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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

■精神の能力の発揮

 

 前述の、名実論では、内実(内心)としての理義がまさり、体用論では、朽滅する作用(働き)としての精神を前提としたので、この精神の能力を発揮することになりますが、兆民は、2書で、推理・理会・理由の3理を、取り上げています。

 なお、精神は、不滅・不変でなく、人間は、5感覚器官(目・耳・鼻・舌・皮膚)を経由し、観念(意象)・イメージ(影象)を作成・記憶・変更していくとみています。

正・不正、義・不義、美・不美等、無形の観念や、神・霊魂等、無形のイメージも、同様なので、観念・イメージは、先天的に具備されていません(続2‐11:意象~15:意象の聯接)。

 よって、精神の能力の奮起・向上により、宗教家の卑劣な見方を打破し、世界の大理を捕獲・熟考すべきだとされています(前述、2‐5:精神の能)。

 

 

●推理

 

 推理は、次のように、まず、哲学者の基本である推理を、聖職者の基本である妄信から区分し、つぎに、精神の能力を、推理の一能力、想像の一能力、記憶の能力、自省の一能力等に、区分しており、このうち、推理の一能力には、演繹と、帰納の、2方法があると、紹介しています。

 

・哲学者:推理が基本 ~ 科学:理学(哲学)

・聖職者:妄信が基本 ~ 宗教

 

・推理の一能力:この理からあの理へと向かって無限

・想像の一能力:自由自在の働き・作用

・記憶の能力:事の観念を蓄積し、智識を進歩

・自省の一能力:道徳上・法律上で正か不正か ~ 精神の健全をしるす証拠

 

* * *

 

○自己心中の推理力を満足すべき

・たとい殺風景でも、剥(むき)出しでも、自己心中の推理力の厭足(えんそく)せぬ事は言われぬではないか。(続1‐1:霊魂)

《たとえ、殺風景でも・露骨でも、自己の心中の推理力が満足しない事は、いわれないではないか。》

 

○推理を基本とする哲学者、妄信を基本とする聖職者

・波羅門(バラモン)教、仏教、猶太(ユダヤ)教、基督(キリスト)教、回々(フイフイ)教及(および)古昔(こせき)プラトン、プロタンの徒より、デカルト、マルブランシ、ライプニツトの属、皆唯一神説を皇張(こうちょう)するにおいて、基督教僧侶とその説を上下し、人をして恍然これ恐(おそら)くは推理を本(もと)とする哲学者ではなくて、妄信を基とする僧人なるべしと想(おも)わしむる度に至(いたっ)て居る。(続1‐6:唯一神の説)

《バラモン教・仏教・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教や、昔のプラトン・プロティノスの門徒から、デカルト・マルブランシュ・ライプニッツの同属は、すべて、唯一神説を大いに主張することにおいて、キリスト教は、仏僧と、その説を上位と下位で競い合い、人をうっとりさせ、これは、おそらく、推理を基本とする哲学者ではなくて、妄信を基本とする聖職者であろうと、思わせるほどに至っている。》

 

○現実派の想像・推理=極限ありの道理

・かくの如きものに限極のある道理がない、もし限極ありとの科学の検証があっても信ずべからずではないか、何ぞ現実派の想像に怯懦(きょうだ)なるやといわねばならぬ。(中略)この道理は決して吾人(ごじん)人類中の道理でなく、十八里の雰囲気中の道理でもなく、直(ただち)に世界の道理である、何ぞ現実派の推理に怯懦(きょうだ)なるやといわねばならぬ。(続2‐1:世界)

《このようなものに極限がある道理はない。もし、極限があるとの科学の検証があっても、信じることができないのではないのか。どうして現実派の想像に臆病なのかと、いわなければならないか。(中略)この道理は、けっして私達人類の中の道理ではなく、18里の大気圏の中の道理でもなく、直接、世界の道理である。どうして現実派の推理に臆病なのかと、いわなければならないのか。》

 

○推理の一能力=この理からあの理へ向かい無限、想像の一能力=自由自在の働き・作用

・彼(か)の推理の一力(いちりょく)を看(み)よ、この理より彼(かの)理に赴(おもむ)き、層累(そうるい)して上(のぼ)りて乃(すなわ)ち十八里の雰囲気を透過して、夐(はるか)に太陽系天体の外(ほか)にも馳騁(ちてい)するではないか。(続2‐5:精神の能)

《あの推理の一能力を見よ。この理から、あの理へ向かい、積み重ねて上昇して、つまり18里の大気圏を通過して、はるかに太陽系・天体以外にも、行動するのではないのか。》

 

○推理・想像の事

・推理の事、想像の事は、前に已(すで)に叙述したので最早(もはや)ここに言うの必要はない。(続2‐15:意象の聯接)

《推理の事・想像の事は、以前すでに、順を追って述べたので、もはや、ここでいう必要はない。》

 

○推理の一能力、推理の方法=演繹・帰納

・余は前章で既に推理の一力を論述したが、更に細(こまやか)に論ずれば、推理の方法に自(おのずか)ら二種ありて、一は演繹で、一は帰納である。(続2‐18:帰納・演繹)

《私は、前章で、すでに推理の一能力を論述したが、さらに、細やかに論考すれば、推理の方法には、自然に2種があって、1つは、演繹で、もう1つは、帰納である。》

 

 

●理会

 

 理会は、道理を会得すること(理解)で、宗教(妄信)に依存せず、哲学者の講釈により、物を空間・時間の観念に想像し、事を理会すべきだとされています。

 

* * *

 

○背理の極致:身殻の解離・自己の死後も精神あり、宗教なしで精神を理会

・躯殻既に解離して精神なおありとは背理の極、いやしくも宗教に癮黴(いんばい)せられざる、自己死後の勝手を割出しとせざる健全なる脳髄には、理会されべきはずでない。(続1‐1:霊魂)

《身殻が、すでに解離して、精神が、なおあるとは、背理の極致で、もしも、宗教に中毒化・バイ菌化させられなければ、自己の死後が勝手に割り出せない健全な脳内には、理解されることができるはずはない。》

 

○精神が物を空間に想像して万事を理会

・或る者はいう、空間とは真にその物のあるのではなく、特に吾人(ごじん)の精神がこの物あるが如くに想像して万事を理会することとなって居ると。(続2‐6:空間)

《アル人は、いう、「空間とは、本当に、その物があるのではなく、特に私達の精神が、この物があるように想像して、万事を理解することになっている」と。》

 

○空間・時間の観念:哲学者の講釈で理会

・かつ空間といい時といい、少数なる哲学者にして始(はじめ)て理会すべき、否な哲学者の講釈を聴きて理会すべきもので、児童や田舎人の徒は始よりこの意象は所持して居ない。(続2‐7:時)

《そのうえ、空間といい、時間といい、少数の哲学者で、はじめて、理解することができ、いや、哲学者の講釈を聞いて、理解できるもので、児童・田舎者の人達は、はじめから、この観念は、所持していない。》

 

 

●理由

 

 精神の発揮のひとつである、断行は、その要因が、次のように、行為の理由と、意思の自由に、大別していますが、いずれも薄弱な精神とされています。

 

・行為の理由=目的:自か他かの誘導力 ~ 自然:自(おの)ずから

・意思の自由=撰択:行為の理由が無力 ~ 作為:自(みずか)ら

 

 行為の理由は、自己か、他者の、目的(力)にしたがい、自由のない自然なので、善に賞賛・称賛したり、悪に刑罰・憎悪したりするのは、本質からズレることだとされ、意思の自由は、行為の理由が無力なので、作為で、選択することになります。

 ただし、兆民は、以下のように、意思の自由による選択決定は、環境(境遇・階級)が多大に影響するので、普段の教育・修養・習得や、交際する友人が、とても大切とし、不正に誘惑されず、邪道に陥落せず、正を選択決定するには、意思の自由を軽視し、行為の理由を重視すべきとみています。

 

「吾人(ごじん)の目的を択ぶにおいて果(はたし)て意思の自由ありとすれば、そは何事を為すにも自由なりと言うのではなく、平生習い来ったものに決するの自由があるというに過ぎないのである。」(続2‐16:断行、行為の理由・意思の自由~以下同)

《私達の目的を選択することにおいて、本当に、意思の自由があるとすれば、それは、何事をするにも自由なのだというのではなく、普段、習得してきたものに、決定する自由があるというにすぎないのである。》

 

「人をして道徳的二個以上の事項が目前に臨む時に、必ずその正なる者について不正なる者を避けしめようとするのには、幼時よりの教育が極(きわめ)て大切である。平時交際する所ろの朋友(ほうゆう)の選択が大(おおい)に肝要である。(中略)意思の自由を軽視し行為の理由を重要視して、平素の修養を大切にすることが、これ吾人(ごじん)の過(あやま)ちを寡(すくな)くする唯一手段である。」

《人に、道徳的な2個以上の事項が、目前に臨む時には、必ず、その正なるものにつきしたがって、不正なるものを避けさせようとするのは、幼少時からの教育が、とても大切である。普段に交際する友人の選択が、大いに重要である。(中略)意思の自由を軽視し、行為の理由を重要視して、普段の修養を大切にすることが、この私達の過失を少なくする唯一の手段である。》

 

 このように、普段の教育・修養・習得や、交際する友人が、とても大切だとする、陳腐な言葉が、理義だといわれています。

 

* * *

 

○行為の理由/意思の自由

・また断行の一事について古来相応に議論があって、これに由(よ)りて行為の理由と意思の自由との二項目が出来て、随分(ずいぶん)争論の種となって居る。(続2‐16:断行、行為の理由・意思の自由~以下同)

《また、断行の一事について、古来、それなりに議論があって、これによって、行為の理由と、意思の自由の、2項目が出てきて、とても論争の種になっている。》

 

○行為の理由=目的

・行為の理由とは、吾人(ごじん)が何か為(な)さんとするの場合には必ず一定の目的がある。この目的が乃(すなわ)ち云々(しかじか)せしめまたは斯々(かくかく)せしめるので、これ正(まさ)に行為の理由である。而(しか)してこの行為の理由即ち目的がただ一箇であればそれまでだが、二箇以上である時には、わが精神は果(はたし)て自身に撰択してその一(いつ)を取り、少(すこし)も目的から制せらるることはないのであるか。(中略)これを要するに、行為の理由が実に全権を有して居て、意思の自由は名のみであるか、またはた意思の自由は真に存在して、目的は吾人の撰択に任(まか)されつつあるか、これ実に大困難事である。

《行為の理由とは、私達が何かをしようとする場合には、必ず一定の目的がある。この目的が、つまりシカジカさせ、カクカクさせるので、これは、まさに行為の理由である。そうして、この行為の理由、つまり目的が、ただ1個だけであれば、それまでだが、2個以上ある時には、わが精神は、本当に、自身で選択して、その1つを選び取って、少しも目的から制限されることはないのであるのか。(中略)これを、要するに、行為の理由が、実際に全権をもっていて、意思の自由は、名ばかりであるのか、また、それとも、意思の自由は、本当に存在して、目的は、私達の選択に任されつつあるのか、これは、本当に大困難な事である。》

 

○行為の理由=目的 ⇒ 善悪で賞罰せず

・もし左はなくて吾人が常に目的即ち行為の理由のために誘われて、それに由(よ)りて断行するとした時は、善を為(な)しても必ずしも賞すべきでない、悪を為しても必ずしも罰すべきでない、

《もし、そのよう(左様)ではなくて、私達が、いつも目的、つまり行為の理由のために誘われて、それによって断行するとした時には、善をしても、必ずしも賞賛すべきではない。悪をしても、必ずしも刑罰すべきではない。》

 

○行為の理由=自己/自己以外

・もしさはなくてその上戸が故(ことさ)らに意表(いひょう)に出(い)でて牡丹餅を取(とっ)たとすれば、これは必ず一座の様子を見てかくしたもので、やはり自己以外に行為の理由があって、純然意思の自由から割出したのではないのである。

《もし、そうではなくて、その上戸が、故意に、意表を突いて、ボタモチを選び取ったとすれば、これは、必ず一座の様子を見て、そうしたもので、やはり、自己以外に行為の理由があって、純粋な意思の自由から割り出したのではないのである。》

 

○行為の理由=無力 ⇒ 意思の自由

・もし行為の理由即ち目的物に少(すこし)も他動の力がなくて、純然たる意思の自由に由(より)て行いを制するものとすれば、平生(へいぜい)の修養も、四囲(しい)の境遇も、時代の習気も、およそ気を移し体を移すべき者は皆力なきものとなり了(お)わるであろう。

《もし、行為の理由、つまり目的物に、少しも他を動かす力がなくて、純粋な意思の自由によって、行為を制限するものだとすれば、普段の修養も、四周の境遇も、時代の慣習も、だいたい気を移し、体を移すことができるものは、すべて、力がないものとなって、終了するであろう。》

 

 

■合理/背理

 

 最後に、理について、兆民は、論理・哲理や、背理(悖理)で、正誤を明確化することにより、説明してようとしています。

 

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●論理・哲理

 

○非論理の極致・非哲学の極致:神の存在、精神の不滅、身体の死後も霊魂を保持

・しかるを五尺躯とか、人類とか、十八里の雰囲気とかの中に局して居て、而(しか)して自分の利害とか希望とかに拘牽(こうけん)して、他の動物即ち禽獣虫魚(きんじゅうちゅうぎょ)を疎外し軽蔑して、ただ人という動物のみを割出しにして考索(こうさく)するが故に、神の存在とか、精神の不滅即ち身死する後なお各自の霊魂を保つを得(う)るとか、この動物に都合の能(よ)い論説を并(なら)べ立てて、非論理極まる、非哲学極まる囈語(ねごと)を発することになる。(続1‐0)

《それを、5尺の体とか・人類とか・18里の大気圏とかの中に限定していて、そうして、自分の利害とか・希望とかに拘束して、他の動物、つまり鳥・獣・虫・魚を除外・軽蔑して、ただ人という動物だけを割り出して考察・思索するために、神の存在とか・精神の不滅、つまり身体の死後も、なお各自の霊魂を保ち得るとか、この動物に都合のよい論説を並び立てて、非論理の極致・非哲学の極致で、寝言を発語することになる。》

 

○非哲理の極致:子孫が不滅なら自身も不滅

・しかるに既に児孫を以て不朽なるを得て、なおその上に自身も別に不朽なるを得(う)るとは、余り勝手過ぎたる言い事である、非哲理極まるのである。半死の田舎媼(でんしゃおう)の口からいえばともかくも、哲学者を以て自(みずか)ら標榜する人物にして、かくの如き非哲理極まる言を吐(は)くとは、直ちに人間羞恥(しゅうち)の事を知らぬのである。(続1‐2:精神の死滅)

《それなのに、すでに子孫を不滅であることを得ても、なお、そのうえに、自身も特別に不滅であることを得るとは、あまりにも勝手すぎる言葉である、非哲理の極致である。死にそうな田舎の婆さんの口からいえば、ともかく、哲学者を自分で標榜する人物で、このように、非哲理の極致の言葉を吐くとは、すぐに人間の恥ずかしいと思う事をわからないのである。》

 

○非道理・非哲理の極致:精魂の不朽不滅

・ああこの言(げん)や非道理非哲理の極、意義ますます糾紛(きゅうふん)し錯雑し、あたかも古昔(こせき)の迷室の中に足を容(い)れたる如くに成り了(お)わるほかない。(続1‐4:未来の裁判)

《ああ、この(精魂の不朽不滅の)言葉は、非道理・非哲理の極致で、意義は、ますます紛糾・錯綜し、あたかも昔の迷宮の中に、足を踏み入れたように、成立して終了するしかない。》

 

○無意義・非論理:神が自己を型どって人類を造った

・およそこれらの言、宗教家の口から出(いず)れば、中以下根機(こんき)の人を済度(さいど)するための方便として、やや恕(ゆる)すべきであるが、一切方便を去りてただ真理これ視るべき哲学者にして、かくの如き無意義非論理なる囈語(ねごと)を唱(とな)えて、而(しか)してその人、実にこの学において大家(たいか)の名を擅(ほしいまま)にして居るとは驚くべきである。(続1‐8:主宰神の説)

《だいたい、これらの(神が自己を型どって人類を造ったという)言葉は、宗教家の口から出れば、中程度以下の教えを受ける能力のある人を、救済するための方便として、やや許すことができるのであるが、すべての方便を取り去って、ただ真理、これを見ることができる哲学者で、このように、無意義・非論理な寝言を唱えて、そうして、その人が、本当に、この学問において、大家の名をほしいままにしているとは、驚くことができるのである。》

 

