天変地異と日本史25~江戸後期後半 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)
 
■13代将軍・徳川家定(家慶の子、5年間)
・1853年:12代将軍・61歳の徳川家慶が死去し、30歳の徳川家定(いえさだ、家慶の四男)が13代将軍に就任、家定は病弱で、老中首座・阿部正弘が政権を主導、将軍継嗣(けいし)問題=12代・家慶は常陸水戸藩主・徳川斉昭の子で一橋分家の養子・徳川慶喜を次期将軍にしようとしたが、老中・阿部正弘が反対(家定のつぎに慶喜)
▼条約
・1854年:日米和親条約=アメリカ使節・ペリーが浦賀に再来航して締結、鎖国が終了
 ・1854年:伊賀上野(伊賀・伊勢・大和)地震(M7.25前後)=三重県・奈良県周辺
 ・1854年:安政東海地震(M8.4)・安政南海地震(M8.4)+津波=南海トラフ
 ・1854年:豊予海峡地震(M7.3~7.5)=大分県・愛媛県周辺
 ・1855年:陸前で地震(M7.25前後)=宮城県周辺
▼条約
・1855年:日露和親条約=ロシア使節・プゥチャーチンが下田(静岡県)に来航して締結、下田・箱館・長崎を開港
・1855年:阿部正弘が老中首座を譲位し(政権を主導したまま)、堀田正睦が老中首座に就任
▼条約
・1855年:日英和親条約
 ・1855年:遠州灘で地震(M7.0~7.5)+津波=安政東海地震の余震
 ・1855年:安政江戸(安政の大)地震(M7.0~7.1)=南関東
▼条約
・1856年:日蘭和親条約
・1856年:講武所(軍事訓練機関)・蕃書調書(ばんしょしらべしょ、洋学研究教育機関)・長崎海軍伝習所(海軍士官養成の教育機関)を設置
 ・1856年:安政八戸沖地震(M7.5~8.0)+津波
・1857年:株仲間を復活=上納金不要とし、新興商人も取り込み
■堀田正睦の政治(1年間):開国派
・1857年:老中・阿部正弘が死去し、老中首座・堀田正睦が政権を主導
 ・1857年:伊予・安芸で地震(M7.25前後)=愛媛県・広島県周辺
・1857年:アメリカ駐日総領事・ハリスが江戸で13代・家定に通商条約締結を要求
 ・1858年:飛越(ひえつ)地震(M7.0~7.1)+河川閉塞後の決壊で洪水=岐阜県・富山県周辺
■井伊直弼の政治(2年間):開国派
・1858年:13代・家定が重篤になり、近江彦根藩主・井伊直弼が大老に就任
・1858年:廷臣(ていしん)八十八卿列参(れっさん)事件=老中・堀田正睦が朝廷に日米修好通商条約の批准を要請したが、公家88人が条約撤回を要求、孝明天皇も許可せず
・1858年:堀田正睦が老中を辞任(日米修好通商条約で天皇の許可されなかった責任)
 ・1858年:東北地方太平洋側で地震(M7.0~7.5)
▼条約
・1858年:日米修好通商条約=アロー号事件(1856~58年)でイギリス+フランス連合軍が清に戦勝すると、大老・井伊直弼はアメリカと調印したが、天皇の許可がないと攘夷派は幕府を非難
・1858年:久世広周が老中を辞任
▼条約
・1858年:安政の5か国条約=アメリカと同内容でオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも締結
 
●鎖国から開国へ
 西洋列強は、江戸後期(1778年)から度々日本に来航し、幕府は当初、外国船に薪・水・食糧を補給して穏便に取り扱いましたが、異国船打払令(1825年)で一転、しばらく強硬になり、アヘン戦争(1840~42年)でイギリスが中国・清に戦勝すると、その直後から薪水給与令(1842年)で軟化しました。
 アメリカのペリーが来航し、開国を要求すると(1853年)、その翌年に日米和親条約が締結され、鎖国が終了、イギリス(1854年)・ロシア(1855年)・オランダ(1856年)とも同内容の和親条約を締結しました。
 和親条約の内容は、外国船が必要な燃料・食糧等を供給、遭難船や乗組員を救助、下田・箱館を開港して領事を駐在、外国に一方的な最恵国待遇(日本が当事国以外とヨリ有利な条件を締結すれば、当事国も自動的にその条件が適用)、と不平等でした。
 そのうえ、アメリカのハリスは幕府に通商条約を要求し(1857年)、アロー号事件(1856~58年)で英+仏連合軍が清に戦勝すると、天皇の許可なく、大老・井伊直弼の独断で日米修好通商条約を締結(1858年)、その同年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同内容の通商条約を締結しました。
 通商条約の内容は、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港と江戸・大坂の開市、自由貿易、開港場に外国人居留地を設置、一般外国人の日本旅行禁止、領事裁判権(在留外国人は本国の法律で本国の領事が裁判)、関税自主権なし(日本側の関税の税率は両国の相談で決定)と、不平等でした。
 
