雁行配置 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

 敷地の制約はほとんどないが、用途が相互に関連している部屋を複数密集させなければならず、建物が巨大化してしまう場合、部屋各々で採光・通風・眺望等を確保し、樋なしの屋根でも雨水処理が集中しすぎないようにするには、雁行配置が得策で、二条城二の丸御殿や桂離宮が有名です。
 これらは両方とも書院造ですが(桂離宮は数奇屋造風ともいわれますが)、一室・多棟の寝殿造が、時代の経過とともに、多室・一棟の書院造へとやや凝縮されており、これは貴族による形式主義(儀式重視)から武士による機能主義(効能重視)へと社会が移り変わった結果だともいえます。
 このように、複雑化・多様化した条件で雁行配置が生み出されたといえますが、その根底には不変・不動=「死」、変化・変動=「生」という意識があり、中国の仏寺や王宮(欧米も)由来の中心性・対称性・正面性をあえて崩したい・壊したい衝動から、雁行配置が愛好されるようになったのではないでしょうか。
 
 
●二条城二の丸御殿
 
 二条城は、徳川家康の京都での滞在所が起源で、江戸初期(1603年)の将軍任命の際には、伏見城から二条城へ入城し、そこから京都御所での任命の儀式に出席、そののち二条城で重臣や公家と将軍就任の儀式を執り行い、この将軍任命の手順は2代・秀忠(1605年)や3代・家光(1623年)も踏襲しました。
 また、家康と秀吉の子・豊臣秀頼は二の丸御殿で会見し(1611年)、家康が秀頼に戦勝した大坂冬の陣の際には、2代将軍・秀忠が伏見城から大坂城へ出撃する一方、大御所・家康は二条城から出撃しています(1614年)。
 さらに、3代将軍・徳川家光+大御所・秀忠が、秀忠の娘・徳川和子を後水尾天皇と結婚させる際には、二条城から送り出し(1620年)、2人の間に誕生した娘を6歳で明正(めいしょう)天皇(109代)として即位させましたが(1629年)、女帝の慣例から生涯独身で、皇室に徳川の血統は入り込みませんでした。
 後水尾天皇(108代)が二条城に訪問(行幸/ぎょうこう)する際には(1626年)、そのために大改修しており、それは庭園やその対岸に増築した行幸御殿・中宮御殿・能舞台等の部分です。
 なので、それ以前から奥行性+権威性のある雁行配置は存在し、そこは改装で対応したようで、その際には敷地の西半分を拡張してそこを本丸、東半分を二の丸とし(ズレた外堀にその痕跡があります)、本丸の南西隅に廃城になった伏見城の天守が移築されました。
 二条城の立地は、平安京の大内裏(天皇の居所と朝廷の諸官庁舎の区画)南東隅と、神泉苑(しせんえん、天皇の庭園)の北半分にまたがっており、堀川通りの南東隅から東入りします。
 よって、南東側の車寄(くるまよせ)付の遠侍(とおざむらい、家臣の詰所)から式台が家臣の領域、大広間が将軍と家臣が対面する領域、その先の蘇鉄(そてつ)の間の奥が将軍の領域で黒書院(執務・接客の場)、北西側の白書院(生活の場)へと雁行に配置されています。
 部屋から庭園への眺望は、書院造だと引き違い戸が多用されているので、景色が額縁効果で半分切り取られて半開半閉ですが、将軍と大名達が一同に対面する大広間では、主君の権威を誇示するために、障壁画に取り囲まれて全閉でき、下段の間より上段の間のほうが高いうえに広く、序列化が強調されています。
 むしろ、雁行の広縁を通過する際に、引き違い戸による半開半閉で、庭園への眺望を体感するしかなく、その奥に天守が直立していることになります。
 現代の感覚だと、この雁行配置では西日が懸念されますが、寝殿造のように、それほど室内外が一体化しておらず、軒・庇+広縁+障子で日照を調整し、せいぜい半開半閉なので対応でき、それより堀川通りからの東入りを重視したのでしょう(堀川通りは現在も、南北をつなぐ主要な大通りです)。