○非論理の禁制:神の造物の説

・造物の説はミケランジ、ラファエルの属(やから)が、その奇傑(きけつ)の腕前を揮霍(きかく)するための画題と為(な)すには極(きわめ)て適当ではあるだろうが、冷澹(れいたん)平静一(いつ)も非論理の禁を犯すを容(ゆ)るされない哲学者の口からして、神の造物の説を主張するとは驚くべきの極である。(続1‐9:造物の説)

《造物の説は、ミケランジェロ・ラファエルの同属が、その奇抜な豪傑の腕前を、振り回すための画題とするには、とても適当ではあるだろうが、冷淡・平静で、ひとつも非論理の禁制を犯すことを許されない哲学者の口から、神の造物の説を主張するのは、驚くべき極致である。》

 

○論理に不適合:造物の説

・古昔(こせき)学術草昧(そうまい)の世、今時よりいえばほとんど精神病者の如き人物に由(よ)りて想像せられて、一(いつ)も論理に適(かな)わない造物の説と、尋常に度越して居る博学俊傑(しゅんけつ)の士がこれを理に揆(はか)り、これを学に質(ただ)し、観察し、経験し、苦心惨澹(さんたん)の余に得たる進化の説と、いずれを信じいずれを非とすべきである乎(か)。(続1‐9:造物の説)

《昔の学術の初めで暗い時代、現在からいえば、ほとんど精神病者のような人物によって想像され、ひとつも論理に適合しない造物の説と、普通の程度を超越している博学・優秀な学士が、これを理にはかり、これを学問に問いただし、観察・経験し、苦心して思慮するあまりに得た進化の説と、どちらを信じ、どちらを非(誤り)とすべきであるのか。》

 

○論理:万事が創造主なしにできた

・この世界万象が造主なしに出来たとは何の論理であるか(続1‐9:造物の説)

《この世界のあらゆる事象が、創造主なしにできたとは、何の論理であるのか、》

 

○論理:1個の力で天然物を造った

・いわんや人獣の構造組織の如き、広大無辺なる星象(せいしょう)の旋躔(せんてん)廻転の如き、如何なる通力あるにせよ、一箇の力でこれ(天然物)を造ったとは、それこそ論理において受け取れぬ、(続1‐9:造物の説)

《まして、人・獣の構造組織のようなものは、広大・無辺な星座の旋回・巡転のようなもので、どんな神通力があるにせよ、1個の力で、これを造ったとは、それこそ論理において、受け取れられない。》

 

○不論理・非哲理:不朽不滅の霊魂、虚霊真空の精神、身殻の死後も精神が単独で存在・記憶を保存

・彼れ独り勝手に不朽不滅の霊魂、虚霊真空の精神、躯殻の中に居て躯殻を支配し、躯殻死すれば独存して記憶を存する精魂を有するという不論理非哲理は、決して容(ゆ)るされぬのである。(続2‐1:世界)

《それらは、単独で勝手に不朽不滅の霊魂・虚霊真空の精神、身殻の中にいて身殻を支配し、身殻が死ねば、単独で存在して、記憶を保存する精神をもつという、不論理・非哲理は、けっして許容されないのである。》

 

○始=本当の意義(哲理的の意義)なし

・だから始という語は、真の意義即ち哲理的の意義はないのである。(続2‐2:無始)

《だから、始という語句は、本当の意義、つまり哲理的な意義がないのである。》

 

○始=意義なき非論理、世界の万物=無始が明白

・されば世界万有が無始であるのは当然明白の事である。もし始(はじめ)があったら大変で、意義もなき非論理となる。(続2‐3:無終)

《そうであれば、世界の万物が、無始であるのは、当然、明白の事である。もし、始があったら大変で、意義もない非論理となる。》

 

○非論理・非哲理・幻泡影・前後矛盾・自己矛盾・大混雑・大混乱:無から有への始、有から無への終

・もし一物でも無よりして有で、即ち始めがあってその有が、また無になりて、即ち終があるというと大変な事で、非論理、非哲理、泡沫、幻影、前後矛盾、自家撞着(どうちゃく)、大混雑、大混乱となり了(お)わるのである。(続2‐3:無終)

《もし、ひとつの物でも、無から有で、つまり始めがあって、その有が、また、無になって、つまり終りがあるというと、大変な事で、非論理・非哲理・泡沫・幻影・前後矛盾・自己矛盾・大混雑・大混乱となって、終了するのである。》

 

○道徳・論理

・かくして道徳論理と順次論道すべきはずではあるが、元これ組織的に哲学の一書を編するのではない、(続3‐0)

《こうして、道徳・論理と、順次、道を論考するだろうはずではあったが、元々、これは、組織的な哲学の一書を編集するのではない。》

 

 

●背理(悖理)

 

○理に背く(悖る):官吏の過失をこらしめるような却下・恩恵を与えるような許可

・人民出願し及び請求することあるに方(あた)り、これを却下する時はあたかも過挙(かきょ)あるものを懲(こら)すが如く、これを許可する時はあたかも恩恵を与うるものの如し、何ぞそれ理に悖(もと)るの甚しきや。(正2:官とは何ぞ)

《(官吏へ)人民が出願・請求することがあるのにあたって、これを却下する時は、あたかも過失があるものを、こらしめるようで、これを許可する時は、あたかも恩恵を与えるもののようで、どうして、そのように、理に背(そむ)くのが、ひどいのか。》

 

○理に背く(悖る)・背理(悖理):人の良心を怒らす

・即ち精神の如きも、躯殻(くかく)中に脳神経が絪縕(いんうん)し摩蘯(まとう)して、ここに以て視聴嗅味及び記憶、感覚、思考、断行等の働らきを発し、その都度瀑布(ばくふ)の四面(よも)に濆沫(ふんまつ)飛散するが如くに、極々精微の分子を看破し得るに至るだろうと臆定(おくてい)し置(おい)ても、必ずしも理に悖(もと)りて人の良心を怒らすが如き事はないではないか。これに反し、分子も形質もなき純然たる虚無の精神が、一身の主宰となりて諸種の働らきを為(な)すというが如きは、如何(いか)にも悖理(はいり)ではあるまいか、人の良心を怒らすべき性質ではあるまいか。(続1‐1:霊魂)

《つまり精神のようなものも、身殻の中に、脳神経が元気・勢い盛んで、これによって、視覚・聴覚・嗅覚・味覚、記憶・感覚・思考・断行等の働きを発動し、その都度、滝の4方に水しぶきが飛散するようなもので、非常に精緻の分子を見破ることができるのにいたるだろうと、憶測で設定しても、必ずしも理に背(そむ)いて、人の良心を怒らすような事はないのではないか。これに反し、分子も形質もない、純粋な虚無の精神が、ひとつの身体の中心となって、種々の働きをするというようなものは、本当に、背理ではないのか。人の良心を怒らすことができる性質かもしれない。》

 

○背理(悖理):理・義を弁別する男子が物に礼拝

・而(しか)してこれ啻(ただ)に悖理(はいり)笑うべきのみならず、人事の実際に害すること甚(はなはだし)きものがある。(続1‐5:多数神の説)

《そうして、これ(理・義を弁別する男子が物に礼拝すること)は、ただ背理で、笑うことができるだけでなく、人の事が、実際に危害になることは、ひどいものがある。》

 

○背理(悖理)の事:万能か神でも不可能

・如何(いか)に万能の神でも、悖理(はいり)の事の出来べきはずはないのである。(続1‐9:造物の説)

《いかに万能な神でも、背理の事ができるはずはないのである。》

 

 

(おわり)

 

(つづき)

 

 

■名実論

 

 つぎに、理について、兆民は、次のように、物質(外物)の美と、理義の善を、分別すべきだとしています。

 

※名実論:理義(根本)>外物(末端)

・名=外面:物質(外物)、国家(大物) ~ 美:愛国心

・実=内面:理義(内心) ~ 善:理義の言葉=陳腐、理義の行動=新奇

 

 このうち、理義については、理義の言葉は、陳腐だが、理義の行動は、新奇で、陳腐な言葉は、国家において、とても必要とし、国家は、多数の個人の犠牲が提供されるので、大物といわれています(正3:議員政事家という啖人鬼)。

 もし、理義の言葉で、新奇を誇示すれば、邪道の弊害につながり、不道理になるおそれもあるようです(続2‐9:客観)。

 一方、物質については、当時は、農業社会から工業社会への過渡期で、恐外病治癒のために、自国で精巧な物品を製造・尊重する等、科学を普及させ(正3:巴里倫敦の愛国心)、物質の美を推進し、人民の愛国心を教化することが、大切だとみています。

 ところで、その物質である、世界の万物は、以下のように、アル形体が、自然に変化し、別の形体に純粋化(化醇)したものと定義され、無から有への創造もなく、有から無への消滅もないとされています。

 

「この広大無辺の世界、この森然たる万物が、一個の勢力に由(よ)りて一々に造り出されたというよりは、従前他の形体を有せしものが自然に化醇(かじゅん)して、この万彙に変じ来(きた)って乃(すなわ)ち自然に出来たというこそ、更に数層哲学的である。」(続1‐10:神に遇う)

《この広大・無辺の世界で、この荘厳な万物が、1個の勢力(たとえば、神)によって、ひとつひとつ造り出されたというよりは、以前、他の形体であったものが、自然に変化・純粋になって、この万物に変わり切って、つまり自然にできたということこそ、さらに、数段哲学的である。》

 

 ちなみに、理義は、『孟子』(11-147)で、以下のように、言及しており、口では、味を好み、耳では、声を聞き、目では、色を美しいと見るように、心では、理義を喜ぶと、言及されています。

 

・故曰、口之於味也、有同耆焉。耳之於声也、有同聴焉。目之於色也、有同色焉。至於心、独無所同然乎。心之所同然者何也。謂、理也、義也。聖人先得我心之所同然耳。故理義之悦我心猶芻豢之悦我口。

[故に曰(いわ)く、「口の味におけるや、同じく耆(たしな)むことあり。耳の声におけるや、同じく聴くことあり。目の色におけるや、同じく美とすることあり。心に至りて、独り同じく然(しか)りとする所なからんや」と。心の同じく然りとする所の者は何ぞや。謂(い)わく、理なり、義なり。聖人は先(ま)ず我が心の同じく然りとする所を得たるのみ。故に理義の我が心を悦(よろこ)ばすは、猶(な)お芻豢(すうかん)の我が口を悦ばすがごとし。]

《よって、いう、「口の味においては、同じように、好むことがある。耳の声においては、同じように、聞くことがある。目の色においては、同じように、美しいことがある。心に至って、それだけが、同じように、そのようだとすることがないのか」と。心が、同じように、そのようだとするものは、何か。いう、理なのだ、義なのだ。聖人は、まず私の心が、同じように、そのようだとすることを得るのだ。よって、理義が私の心を喜ばすのは、ちょうど家畜の肉が、私の口を喜ばすようなものだ。》

 

 つまり、物質は、外物で、理義は、内心といえ、理義(内実)の善をもとに、物質(外形)の美が表現されれば、理義が根本、物質(外物)が末端と、分別でき、物質よりも、理義のほうが、まさることになります。

 

* * *

 

 

●理義

 

○物質の美と理義の善の分別、理義が外物にまさる、理義の言=陳腐、理義の行=新奇

・もし根本より恐外病を痊(いや)さんと欲せば、教化を盛にし、物質の美と理義の善との別を明(あきらか)にするに如(し)くは莫(な)し。(中略)外物は竟(つい)に理義に勝つこと能(あた)わざるなり、本末の別あればなり。それこの言や今の灰殻(はいから)者流必ず言わん、陳腐聞くに堪(た)えずと。然(しか)りおよそ理義の言は皆陳腐なり。これを言うにおいて陳腐なるも、これを行うにおいて新奇なり。かつ公(こう)らの陳腐とする所は、国家において皆極めて必要とする所なり。(中略)公らいまだ理義の言に容喙(ようかい)するを許さざるなり。(正3:灰殻者流容喙の権なし)

《もし、根本から恐外病を癒したいとすれば、教化を盛んにし、物質の美と理・義の善の分別を明らかにすることに、及ぶものはない。(中略)外物は、結局、理・義に勝つことができないのだ。根本と末端の分別があるからなのだ。それは、この言葉が今のハイカラ(西洋風)の流派が、必ずいうだろう、「陳腐で聞くに耐えない」と。それで、だいたい理・義の言葉は、すべて、陳腐なのだ。これを発言することにおいて、陳腐なのも、これを行動することにおいて、新奇なのだ。そのうえ、貴公らが、陳腐とすることは、国家において、すべて、とても必要とすることなのだ。(中略)貴公らは、まだ理・義の言葉に口出しすることを許さないのだ。》

 

○物質と理義の別、理義・物質の別

・しかりといえども、単に物質と理義との別を明(あきらか)にするのみにてはいまだ足らず、即ち物質の美も、また大(おおい)に愛国心を催起(さいき)するにおいて力あり、而(しか)して愛国心の盛なる自然に恐外病を癒(い)やすに足る。(中略)故に中人(ちゅうじん)以下の如きは、独り理義物質の別を明かにするのみならず、直ちに物質の美を進めてこれを示(し)めし、以てその愛国心を発せしめざるべからず〈戦争の時の如き自ら別なり〉。(正3:物質の美と愛国心)

《そうはいっても、単に、物質と理・義の分別を明らかにするだけでは、まだ不足だ。つまり物質の美も、また、大いに愛国心をうながすことにおいて、力がある。そうして、愛国心が盛んなのは、自然に恐外病を癒すのに充分だ。(中略)よって、普通の人以下のようなものは、自分で理・義と物質の分別を明らかにするだけでなく、すぐに物質の美を進めて、これを示し、それでその愛国心を発現させないわけにはいかない〈戦争の時のように、自然な分別なのだ〉。》

 

○理義が適合すべき

・今日より各階級の人皆少(すこし)く自(みずか)ら修明して、理義の正に適合するを求むるに至るべし。(正3:このほか別に名策なし)

《今日から、各階級の人は皆、いささか自分で修養して立派になり、理・義が、まさに適合することを求めるのに至るべきだ。》

 

○純粋な理義の正しさを表現すべき

・既に理想という、たといその勢(いきおい)今日に行うべからざる者、即ち純然たる理義の正の如きも、これを口にしてこれを筆にし、他年他日必ずこれを実行に見ることを期するなるべし。(中略)それあるいは縲紲(るいせつ)の苦といえども辞せざるを期するなるべし、あるいは理義を解せざる狂漢の匕首(あいくち)をも避けざるべし。(正3:石碑の後より諸君を祝せん)

《すでに理想という、たとえ、その勢いが、今日に行うべきでないものは、つまり純粋な理・義の正しさのようなものも、これを言葉にして、これを文書にし、いつの年か・いつの日か、必ずこれを実行に見ることを、決心するようになるだろう。(中略)そもそも投獄の苦難といっても、やめないことを、決心するようになったりするだろう。理・義を解明しない狂人の短刀をも、避けなかったりするだろう。》

 

○理義を解明すべき

・生れて五十五年、やや書を読み理義を解して居ながら、神があるの霊魂が不滅というような囈語(ねごと)を吐(は)くの勇気は、余は不幸にして所有せぬ。(続1‐0)

《生まれて55年、徐々に書物を読み、理・義を解明していながら、神がある・霊魂が不滅というような寝言を吐く勇気は、私には不幸にして所有していない。》

 

○哲学者:理義を思索

・唐辛(とうがらし)はなくなりて辛味は別に存するとか、太鼓は破(やぶ)れて鼕々(とうとう)の音は独り遺(のこ)って居るとか、これ果(はたし)て理義を思索する哲学者の口から真面目に言わるる事柄であろうか。(続1‐1:霊魂)

《唐辛子は、なくなって、辛味が別に存在するとか、太鼓は、やぶれて、トントンという音だけが残っているとか、これは、本当に、理・義を思索する哲学者の口から、真面目にいわれる事柄であろうか。》

 

○理義を弁別すべき

・三家村里の翁媼(おうおう)が、これら雲物または古人既滅(きめつ)の泡沫を拝禱(はいとう)するのはなお恕(ゆる)すべきも、読書し理義を弁ずる五尺躯の大男子にして真面目にこれらの物を拝するに至(いたっ)ては、実に言語に絶するのである。(続1‐5:多数神の説)

《家がわずかな村里の爺さん・婆さんが、これら雲の変異・昔に死滅した人達を拝礼・祈祷するのは、まだ許すことができるが、読書し、理・義を弁別する、5尺の体の立派な男子で、真面目に、これらの物を拝礼するのに至っては、本当に、言葉で説明できないのである。》

 

 

■体用論

 

 さらに、理について、兆民は、次のように、身体(身殻)は、本体(実質)で、精神(精魂)は、作用(働き)とし、身体が死亡すれば、精神も消滅するのが、真理(道理)だと主張しています。

 

