古代文明と宗教25~諸子百家 | ejiratsu-blog

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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)


●諸子百家

 紀元前8世紀前半から紀元前3世紀後半までの春秋・戦国時代には、黄河・長江両流域の各国の諸侯が、王権を獲得しようと同盟と抗争を繰り返した一方、春秋の終りから戦国の初めにかけて鉄器が広範に普及し、農業の技術進歩・生産向上で商・手工業も発達、商人・職人等によって都市が繁栄しました。
 他方、農村では、土地は周までは公有でしたが(封土)、戦乱で私有へと変化し、実力しだいで大土地所有者も出現するようになりました。
 長年戦乱なると、周のような血縁・氏族を基盤とする封建制が崩壊し、諸侯達は以前とは異なる新たな統一の原理を必要とするようになり、そのなかで多数の思想家や学派(諸子百家/しょしひゃっか)が輩出されました。
 これは、インド北部で紀元前6世紀頃にいくつかの国家が樹立され(16大国)、紀元前5世紀頃に各国の商業都市から多数の自由な思想家(ヴァルダマーナのジャイナ教やガウタマ・シッダールタの仏教等)が輩出したのと共通しています。
 また、この時期、部族連合単位のポリスどうしで、同盟と戦争を繰り返していたギリシャでも、主に殖民都市のイオニアから、多数の学者が出現しており、政治的に群雄割拠、経済的に都市発達の時代には、知識・思想・技術が商品化される傾向にあります。


○儒家(儒学)

 小国・魯(ろ)の孔子が紀元前6世紀頃(春秋時代)に創始した学派で、かれは家族から社会までの全般において道徳規範が大切で、その根本は仁愛(仁)と礼節(礼)だといっています。
 乱世から秩序を回復するには、周の政治の復古が理想で(周王の補佐役だった周公旦の仁政・礼制を崇拝・敬慕しています)、武力がなくても、徳行に有能な(有徳/ゆうとく)人物(君子)が善政すれば、天下泰平が実現できると主張しています。
 かれは、儒学を国政で実践しようと、諸国を遊説し、諸侯の補佐役に取り立てられましたが、進言を聞き入れてもらえず、その都度諸侯に失望して補佐役を渡り歩くことを繰り返しました。
 また、孔子の孫の弟子から儒家の教えを学んだ、斉の孟子は紀元前4世紀頃(戦国時代)に、人間の本性は生まれながらに善であり(性善説)、人は誰でも真心(仁)があるので、それを適切に行動(義)することが大切だといっています(仁義)。
 さらに、趙(ちょう)の荀子(じゅんし)は紀元前3世紀頃(戦国時代)に、人間の本性は生まれながらに悪であり(性悪説)、そのままでは個々の欲望が表出・衝突し、社会が混乱するので、それらの欲望を取り除くには、礼儀(礼)で矯正・制度化すべきだといっています。
 そして、孔子・孟子・荀子いずれも、それらを達成するには学問を習得し(智)、誠実に対応すること(信)が必須で、勉学には孔子以前からあった書物のうち、「詩」(歌謡)・「書」(周以前の歴史)・「礼」(礼儀)・「楽」(音楽)・「易」(占い)・「春秋」(春秋時代の歴史)を教材(経典)としました(六経)。
 儒家の思想は、孔子の弟子達から全国各地に浸透しましたが、このうち魏では、多数の人材が養成されて全盛し、斉では、全国各地から学者を首都に招聘・保護し、そこで孟子や荀子が活躍しました。


○道家(老荘思想)

 楚の老子が紀元前6世紀頃(春秋時代)に創始したとされる学派で、かれは宇宙の根源が人知を超越した存在(道)であり、そこから万物は作為されず、自然に生成されているため、人間も自然の秩序と一体化し、無欲であるがままに行動すべきだといっています(無為自然)。
 孔子の仁や礼による秩序の回復は、それも人為的で不自然な私欲といえ、そうすれば道から逸脱して不幸になるので、それらを一切排除せよと主張しており、これは日本の神道の思想と類似しています。
 また、宋の荘子は紀元前4世紀頃(戦国時代)に、人間が思考している差別や対立は、価値にとらわれた、わずかなものであり、すべての価値は平等・同一なのが(万物斉同)自然な絶対の道理で、その不可分な境地に到達できれば、現実の苦悩・束縛から解放され、自由に振る舞えるといっています。
 これは、煩悩を捨て去り、根本の真理が認識できれば、輪廻から解脱できるという、仏教の思想と類似しています。


 中国では、道徳を重視した儒家と、自然を重視した道家は、対立した思想として描き出されていますが、儒家は人間と人間の関係で内向き、道家は人間と自然の関係で外向きの観点で、両者は相互補完な役割ともいえ、例えば宇宙の根本原理を、道家では道、儒家では天といい、両者は類似しています。
 人間の対処の仕方には、肯定・創造的な手段である儒家と、否定・破壊的な手段である道家があり、儒家は主に北西部の砂漠地、道家は主に南東部の森林地の風土の影響があると大別でき、国家の統治には儒家、国家への対抗には道家が利用されました。


○墨家

 魯の墨子が紀元前5世紀頃(春秋時代)に創始した学派で、かれは儒家の仁が差別的な偏愛(親子・君臣・夫婦・長幼には格差があります)、礼が表面的な儀式(制度化・学問化されすぎ)であると非難し、万人に平等な愛(兼愛)、相互の助け合い(交利)、他国侵略せず自国防衛のみ(非攻)を主張しました。
 かれらは儒家に並び立つほど、勢力を拡大しましたが、戦争で落城すると、集団自決するほど強固に結束しており、秦の中国統一で消滅しています。


○法家

 韓の韓非(かんぴ)や小国・衛の商鞅(しょうおう)が紀元前4~3世紀頃(戦国時代)に創始した学派で、かれらは武力が増強されると、孔子の徳治は非現実的なので、法律や刑罰で人民を強制統治(法治)すべきだと主張し、秦はこの思想を採用して中国を統一しようとしました。
 秦(首都は途中から咸陽、現・西安近郊)は、紀元前4世紀半ばに富国強兵で、中国北西部の辺境地から南東部へと勢力を急速に拡大すると、秦王は商鞅を登用し、中央集権化と法治を徹底しました。
 そして、紀元前3世紀後半の政(せい、のちの始皇帝)の時代に、周の王室や他国を次々に滅亡させ、中国全土を統一しました。
 始皇帝は、全国を郡、さらに県に分割し(郡県制)、中央と地方の官吏と権力を行政・軍事・監察に分立、反乱阻止のため、民間の兵器没収・都市の城壁破壊・富豪の咸陽移住を断行するとともに、度量衡(長さ・多さ・重さ)・貨幣・文字を全国で統一しました。
 また、儒家には政府を批判し、周の封建制復活を主張する儒者もいたので、始皇帝はそれを阻止するため、儒家の書物を焼き払ったり、儒者を生き埋めにして虐殺しました(焚書坑儒/ふんしょこうじゅ)。
 しかし、急激な改革と厳格な法治、北方・南方の遠征や万里の長城の整備、壮大な宮殿・陵墓造営等で人民の負担は大変になり、始皇帝の死没をきっかけに各地で反乱が勃発、3世紀終りには滅亡し、秦は短命でした。

(つづく)