 振り返ると、自分の権威を誇示するための装置は、織田信長では安土城の天守でしたが、豊臣秀吉では御殿の広間での対面で(天守は外観のみで倉庫化)、家康では秀吉の手法を継承、大名達も家康の手法を、家臣達も大名の手法を取り入れ、書院造は対面のための様式で、主従・上下関係を視覚化しました。
 ですが、家光の時代に江戸への参勤交代が制度化されると(1635年)、大勢の大名が京都に集合することはなくなり、後水尾天皇の行幸後は、家光が1度使用しただけで(1634年)、しばらく放置され、荒廃していたようです。
 それが江戸末期になると、公武合体の一環で仁孝(にんこう)天皇(120代)の娘・和宮親子(かずのみやちかこ)内親王と結婚した14代・家茂が、義兄・孝明(こうめい)天皇(121代)ら朝廷と協議するため、二条城を改修して2度使用(1863・1865年)しました(将軍は229年ぶりの京都滞在)。
 15代・慶喜の将軍任命の際には、二条城へ入城し(1866年)、それ以来ずっと京都で政権を主導、幕府の天皇への政権返上(大政奉還)の検討・決定も、慶喜は重臣達と二条城で執り行いました(1867年)。
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 ところで、二条城は京都御所の裏鬼門(南西部)に位置しますが、京都御所の西方で二条城の北方にはかつて秀吉の聚楽第があり、聚楽第も二条城と同様、堀川通りからの東入りでした。
 秀吉は、安土桃山期・天下統一の翌年で文永の役の前年に、東側の京都御所と西側の聚楽第、戦国中・後期に発展した北側の上京(かみぎょう)町組(自治組織)と南側の下京(しもぎょう)町組の東・西・南・北4箇所を中心とし、点在する主要な寺社も取り囲むように土塁(御土居)を造営しました(1591年)。
 秀吉が姉の長男・豊臣秀次に豊臣家当主と関白を譲位する際には、聚楽第も譲り渡しましたが(1591年)、秀吉と淀の間に豊臣秀頼が誕生すると(1593年)、秀吉は秀頼を後継者にするため、秀次に謀反の疑惑があるとして切腹させ(1595年)、聚楽第を破却し、その大半を伏見城へ移築しました。
 秀吉が死去し(1598年)、家康が台頭すると、道路を分断していた御土居からしだいに取り壊されていき、関ヶ原の合戦の翌年(1601年)から二条城の工事が開始されるとともに、家康は伏見城・大坂城・豊国神社等、秀吉の痕跡を消去するのに躍起になっています。
 余談ですが、平安京は当初、北方中央に大内裏が立地し、そこから南方へと朱雀大路の直線道路が縦貫、東西対称形で碁盤目状の道路が計画されましたが、西側(右京)が低湿地だったので発展せず、東側(左京)や京外の東山が発展し、人工の作為は自然の摂理に逆行できず、非対称化しています。
 秀吉の御土居は、発展した左京を取り込み、上京町組の両脇は、京都御所と聚楽第にはさまれ、これ以上発展しにくい一方、下京町組の両脇は、戦乱で荒廃していたので、秀吉は下京町組の東側に3本・西側に2本、正方形街区の中間に南北の道路を貫通させ、街区中央の無駄をなくし、町人地を活性化しました。
 現在の京都御所は、南北朝の合一以降から正式な内裏(天皇の宮殿)になり、それ以前の平安京の内裏は、平安後期の院政から軽視されはじめ(上皇は院庁で政務するので)、鎌倉前期に内裏が火災焼失すると再建されなくなり、そののちは皇位継承によって御所が度々移転しました。
 そして、鎌倉末期に後醍醐天皇(96代)が2度目の倒幕運動で京都を脱出すると、鎌倉幕府は後醍醐天皇を退位、光厳(こうごん)天皇(北朝初代)を即位させ、その際に現在地を御所とし、室町幕府になっても南北朝期には北朝の御所に使用され、明治初期まで継続しており、天皇の宮殿も脱中心化しています。
 平安京は非対称化、天皇の大内裏は脱中心化、秀吉の聚楽第や御土居も消滅する等、地形に合わない、とても不自然な改変は、あまり残らないのではないでしょうか(既存の地形を利用した城郭や城下町の骨格は、比較的保持されています)。
 