※体用論:本体>作用、真理=身体の死亡で精神も消滅

・本体(実質):身体(身殻)、先祖→自身→子孫と連続 ~ 元素=不朽不滅:炭、薪、太鼓・鐘

・作用(働き):精神(精魂)、自身 ~ 朽滅:焔、火、音

 

 ただし、万物は、諸元素の相抱合で成立し、それまで遊離していた元素が、抱合すれば、物(身体)の生で、解散すれば、物(身体)の死と、変化するのが、科学の理なので、精神は、朽滅である一方、身体(物)の元素自体は、不朽不滅です。

 これを、生物にあてはめると、自身だけならば、朽滅ですが、先祖→自身→子孫と連続していれば、不朽不滅ということができます(続1‐2:精神の不滅)。

 そして、この朽滅する作用としての精神を前提とし、以下のように、科学の文明を開発・推進するために、精神の能力を発揮することになります。

 

「今日国家社会を構造するは誰の力ぞ、諸種学科を闡発(せんぱつ)し推進し、蛮野を出(い)でて文明に赴(おもむ)く者、皆いわゆる精神の力といわねばならぬ。」(続1‐1:霊魂)

《今日、国家社会を構築するのは、誰の力か。種々の学科を開発・推進し、野蛮を出て、文明に行くものは、すべて、いわゆる精神の力といわなければならない。》

 

 なお、言論の自由な道理に支配させられるべき今日において、理義の善(道理)は、道徳・風俗を破壊・混乱させず、科学の検証・実験の証拠が必要とは限らないが、自然の理に近く、誰かが作って人の技巧を経た器物だと、条件づけることができます。

 よって、兆民は、人間が中心の、人文科学・社会科学等の理を、人間が介入する余地のない、自然科学・宇宙科学等の理と、同等に見るつもりはありませんが、相対的な、人間の習慣・道徳・規則・法制を、絶対的な、自然・宇宙の法則と、近似して見ようとしていたのではないでしょうか。

 

* * *

 

 

●理・真理

 

○理:精神=作用・働き、身体の死(身殻の還元・解離)で精神も消滅

・精神とは本体ではない、本体より発する作用である、働きである。譬(たと)えばなお炭と焔(ほのお)との如きである、薪(まき)と火との如きである。漆園叟(しつえんそう)は既にこの理を覰破(しょは)して居る、それ十三若(もし)くは十五元素の一時の抱合たる躯殻(くかく)の作用が、即ち精神なるにおいては、躯殻が還元して即ち解離して即ち身死するにおいては、これが作用たる精神は同時に消滅せざるを得ざる理である。(続1‐1:霊魂)

《精神とは、本体ではない。本体から発動する作用である、働きである。例えば、ちょうど炭と炎のようなものである、薪と火のようなものである。荘子は、すでに、この理を見破っている。それは、13か15元素の一時、抱き合った身殻(身体・外殻)の作用が、つまり精神とするのにおいては、身殻が還元して、つまり解離して、つまり身体が死ぬのにおいて、これが作用する精神は、同時に消滅せざるをえない理である。》

 

○真理:身殻=本体、精神=作用・働き、身殻の死で精魂も滅亡

・故に躯殻は本体である。精神はこれが働らき即ち作用である。躯殻が死すれば精魂は即時に滅ぶのである。それは人類のために如何(いか)にも情けなき説ではないか、情けなくても真理ならば仕方がないではないか。(続1‐1:霊魂)

《よって、身殻は、本体である。精神は、これが働く、つまり作用である。身殻が死ねば、精魂は、即時に滅亡するのである。それは、人類のためには、本当に、情けない説ではないか。情けなくても、真理ならば、仕方がないではないか。》

 

○不理:身体が滅亡しても精神が単独で存在

・もし彼(か)の卵が蛾の躯体と精神とを授(さず)かりて、而(しか)して彼の蛾もまた躯体のみ亡(ほろ)びて、その精神は独存すといわば、理において穏当(おんとう)であろうか。(続1‐2:精神の死滅)

《もし、あの卵が、ガの身体と精神を授かって、そうして、あのガも、また、身体だけが滅亡して、その精神は、単独で存在するといえば、理において、妥当であろうか。》

 

 

●道理

 

○不道理:物の終始・極限

・元来空間といい、時といい、世界といい、皆一つありて二つなきもの、如何(いか)に短窄(たんさく)なる想像力を以て想像しても、これら空間、時、世界という物に始めのあるべき道理がない、終のあるべき道理がない。また上下とか東西とかに限極のある道理がない。(続1‐0)

《本来、空間といい、時間といい、世界といい、すべて、1つであって、2つとないものは、どんなに短い・狭い想像力によって、想像しても、これら空間・時間・世界という物には、始めのあるべき道理がない、終りのあるべき道理がない。また、上下とか・東西とかに、極限のある道理がない。》

 

○今日:言論の自由な道理に支配

・十七世紀前の欧洲では、もし無神無精魂の説を主張すれば、あるいは水火の酷刑に処せられたので、やむをえぬ事情もあったかは知らぬが、言論の自由なる道理に支配せられべき今日にあって、なおこの囈語(ねごと)を発するとは何たる事ぞ。(続1‐1:霊魂)

《17世紀以前のヨーロッパでは、もし、無神・無精魂の説を主張すれば、火・水の過酷な刑に処罰されたりするので、やむをえない事情もあったかは、知らないが、言論の自由な道理に支配させられるべき今日にあって、まだこの寝言を発語するとは、何たる事か。》

 

○道理:不朽不滅=身体の資格

・この道理からいえば、いわゆる不朽とか不滅とかは精神の有する資格ではなく、反対に躯体の有する資格である。(続1‐3:躯殻の不滅)

《この(身殻は本体、精神は作用という)道理からいえば、いわゆる不朽とか・不滅とかは、精神がもつ資格ではなく、反対に、身体がもつ資格である。》

 

○明白な道理:身体・元素(実質)=不朽不滅、精神(作用)=朽滅

・故に躯体、即ち実質、即ち元素は、不朽不滅である、これが作用たる精神こそ、朽滅して跡を留(とど)めないのである。これは当然明白の道理で、太鼓が破(やぶ)るれば鼕々(とうとう)の音絶える、鐘が破るれば鍧々(こうこう)の音は止まる。(続1‐3:躯殻の不滅)

《よって、身体、つまり実質、つまり元素は、不朽不滅である。これは、作用である精神こそ、朽ち滅して、跡をとどめないのである。これは、当然、明白な道理で、太鼓がやぶれれば、トントンという音も途絶える。鐘がこわれれば、カンカンという音も止まる。》

 

○道理:道徳・風俗を破壊・混乱させない

・即ち欧米人が無宗旨の人を忌(い)むこと、盗賊も啻(ただ)ならざる姿であるのは、此処(ここ)の道理である(続1‐4:未来の裁判)

《つまり欧米人が、無宗教の主旨の人を忌み嫌うこと、盗賊も、普通でない姿であるのは、ここの(道徳・風俗を破壊・混乱させない)道理である、》

 

○自然の道理=無為・無我の神

・但(ただ)この説にあっては、唯一神とはいうけれど、実はほとんど無神論と異(ことな)らぬのである。何となればこの神や無為無我で、実はただ自然の道理というに過ぎないのである。(続1‐7:神物同体説)

《ただ、この説にあっては、唯一神というけれども、実際には、ほとんど無神論と異ならないのである。なぜかといえば、この神は、無為・無我で、実際には、ただ自然の道理というのにすぎないのである。》

 

○道理=誰かが作って人の技巧を経た器物、不道理=偶然ひとりでにできた品物

・竹頭木屑(ぼくせつ)ならばともかくも、いやしくも人巧(じんこう)を経(へ)たる物、譬(たと)えば各種器物でるとか、更にはまた極(きわめ)て縝密(しんみつ)の機械に具(そな)えてる時辰儀(じしんぎ)等であった時には、誰れかこの物を作った者があるだろうということは不言の間に明瞭である。箇様(かよう)の品物が偶然独りで出来て途に落て居る道理はないからである。(続1‐9:造物の説)

《竹の切れ端・木クズならば、ともかくも、もしも、人の技巧を経た物、例えば、各種の器物であるとか、さらには、また、とても精密な機械が備わっている時計等であった時には、誰か、この物を作った者があるだろうということは、無言の間に明瞭である。このような品物が、偶然ひとりでにできて、道に落ちている道理はないからである。》

 

○自然の理からできた⇒道理に近似

・自然の理に頼(よ)りて、絪縕(いんうん)し、摩蘯(まとう)し、化醇(かじゅん)し、浸漬(しんし)して出来たという方(ほう)如何ほど道理に近くはあるまいか。(続1‐9:造物の説)

《自然の理によって、元気で、勢い盛んで、変化・純粋になり、浸透してできたという方が、どれほど道理に近くではないだろうか。》

 

○現実派哲学:光り輝く明白な道理⇒実験の証拠がないと抹殺

・かく論ずる時は、この一派は極(きわめ)て確実拠(よ)るべきが如くに見えるが、その現実に拘泥(こうでい)するの余り、皎然(きょうぜん)明白なる道理も、いやしくも実験に徴し得ない者は皆抹殺して、自ら狭隘(きょうあい)にし、自ら固陋(ころう)に陥(おち)いりて、その弊や大(おおい)に吾人(ごじん)の精神の能を誣(し)いて、これが声価(せいか)を減ずるに至るのである、(続2‐1:世界)

《こう論考する時、この(現実派哲学の)一派は、とても確実さによるべきだというように見えるが、その現実に執着するあまり、光り輝く明白な道理も、もしも、実験に証拠(徴証)が得られないものは、すべて、抹殺して、自分で狭小にし、自分で固執に陥って、その弊害は、大いに私達の精神の能力をあざむいて、これが評判を低減するのに至るのである。》

 

○不確実な道理⇒半分以上抹殺とはかぎらず、道理=科学の検証なしもあり、不道理=限極あり

・惟(おも)うに今日世の中の事、必ず目視て耳聴き科学検証を経たるもののみ確実で、余は悉(ことごと)く不確実だといわば道理の半(なかば)以上は抹殺せねばならぬこととなり、極(きわめ)て偏狭固陋(ころう)の境に自画(じかく)せねばならぬこととなる。かつ日常の事、必ずあり得(う)べきもの、または必ずあるべからざるものは、皆直(ただ)ちに人言を信じて、必(かならず)しも検証を施さないで、それで己(おの)れも許し人も許して、而(しか)して真に確実で動(うごか)すべからざるものが幾何(いくら)もある。且(か)つたとい科学の検証を経ずとも、道理上必ずあるべき、またあるべからざる事も、幾何もある。即ち世界が無限であるという事の如き、たとい科学の検証がなくとも限極があるといえば、大変大怪大幻詭(げんき)であるといわねばならぬ。世界とは唯一の物で、およそ容(い)れざる所ろないもので、有も容るべく無も容るべく、空気も容れ依天児(エーテル)も容れ、太陽系天体も容れ千数太陽系の天体も容れ、もしこの系の外(ほか)真空界なりとせば、この真空界をも容れて居るはずである。かくの如きものに限極のある道理がない、(続2‐1:世界)

《思うに、今日、世の中の事は、必ず目で見て、耳で聞いて、科学の検証を経たものだけが確実で、私は、すべて、不確実だといえば、道理の半分以上は、抹殺しなければならないことになり、とても偏向・狭小・固執の境界を、自己で画定しなければならないことになる。そのうえ、日常の事で、必ずありえることができるもの、または、必ずあることができないものは、すべて、すぐに人の言葉を信じて、必ずしも検証を施さないで、それで自己も許し、人も許して、そうして、本当に確実で、動かすことができないものが、いくらでもある。そのうえ、たとえ、科学の検証を経ないでも、道理上、必ずあるべき、または、あるべきでない事も、いくらでもある。つまり世界が無限であるという事のようなものが、たとえ、科学の検証がなくても、極限があるといえば、大変化・大怪奇・大幻惑・大詐欺であるといわなければならない。世界とは、唯一の物で、だいたい許容しないことがないもので、有も許容することができ、無も許容することができ、空気も許容し、エーテルも許容し、太陽系・天体も許容し、数1000の太陽系の天体も許容し、もし、この系以外が真空界なのだとすれば、この真空界も許容しているはずである。このようなものに極限がある道理はない。》

 

○不道理:無から有へ

・吾人(ごじん)がしばしば論じた如く、無よりして有とは道理においてあるべきではない。(続2‐1:世界)

《私達が、しばしば論考したように、無から有とは、道理において、あるであろうことではない。》

 

○不道理:有から無へ(実質が消滅)、世界の道理:実質が消滅せずに変化

・またこの世界が何らかの原因ありて終るべきもの、即ち有より無に入るべきものといえば、これまた道理上あり得べからざる事である。何となれば、実質が如何(いか)にするも消滅すべき道理がない、場所を替え形を易(か)ゆることはあっても、純然消えて無となる道理がない。この道理は決して吾人(ごじん)人類中の道理でなく、十八里の雰囲気中の道理でもなく、直(ただち)に世界の道理である、(続2‐1:世界)

《また、この世界が、何らかの原因があって、終わるであろうもの、つまり有から無に入るであろうものといえば、これは、また、道理上、ありえることができない事である。なぜかといえば、実質が、どのようにしても、消滅することができる道理がない。場所を変え、形を変えることがあっても、純粋に消滅して、無となる道理がない。この道理は、けっして私達人類の中の道理ではなく、18里の大気圏の中の道理でもなく、直接、世界の道理である。》

 

○不道理:形身が死・解離しても精神が単独で存在、生前の記憶を保持

・吾人(ごじん)死して形躯(けいく)解離するが故に、精神独り存して生前の記憶を保つよう致したいという乎(か)、それは都合は好(よ)いかは知らねど真面目には言えぬ不道理である。(続2‐2:無始)

《私達が死んで、形身が解離するために、精神が単独で存在して、生前の記憶を保持するように、いたしたいというのか。それは、都合がよいかは、知らないが、真面目にはいえない不道理である。》

 

○不道理:無から有へ

・その実およそ何物も無よりして有なる道理はなく、研究を加うれば必ず卵の蛾における、蚕の卵におけるが如くである。(続2‐2:無始)

《それが実際には、だいたい何物も、無から有である道理はなく、研究を加えれば、必ず卵のガにおける、カイコの卵におけるようなものである。》

 

○不道理:有から無へ

・有が無になる道理はない。(続2‐3:無終)

《有が無になる道理はない。》

 

○明白な道理:邪道の弊害を警戒して新奇を誇示せず

・都(すべ)て哲学者の多くは天姿高邁(てんしこうまい)で奇を好むより、従前の途轍(とてつ)に循(したが)うのを屑(いさぎよ)しとしない。異を立て新を衒(てら)わんとして思索を凝らし、遂に目前無造作の事物でも非常に奇怪視して、いわゆる謬巧(びゅうこう)錯雑(さくざつ)の言を為(な)し、自分も知らず識(し)らずの際、邪路に陥(おちい)りて自(みずか)ら出ること出来なくなるのが往々である。吾人(こじん)は務(つとめ)てこの弊を去ろうと欲するので、古人の聚訟(しゅうしょう)した事条についても、ただ務めて当面明白の道理を発して絶(たえ)て新奇を衒わぬのである、(続2‐9:客観)

《すべて、哲学者の多くは、生まれつき優秀で、奇異を好むので、以前の筋道にしたがうことを快く思わない。奇異を確立し、新奇を誇示しようとして、思索に熱中し、結局、目前の無造作の事物でも、とても奇怪視して、いわゆる巧みさを誤って錯綜する言葉となり、自分も知らず知らずの間に、邪道に陥って、自分から出ることができなくなるのが、しばしばである。私達は、努力して、この弊害を離れ去りたいとするので、昔の人の争議した事項(条項)についても、ただ努力して、当面は、明白な道理を発動して、まったく新奇を誇示しないのである。》

 

○不道理:先天的な観念

・吾人もし仮りに隤然(たいぜん)たる渾沌(こんとん)的肉塊(にくかい)であったならば、何の影象も得るに由(よし)なくて、乃(すなわ)ち吾人の記性は常に愣然(りょうぜん)として無一物(むいちぶつ)であろう、海に浮(うか)ぶ海月(くらげ)と一般だろう、何の先天的の意象もあるべき道理はない。(続2‐13:神の意象)

《私達が、もし、かりに、だらしない混沌的肉塊であったならば、何のイメージも得る理由がなくて、つまり私達の記憶力は、いつも、ぼんやりして、何ひとつないであろう。海に浮かぶクラゲと同様だろう。何の先天的な観念も、あるであろう道理はない。》

 

 

(つづく)

 