■14代将軍・徳川家茂(家斉の孫、8年間)
・1858年:13代将軍・35歳の徳川家定が死去し、13歳の徳川家茂(いえもち、家斉の孫、徳川斉順/なりゆきの長男)が14代将軍に就任、将軍継嗣問題=大老・井伊直弼は紀州藩主・徳川家定、薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)+常陸水戸藩主・徳川斉昭は一橋分家・徳川慶喜を次期将軍に擁立
・1859年:横浜・長崎・箱館を開港し、居留地内で貿易を開始
・1859年:安政の大獄=大老・井伊直弼が安政の五か国条約の調印反対派を処罰
・1860年:陸奥磐城平藩主・安藤信正が老中に就任
・1860年:万延の改鋳=金銀の交換比率が外国と日本で格差があり、外国の銀貨が流入し、日本の金貨が流出していたので、品位大幅低下の万延金を発行、貨幣価値の低下で物価上昇、インフレになり、下級武士や庶民の生活を圧迫、攘夷運動の要因に
・1860年:久世広周が老中に再度就任(同年に老中首座に就任)
・1860年:万延元年遣米使節団が日米修好通商条約批准のため、幕府のオランダ製軍艦・咸臨(かんりん)丸で太平洋を横断、勝海舟が操縦
■久世広周・安藤信正の政治(2年間):公武合体を推進
▼攘夷運動
・1860年:桜田門外の変=水戸藩の脱藩浪士達が大老・井伊直弼を暗殺
・1860年:120代・仁孝天皇の娘で121代・孝明天皇の異母妹・和宮(かずのみや)が14代将軍・徳川家茂の正室に、親王との婚約を破棄して強引に降嫁させた政略結婚を攘夷派が非難
▼攘夷運動
・1861年:ハリスの秘書兼通訳・ヒュースケンを薩摩藩の脱藩浪士が斬殺
・1861年:ロシア軍艦対馬占領事件=ロシアが対馬の租借地(半植民地化)を要求し、島民が抵抗、イギリスも抗議して退去
▼攘夷運動
・1861~1862年:東禅寺事件=品川・東禅寺のイギリス仮公使館を、水戸藩の脱藩藩士が襲撃(第1次)、イギリス兵2人を警備の松本藩士が斬殺(第2次)
▼攘夷運動
・1862年:坂下門外の変=老中・安藤信正を水戸藩の脱藩浪士が襲撃、同年に老中を辞任・謹慎
・1862年:備中松山藩主・板倉勝静が老中に就任
・1862年:寺田屋事件=薩摩藩主の父・島津久光(島津斉彬の異母弟、斉彬は1858年に死去)が薩摩藩の攘夷過激派志士を粛清
・1862年:久世広周が老中を辞任・謹慎(2年後に死去)
■島津久光の幕府介入:公武合体の継承
・1862年:文久の改革=島津久光が幕府の政治改革を要求、14代・家茂の補佐役として一橋慶喜を将軍後見職、前・越前藩主・松平慶永(よしなが)を政事総裁職、会津藩主・松平容保(かたもり)を京都守護職(京都所司代等を指揮し、治安維持)に任命、参勤交代を3年に1回・100日に緩和、洋学研究・西洋式軍制へ改革、安政の大獄以降の処罰者の赦免、服装・儀礼の簡素化
▼攘夷運動
・1862年:生麦事件=江戸から京都へと移動する島津久光の行列を横断したイギリス人を藩士が殺傷
・1862年:幕府が物価高騰と攘夷運動を懸念し、5ヶ国に遣欧使節を派遣して江戸・大坂の開市と兵庫(神戸・1867年)・新潟(貿易港に改修・1868年)の開港を延期
▼攘夷運動
・1863年:イギリス公使館焼打事件=攘夷派の長州藩士が建設中の公使館を焼き打ち
・1863年:朝廷で攘夷派が優位になり、朝廷が幕府に攘夷の決行と鎖国の復帰を要求、幕府は渋々諸藩へ攘夷決行を通達
▼攘夷運動
・1863年:長州藩外国船砲撃事件=攘夷派の長州藩が下関海峡を通過する外国船を砲撃
▼攘夷運動
・1863年:薩英戦争=生麦事件の報復で、イギリス艦隊が薩摩藩と鹿児島湾で交戦し、甚大な被害に、攘夷は不可能とわかり、これ以降は開国へと転換
■薩摩藩・会津藩等の朝廷掌握:公武合体の実現
・1863年:八月十八日(文久)の政変=開国派の薩摩藩・会津藩が、攘夷派の長州藩や攘夷過激派の公家・三条実美(さねとみ)らを京都から追放し、朝廷を掌握
・1864年:池田屋事件=京都守護職の指揮下の京都市中警備の新撰組が、長州藩等の攘夷派志士を襲撃
・1864年:禁門(蛤御門/はまぐりごもん)の変=京都御所周辺で幕府側の薩摩・会津・桑名藩兵が反幕府側の長州藩兵を撃退
・1864年:第1次長州征討=朝廷の命令で長州藩を攻撃
・1864年:四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)=長州藩外国船砲撃事件の報復で、イギリス・フランス・アメリカ・オランダが下関を砲撃・占領
・1865年:条約勅許(ちょっきょ)=安政の5か国条約を孝明天皇が承認、攘夷運動が衰退、不平等のはじまり
・1866年:薩長盟約=薩摩藩と長州藩で相互援助の密約を締結
・1866年:改税約書=通商条約での関税率の平均約20%を一律5%に引き下げ
・1866年:板倉勝静が老中首座に就任
・1866年:第2次長州征討=下関で挙兵したため、幕府が出兵したが鎮圧に失敗、薩長盟約のため、薩摩藩は出兵拒否
 
