古代文明と宗教24~黄河・長江文明 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)


■中国

●黄河・長江文明

 黄河中・下流域では、約9000年前頃から焼畑(アワ)や畜産(ブタ)が開始され、竪穴住居で生活し、長江中・下流域では、約9000年前頃から稲作が開始され、高床住居で生活していたようです。
 約6000年前頃には赤道西風の分流が北上し、その到達が増大して温暖湿潤でしたが、約5000年前頃には赤道西風の分流が南下し、その到達が減少して温暖化が終息、特に黄河流域は半乾燥になったので、中国の南部は稲作、北部は畑作・遊牧がさかんになりました。
 東アジアの東南部(沿岸部)は、赤道西風の分流だけでなく、低緯度から湿潤な空気が北上する傾向にあり、雨季と乾季の区別はなく、年中降雨がある一方、北西部(内陸部)は、他の古代文明より高緯度のため寒冷で、降雨が期待できず、草原・砂漠や山脈等で、西方と分け隔てられています。
 これは、南アジアの南東部の湿潤地と北西部の乾燥地に類似した風土といえ、そのため中国・インドの両文明は南東部では海上、北西部では砂漠の影響で、他の古代文明よりも類似していますが、中国は四季の変化が顕著で、冬は北風で寒冷・乾燥し、夏は南風で温暖・湿潤となります。

 そして、約4000年前頃から黄河中・下流域に集落(邑/ゆう)が形成されるようになり、当初は土塁程度で取り巻き、血縁集団(氏族)で農耕生活し、土地神や祖先神を信仰していましたが、外敵の侵入が頻繁になると、防衛強化のため、しだいに城壁で囲い込んだ都市国家へと発展しています。
 それとともに、強力な邑が周囲の弱小な邑を支配・服属していき、それらを統治する国王が君臨するようになり、中国最古の王朝は約4200年前頃からの夏(か)といわれていますが、夏の実在は確認できず、確実なのは約3700年前からの殷(いん)です。
 中国の神話には、黄河の治水・灌漑工事を成功させた人物(禹/う、夏王朝の創始者)に、王位(帝位)を委譲した伝説があり、これは様々な人々の労働を組織化(分業と協業)するのに有能な者が王(帝)としてふさわしいことを意味しています。
 この時期の黄河中・下流域では、気候変動による寒冷化で、対内的には、農耕牧畜・狩猟採集環境が悪化して食糧確保が困難になり、対外的には、食糧を争奪しようと外敵の侵入が頻繁になったため、都市国家単独ではやっていけなくなり、広域での都市国家連合へと移行したのでしょう。
 おそらく実際は、王(帝)配下の官僚(当時は国家の奴隷)の指導により、農地整備に農民を動員し、軍隊(戦士)に農民を保護させることで、農業生産が向上したので、農民は強制ではなく、王のために率先して勤勉に労働し、貢納・賦役を負担、王(司祭)の祭祀する神も熱心に信仰したのでしょう。
 殷(首都は途中から商、現・安陽)は、王だけが最高位である天の神(天帝・上帝)を祭祀できる祈祷師(シャーマン)で、王が諸邑の首長(氏族の族長)を統制し、各首長が邑民を統制する二重構造で、政治は殷王による占いで決められ(祭政一致)、農事・軍事は氏族単位で作業・行動していました。
 つまり、実質は氏族の連合政権で、権威は国家を繁栄させるのに優秀な国王にありましたが(祭祀や占いは、あくまでも人々を組織化・統制するのに有効な手段でした)、権力は諸邑の首長どうし平等が原則です。
 よって、このうち殷に服属していた有力な邑のひとつ(周)が、約3400年前から殷文化の摂取や周辺の異民族の支配等で、しだいに国力を増強し、約3100年前(紀元前11世紀半ば)には暴君だった殷王の悪政による混乱をきっかけに、周が殷を滅亡しました。
 シャーマンは、神のいる天上界と人のいる地上界を往来できる祭司で、これは遊牧民だったアーリヤ人(約3300年前頃にインド北西部へ侵入)が、天の神や天上(神)と地上(人)を仲介する火の神を信仰・崇拝したのと共通し、おそらくインドのバラモンもシャーマンでもあったのでしょう。

 周(首都は鎬景/こうけい、現・西安付近)は殷と同様の黄河中・下流域だけでなく、長江中・下流域も吸収して支配し、周王の一族(諸侯)に領地(邑)を分け与えたうえ(封土)、それを世襲させて各地を統治させ、諸侯は封土授与のかわりに、周王への貢納と軍事奉仕が義務化されました(封建制)。
 さらに、各諸侯とその家臣達との主従関係も同様で、家臣は封土授与のかわりに、諸侯への貢納と軍事奉仕が義務化されました。
 ここで注意すべきは、周の封建制はヨーロッパや日本のように、他人との双務的契約ではなく、あくまでも氏族の上下関係を基盤として秩序化されていることです。
 王室は、長男相続と同姓不婚による父系の親族集団(宗族)を最重要視するとともに、長男の本家(大宗)と次男以下の分家(小宗)で差別化しつつ、共通の祖先祭祀や道徳規範(礼)により、一族が団結することで(宗法)、政権を安定化しようとしました(礼政一致)。
 周は、殷の王位を武力で奪取したため、正統の根拠として、神(天帝・上帝)はその子に王位を授与し、王(天子)が国(天下)を統治しますが、善政していれば、王位は家系で継承でき、悪政になれば、天命でこれまでとは異なる新たな家系に変更させられるという思想(天人相関説)が生み出されました。
 ちなみに、殷も以前は夏に服属していましたが、殷が王位を武力で奪取し、夏を滅亡させたようで、これ以降ずっと、中国は長年失政すれば、この思想を根拠に政権交代を繰り返します。
 しかし、年月が経過すれば、周王と世襲諸侯の血縁がしだいに希薄化していき、有力諸侯は自立するとともに、中国文化を摂取した周辺の異民族がたびたび侵入するようになり、紀元前8世紀前半には西方の遊牧民(犬戎/けんじゅう)に鎬景が占領され、周は洛邑(現・洛陽)に遷都しました(東周)。
 これ以降、周王の権威・権力は失墜する一方、諸侯勢力が台頭・拡大していき、秦が中国を統一するまで、戦乱となりました(春秋・戦国時代)。

(つづく)