中江兆民「一年有半」抜粋1~4

中江兆民「続一年有半」読解1~8

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 中江兆民(1847~1901年)の『一年有半』(1901年刊行)・『続一年有半』(1901年刊行)は、最晩年の2書なので、兆民の最も主張したい内容が、取り上げられているとみることができ、その中心を一言でいえば、「理」といえるのではないでしょうか。

 よって、ここでは、正・続の2書から、「理」についての文章を抜粋し、兆民の主張をまとめてみることにします。

 

 

■日本の特徴

 

 まず、理について、兆民は、次のように、日本人が、事理・利害に明るい一方、天地性命の理・理義に暗いと、指摘しています。

 

※日本

・明るい:事理(→ものわかりがよい)、利害

・暗い:天地(自然)・性命(生物)の理、理義(道理・正義)

 

 そのうえ、日本人は、従うことを好み、考えることを好まないのが、天下(国家)の明白な道理で、以下のように、考えても浅はかで、落ち着きがないとみています。

 

「それただ考うることを好まず、故におよそその為す所浅薄(せんぱく)にして、十二分の処所(しょしょ)に透徹すること能(あた)わず。」(正2:考えることの嫌いな国民)

《そもそも、ただ考えることを好まず、よって、だいたい、そのすることが浅はかで、充分すぎる落ち着く場所に、貫徹することができない。》

 

 なお、日本は、欧米強国の物質の学術に、驚嘆させられた一方、北清事変(義和団事件、1900年、兆民没年の前年)で、強国にも、弱点・失点があるとわかり、強国の理義は、日本より、下等ではないが、劣等もあるので、恐外病治癒のため、卑賤すべきことを見て、尊敬すべきことを見ないとしています。

 つまり、もし、理よりも、情のほうが、まされば、以下のように、普通の人の感情が両極端を揺れ動き、合理がなく、右往左往し、その都度、空気に支配されるのが、最近でも、日本の特徴で、情しかないのが子供で、理があるのが大人ともいえ、大人が子供を統制する、優勝劣敗の大理につながります。

 

「一の極より他の極に走るは常人の情なり。」(正3:恐外病と侮外病)

《一方の極端から他方の極端へ走るのは、普通の人の情なのだ。》

 

 ここでの理(理学)とは、哲(哲学)のことで(哲理=哲学上の道理)、「わが日本古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし。」《わが日本は、昔から今に至るまで、哲学がない。》(正1:日本に哲学なし)という、有名な言葉での哲学は、理学(理化)を指し示しています。

 それで、「哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄(せんぱく)を免れず。」《哲学のない人民は、何事をしても、深遠な意味がなくて、浅はかなのを免れない。》(正1:日本に哲学なし)と、国の人民の品位を、哲学の意味の深浅で評価されています。

 この理学(哲学的研究)とは、物理学・化学の2学科で、当時は、農業社会から工業社会への過渡期なので、科学をもっと普及すべきとされ、理学は、アル範囲内に限定せずに、荘厳で、美醜を分別・差異しないので、感情とは対照的に、冷淡・露骨・殺風景になるとみられています。

 

* * *

 

 

●理

 

○日本:天地性命の理に暗い

・わが日本古(いにしえ)より今に至るまで哲学なし。本居篤胤(あつたね)の徒は古陵(こりょう)を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理に至っては瞢焉(ぼうえん)たり。(正1:日本に哲学なし)

《わが日本は、昔から今に至るまで、哲学がない。本居宣長・平田篤胤の門徒は、昔の天皇陵を探究し、古い言葉を修得した、一種の考古学者にすぎず、天地・本性(生まれ持った本来の性質)・運命の理に至っては、暗いのだ。》

 

 

●事理

 

○日本:事理に明るい

・わが邦人これを海外諸国に視るに、極めて事理に明(あきらか)に、善く時の必要に従い推移して、絶(たえ)て頑固な態なし、これわが歴史に西洋諸国の如く、悲惨にして愚冥(ぐめい)なる宗教の争いなき所以(ゆえん)なり。(正1:総ての病根此にあり)

《わが国の人は、これを海外諸国から見ると、極めて事の理が明らかで、よく時代の必要にしたがって推移して、まったく頑固な状態がない。これが、わが歴史に、西洋諸国のような、悲惨で愚鈍な宗教の争いがなかった理由なのだ。》

 

○事理を許容すべき、神をイメージ・霊魂不滅を想像=意気地なし

・乃(すなわ)ち自己脚跟(きゃっこん)下の事は自己の力で料理するよう做(な)し将(も)ち去らずして、世界あるべからざる神を影撰(えいせん)し、事理容(ゆ)るすべからざる霊魂の不滅を想像して、辛(かろ)うじて自己社会の不始末を片付けんとするのは、むしろ生地(いくじ)なしといわねばならぬ。(続1‐4:未来の裁判)

《つまり自己の足下の事は、自己の力で処理するように実行しないで、世界にあることができない神をイメージし、事の理を許容することができない霊魂の不滅を想像して、どうにか、自己社会の不始末を片づけようとするのは、むしろ、意気地なしといわなければならない。》

 

 

●理義

 

○日本:利害に明るい・理義に暗い、天下の明白な道理=従うのを好む・考えるのを好まず

・わが邦人(ほうじん)は利害に明(あきらか)にして理義に暗(く)らし。事に従うことを好みて考えることを好まず。それただ考うることを好まず、故に天下の最明白なる道理にして、これを放過してかつて怪(あやし)まず。(正2:考えることの嫌いな国民)

《わが国民は、利害に明らかで、理・義に暗い。事にしたがうことを好んで、考えることを好まない。そもそも、ただ考えることを好まない。よって、天下の最も明白な道理で、これを放置して、かつては、怪しまなかった。》

 

○強国の理義:日本より下等でない・劣等もあり

・けだし彼れ強国、その物質の学の術に至ては、真(まこと)に人をして驚嘆せしむるに足る、しかれども一(ひと)たび理義の際を察するに及(およん)では、その畏(おそ)るべきもの果(はたし)て安(いず)くにあるや。(中略)但(ただ)近日営(えい)を北清の野に連(つ)らね、聯鑣(れんひょう)して敵に当(あた)るに方(あた)り、彼らが大(おおい)いその弱失の処を見(あら)わして、蛮野(ばんや)の風を発せしを見て、わが邦軍人輩、皆始めて彼らのいわゆる文明の、往々形質の表に止(とど)まりて、理義に至ては我れと相下(くだ)らず、あるいは大に我れに劣るあるを知れり。(正3:恐外病と侮外病)

《思うに、あの強国は、その物質の学術に至っては、本当に、人を驚嘆させるのに充分だ。しかし、一度、理・義の際を推察するのに及ぶと、その畏れるべきものが、本当に、どこにあるのか。(中略)ただ、近頃、兵営を中国北部の荒野に引き連れ、馬を並べて隊列を組み、敵に直面するのにあたって、彼らが大いにその弱点・失点の箇所を現わして、野蛮な気風を発現するのを見て、わが国の軍人達は皆、はじめて、彼らのいわゆる文明が、しばしば、形質の表面に留まって、理・義に至っては、我らより相対的に下等でなく、大いに我らより劣等があったりするのを知った。》

 

 

●理学・理化

 

○理学士:不遇 ⇒ 理化(物理学・化学)の2学科(科学):普及すべき

・科学を普通にすること、これ人々の皆認めて必要とする所なり。ただ各種材学の中、わが邦においていまだ容易に世に售(う)られざる者あり、即ち理化の二学の如きこれなり。けだし土木の如き、鉱山の如き、若(もし)くは医の如き、その大学を出(いず)るや直ちに售られて、官または会社または個人に聘(へい)せらる。理化の二科の如きはかくの如く直ちに售らるること能(あた)わず、これ他なし、事業家及び資本家の数絶対に寡(すくな)くして、理化の二科において需用いまだ蕃(しげ)からざるが故なり。この故に理学士たる者、往々玩具商のために傭(やと)われて、意匠を玩具に用いて、乃(すなわ)ち神仏の縁日奇利を博(はく)するの用を為(な)して、わずかに口を糊(のり)する者ありという、(正3:理化の応用)

《科学を普及すること、これは、人々が皆、認めて、必要とすることなのだ。ただ各種の材料学の中で、わが国において、まだ容易に世の中に売られていないものがある。つまり物理学・化学の2学科のようなものは、これなのだ。思うに、土木のようなもの、鉱山のようなもの、医学のようなものは、その大学を出ると、すぐに売りものにされて、官庁・会社・個人に招聘される。物理学・化学の2学科のようなものは、そのように、すぐに売りものにされることができない。この他になく、事業家・資本家の数が、絶対的に少なくて、物理学・化学の2学科において、需要がまだ増えていないからなのだ。これだから、理学士である者は、しばしば、オモチャ屋のために雇われて、デザインをオモチャに用いて、つまり神仏の縁日の思いがけない利益を得るのに用いて、わずかに貧しく暮らす者があるという。》

 

○理学(哲学的研究):アル範囲内に限定せず

・理学即ち世のいわゆる哲学的事条(じじょう)を研究するには、五尺の躯(からだ)の内に局して居ては到底出来ぬ、(続1‐0)

《理学、つまり世の中の、いわゆる哲学的事項(条項)を研究するには、5尺の体の範囲内に限定(局限)していては、到底できない。》

 

○理学:荘厳、冷淡な道理

・殊(こと)に身大疾(たいしつ)に犯され、一年、半年と日々月々死に近づきつつある人物等にあっては、深仁(しんじん)至公(しこう)の神があり、また霊魂が不滅であって、即ち身後(しんご)なお独自の資を保ち得るとしたならば、大(おおい)に自ら慰(なぐさ)むる所があるであろう。しかしそれでは理学の荘厳(しょうごん)を奈何(いかん)せん、冷々然ただ道理これ視るべき哲学者たる資格を奈何せん、(続1‐0)

《とりわけ、身体が大病におかされ、1年・半年と日々・月々、死に近づきつつある人物等にあっては、深い仁・極めて公平な神がいて、また、霊魂が不滅であって、つまり死後に、なお独自の資質を保ち得るとしたならば、大いに自分で慰めることがあるであろう。しかし、それでは、理学の重厚さをどうするのか。とても冷淡とした、ただの道理、これを見るべき哲学者である資格をどうするのか。》

 

○理学者の義務(根本的資格):冷淡、露骨、殺風景

・余は理学において、極めて冷々然として、極めて剥(むき)出しで、極めて殺風景にあるのが、理学者の義務否(い)な根本的資格であると思うのである。(続1‐0)

《私は、理学において、とても冷淡とし、とても露骨で・とても殺風景にあるのが、理学者の義務、いや、根本的資格であると思うのである。》

 

○理化学の目:美醜を分別・差異せず

・試(こころみ)に理化学の目から見よ、血でも膿(うみ)でも、屎(くそ)でも尿(にょう)でも、七色燦然(さんぜん)たる宝玉錦繍(きんしゅう)と、何処(どこ)に美悪の別がある、小野の小町と狒々(ひひ)猿と、那辺(どこ)に妍醜(けんしゅう)の差がある。(2‐11:意象)

《試しに、物理学・化学の目から見よ。血でも・膿でも、糞でも・尿でもと、7色の光り輝く宝玉・錦の織物・刺繍と、どこに美醜の分別があるのか。小野小町と、ヒヒザルと、どこに美醜の差異があるのか。》

 

 

■世界/万物

 

 また、理について、兆民は、次のように、全体としての世界は、時間的には、無始・無終で、空間的には、無辺・無極の、無限とみています。

 一方、個体としての万物(万有)は、諸元素の相抱合で成立するので、有限とし、それまで遊離していた元素が、抱合すれば、物の生で、解散すれば、物の死と、変化するのが、自然の理といっており、全体と個体の両方を、世界の大理と設定しています。

 

※世界の大理

・全体=無限:死後、世界=無始・無終(悠久の大有、時間的)、無辺・無極(博広の大有、空間的)

・個体=有限:生前、万物=諸元素の相抱合で成立 ~ 変化:遊離 → 抱合=生 → 解散=死

 

 万物のうち、生物は、身体が死滅すれば、精神(霊魂)も滅亡するので、生前は、有限で、死後は、無限とも、設定でき、親が死んでも、子孫が残ることを、乗除の大理(剰除の数理)といっており、世界の大理を捕獲(理解)するには、精神の奮起・向上の能力が必要とされています。

 そして、たとえば、君権では、無智な人民が、智者の政権に、利益を提供する、優勝劣負の大理になりがちなので、兆民は、政権の高官で重職の人・代議士・政党員を、啖人鬼(たんじんき、食人鬼)といい、だから、民権を至理、自由・平等を大義とみており、理義を尊重すべきだとなっています。

 

* * *

 

 

●大理

 

○優勝劣負の大理=無智な人民が智者に利益を提供

・人民とは何ぞや、無智なる農夫最も多きに居る、これ天まさに優勝劣負の大理に因(よ)て、他の智者の利益に供せらるべき物体にあらざる乎(か)。(正3:議員政事家という啖人鬼)

《人民とは何か。無智な農夫が、最も多くいる。これは、天が、まさに優勝劣敗の偉大な理によって、他の智者の利益に提供させられることができる物体ではないのか。》

 

○世界の大理=神物同体・神、万事(森羅万象)=唯一神の発現

・神物同体とは世界の大理即ち神で、およそこの森羅万象は皆唯一神の発現である、(1‐7:神物同体説)

《神物同体とは、世界の偉大な理、つまり神で、だいたい、このあらゆる事象は、すべて、唯一神の発現である。》

 

○剰除の大理(剰除の数理)=親が死んでも子孫を残す

・かつ生産の一事について一考せよ、剰除の大理について思索せよ。およそ懐生(かいせい)の物は、皆己(おの)れの身後に児孫を留むるのである。而(しか)してその児孫には、これが親たる者が己れの躯体とこの躯体より発すべき精神とを分与して、即ち児は親の分身であって、而して親は死し児は留まりて、剰除の数理に副(かな)うのである。(1‐2:精神の死滅)

《そのうえ、生産のひとつの事柄について、一度考えてみよ。乗除(増減)の偉大な理について思索せよ。だいたい生きとし生ける物は、すべて、自己の死後に、子孫を残すのである。そうして、その子孫には、これが親である者が、自己の身体と、この身体から発出すべき精神を、分与して、つまり子は、親の分身であって、そうして、親は、死に、子は、残って、乗除の数理に適合するのである。》

 

○剰除の数理に不適合:子供を残して死後の霊魂も増えて無限に繁殖

・即ち李四張三各々児子(じし)を遺(のこ)して、而してその李四張三も死後霊魂独存して滅びないとすれば、これ霊魂国の人口は非常の滋息(じそく)を為(な)して、乃(すなわ)ち十億、百億、千々、万々、十万億と無限に蕃殖(はんしょく)して、一箇半箇も滅することがないであろう、これ果(はたし)て剰除の数理に合するといわれようか。(1‐2:精神の死滅)

《つまり凡人が各々、子供を残して、そうして、その凡人も、死後に霊魂が単独で存在して、滅亡しないとすれば、これは、霊魂国の人口が、非常に増加して、つまり10億・100億・1000億・1万億・10万億と、無限に繁殖して、わずかも滅亡することがないであろう。これは、本当に、乗除の数理に適合するといわれるのか。》

 

○世界の大理=無始・無終・無辺・無極の世界で有限な数の元素が抱合

・要するにこの無始無終無辺無極の世界は、畢竟(ひっきょう)有数元素の抱合にほかならぬのである。而(しか)して地球十八里の雰囲気中に蠢動(しゅんどう)して居る人類もこの大理を免(まぬ)がるる訳(わけ)には往かぬのである。(2‐1:世界)

《要するに、この無始・無終・無辺・無極の世界は、結局、有限な数の元素の抱き合いにほかならないのである。そうして、地球の18里の大気圏の中に、騒ぎ立てている人類も、この(世界の)偉大な理を免除されるわけにはいかないのである。》

 

○精神の奮起・向上の能力⇒世界の大理を捕獲

・即ち吾人(ごじん)が宗旨家の卑陋(ひろう)の見(けん)を打破して世界の大理を捕捉せんと擬するは、正(まさ)に精神にこの振抜(しんばつ)挺騰(ていとう)の能力があるから出来るのである。(2‐5:精神の能)

《つまり私達が宗教家の卑劣な見方を打破して、世界の偉大な理を捕獲しようと、熟考することは、まさに、精神に、この奮起・向上の能力があるからできるのである。》

 

○帰納:個々の道理から上昇して包み込む大理へ遡行

○演繹:一の大理から下降して個々の道理を拾い採る

・帰納は箇々の道理を攻究し層累(そうるい)して上(のぼ)って、これら道理を包容する所ろの大理に遡洄(そかい)するをいうのである。演繹は正(まさ)にその反対で一の大理を前に置き層累して下(くだ)って、これが包容する所ろの箇々の道理を採摭(さいせき)するをいうのである。(2‐18:帰納・演繹)