■15代将軍・徳川慶喜(1年間)
・1867年:14代将軍・21歳の徳川家茂(子なし)が死去し、31歳の徳川慶喜(水戸家・徳川斉昭/なりあきの七男で、一橋分家の養子)が15代将軍に就任
○明治天皇(122代・45年間、孝明の次男、母は藤原/花山院/中山忠能/ただやすの娘・慶子/よしこ)
・1867年:37歳の孝明天皇が死去し、16歳の明治天皇が即位
・1867年:慶応の改革=15代・慶喜がフランスの指導下で、陸軍・海軍・会計・国内事務・外国事務総裁に老中を任命し、五局体制を確立(内閣制度の前身)、老中首座で会計総裁の板倉勝静(かつきよ)は五局を統括調整する首相役に、旗本の軍役廃止し、幕府陸軍の整備、横須賀製鉄所(造船所)の建設
・1867年:ええじゃないかの流行=東海・近畿・四国地方で民衆が連呼しながらの乱舞
・1867年:大政奉還=薩摩藩・長州藩が倒幕を決意し、土佐藩が15代将軍・徳川慶喜に政権返上を説得、それを受け入れ申し出て朝廷が受理、徳川氏は朝廷のもとでの諸藩の連合政権で主導権を維持するのを想定して返上
■明治天皇の新政(45年間)
・1867年:王政復古の大号令=徳川氏除外で新政府を樹立
・1868~1869年:戊辰戦争=新政府軍が旧幕府軍(幕臣や会津・桑名・仙台藩士等)に戦勝
・1868年:五箇条の誓文=明治天皇が政治の方針を表明
・1868年:江戸城が新政府軍に占領
・1868年:江戸を東京に改称
・1868年:一世一元の制=天皇一代に一年号
・1869年:東京遷都
 
●尊皇攘夷運動
 徳川幕府は、3代将軍・徳川家光の時代に鎖国体制が確立すると(1641年)、キリスト教を全面禁止するとともに、諸藩の海外貿易も禁止しており(幕府が独占)、攘夷とは儒教の中華(華夷)思想に由来し、外国人排斥を意味するので、鎖国や異国船打払令(1825年)は攘夷をそのまま実行しています。
 他方、尊皇は江戸前期から幕府が武士に儒学を奨励すると、庶民(知識人)も勉強するようになり、儒学・神道等の学者達は、儒教での主君への忠義から天皇尊崇を導き出し、江戸中・後期には将軍の親戚・水戸藩主の直属機関・水戸学派の学者達も天皇尊崇を持ち出し、それを攘夷と結び付けました。
 江戸後期から外国船が度々来航するようになり、天保の改革の水野忠邦以降、武力を背景に欧米列強が開国を要求すると、老中首座・阿部正弘は鎖国のままか開国かで苦悩し、その結果アメリカ・ロシア・イギリス・オランダと和親条約を締結しました(1854~56年)。
 また、開国派の大老・井伊直弼は、朝廷に無断で、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約を締結し(1858年)、それらは不平等な条件で、開国を受け入れざるをえない現実派と、それに反発する攘夷派が対立、当初は攘夷運動が活発化し、井伊直弼が暗殺されています(1860年)。
 一方、現実派の老中・久世広周+安藤信正は、幕府の権威が大幅に低下したので、朝廷と幕府が協調して政局を安定させようと、公武合体を推進(1860~62年)、薩摩藩主の父・島津久光(島津斉彬の異母弟)も公武合体を継承しました(文久の改革・1862年)。
 しかし、朝廷は攘夷派が優位になり、幕府に攘夷決行と鎖国復帰を要求し、幕府は渋々諸藩へ攘夷決行を通達しましたが(1863年)、薩英戦争(1863年)で薩摩藩は攘夷が不可能だとわかり開国派へと転換、薩摩藩等が攘夷派の長州藩を京都から追放し、公武合体を実現しました(文久の政変・1863年)。
 攘夷派の長州藩は、最後まで抵抗しましたが(第1次長州征討・1864年、第2次長州征討・1866年)、幕府は長州藩への対応をめぐって薩摩藩と衝突、薩長盟約(1866年)で薩摩藩+長州藩が倒幕を決意し、土佐藩が15代将軍・徳川慶喜に政権返上を説得、大政奉還となりました(1867年)。
 
(おわり)