清水寺~北法相宗大本山 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(音羽山、京都市)
 
 奈良末期に興福寺の僧の賢心(けんしん、のちの延鎮/えんちん)が、この地で観世音菩薩の化身(行叡/ぎょうえい)に遭遇し、かれにこの霊場を護持するよう依頼され、かれの草庵で修行生活するようになったのが清水寺のはじまりです。
 観世音菩薩は、世間の人々の音声を感知し、苦悩から救済する仏で、救済する相手によって33の姿・形に変身するとされています(清水寺は西国33ヶ所霊場のひとつですが、33の数字はこれに由来し、三十三間堂も同様です)。
 そののち、坂上田村麻呂は鹿狩りのため、ここで賢心と出会い、殺生の中止や観世音菩薩の教えを説かれ、それに感銘した田村麻呂は賢心に帰依し、自邸を本堂として寄進しました。
 それから田村麻呂は、征夷大将軍となって東北地方(蝦夷)征討の際に、清水寺で戦勝祈願して出発し、はじめは苦戦しましたが、面識のない2人の加勢・活躍で戦勝・平定でき、かれらは観世音の使者である地蔵菩薩と毘沙門天の化身とされ、平安初期には大規模に本堂を改築、三尊像が安置されました。
 そして、嵯峨天皇の許可で国家鎮護の道場となり、貴族・武士だけでなく、庶民にも観音霊場として信仰がさかんになりました。
 かつては奈良期に隆盛した南都六宗のひとつである法相宗(ほっそうしゅう)に所属し、興福寺の支配下にありましたが、昭和中期にそこから独立すると、南都・奈良の北方の京都に立地するので、北法相宗としました。
 伽藍は平安後期から江戸前期まで焼失と再建を繰り返し、特に興福寺と延暦寺は敵対し(南都北嶺)、延暦寺の僧兵による焼き討ちもあり、現在の建物の大半は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の寄進によって再建されています。
 
 大勢の人々を円滑に参拝させため、崖上の建物群から崖下の緑・水へと巡回し、最初の門口に終着させるとともに、懸造から見下ろす視野と、懸造を見上げる視野を提供するうえ、崖上の人工物と崖下の自然物を対比させた、巧妙な動線計画といえます。
 これは、山中に点在する密教寺院の伽藍を仏僧が歩き回る行為や、山伏の山岳修行の行為と類似させているのではないでしょうか。
 
 
●参道
 清水寺へと接近するにしたがって、枝状の変化のある坂道が合流していき、門前町の家並が繰り返すなか、まず法観寺の五重塔(八坂の塔)、つぎに清水寺の三重塔が目印となり、仁王門前の広場に到達します(比較的単調な五条坂・清水新道は、あまりおすすめできません)。
 
●伽藍
 仁王門・西門から三重塔・経堂・開山堂、本堂の入口である轟門(とどろきもん)前までは、参拝者を建物群の間を通り抜けさせ、それ以後は広々とした眺望が獲得でき、崖上では明暗を対比させた演出効果があります。
 
    ▽仁王門・西門・三重塔
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   ▽轟門内
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●本堂
 「法華経」等の所説では、観世音菩薩は岩上(補陀洛山/ふだらくさん)に出現するといわれており、長谷寺(奈良県桜井市)・石山寺(滋賀県大津市)等の観音菩薩信仰の霊場と同様、本尊を安置する内陣は、崖上に配置します。
 日本の寺院では、奈良期まで、仏像を安置する場所のみ内部で、人間が礼拝する場所は外部でしたが、しだいに仏堂の前方に礼堂が併設されるようになり(双堂/ならびどう)、平安期から、仏堂と礼堂を屋根で一体化し、内陣と外陣の構成による本堂に変化しました。
 よって、内陣の正面の礼拝のための外陣は、柱と貫で床を支持して舞台化されるようになり(懸造/かけづくり)、この舞台で本尊に芸能が奉納されてきました。
 内陣の中央には、本尊の十一面千手観音立像、その左右には、それぞれ勝軍(しょうぐん)地蔵菩薩立像・勝敵(しょうてき)毘沙門天立像、本尊に寄り添って千手観音の親族である二十八部衆像、左右両端には風神・雷神像が安置されています。
 十一面観音は、10種の現世での利益と4種の来世での幸運をもたらすといわれ、千手観音は、それぞれの手に一眼をもつとされているので(実際には千手はなく、大半は42本で表現さています)、両者を兼ね備えた観世音菩薩は最高・最強といえるでしょう。
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●音羽の滝
 東山の湧水を霊泉の聖水とし、現在は参拝者が行列して清水で手を洗い、口を濯いでいますが、もともとは滝行の場です。
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