《帰納は、個々の道理を修め究(きわ)め、積み重ねて上昇して、これらの道理を包み込む偉大な理に、遡行することをいうのである。演繹は、正反対で、ひとつの偉大な理を前提とし、積み重ねて下降して、これが包み込む個々の道理を拾い採ることをいうのである。》

 

 

●至理

 

○至理=民権、大義=自由・平等、理義に背反⇒罰あり、理義を尊重すべき

・民権これ至理なり、自由平等これ大義なり。これら理義に反する者は竟(つい)にこれが罰を受けざる能(あた)わず、百の帝国主義ありといえどもこの理義を滅没することは終(つい)に得(う)べからず。帝王尊(たっと)しといえども、この理義を敬重(けいちょう)してここに以てその尊を保つを得べし。この理や漢土にありても孟軻(もうか)、柳宗元(りゅうそうげん)早くこれを覰破(しょは)せり、欧米の専有にあらざるなり。(正2:民権自由は欧米の専有にあらず)

《民権、これは、至極の理なのだ。自由・平等、これは、偉大な義なのだ。これらの理・義に反するものは、結局、これが罰を受けないことはできない。100の帝国主義があるといっても、この理・義を消滅することは、結局、できない。帝王が尊貴だといっても、この理・義を尊重して、こういうわけで、その尊貴を保つことができる。この理は、中国にあっても、孟子・柳宗元(唐代中期の学者)が早く、これを見破り、欧米の専有でないのだ。》

 

○至理:民にあり・王候・公族・将軍・宰相になし

・王公将相なくして民ある者これあり、民なくして王公将相ある者いまだこれあらざるなり、この理けだし深くこれを考うべし。(正2:未之有也)

《王候・公族・将軍・宰相になくて、民にあるものは、これがある。民になくて、王候・公族・将軍・宰相にあるものは、まだこれがないのだ。この理(至理)は、思うに、深く、これを考えるべきだ。》

 

 

(つづく)

 

(つづき)

 

 

●(17)自省の能

 

・自省の能とは、己(おの)れが今(い)ま何を為(な)しつつある、何を言いつつある、何を考えつつあるかを自省するの能を言うのである。

 

《自省の能力とは、自己が今、何をしつつあるか、何をいいつつあるか、何を考えつつあるかを、自己で内省する能力をいうのである。》

 

・自省の一能の存否、これ正(まさ)に精神の健全なると否とを徴すべき証拠である。即ち日常の事に徴しても、酒人が杯(さかずき)を挙げながら「大変に酔うた」または「大酔いである」などと明言する間は、さほどには酔ては居ない。少(すくな)くとも自省の能がいまだ萎滅(いめつ)しないのを証するもので、決して乱暴狼藉(ろうぜき)には至らぬのである。また精神病者が自身に「己(おの)れは少し変だな」などと言う中は、やはり酔漢(すいかん)と同じで、いまだ自省の能を喪失しない、乃(すなわ)ち全然狂病者とはなって居ない徴候である。

 

《自省の一能力の存否、これは、まさに精神が健全なのか否かを表徴(しる)すべき証拠である。つまり日常の事に表徴しても、酒人が、サカズキをあげながら、「大変に酔った」・「大酔いである」等と明言する間は、それほどには、酔っていない。少なくとも、自省の能力が、まだ委縮・消滅していないのを証明するもので、けっして乱暴・無法には至らないのである。また、精神病者が自身に、「自己は、少し変だな」等という内は、やはり、酔っ払いと同様で、まだ自省の能力を喪失していない。つまり全然、精神病者には、なっていない兆候である。》

 

・吾人(ごじん)はただこの自省の能があるので、およそ己(おの)れが為(な)したる事の正か不正かを皆自知するのである。故に正ならば自ら誇りて心に愉快を感じ、不正ならば自ら悔恨(かいこん)するのである。この点からいえば、道徳といわず、法律といわず、およそ吾人の行為は、いまだ他人に知られざる前に吾人自らこれが判断を下して、これは道徳に反する、これは法律に背(そむ)くと判断するのである。故に道徳は正不正の意象とこの自知の能を基址(きし)として建立されたるものである。啻(ただ)に主観的のみならず客観的においても、即ち吾人の独り極(ぎ)めでなく、世人の目にも正不正の別があって、而(しか)してまたこの自省の一能があるために、正不正の判断が公論となることを得て、ここに以て道徳の根底が樹立するのである。

 

《私達は、ただ、この自省の能力があるので、だいたい自己がする事が正か不正かを、すべて、自分で知るのである。よって、正ならば、自分で誇って、心に愉快を感じ、不正ならば、自分で後悔・残念がるのである。この点からいえば、道徳といわず、法律といわず、だいたい私達の行為は、まだ他人に知られない前に、私達自身、これに判断を下して、これは、道徳に反する、これは、法律に背くと、判断するのである。よって、道徳は、正・不正の観念と、この自分で知る能力を基礎として、建立されたものである。ただ主観的だけでなく、客観的においても、つまり私達の独り決めではなく、世の中の人の目にも、正・不正の分別があって、そうして、また、この自省の一能力があるために、正・不正の判断が、公論となることを得て、こういうわけで、道徳の根底が樹立するのである。》

 

・世にはこの自省の能の極(きわめ)て微弱な人物が多々あるが、その人は恐(おそら)くは世界不幸の極といわねばならぬ。たとい身寵貴(ちょうき)を極め富厚(ふこう)を累(かさ)ねても、徒(いたず)らに瞢々(ぼうぼう)然として世を送りて、人というものは皆かくあるべきはずだと思って居る風で過ぎ去る者がいくばくなるかを知らぬのである。これ皆食うに味を知らざると一般で、わが日本旧華族の大旦那(おおだんな)は大抵(たいてい)この一輩の人物である。これに反し、たとい一簟(たんの)食一瓢(ひょうの)飲でも時々自ら提醒(ていせい)して、即ち自省の能を使うて自己の位地を点検して、いわゆる俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じぬのを以て自ら楽(たのし)み、いわゆる「採菊東籬下悠然見南山(きくをとる、とうりのもの、ゆうぜんとして、なんざんをみる)」底(てい)の境界に優游(ゆうゆう)したならば、その幸福は如何(いか)であるか。自省の能の有無は賢愚の別というよりはほとんど人獣の別というても良いのである、これあれば人でこれなければ獣である、世間如何(いかが)して獣的人物が多いであろう。

 

《世の中には、この自省の能力が、とても微弱な人物が多々いるが、その人は、おそらく、世界の不幸の極致といわなければならない。たとえ、自身が、寵愛・貴重を極め、富裕・厚遇を重ねても、無駄に、ぼんやりと世を送って、人というものは皆、そうあるであろうはずだと思っている風で過ぎ去る者が、どれほどなのかを知らないのである。これは、すべて、食べたのに、味を知らないのと同様で、わが日本の旧華族の大ダンナは、たいてい、この一派の人物である。これとは反対に、たとえ、1杯の飯・1杯の汁でも、時々、自分で注意喚起して、つまり自省の能力を使用し、自己の地位を点検して、いわゆる地の俯瞰・天の仰視に恥じないことによって、自分で楽しみ、いわゆる「菊を採る、東側の垣根のもの、ゆったりして、南山を見る」の境地で、ゆったりしたならば、その幸福は、どのようであるのか。自省の能力の有無は、賢明・愚鈍の分別というよりは、ほとんど人・獣の分別といってもよいのである。これがあれば、人で、これがなければ、獣である。世間は、どうして獣的人物が多いのであろうか。》

 

・未来の裁判の説を主張する者、動(やや)もすれば言う、世にはその自省の能のない者どもが、隠然大悪を為(な)しつつ法章の誅(ちゅう)に漏(も)れて、平気で少(すこし)も悔(く)ゆることを知らず、かえって自ら夸(ほこり)として居るものが寡(すくな)くない。此輩(このはい)にあっては道徳自身の裁判は洵(まこと)に微弱であるが故に、必ず未来の裁判を待(まっ)て始(はじめ)て罪過(ざいか)と懲罰(ちょうばつ)と相い称(かな)うことを得るので、さなければ自省の能の萎滅(いめつ)したものは、この世においては言わば道徳的の「フヂミ」である云々(うんうん)。

 

《未来の最後の審判の説を主張する者は、ともすれば、いう、世の中には、その自省の能力のない人達が、裏陰で大悪をしつつ、法規の処罰(誅罰)にもれて、平気で少しも後悔することを知らず、反対に自分で誇っている者が少なくない。この人達にあっては、道徳自身の裁判は、本当に微弱であるために、必ず未来の最後の審判を期待して、はじめて、罪過と懲罰が、相互に対称とすることを得るので、そうでなければ、自省の能力の委縮・消滅したものは、この世の中においては、いわば道徳的な「フジミ」である、等々。》

 

・吾人(ごじん)は則ち言う、これは決して未来の裁判を要する所の条件ではない。そもそも自省の一能が萎滅(いめつ)して自身の行(こう)の善悪を感ぜぬほどの人物は、世界の最も憐(あわ)れむべき人物である。世人皆爪弾(つまはじ)きして憎悪しつつある中に立て己(おの)れ独(ひとり)洒然(しゃぜん)として自省せぬのは、これは最早(もはや)人間とは言われない。頑冥(がんめい)なる一肉塊(にくかい)と言わねばならぬ。それ人間の徳行に最も必要なる、即ち人として禽獣(きんじゅう)と区別するに唯一の具たる自省の神火が熄滅(そくめつ)してわが法身(ほっしん)全く暗黒を成せるが如きは、世界でこれに上喩(うえこ)す懲罰(ちょうばつ)のあるべきはずがない、精神的に無形の地牢(ちろう)に投ぜられたものといわねばならぬ。自省の明(めい)の貴尚(きしょう)すべきはかくの如きものである。

 

《私達は、つまり、いう、これは、けっして、未来の最後の審判を必要とする条件ではない。そもそも自省の一能力が、委縮・消滅して、自身が行動の善悪を感じないほどの人物は、世界の最も憐れむべき人物である。世の中の人は皆、ツマハジキにして、憎悪しつつある中に確立し、自己一人が、あっさりとして、自省しない、これは、もはや、人間とはいわれない。頑固・迷妄な一肉塊といわなければならない。そもそも人間の徳行に最も必要な、つまり人を鳥獣と区別するのに、唯一の具体な、自省の神火が消滅して、わが身体に完全な暗黒を成立させるようなものは、世界で、これを超越する懲罰があるだろうはずがない。精神的に無形の、地下の牢屋に投獄されたものといわなければならない。自省の見識を貴重とすべきなのは、このようなものである。》

 

・かつ懲罰(ちょうばつ)を以て復讐的のものとしようとして、ここに以て犯と罰とが相(あ)い称(かな)うのを重要視するが如きは、尤(もっと)も陋見(ろうけん)といわねばならぬ、虫の喰(く)ってる旧思想といわねばならぬ。死刑を廃せんとの傾向正(まさ)に殷(さかん)なる今日において、復讐的刑法を割出しとして哲学の一説と為(な)すが如きは、尤も謬戻(びゅうれい)といわねばならぬ。

 

《そのうえ、懲罰によって、復讐的なものにしようとして、こういうわけで、犯罪と懲罰が、相互に対称とすることを重要視するようなものは、最も狭い見識といわなければならない。虫が食っている旧思想といわなければならない。死刑を廃止しようとする傾向は、まさに盛んな今日において、復讐的刑法を割り出しとして、哲学の一説とするようなものは、最も誤り・背(そむ)きといわなければならない。》

 

 

●(18)帰納・演繹

 

・余は前章で既に推理の一力を論述したが、更に細(こまやか)に論ずれば、推理の方法に自(おのずか)ら二種ありて、一は演繹で、一は帰納である。

 

《私は、前章で、すでに推理の一能力を論述したが、さらに、詳細に論考すれば、推理の方法には、自然に2種があって、1つは、演繹で、もう1つは、帰納である。》

 

・帰納は箇々の道理を攻究し層累(そうるい)して上(のぼ)って、これら道理を包容する所ろの大理に遡洄(そかい)するをいうのである。演繹は正(まさ)にその反対で一の大理を前に置き層累して下(くだ)って、これが包容する所ろの箇々の道理を採摭(さいせき)するをいうのである。この両事は普通一般のものであってほとんど知らない者はないのだから、ここにはただその目を挙ぐるだけで最早(もはや)詳論する必要はあるまいかと思う。

 

《帰納は、個々の道理を修め究(きわ)め、積み重ねて上昇して、これらの道理を包み込む偉大な理に、遡行することをいうのである。演繹は、正反対で、ひとつの偉大な理を前提とし、積み重ねて下降して、これが包み込む個々の道理を拾い採ることをいうのである。この両者は、普通一般のものであって、ほとんど知らない者はいないのだから、ここでは、ただ、その項目を取り上げるだけで、もはや、詳細に論考する必要は、ないだろうと思う。》

 

 

■第3章:結論

 

・かくして道徳論理と順次論道すべきはずではあるが、元これ組織的に哲学の一書を編するのではない、組織的に一書を編するのは、著者今日の境遇の容(ゆ)るさざる所ろである、故に首章より輒(すなわ)ち雑乱を極めて居る。但(ただ)大体趣旨とする所ろは、神の有無、霊魂の滅不滅、世界の有限無限、及び始終ありやなきや、その他無形の意象等、古来学者の聚訟(しゅうしょう)する五、七件を把(とっ)て意見を述(のべ)たに過ぎない。他日幸(さいわい)にその人を得てこの間より一(いつ)のナカエニスムを組織することがあるならば、著者に取って本懐(ほんかい)の至りである。

 

《こうして、道徳・論理と、順次、道を論考するであろうはずではあったが、元々、これは、組織的な哲学の一書を編集するのではない。組織的に一書を編集するのは、著者が今日の境遇の許さないことである。よって、冒頭の章から、つまり乱雑で、まとまりがつかなかった。ただ大体、趣旨とすることは、神の有無、霊魂の滅・不滅、世界の有限・無限、始・終の有無、その他の無形の観念等で、古来、学者が争議した5~7件を取り上げて、意見を述べたにすぎない。いつか、幸いにも、その人を得て、この間から、ひとつのナカエニスムを組織することがあるならば、著者にとって、本望の至極である。》

 

 

(おわり)

 

(つづき)

 

 

●(14)記憶

 

・記性または記憶は精神の一方面で、総(すべ)て五官の窓から入り来(きた)る外物の絵画、即ち影象を蓄えてこれを消化し、これを咀嚼(そしゃく)し、これを整列し、新旧を別ち各々歳月日時を附して、他日の用に備うる能力である。記性の強弱は或点までは吾人(ごじん)人類賢愚の別を為(な)す財料の重(おも)なるものとなって居る。彼れ白痴(はくち)者病狂者は多くは記性の完全ならざる徴候を見(あら)わして居る。ハツクスレー、リツトレーの属がその記性中に蓄蔵した意象の数は、凡(およ)そいくばく千万億であったろう。而(しか)して田舎の翁媼(おうおう)の如きはその有する所ろの影象たる、米麦その他の物類に過ぎないのである。その優劣果して如何(いかん)である、記性中の意象の多少は、あたかも商家庫中品物の多少もて貧富を別つと一般である。

 

《記憶力・記憶は、精神の一方面で、すべて、5官(目・耳・鼻・舌・皮膚の5感覚器官)の窓から入ってくる外物の絵画、すなわちイメージを蓄積して、これを消化し、これをかみくだいて味わい、これを整理し、新・旧を分別し、各々に、年月・日時を付け、いつかの使用に備えた能力である。記憶力の強弱は、アル点まで、私達人類の賢明・愚鈍の分別をする材料の、重要なものとなっている。あの知的障害者・精神病者は、多くが記憶力の完全でない兆候を現わしている。ハクスリー(イギリスの生物学者)・リトレ(フランスの文献学者)の同属が、その記憶力の中に蓄蔵した観念の数は、だいたい、どれほど多数であったろう。そうして、田舎の爺さん・婆さんのようなものが、そのもっているイメージは、コメ・ムギ・その他の物類にすぎないのである。その優劣は、本当に、(その人)次第である。記憶力の中の観念の多少は、あたかも商店の倉庫の中の品物の多少によって、貧富を分別するのと、同様である。》

 

・記性はまた夢と密接の関係を有して居る。夢なるものは記性中にある意象を引出して、現にその意象の源頭たる実物に接するが如く自信するのである。即ち死(しん)だ父母または友人に係る影象を引来る(ひききた)って、その夢の間はあたかも直ちにその生時(せいじ)に父母に逢い友人に逢うが如くに信じて、決して死人としてこれを遇(ぐう)せぬのが例である。

