《波の音が、いつも騒がしく、潮風が、特に激しい。》
・内裏(だいり)は山の中なれば、かの木の丸殿(まろどの)もかくやと、中々様変(ようか)はりて、優なる方(かた)も侍りき。
《内裏は、山の中にあるので、あの木の丸殿(斉明天皇が新羅出兵の時、筑前の朝倉に建造した仮の宮)も、このようなものかと、かえって風変わりで、優雅なところもございます。》
・日々に毀(こほ)ち、川も狭(せ)に、運び下す家、いづくに作れるにか有らん。
《毎日毎日、解体して、川幅も狭くなるほど、運び流した(旧都の)家は、どこに作ったのだろうか。》
・なほ空(むな)しき地は多く、作れる屋(や)は少なし。
《まだ、空き地は多く、建てられた家は少ない。》
 
・古京(こきょう)は既に荒れて、新都は今だ成らず。
《旧都は、すでに荒廃して、新都は、まだ完成しない。》
・有りとし有る人は、皆浮雲の思いを成せり。
《ありとあらゆる人は皆、浮雲のような(落ち着かない)思いを抱いている。》
・元よりこの所に居(を)る者は、地を失ひて憂ふ。
《もともと、この場所にいる者は、土地を失って困っている。》
・今移れる人は、土木の煩(わづら)ひ有る事を歎(なげ)く。
《今回移ってきた人は、土木工事の苦労があることを嘆いている。》
・道の辺(ほとり)を見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠(いくわん)・布衣(ほい)なるべきは、多く直垂(ひたたれ)を着たり。
《道端を見れば、牛車に乗るべき人は、馬に乗り、衣冠・布衣をつけるべき人は、多くが(武士の平服の)直垂を着ている。》
・都の手振(てぶ)り、忽(たちま)ちに改りて、ただ鄙(ひな)びたる武士に異ならず。
《都の風俗は、すぐさま変わって、ただの田舎風の武士達と違わない。》
 
・世の乱るる瑞相(ずいさう)とか聞けるも著(しる)く、日を経つつ、世の中浮き立ちて、人の心も治(をさ)まらず。
《世の中が乱れる前兆だとか聞いたのも、まさにその通りで、日が経つにつれ、世の中が動揺して、人の心も落ち着かない。》
・民の憂へ、遂(つひ)に空(むな)しからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給ひにき。
《民衆の不満が、最後まで空しいということはなくなり、同年の冬に、やはりこの京都にお帰りになられた。》
・されど、毀(こほ)ち渡せりし家どもは、いかに成りにけるにか、悉(ことごと)く元の様にも作らず。
《しかし、一面に取り壊してしまった家々は、どうなったのだろうか、全部が全部、元のように建て直されてはいない。》
・伝へ聞く、古(いにしへ)の賢き御世(みよ)には、憐(あはれ)みを持て国を治め給ふ。
《伝え聞くところによると、昔の賢明な天皇の時代には、慈愛を持って国をお治めになられたという。》
・すなはち、殿に茅葺(かやふ)きて、その軒をだに整へず、煙(けぶり)の乏しきを見給ふ時は、限り有る貢物(みつぎもの)をさへ許されき。
《すなわち、宮殿に茅を葺いても、軒先をさえ切りそろえず、(カマドの)煙の立つのが少ないのを御覧になった時には、限度がある租税までも免除なさった。》
・これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。
《これは、民衆をいたわり、世の中を救済なさろうとするからだ。》
・今の世の中の有様(ありさま)、昔に擬(なぞら)へて知りぬべし。
《今の世の中のありさまは、昔と比較すると、(悪化しているのが、)よくわかるだろう。》
 
 
□考察
 
 福原京(現・神戸市中央区~兵庫区)遷都は、当時政権を主導していた平清盛が強行し、当初は3歳の安徳天皇(81代、高倉の長男、母は清盛の娘・徳子)の行幸で、父の高倉上皇(80代、後白河の七男、母は清盛の妻の異母妹・滋子)・祖父の後白河法皇(77代)も同行、急遽それが遷都になりました。
 福原は、平氏の日宋貿易の拠点港・大輪田泊(おおわだのとまり)に隣接しているので、平安京のような碁盤目状の都市造営に着手し、天皇・上皇・法皇は、平氏の邸宅に宿泊しましたが、整備計画が行き詰ったうえ、源氏の挙兵に対応するため、約半年(6~11月)で平安京に帰還しています。
 文中で、平安京遷都の桓武天皇(50代)の時代ではなく、嵯峨天皇の時代以来の遷都とされているのは、薬子(くすこ)の変で(810年)、平城京に遷都した平城上皇(51代)と、遷都を拒否した嵯峨天皇が対立し、嵯峨天皇は、平城上皇を制圧・出家させると、再度平安京に遷都したからです。
 
(つづく)