建仁寺~臨済宗建仁寺派大本山 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(東山/とうざん、京都市)
 
  鎌倉幕府2代将軍・源頼家(頼朝と北条政子の長男)が創建し、初代住職は南宋に2度留学し、天台宗の高僧となった明庵栄西(みんなんようさい)で、当初は天台・真言・禅の3種修学の道場でした。
 栄西も、中国大陸の本格的な禅を全面的に普及させる意図はなく、天台宗の思想の中に禅を取り入れることで改革・刷新しようとしたようです。
 かれは帰国後、まず聖福寺(福岡市博多区)を創建し、つぎに京都へ進出しようとしましたが、当時の京都は、延暦寺(天台宗)や東寺(真言宗)の勢力が強大で、禅が移入・台頭すると、延暦寺から弾圧され、朝廷も延暦寺の圧力で禅の布教を禁止しました。
その時期は、ちょうど初代将軍・源頼朝が死没しており、北条正子(源頼朝の正室)は主人供養のために、栄西を鎌倉に迎え入れて寿福寺(神奈川県鎌倉市)を建立し、さらに建仁寺(京都市東山区)の建立も支援しましたが、両者とも延暦寺の末寺となっています。
 また、源頼朝・頼家や北条政子も、栄西を禅僧としてよりも、密教による加持祈祷の高僧として庇護しています。
 そして、鎌倉中期には火災等で境内が荒廃しましたが、鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王(むねたかしんのう、後嵯峨天皇の長男)の命令により、東福寺(京都市東山区)の初代住職だった円爾弁円(えんにべんえん)が、建仁寺の10代目住職となり、境内を復興しました。
それにつづき、鎌倉幕府5代執権・北条時頼の要請により、南宋から渡来した禅僧で、建長寺(神奈川県鎌倉市)の初代住職だった蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が、建仁寺の11代目住職となった時期から、純粋な禅寺(臨済宗)となりました。
当時の禅僧は貴重な存在だったので、庇護は幕府(武家)側・朝廷(公家)側に固定化しておらず、京都が活動拠点で、公家との親交が強固な円爾は鎌倉に、鎌倉が活動拠点で、武家との親交が強固な蘭渓は京都に招聘されており、円爾と蘭渓の親交も活発だったようです。
 こうして臨済宗の禅は、武家や公家が帰依するようになり、鎌倉後期頃から禅寺を格付・庇護するようになり(五山制度)、建仁寺を足利尊氏は五山の第4位、足利義満は京都五山の第3位としましたが、室町幕府の衰退で荒廃し、応仁の乱等で度々火災焼失しており、創建当時の建物は残存していません。
 
 コピーとはいえ、方丈の水墨画による全50面の大障壁画群や、俵屋宗達による屏風「風神雷神図」、法堂の天井の「双龍図」はすばらしく、歴史遺産が多少貧弱なので、いずれも現代の芸術・技術で補充・強化しています。
 
 
●伽藍
 南から北へと勅使門・三門・法堂(仏殿と兼用)・方丈が、軸線上に直列する禅寺共通の伽藍配置で、その東・西・北の三方を塔頭(たっちゅう)が取り囲んでいます。
 
●勅使門
鎌倉末期の遺構で、平重盛(清盛の長男)か平教盛(清盛の異母弟)の館門の移築といわれています。
 
●三門
大正期に安寧寺(静岡県浜松市)から移築され、楼上には釈迦如来・迦葉(かしょう、釈迦の10大弟子の一人で、第1回仏典結集の座長)・阿難(あなん、釈迦の10大弟子の一人で、長年釈迦の世話をし、教説もよく記憶しており、かれの口述が第1回仏典結集に貢献)と16羅漢(聖者)を安置しています。
禅では、弟子(阿羅漢/あらかん)である迦葉・阿難らに、師匠である釈迦の教説を正確に直伝されたことが、理想の修行の光景なので、かれらの仏像が祈願の対象となりました。
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●法堂
 江戸中期に建造された禅宗様で、正面には釈迦如来座像・迦葉・阿難の両立像が安置され、天井には双竜図があります(鎌倉の建長寺の法堂天井にも、同作者の白竜図があります)。
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●方丈
 安土桃山期に安国寺(現・不動院、広島市東区)の住職出身で、東福寺・南禅寺の住職も歴任し、禅僧の最高位となった恵瓊(えけい)により、安国寺から移築されましたが、昭和期の室戸台風で倒壊・復旧しました。
 部屋を間仕切っていた海北友松(かいほうゆうしょう)の襖絵は、倒壊時には建て込んでいなかったので無事でしたが、今後も消失しないよう、掛軸に改装して博物館で保管し、現地は高精細複製品を展示しており、「竹林七賢図」「琴棋書画図(きんきしょがず)」「雲龍図」「山水図」「花鳥図」があります。
 竹林の七賢とは、中国の魏・晋の時代に、7人の知識人が竹林で、主に老荘思想を題材にした哲学的議論をしたことをさし(実際は全員集合したことはありません)、琴棋書画とは、知識人の遊戯である琴・碁・書・画のことで、これらは室町期以降、絵図の題材となっています。
 本尊は11面観音菩薩像(密教の経典では、10種の現世での利益と4種の来世での幸運をもたらすといわれています)で、東福門院(江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の娘で、後水尾天皇の皇后)が寄進しています。
 ここには3つの枯山水があり、方丈南面の大雄苑(だいおうえん)では、ほとんどが水紋を表現した白砂で、その中に巨石や緑苔が配置され、その奥には塀と植栽、中央には門があり、かつて儀式を執り行っていた初期の南庭を尊重した形式といえます。
大書院南面・小書院北面の潮音庭(ちょうおんてい)では、中央に三尊石(釈迦・迦葉・阿難を表現)、その周囲に座禅石等や紅葉・手水鉢を配置し、杉苔で被い尽くされています。
小書院南面の○△□乃庭では、禅宗で宇宙の4大根源とされる地・水・火・風のうち、地を井戸の□、水を緑苔の○、火を白砂の盛り上がりの△で表現しています。
 
   ▽潮音庭
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●東陽坊(とうようぼう)
 豊臣秀吉が開催した北野大茶会で、千利休の高弟・真如堂の住職である東陽坊長盛(ちょうせい)が担当した副席といわれており、大正期に移築され、二畳台目の茶室で、西側には建仁寺垣が設置されています。