 

《記憶は、また、夢と密接な関係をもっている。夢なるものは、記憶力の中にある観念を引き出して、現実に、その観念の根源である実物に接するように、自分を信じるのである。つまり死んだ父母・友人に関係する観念を引いてくるのに、その夢の間は、あたかも直接、その生きている時に父母と会い、友人に会うようなものを信じて、けっして死んだ人として、これと会わないのが、例である。》

 

・また脳神経強健の時は、多くは遠い過去の事、即ち幼時の事を夢みるので、日間遭遇(そうぐう)した所ろの事柄は、殊(こと)にこれが誘因と為(な)るに過ぎないのである。乃(すなわ)ち場所の如きでも、多くは童子の時釣游(ちょうゆう)した処とか幼時居住した家とか夢みることが多くある。これに反して脳神経の疲労した時は、直ちに近事の事を近事として夢みるのである。これは神経過敏になって日常遭遇する所の事物でも、深く神経を動かしてここに至ると見ゆるのである。

 

《また、脳神経が強健な時には、多くが遠い過去の事、つまり幼少時の事を夢見るので、その日に遭遇した事柄は、特に、これが誘因となるにすぎないのである。つまり場所のようなものでも、多くが児童の時、釣り遊びをした場所とか、幼少時に居住した家とかを、夢見ることが多くある。これとは反対で、脳神経が疲労した時には、直接、近頃の事を、近い事として夢見るのである。これは、神経が過敏になって、日常に遭遇する事物でも、深く神経を動かして、ここに至るように見えるのである。》

 

 

●(15)意象の聯接

 

・また意象(いしょう)の聯接(れんせつ)なる者がある、乃(すなわ)ち甲の意象が乙の意象を牽引(けんいん)し、丙に丁に波及するのである。

 

《また、観念の関連・接続なるものがある。つまり甲の観念が、乙の観念を引き寄せ、丙に・丁に波及するのである。》

 

・夢中で見る所ろはこの意象(いしょう)の聯接(れんせつ)に由(よ)ることが多いので、即ち遽(にわか)に考えれば極(きわめ)て縁由(えんゆう)のないような意象でも、その同時に記性中に入(はいっ)たとか、相継(つい)で入たとか、必ず幾分の因縁があったがために、記性中に相並びて蓄蔵せられて居たのがその夢に由りてまたは思考に由りて惹(ひき)出される時に、牽聯(けんれん)して出て来るのである。彼(か)の狂病者が甲の事を呶々(どうどう)するかと思えば、また乙の事を呶々して、その間少(すこし)も縁故がないようではあるが、彼れ病者自身にあっては恐(おそら)くはこの意象の聯接に由りてかくそれからそれと移り往くのであろう、狂疾(きょうしつ)を専門とする医人は宜(よろし)く深く研究すべきである。

 

《夢の中で見ることは、この観念の関連・接続によることが多いので、つまり速やかに考えれば、とても由縁(ゆえん)のないような観念でも、それと同時に記憶力の中に入ったとか、相継いで入ったとか、必ず、いくらかの因縁があったために、記憶力の中に相互に並列・蓄蔵させられていたのが、その夢によって・思考によって、引き出される時に、関連して出てくるのである。あの精神病者が、甲の事を、やかましくいったかと思えば、また、乙の事を、やかましくいって、その間は、少しも縁故がないようではあるが、あの病者自身にあっては、おそらく、この観念の関連・接続によって、このように、それから、それへと、移り行くのであろう。精神の病気を専門とする医者は、深く研究するのがよい。》

 

・また記憶は意象(いしょう)の聯接(れんせつ)に由(よ)りて成立ちて居るというでも可(い)いようである。幼時書を読みて記憶に存せんとする時に音訓の似たものまたは形質の類したものを切掛(きっか)けとして、記憶を助けることがある、これ正(まさ)に意象聯接に藉(よ)るのである。推理の事、想像の事は、前に已(すで)に叙述したので最早(もはや)ここに言うの必要はない。

 

《また、記憶は、観念の関連・接続によって、成立しているというのでも、可の(よい)ようである。幼少時に書物を読んで、記憶に残存しようとする時に、字音の似たもの・形質の類似したものを、きっかけとして、記憶を助けることがある。これは、まさに観念の関連・接続にかこつけるのである。推理の事・想像の事は、以前すでに、順を追って述べたので、もはや、ここでいう必要はない。》

 

 

●(16)断行、行為の理由・意思の自由

 

・また断行の一事について古来相応に議論があって、これに由(よ)りて行為の理由と意思の自由との二項目が出来て、随分(ずいぶん)争論の種となって居る。

 

《また、断行の一事について、古来、それなりに議論があって、これによって、行為の理由と、意思の自由の、2項目が出てきて、とても論争の種になっている。》

 

・行為の理由とは、吾人(ごじん)が何か為(な)さんとするの場合には必ず一定の目的がある。この目的が乃(すなわ)ち云々(しかじか)せしめまたは斯々(かくかく)せしめるので、これ正(まさ)に行為の理由である。而(しか)してこの行為の理由即ち目的がただ一箇であればそれまでだが、二箇以上である時には、わが精神は果(はたし)て自身に撰択してその一(いつ)を取り、少(すこし)も目的から制せらるることはないのであるか。即ちわが精神にはいわゆる自由の意思があるか、またさはなくて目的一箇なる時に論なく二箇以上が前に臨(のぞみ)来(きた)った時において、わが精神はその一を択ぶようでも、実はその中の尤(もっと)もわが精神を誘う力のあるものが、他の一を排斥して己(おの)れを択ばしたのであるか。即ち吾人が自ら択んだのではなくて、目的の誘導力が吾人をして択ばしめたのであるか。これを要するに、行為の理由が実に全権を有して居て、意思の自由は名のみであるか、またはた意思の自由は真に存在して、目的は吾人の撰択に任(まか)されつつあるか、これ実に大困難事である。

 

《行為の理由とは、私達が何かをしようとする場合には、必ず一定の目的がある。この目的が、つまりシカジカさせ、カクカクさせるので、これは、まさに行為の理由である。そうして、この行為の理由、つまり目的が、ただ1個だけであれば、それまでだが、2個以上ある時には、わが精神は、本当に、自身で選択して、その1つを選び取って、少しも目的から制限されることはないのであるのか。つまり、わが精神には、いわゆる自由の意思があるのか。また、そうではなくて、目的が1個である時には、異論がなく、2個以上が目前に臨んできた時において、わが精神は、その1つを選ぶようでも、実際には、その中の最も、わが精神を誘う力のあるものが、他の1つを排斥して、自己を選ばせたのであるのか。つまり私達が、自身で選んだのではなくて、目的の誘導力が、私達に選ばせたのであるのか。これを、要するに、行為の理由が、実際に全権をもっていて、意思の自由は、名ばかりであるのか。また、それとも、意思の自由は、本当に存在して、目的は、私達の選択に任されつつあるのか。これは、本当に大困難な事である。》

 

・古来宗旨家及び宗旨に魅せられたる哲学家は、皆意思の自由を以て完全のものとなして居る。而(しか)して吾人(ごじん)の行為を出(いだ)すには、その目的とすべき所ろのものが二箇三箇前に臨んでも、吾人は自由自在にその一(いつ)を択びて少(すこし)もこれが制を受けない、これ正(まさ)に自由の尚(たっと)ぶべき所ろである。もし左はなくて吾人が常に目的即ち行為の理由のために誘われて、それに由(よ)りて断行するとした時は、善を為(な)しても必ずしも賞すべきでない、悪を為しても必ずしも罰すべきでない、宛然(えんぜん)磁石と鉄との如く、思うに任(まか)せぬ事と言わねばならぬ。吾人の精神は決してかかる薄弱なものではないと言(いっ)て居る。

 

《古来、宗教家・宗教の主旨に魅了された哲学者は皆、意思の自由を、完全なものとしている。そうして、私達の行為を出すには、その目的とすべきものが、2個・3箇と目前に臨んでも、私達は、自由自在に、その1つを選んで、少しも、これが制限を受けない、これは、まさに自由の尊重すべきことである。もし、そのよう(左様)ではなくて、私達が、いつも目的、つまり行為の理由のために誘われて、それによって断行するとした時には、善をしても、必ずしも賞賛すべきではない。悪をしても、必ずしも刑罰すべきではない。似ているのは、磁石と鉄のようなもので、思うように任せていない事といわなければならない。私達の精神は、けっして、こんな薄弱なものではないといっている。》

 

・これ一応尤(もっと)もである。吾人(ごじん)の行為が一々目的に誘致せられて、自然に云々(しかじか)し自然に斯々(かくかく)するとした時には、吾人の精神はあたかも風に従う柳の如くで、極(きわめ)て価値のないもののように思われる。けれども深く事項を研究したならば、奈何(いかん)せん、実際意思の自由というものは極て薄弱なものである。

 

《これは、だいたい、もっともである。私達の行為が、一々目的に誘致させられて、自然にシカジカし、自然にカクカクするとした時には、私達の精神は、あたかも風にしたがうヤナギの木のようで、とても価値のないもののように思われる。けれども、深く事項を研究したならば、どうだろうか。実際、意思の自由というものは、とても薄弱なものである。》

 

・近く譬(たとえ)を取れば、ここに酒一樽と牡丹餅(ぼたもち)一碟(さら)とがあるとせよ。上戸(じょうご)は必ず酒樽を取るであろう、下戸(げこ)は必ず牡丹餅を取るであろう。もしさはなくてその上戸が故(ことさ)らに意表(いひょう)に出(い)でて牡丹餅を取(とっ)たとすれば、これは必ず一座の様子を見てかくしたもので、やはり自己以外に行為の理由があって、純然意思の自由から割出したのではないのである。もしまた上戸が他にためにする所ろもないのに、自分の意思から平生(へいぜい)に反して牡丹餅を取たとすれば、これ意思の自由とは意味のない事にならねばならぬ。

 

《近くで例えを取り上げれば、ここに、酒の1樽と、ボタモチ1皿が、あるとせよ。上戸(酒の飲める・好きな人)は、必ず酒樽を選び取るであろう。下戸(酒の飲めない・嫌いな人)は、必ずボタモチを選び取るであろう。もし、そうではなくて、その上戸が、故意に、意表を突いて、ボタモチを選び取ったとすれば、これは、必ず一座の様子を見て、そうしたもので、やはり、自己以外に行為の理由があって、純粋な意思の自由から割り出したのではないのである。もし、また、上戸が、他のためにすることもないのに、自分の意思から、普段に反して、ボタモチを選び取ったとすれば、これは、意思の自由とは、意味のない事にならなければならない。》

 

・また道徳に渉(わた)る目的が二箇あって前に臨み来(きた)ったとせよ、即ちその一(いつ)は明(あきらか)に正で、その一は明に不正で、その中の一に決すれば法律若(もし)くは道徳の罪人になるというが如き場合では、ソクラットや孔丘(こうきゅう)は直ちにその正なる者に決するであろう、盗蹠(とうせき)や五右衛門(ごえもん)は直ちにその不正なる者に決するであろう。啻(ただ)にこれのみでない、ソクラットや孔丘は、たとい洒落(しゃれ)に物数奇に、一たび故(ことさ)らにその不正なる者を取ろうとしても、必ず自(みずか)ら忍ぶことが出来ないで、必ず竟(つい)にその正なる者を取るに相違ない。これは即ちソクラット、孔丘、盗蹠、五右衛門の意思に自由はない証拠である。

 

《また、道徳に関わる目的が2個あって、目前に臨んできたとせよ。つまり、その1つは、明らかに正で、もう1つは、明らかに不正で、その中の1つに決定すれば、法律・道徳の罪人になるというような場合では、ソクラテス・孔子は、すぐに、その正なるものに決定するであろう。盗跖(春秋時代の魯/ろの盗賊の親分)・石川五右衛門(安土桃山時代の盗賊の首長)は、すぐに、その不正なるものに決定するだろう。ただ、これだけではない。ソクラテス・孔子は、たとえ、シャレ・モノズキ(物数寄)に、一度故意に、その不正なるものを選び取ろうとしても、必ず自分で耐え忍ぶことができないで、必ず、結局、その正なるものを選び取るに相違ない。これは、つまりソクラテス・孔子・盗跖・石川五右衛門の意思に、自由がない証拠である。》

 

・しかればソクラットや孔丘は鉄に惹(ひ)かれる磁石の如きもので、別に聖人とか賢人とか称賛すべきでないのであるか、盗蹠、五右衛門も同(おなじ)く鉄に惹かるる磁石であって、これまた憎むべきではないのであるか。否々々、彼らは彼らの素行において、正(まさ)に褒(ほう)すべきと貶(へん)すべきとの別がある、彼らの平生(へいぜい)慎独(しんどく)の工夫の有無において、正に賞すべきと罰すべきとの別がある。ソクラット孔丘は、平生身に修め行を礪(みが)くの功で、竟(つい)に善にあらざれば為(な)さんと欲するも為すに忍びざるまでに、良習慣を作り来(きた)って居る処が、これ正に貴尚(きしょう)すべきである。これに反して盗蹠五右衛門は、悪事を好むこと食色(しょくしき)の如き平生の悪習慣が、正に憎むべきである。故に吾人(ごじん)の目的を択ぶにおいて果(はたし)て意思の自由ありとすれば、そは何事を為すにも自由なりと言うのではなく、平生習い来ったものに決するの自由があるというに過ぎないのである。

 

《それならば、ソクラテス・孔子は、鉄に引っ張られる磁石のようなもので、別に聖人とか、賢人とか、称賛することができないのであるのか。盗跖・石川五右衛門も、同様に、鉄に引っ張られる磁石であって、これも、また、憎悪することができないのであるのか。いやいやいや、彼らは、彼らの普段の品行において、まさに、ほめるべきと、けなすべきの、分別がある。彼らの普段の慎独(独りの慎み)の工夫の有無において、まさに賞賛すべきと刑罰すべきの分別がある。ソクラテス・孔子は、普段の修身・自分みがき(礪行/れいこう)の功労で、結局、善でなければ、そうしたいとするのに、耐え忍べないまでに、良い習慣を作ってきていること、これが、まさに尊貴することができるのである。これとは反対に、盗跖・石川五右衛門は、悪事を好むことが、食欲・性欲のようなもので、普段の悪い習慣が、まさに憎悪することができるのである。よって、私達の目的を選択することにおいて、本当に、意思の自由があるとすれば、それは、何事をするにも自由なのだというのではなく、普段、習得してきたものに、決定する自由があるというにすぎないのである。》

 

・もし行為の理由即ち目的物に少(すこし)も他動の力がなくて、純然たる意思の自由に由(より)て行いを制するものとすれば、平生(へいぜい)の修養も、四囲(しい)の境遇も、時代の習気も、およそ気を移し体を移すべき者は皆力なきものとなり了(お)わるであろう。これは歴史の実際において打消されて居る。

 

《もし、行為の理由、つまり目的物に、少しも他を動かす力がなくて、純粋な意思の自由によって、行為を制限するものだとすれば、普段の修養も、四周の境遇も、時代の慣習も、だいたい気を移し、体を移すことができるものは、すべて、力がないものとなって、終了するであろう。これは、歴史の実際において、打ち消されている。》

 

・これ故に人をして道徳的二個以上の事項が目前に臨む時に、必ずその正なる者について不正なる者を避けしめようとするのには、幼時よりの教育が極(きわめ)て大切である。平時交際する所ろの朋友(ほうゆう)の選択が大(おおい)に肝要である。もしかくの如き修養なくして漫然事に臨んだ日には、その不正の者に誘惑されないのは罕(ま)れなのである。生知(せいち)安行(あんこう)の大聖人と、移らず済度すべからざる下愚(かぐ)とのほかは、平時の修養如何(いかん)に由(よ)りて善にも赴(おもむ)き悪にも赴むくこととなるのである。我れに意思の自由があるといって、叨(みだ)りに自ら恃(たの)みて事に臨めば、その邪路に落ちないものはほとんど希(ま)れなのである。即ち強(ごう)窃盗の罪人が下層社会に多くて、詐偽(さぎ)贋造(がんぞう)の罪人が中産以上に多いのは、その境遇階級が乃(すなわ)ち然(しか)らしむのである。意思の自由を軽視し行為の理由を重要視して、平素の修養を大切にすることが、これ吾人(ごじん)の過(あやま)ちを寡(すくな)くする唯一手段である。

 