   ▽御土居と聚楽第・京都御所
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   ▽上京町組と下京町組

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●桂離宮
 
 桂離宮は、江戸初期(1615年)に八条宮初代・智仁(としひと)親王が造営した、京都・桂川西岸に立地する、四季の変化を楽しむだけでなく、月を観るための別邸で、当初は簡素な茶屋だったようです(「下桂(しもかつら)瓜畑(うりばたけ)のかろき茶屋」といわれていました)。
 江戸前期には智仁親王の長男で2代・智忠(としただ)親王が、2度(1641・1662年)増築しており、1615年の古書院に、1641年の中書院(4軒の茶屋も)、1662年の後水尾上皇行幸(宿泊)のための新御殿+楽器の間が追加され(1軒の仏堂も)、ようやく書院群が奥行性のある雁行配置となりました。
 これは、二条城二の丸御殿の権威的な雁行配置を、美観的な雁行配置に応用したともいえます。
 月見では古来より、特に東方からの月の出が最も高く評価されるので(地面に近いほど大きく見え、不思議な力を与えてくれる)、存分に月見できるよう、書院群は床が高く、軒の出も短く、やや北東側の古書院から中書院・楽器の間、やや南西側の新御殿へと雁行に配置されています。
 室内外の造形も、内観は簡素な表現の古書院から多彩な表現の新御殿まで、様々な要素が混在・並存しつつも、総体として調和・均衡が保持されているのが絶妙で、外観も3度の築造での微妙な変化が、視覚的な楽しさ・美しさを提供してくれます。
 部屋から庭園への眺望は、寝殿造だと跳ね上げ式の蔀戸(しとみど)が大半なので全開すれば、自然と一体化できますが、ここでは引き違い戸が多用されているので、景色が額縁効果で半分切り取られて半開半閉で、古書院の月見台は、当時の中秋の名月の月の出の方位と合致しているようです。
 主人と客人は、書院群と池の周囲に散在する5軒の茶屋等の間を、陸上・水上で回遊しますが、当時は現在の順路のように書院群→茶屋群の一方通行ではなく、その間を何度も行き来しながら、学芸・遊興に明け暮れており、自然と一体化するために、作為的だと感じ取られない縦横無尽な巡路だったようです。
 智仁親王は、正親町(おおぎまち)天皇(106代)の孫、後陽成天皇(107代)の同母弟で、豊臣秀吉の養子になり(1586年)、将来には関白を譲り渡される予定でしたが、秀吉に実子(鶴松)が誕生したため、それはなくなり、八条宮が創設されました(1589年)。
 秀吉は、皇位継承を後陽成天皇の長男・良仁(かたひと)親王にしようとし(1594年)、秀吉が死去すると(1598年)、後陽成天皇は智仁親王を次期天皇にするつもりでしたが、初代・家康がそれに反対し、後陽成天皇の三男・政仁(ことひと)親王(のち108代・後水尾天皇)に皇位継承させました(1611年)。
 そのうえ、2代・徳川秀忠+大御所・家康は、禁中並公家諸法度(1615年)で幕府の朝廷への介入を強化、皇室・公家を学問に専念させ、政治から完全に排除し、祭祀に特化させています。
 つまり、皇室・公家は斜陽期といえ、智仁親王も関白や天皇になりそこなった斜陽期に、学芸・遊興施設である桂離宮を造営しており、後水尾上皇の学芸・遊興施設である修学院離宮とともに、幕府からの支援があります。
 幕府は、武士にも学問を奨励し、大名達は幕府に謀反しないことを表明するため、大名屋敷・大名庭園等で浪費、武士も戦闘がなく役人化しており、武家も斜陽期といえます。
 八条宮は、初代・智仁親王は、51歳で死去し、2代・智忠親王は3連の書院群の完成前に、44歳で死去しており、智忠親王には息子がなく、養子で後水尾天皇の十一男・穏仁(やすひと)親王が3代、後西天皇(111代)の長男と八男が4・5代になりましたが、それぞれ23歳・21歳・19歳で若死しています。
 そののち八条宮は、6代が常磐井宮(ときわいのみや)、7~9代が京極宮、10~12代が桂宮と、度々改名しながら細々と後継しましたが、明治前期に断絶、12人中30歳以下で死去したのが6人もいます。
 このように、八条宮も斜陽期といえ、江戸期の特権階級は、政治・経済に取り組む実務職と、文化・芸術に取り組む名誉職に二分するようになり、主に実務職の人々は、儒学と結び付く一方、名誉職の人々は斜陽期で、かれらは月見・花見等の遊興と結び付きました。
 武士が斜陽期に文化・芸術や遊興に明け暮れた先例は、室町幕府8代将軍・足利義政で、かれは自分の人生を月の満ち欠けと重ね合わせ、現世から逃避し、来世での復活・生まれ変わりを期待しており、晩年に観月のための東山殿(現・慈照寺銀閣)を造営しています。
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 雁行配置は、現象的・造形的には、形態操作としかみえませんが、本質的・思想的には、人工の作為はやがて自然の摂理に駆逐されてしまうので、自然と一体化しようと、あらかじめ変化・変動を組み込んでおくという日本人の美意識の表現といえます。