《これだから、人に、道徳的な2個以上の事項が、目前に臨む時には、必ず、その正なるものにつきしたがって、不正なるものを避けさせようとするのは、幼少時からの教育が、とても大切である。普段に交際する友人の選択が、大いに重要である。もし、このような修養がなくて、ぼんやりと、事態に臨んだ際には、その不正のものに誘惑されないのは、まれなのである。生知安行(生まれながらに知っていて、安らかに行う)の偉大な聖人と、正へと移らずに救済することができない大愚か者等は、平時の修養次第によって、善にも向かい、悪にも向かうことになるのである。私に意思の自由があるといっても、無闇に、自分を頼りにして、事態に臨めば、その邪道に落ちないものは、ほとんど、まれなのである。つまり強盗の罪人が、下層社会に多くて、詐欺・偽造の罪人が、中産階級以上に多いのは、その境遇・階級が、つまり、そのようにさせるのである。意思の自由を軽視し、行為の理由を重要視して、普段の修養を大切にすることが、この私達の過失を少なくする唯一の手段である。》

 

 

(つづく)

 

(つづき)

 

 

●(8)主観

 

・主観とは、吾人(ごじん)が事物に対して視聴し若(もし)くは思考判断することがあっても、その事物が真に外間(がいかん)に存在するのでなくて、ただこの観念の主たる吾人の精神の構造、自(おのずか)らこれありと認むるように為(な)され居るが故に、かくは存在するかの如く思惟するという説である。即ち或る論者の意において、空間、時の二者は正(まさ)に主観的である、即ち実際に存在するのではないのである。

 

《主観とは、私達が、事物に対して、見聞・思考・判断することがあっても、その事物が、本当に、外の間に存在するのではなくて、ただ、この観念の主である私達の精神の構造は、自然に、これがあると認識するようにされているために、こう存在するかのように、思惟するという説である。つまりアル論者の意思において、空間・時間の2者は、まさに主観的である。つまり実際に存在するのではないのである。》

 

 

●(9)客観

 

・客観とは、外間(がいかん)現(げん)にその物があって、その影象(えいしょう)を吾人(ごじん)の精神に写し来(きた)るのである、吾人の、空間、時の二者における、正(まさ)に客観的である、即ちこの二者儼然(げんぜん)存在して居るとの説である。

 

《客観とは、外の間で、現実に、その物があって、そのイメージを私達の精神に写し出すのである。私達の空間・時間の2者における、まさに客観的である。つまり、この2者が、確固として存在しているとの説である。》

 

・しかし彼れ奇を闘(たたかわ)し新を標する哲学の大家先生連にあっては、主観客観の別はなかなか箇様(かよう)の無造作な訳ではない、嗷然(ごうぜん)聚訟(しゅうしょう)して底止する所ろを知らない。乃(すなわ)ち正(まさ)にいわゆる道近(ちかき)にあり之(これ)を遠きに求むるので、吾人(ごじん)は箇様の物数奇(ものずき)を為(な)す必要はない。

 

《しかし、あの奇異を闘わせて新しさを標榜する、哲学の大家の先生連中にあって、主観・客観の分別は、なかなか、このような無造作なわけではない。やかましく争議して行き止まることを知らない。つまり、まさに、いわゆる道が近くにあるのに、これを遠くに求めることで、私達は、このようなモノズキ(物数寄)をする必要はない。》

 

・吾人(ごじん)を以てこれを言えば、およそ意象の過半、否な殆(ほとん)ど全数は皆客観的で、而(しか)してまた主観的である。もしそれ純然たる主観的は、病狂者の目に幻出する種々の浮動物、及び宗教家のいわゆる独立不滅の霊魂等の如く、実際その物なくしてただ或る者の精神にのみ影出せらるるものをいうのである。純然たる客観的ともいうべきは、外間(がいかん)実にその物ありて、而して吾人の精神いまだこれを省知(せいち)し得ないものをいうべきである。惟(おも)うにかくの如き者、果(はたし)て実際あるであろうか、例えば光温電の分子如きはこの中に入れて良いのである、その他は客観主観相映じて両鏡の如くして、始(はじめ)て学術の強固なるを得(う)べきである。

 

《私達によって、これをいえば、だいたい観念の過半、いや、ほとんど全数は、すべて、客観的で、そうして、また、主観的である。さて、純粋な主観的ならば、精神病者の目に、ぼんやりと出現する、様々な浮遊物、または、宗教家のいわゆる独立不滅の霊魂等のように、実際には、その物がなくて、ただアル者の精神にだけ、映し出されるものをいうのである。純粋な客観的ともいうことができるのは、外の間に、実際には、その物があって、そうして、私達の精神に、まだこれを内省・承知し得ていないものをいうことができるのである。思うに、このようなものは、本当に実際に、あるのであろうか。例えば、光・温度・電気の分子のようなものは、この中に入れてよいのである。その他は、客観・主観が相互に映し合って、両鏡のようにして、はじめて、学術が強固であることを得ることができるのである。》

 

・主観的の説を主張するのが甚(はなはだ)しくて、終(つい)に天下過半の事物、否なほとんど全数を挙げて客観的には存しないでただ主観的にのみ存するとする者、即ちいわゆる懐疑派である、その最も極端に騁(は)せたのは、ピロニズム派である。都(すべ)て哲学者の多くは天姿高邁(てんしこうまい)で奇を好むより、従前の途轍(とてつ)に循(したが)うのを屑(いさぎよ)しとしない。異を立て新を衒(てら)わんとして思索を凝らし、遂に目前無造作の事物でも非常に奇怪視して、いわゆる謬巧(びゅうこう)錯雑(さくざつ)の言を為(な)し、自分も知らず識(し)らずの際、邪路に陥(おちい)りて自(みずか)ら出ること出来なくなるのが往々である。吾人(こじん)は務(つとめ)てこの弊を去ろうと欲するので、古人の聚訟(しゅうしょう)した事条についても、ただ務めて当面明白の道理を発して絶(たえ)て新奇を衒わぬのである、また時として吾人一箇の解釈を与えて前人の轍(てつ)を蹈(ふ)まぬこともある。

 

《主観的の説を主張するのが、ひどくて、結局、天下の過半の事物、いや、ほとんど全数をあげて、客観的には存在しないで、ただ主観的にだけ存在するとするものは、つまり、いわゆる懐疑派である。その最も極端に行動したのは、ピュロニズム派である。すべて、哲学者の多くは、生まれつき優秀で、奇異を好むので、以前の筋道にしたがうことを快く思わない。奇異を確立し、新奇を誇示しようとして、思索に熱中し、結局、目前の無造作の事物でも、とても奇怪視して、いわゆる巧みさを誤って錯綜する言葉となり、自分も知らず知らずの間に、邪道に陥って、自分から出ることができなくなるのが、しばしばである。私達は、努力して、この弊害を離れ去りたいとするので、昔の人の争議した事項(条項)についても、ただ努力して、当面は、明白な道理を発動して、まったく新奇を誇示しないのである。また、時には、私達が1個の解釈を与えて、先人の道筋を踏まないこともある。》

 

 

●(10)(再び)主観・客観

 

・繰返して言う、世の中に純然主観的のものも実に寡(すくな)い、純然客観的のものも実に寡い、万物皆客主相映じて、両鏡の繊翳(せんえい)なきが如くである。

 

《繰り返していう、世の中に、純粋な主観的なものも、実際に少ない。純粋な客観的なものも、実際に少ない。万物は、すべて、主・客が相互に映し合って、両鏡のわずかな陰り(曇り)もないようなものである。》

 

・釈迦老子も初年の間は、専(もっぱ)ら天下人心(じんしん)の妄念妄想を一洗し、根本的にその自説を蒔(ま)き付けようとして、諸行無常とか、唯此一事実余二即非真(ただこのいちのみじじつ、よのには、すなわちしんにあらず)とか、都(すべ)て世界万物を一無に帰せしめて、ただ心のみを有としたようだが、これも実はやはり方便であった。而(しか)してその最後の考(かんがえ)は、遂に万物と我れと、共にこれが世界大経済中の具と為(な)したる如くに見ゆる。故にこの点よりいえば、釈迦も頻(しき)りに主観説を主張した後客観説を取りて、両造相調和せしめて始(はじめ)て真乗門(しんじょうもん)を打出したと言(いっ)ても良い。

 

《釈迦・老子も、最初の間は、ひたすら、天下の人の心の妄念・妄想を一掃し、根本的に、その自説を植え付けようとして、諸行無常とか、「ただ、この1のみ事実で、他の2は、つまり真でない」とか、すべて、世界の万物をひとつの無に帰着させて、ただ心だけを有としたようだが、これも、実際は、やはり、方便であった。そうして、その最後の考えは、結局、万物と私と、一緒に、これが世界の偉大な治め救うことの中の具体としているように見える。よって、この点からいえば、釈迦も、頻繁に主観説を主張した後、客観説を摂取して、両方相互に調和させて、はじめて、真実の乗り物の教えを打ち出したといってもよい。》

 

・耶蘇(やそ)はこの辺の事には何も言(いっ)て居ないようだ。それもそのはず、耶蘇は一無害の長者、一多情多血の狂信者で、瞿曇(くどん)氏のような博学の哲学者ではなかったのである。ルナンの耶蘇の伝は真を得たものだろうと思うが、一(いつ)の極(きわめ)て無邪気の、極て感情に富(とん)だ人物、いわば男性のジヤンヌダルクとも見るべきであると言て居る。かくの如き人物に、主観の客観のとやかましき議論は固(もと)より待つべきでない。

 

《キリストは、この周辺の事には、何もいっていないようだ。それも、そのはず、キリストは、無類の立派な一人で、感情が多く・血の気の多い、唯一の精神病者で、釈迦のような博学の哲学者ではなかったのである。ルナンの『イエス伝』は、真実を得たものだろうと思うが、1人のとても無邪気な・とても感情豊かな人物、いわば男性のジャンヌダルクとも見ることができるといっている。このような人物に、主観の・客観のと、やかましい議論は、元々、期待することはできない。》

 

 

●(11)意象

 

・それから諸種の意象(いしょう)であるが、草木禽獣(きんじゅう)といえる如き一切吾人(ごじん)の五官に触るべきものは、その記憶に上(のぼ)りて意象と為(な)るには、固(もと)より五官を経て来(きた)るに相違ない。これは議論も何もない、ただ正不正とか、義不義とか、仁とか善とか、諸種無形の意象に関しては、例の宗旨家及び宗旨混同の哲学家は皆五官を排斥して、乃(すなわ)ち五官の捕捉に繋(かか)るが如き人寰(じんかん)臭(くさ)き意象とは違い、人生先天的の意象である、神が吾人の精神に印してあるという塩梅(あんばい)に、勿体(もったい)らしく論じて居る。而(しか)して最後に神といえる意象の如きは、およそ意象中の最も高尚(こうしょう)なるもので、到底物の一性を感ずるに止(とど)まりたる、汚(けが)れたる血肉に成れる五官の如きものの関与すべきでなく、吾人人類が生れながら有して居る意象である云々(うんうん)。

 

《それから、種々の観念であるが、草木・鳥獣といえるようなもので、すべて、私達の5官(目・耳・鼻・舌・皮膚の5感覚器官)に接触することができるものは、その記憶にのぼって観念となるには、元々、5官を経由したに相違ない。これは、議論も何もない。ただ正・不正とか、義・不義とか、仁とか善とか、種々の無形の観念に関しては、例の宗教家・宗教の主旨を混同した哲学者は皆、5官を排斥して、つまり5官の捕獲に関係するようなもので、人間界臭い観念とは違い、人生の先天的な観念である。神が私達の精神に刻印してあるという具合に、ものものしく論考している。そうして、最後に神といえる観念のようなものは、だいたい観念の中の最も立派で上品なもので、到底、物の一面性を感じるに留まっている。汚れた血・肉に成立する5官のようなものが、関与することができず、私達人類が生まれながらにもっている観念である、等々。》

 

・かく論じて、その意には挺然(ぬっくと)高く人間塵埃(じんあい)の表に出(い)でて、一切土臭き臭気を擺脱(はいだつ)したる考えであるが、何ぞ知らんこれ正(まさ)にその極(きわめ)て尊尚(そんしょう)する所ろの神に附与するに、人間の情欲を以てするもので、前後矛盾自家撞着(どうちゃく)の為(い)たるを暴露して居るのだ。第一血肉が汚(けが)らわしいの、無形の物が高尚なの、塵埃の、土臭(どしゅう)のと、これ正に吾人(ごじん)人類中での言事(いいごと)である、否な吾人人類中でも不学無術なる人物中での言事である。試(こころみ)に理化学の目から見よ、血でも膿(うみ)でも、屎(くそ)でも尿(にょう)でも、七色燦然(さんぜん)たる宝玉錦繍(きんしゅう)と、何処(どこ)に美悪の別がある、小野の小町と狒々(ひひ)猿と、那辺(どこ)に妍醜(けんしゅう)の差がある。憐(あわれ)むべし公(きみ)らの精神は半ば腐壊した躯体(くたい)より噴出する所の燐火(りんか)で、正に臭気紛々として居るのだ、これはこれ清浄なる神火でなく、腌膩(えんじ)極まる欲火である。共に意象の事を語るに足らぬが故に、謹(つつしん)で下文に垂示するのを聴け。

 

《こう論考して、その意味は、抜きん出て高く、人間は、チリ・ホコリの表世界に出て、すべて土臭い臭気を除去した考えであるが、どうして知るのか。これは、まさに、それが、とても尊貴する神に付与するのに、人間の情欲によってするもので、前後矛盾・自己矛盾にいたるのを暴露しているのだ。第一、血・肉が汚らわしいの、無形の物が立派で上品なの、チリ・ホコリの、土臭さのと、これは、まさに、私達人類の中での言葉である。いや、私達人類の中でも、不学無術な人物の中での言葉である。試しに、理化学の目から見よ。血でも・膿でも、糞でも・尿でもと、7色の光り輝く宝玉・錦の織物・刺繍と、どこに美醜の分別があるのか。小野小町と、ヒヒザルと、どこに美醜の差があるのか。あわれむべきだ、貴公らの精神は、半分腐敗した身体から噴出する人魂(ひとだま)で、まさに臭気がプンプンとしているのだ。これは、これが清浄な神の火ではなく、不浄な欲望の火である。一緒に観念の事を語り足らないために、つつしんで下文に教示するのを聞け。》

 

 

●(12)無形の意象

 

・吾人(ごじん)幼時から見物する所ろの物、例えば馬牛犬豕(し)の如き皆一(いつ)の絵画となりて、記性中に印せられて居る。即ち生れていまだ絵を学んだことのない者でも、一たび瞑目(めいもく)して馬の事を思う乎(か)、犬の事を思う乎、何日(いつ)か見た所ろの馬犬の影象(えいしょう)が儼然(げんぜん)として意念(いねん)中に現出すること、極(きわめ)て巧みな画工の描ける絵と異ならぬ。また書を読み字を識(し)る者は、あるいは絵でなく字で現出する、また抽象的に馬または犬の事が浮出(ふしゅつ)する、これがいわゆる意象である。これらは勿論(もちろん)五官に接触する実物だから論はないが、さて正不正、義不義、美不美等のいわゆる無形の意象でも、その実はやはり五官を経由して出来て居る、五官に関せぬなどというのは膚浅(ふせん)極まる言事(いいごと)である。

 

《私達が、幼少時から見物する物、例えば、ウマ・ウシ・イヌ・ブタのようなものは、すべて、ひとつの絵画となって、記憶力の中に刻印されている。つまり生まれて、まだ絵を学んだことのない者でも、一度、目を閉じて、ウマの事を思うか、イヌの事を思うか、いつか見たウマ・イヌのイメージが、確固として意思の中に出現することは、とても巧みな画家が描ける絵と異ならない。また、書物を読み、文字を知る者は、絵でなく、文字で出現したりする。また、抽象的に、ウマ・イヌの事が浮かび出す。これが、いわゆる観念である。これらは、もちろん、5官(感覚器官)に接触する実物だから、論考はないが、さて、正・不正、義・不義、美・不美等の、いわゆる無形の観念でも、その実際は、やはり、5官を経由してできている。5官に関係しない等というのは、浅はかさが極まる言葉である。》

 

・けだしおよそ意象(いしょう)といい影象(えいしょう)といい、皆三、五歳の幼時より漸次(ぜんじ)に記性中に印せられて居るものである。彼(か)れ幼童が怒(いかり)て他の童を撾(う)つとか、両親の命に背(そむ)きて何か曲事(くせごと)を為(な)すとか、いずれ絵に写されべき、形を図せられべき、具体的の行事よりして、正不正の意象が源頭し来(きた)るのである。観劇の際、由良之助(ゆらのすけ)の城渡(しろわたし)を見て具体的に義の意象を生じ、斧九太夫(おのきゅうだゆう)を見て具体的に不義の意象を生じ、小野の小町が美の意象のモデールとなり累(かさ)ねの顔が醜(しゅう)の意象のモデールとなる等、とにかく即時事に遇(あ)い物に接し、具体的に即ち影象的に絵図的に記性中に捺印(なついん)して、その後は実物を離れて直(ただち)に記性中の影象と交渉するに至りて純然たる無形の意象を成すのでも、その源頭はここに述(のべ)る如く必ず五官を経由して来たのに相違ないのである。

 

《思うに、だいたい観念といい、イメージといい、すべて、3~5歳の幼少時から、しだいに記憶力の中に刻印されているものである。あの幼児・児童が怒って、他の児童をたたくとか、両親の命令に背いて、何かダメな事をするとか、いずれも、絵に写すことができ、形を図式化することができ、具体的な行為から、正・不正の観念が根源してくるのである。観劇の際に、由良之助の城渡しを見て、具体的に義の観念が生まれ、斧九太夫(由良之助の敵役)を見て、具体的に不義の観念が生まれ、小野小町が、美しさの観念のモデルとなり、婦人の累(かさね)の顔が、醜さの観念のモデルとなる等、とにかく、その時に、事に会い、物に接し、具体的に、つまりイメージ的に・絵図的に、記憶力の中に刻印して、その後は、実物を離れて、すぐに記憶力の中のイメージと交渉するのに至って、純粋な無形の観念を成立させるが、その根源は、ここに述べたように、必ず5官(感覚器官)を経由してきたのに相違ないのである。》

 

 

●(13)神の意象

 

・特に神の意象(いしょう)の如き、幼時両親の語話(ごわ)を聴き、これ極(きわめ)て慈善なる、温和なる、愛らしき顔の、色の白き面(かお)の、豊下(ほうか)で福々しい、鬚髯(しゅぜん)の如き、常に莞爾(かんじ)として咲(え)みつつある、老後旅行中の水戸西山公にも似たらんかと思う老人を想像して、その具体的絵画が穉弱(ちじゃく)なる記性中に深く滲入(しんにゅう)して抜くべからずなりたるものである。勿論(もちろん)欧米の児童には、水戸西山公ではなく、また他に適当なるそれぞれのモデールがあって出来たことはいうまでもない。かくの如く昧者(まいしゃ)が全然実質と関係なきかの如く思惟して居る無形の意象も、その源頭に遡(さかのぼ)りて考索すれば、必ず具体的のものより生じ、実質より成り来れるものたるは無論である。

 

《特に、神の観念のように、幼少時に両親の会話を聞き、これが、とても慈善な・温和な・愛らしき顔の・色白の顔の、頬(ほお)の下がふくれて、あごヒゲ・ほおヒゲのようで、いつもニッコリして笑いつつある、老後に旅行中の水戸の徳川光圀(みつくに)公にも似たのかと思う、老人を想像して、その具体的な絵画が、幼弱な記憶力の中に、深く浸入して、抜けることができないようになるものである。もちろん、欧米の児童には、水戸の徳川光圀公ではなく、また、他に適当な、それぞれのモデルがあってできたことは、いうまでもない。このように、愚者が、全然、実質と関係ないかのように思惟している無形の観念も、その根源にさかのぼって考察・思索すれば、必ず具体的なものから生まれ、実質から成立してきたものであるは、無論である。》

 

・更に助語の辞(じ)即ち「直ちに」「即ち」「速(すみやか)に」「徐々に」「より多く」「より少く」「責めては」「なるべく」等の如きは、実物と何の交渉もないようだが、これまた大(おおい)に然(しか)らずである。幼時母親に何か求むる所ろでもあれば、母が「直ちに云々(しかじか)せん」とか「速に斯々(かくかく)せん」とか言うのを聴きて、当時乞(こ)い求めた蜜柑(みかん)とか林檎(りんご)とかを、これら助語と牽聯(けんれん)して、即ち蜜柑林檎の影象を仮り来(きたり)て、「直ちに」「速に」等の意象を記性中に入れたので、「徐(おもむ)ろに」「より多く」「より少く」等の助語でも皆この例である。然らずしてもし宗旨家言う所ろの如くに諸無形の意象が先天的であって、五官の経由を藉(か)らず、渾然(こんぜん)意念中に全成(ぜんせい)して欠くる所ろがないとすれば、児童は皆信者なるべきに、皆正義者なるべきに、さはなくて日々驕痴(きょうち)の態を現出して両親を苦しめ、また助語の辞等に至(いたっ)ては時々大(おおい)に誤用して、一座団欒(だんらん)の長年をして哄笑(こうしょう)せしむる愛嬌(あいきょう)があるのではないか。

 

《さらに、助語の言葉、つまり「直ちに」・「即ち」・「速やかに」・「徐々に」・「より多く」「より少なく」・「責めては」・「なるべく」等のようなものは、実物と何の交渉もないようだが、これは、また、大いにそうでないのである。幼少時に、母親へ、何かを求めることでもあれば、母親が、「直ちにシカジカしよう」とか「速やかにカクカクしよう」とか、いうのを聞いて、当時、与えてくれるように求めた、ミカンとか、リンゴとかを、これらの助語と関連して、つまりミカン・リンゴのイメージを仮りてきて、「直ちに」・「速やかに」等の観念を記憶力の中に入れたので、「おもむろに」・「より多く」・「より少なく」等の助語でも、すべて、この例である。そうではなくて、もし、宗教家のいうことのように、種々の無形の観念が先天的にあって、5官(感覚器官)の経由にかこつけず、溶け合って、意思の中に完成して、欠如することがないとすれば、児童は、皆、信者になることができ、皆、正義の者になることができ、そうではなくて、日々、おごって愚かな態度を出現して、両親を苦しめ、また、助語の言葉等に至っては、時々、大いに誤用して、一座のだんらんが、長年に渡って大笑いさせる愛嬌があるのではないのか。》

 

・元来吾人(ごじん)がその躯体(くたい)の作用たる精神を、体外に発出するは何如(どう)してである、取(とり)も直さず五官と号する窓を経て発出するではないか。もし目がなければ何に由(よ)りて色彩に関する影象(えいしょう)を得よう、耳がなければ何に由りて音韻に関する影象を得よう、臭香(しゅうこう)の影象、旨味(しみ)の影象、堅脆(けんぜい)、寒熱等膚肌(ふき)に関する影象、皆この窓より惹(ひ)き入るるのである。吾人もし仮りに隤然(たいぜん)たる渾沌(こんとん)的肉塊(にくかい)であったならば、何の影象も得るに由(よし)なくて、乃(すなわ)ち吾人の記性は常に愣然(りょうぜん)として無一物(むいちぶつ)であろう、海に浮(うか)ぶ海月(くらげ)と一般だろう、何の先天的の意象もあるべき道理はない。

 

《本来、私達が、その身体の作用である精神を、体外に発出するのは、どうしてであるのか。すなわち、5官(感覚器官)という窓を経由して発出するのではないか。もし、目がなければ、何によって、色彩に関するイメージを得るのか。耳がなければ、何によって、音韻に関するイメージを得るのか。臭い・香りのイメージ、うま味のイメージ、堅強か脆弱か・寒いか暑いか等、皮膚・肌に関するイメージは、すべて、この窓によって引き入れるのである。私達が、もし、かりに、だらしない混沌的肉塊であったならば、何のイメージも得る理由がなくて、つまり私達の記憶力は、いつも、ぼんやりして、何ひとつないであろう。海に浮かぶクラゲと同様だろう。何の先天的な観念も、あるであろう道理はない。》

 

・プラトンは実質を不完全とし、意象(いしょう)を完全とし、意象なるものは吾人(ごじん)前世にあった時、即ちいまだ罪を獲(え)て娑婆(しゃば)に謫(たく)せられざる前、即ち常に神の膝下(しっか)に侍(じ)して、完美豊粋(ほうすい)の物のみ見聞した時の遺物(いぶつ)として今なおこれを有して居るので、即ち意象なるものはこの世の実物を形写するではなくて、前世の完美豊粋の物を影写して出来たのであると言った。而(しか)して世の哲学者皆プラトンを似て病狂者と為(な)さずして、高遠(こうえん)無比の大哲学者と為してこれを崇拝するとはむしろ笑止(しょうし)の極ではないか。

 

《プラトンは、実質を不完全とし、観念を完全とし、観念なるものは、私達が、前世にあった時、つまり、まだ罪を得て、人間界で罰せられない前に、つまり、いつも神のヒザの下に仕えて、完全美・豊満・純粋な物だけを見聞した時の遺物として、今なお、これをもっているので、つまり観念なるものは、この世の中の実物の形を写し取ったのではなくて、前世の完全美・豊満・純粋な物の影を写し取ってできたのであるといった。そうして、世の中の哲学者は皆、プラトンに似て、精神病者とならないで、広大・久遠の比類なき偉大な哲学者となって、これを崇拝するとは、むしろ、バカバカしい極致ではないか。》

 

・以上論ずる所ろに由(よ)れば、意象(いしょう)の系図知るべきである。実物に関するものは無論のこと、即ち無形で殊(こと)に実物とは何の交渉もなきかの如く思われるものでも、その始めは必ず五官の窓から吾人(ごじん)の精神を誘発し感興(かんこう)し来る所の外物が、先(ま)ずこれが模型となり、牽聯(けんれん)し、変化し、絪縕(いんうん)し、化醇(かじゅん)して影象となり、記性中で若干時月(じげつ)を経る中に、また変じて純然抽象的となりてここに以て意象を作成するのである、しからば意象の作成には記性最も与(あずか)りて力ありといわねばならぬ。

 

《以上、論考することによれば、観念の系図を知るべきである。実物に関するものは、無論のこと、つまり無形で、特に、実物との何の交渉もないかのように思われるものでも、その始めは、必ず5感の窓から、私達の精神を誘発し、興味を感じてくる外物、まず、これが模型となり、関連・変化し、元気で、変化・純粋になって、イメージとなり、記憶力の中で、いくらかの月日を経過する中に、また、変化して、純粋な抽象的となって、こういうわけで、観念を作成するのである。それらならば、観念の作成には、記憶力が、最も関与して、力があるといわなければならない。》

 

 

(つづく)

 

(つづき)

 

 

●(3)無終

 

・されば世界万有が無始であるのは当然明白の事である。もし始(はじめ)があったら大変で、意義もなき非論理となる。またこの世界万有は無終でなければならぬのである、有が無になる道理はない。

 

《そうであれば、世界の万物が、無始であるのは、当然、明白の事である。もし、始があったら大変で、意義もない非論理となる。また、この世界の万物は、無終でなければならないのである。有が無になる道理はない。》

 

・およそ「無」という語は人寰(じんかん)中の語で、目前に見えなくなった時に遣(つか)う語である。「金がなくなった」「米がなくなった」これ俗用の語としては意味があるが、哲学的では意味はない。金がなくなりはしない、己(おの)れの手より他人の手に移ったのである、米がなくなりはしない、己れの腹中に入りて滋養分と糞尿(ふんにょう)とに変じたのである。

 

《だいたい「無」という語句は、人間界の中の語句で、目前に見えなくなった時に使う語句である。「金がなくなった」・「米がなくなった」、これは、世俗用の語句としては、意味があるが、哲学的には、意味がない。金がなくなりはしない。自己の手から他人の手へ、移ったのである。米がなくなりはしない。自己の腹の中に入って、栄養分と糞尿に変化したのである。》

 

・かくの如き訳(わけ)合いで、世界の大は愚か塵(ちり)一つもなくなるものではない、即ち終(おわり)のあるべきはずでない。もし一物でも無よりして有で、即ち始めがあってその有が、また無になりて、即ち終があるというと大変な事で、非論理、非哲理、泡沫、幻影、前後矛盾、自家撞着(どうちゃく)、大混雑、大混乱となり了(お)わるのである。

 

《このような理由で、世界の大は、もちろん、チリひとつでさえも、なくなるものではない。つまり終があるであろうはずはない。もし、ひとつの物でも、無から有で、つまり始めがあって、その有が、また、無になって、つまり終りがあるというと、大変な事で、非論理・非哲理・泡沫・幻影・前後矛盾・自己矛盾・大混雑・大混乱となって、終了するのである。》

 

 

●(4)無辺無限

 

・さてまた世界は前に現実派を駁(ばく)した時に論じた如く、無辺無限である。

 

《さて、また、世界は、前に現実派を非難した時に論考したように、無辺・無限である。》

 

・これはそうなくてはならぬ。この世界は包容せざる莫(な)きもので、もし千里、万里、億里、百億里で、世界の辺極があってその外(ほか)は真空であるといえば、真空もまた世界の領分であるが故に、終(つい)に辺極のあるはずはない。地球とか太陽とか太陽系天体とかは、洵(まこと)に限極あるであろうが、世界は限極あるべきでない。かつまた今日までの学術で真空というものも実は極微至幺(しよう)の気体の一団で、真(まこと)の無ではないかも知れぬ。今日までの学術で一切万事を解決せんと欲するは僭妄(せんもう)といわねばならぬ。

 

《これは、そうでなくてはならない。この世界は、包み込まれないことがないもので、もし、1000里・1万里・1億里・100億里で、世界の辺境の極限があって、それ以外は、真空であるといえば、真空も、また、世界の領域の区分であるために、結局、辺境の極限があるはずはない。地球とか・太陽とか、太陽系・天体とかは、本当に極限があるのであろうが、世界は、極限があることができない。そのうえ、また、今日までの学術で、真空というものも、実際には、至極微小な気体の一団で、本当の無ではないのかもしれない。今日までの学術で、すべて、万事を解決したいとするのは、僭越でなければ、妄想であると、いわなければならない。》

 

・以上論ずる所ろに由(よ)れば、世界は無始無終である、即ち悠久の大有(たいゆう)である、また無辺無極である、即ち博広(はっこう)の大有である。而(しか)してその本質は若干数の元素であって、この元素は永久游離し、抱合し、解散し、また游離し、抱合し、解散し、かくの如くして一毫(いちごう)も減ずるなく増すなく、即ち不生不滅である。草木人獣皆これ物を抱合に生じ、解散に死するのである。

 

《以上、論考することによれば、世界は、無始・無終である。つまり(時間的)永久の偉大な有である。また、無辺・無極である。つまり(空間的)広漠の偉大な有である。そうして、その本質は、いくらかの数の元素であって、この元素は、永久に、遊離・抱き合い・解散し、また、遊離・抱き合い・解散し、このようにして、わずかも減ることもなく、増えることもなく、つまり不生不滅である。草木・人・獣は、すべて、この物を、抱き合うならば、生まれ、解散するならば、死ぬのである。》

 

 

●(5)精神の能

 

・それ世界万有は無始無終であって、創造するの必要はないから、神を影撰(えいせん)するの必要もない、即ち神は絶対にいないのである、而(しか)して精神は如何(いかが)であるか。

 

《そもそも世界の万物は、無始・無終であって、創造する必要はないから、神をイメージする必要もない。つまり神は、絶対にいないのである。そうして、精神は、どのようであるのか。》

 

・余はいう、不滅としての精神はないのである、しかし躯体(くたい)の働らき即ち作用たる精神は、躯体の解離せざる間は立派に存在して、常に光を発して居る。これ当然の訳(わけ)で、そもそも吾人(ごじん)の身が生きて居る消息を示すは、何に由(よっ)てであるかといえば、その働らき即ち精神の発揮に由てである。目は視、耳は聴き、鼻は嗅ぎ、口は味(あじわ)い、手足皮膚は捕捉し、行歩し、接触し、また感覚し、思考し、断行し、想像し、記憶する等、皆精神の発揮である、炭より発せる焔(ほのお)と一般である、薪(たきぎ)より生ずる火と同様である。

 

《私は、いう、不滅としての精神は、ないのである。しかし、身体の働き、つまり作用である精神は、身体が解離しない間には、立派に存在して、いつも光を発生している。これは、当然なわけで、そもそも私達自身が生きている様子を示すのは、何によってであるかといえば、その働き、つまり精神の発揮によってである。目は、見て、耳は、聞いて、鼻は、嗅いで、口は、味わって、手は、捕獲し、足は、歩行し、皮膚は、接触し、また、感覚・思考・断行・想像・記憶する等、すべて、精神の発揮である。炭から発生する炎と同様である。薪から発生する火と同様である。》

 

・そもそも炭は小塊(しょうかい)の聚(あつま)りに過ぎないが、これより発する焔(ほのお)はあるいは天を焦(こ)がすに至る、薪(たきぎ)は山木の断片に過ぎないが、これより生ずる火はあるいは一都(いっと)を焼燼(しょうじん)するに至る、精神の躯体(くたい)におけるもまたかくの如くである。彼(か)の推理の一力(いちりょく)を看(み)よ、この理より彼(かの)理に赴(おもむ)き、層累(そうるい)して上(のぼ)りて乃(すなわ)ち十八里の雰囲気を透過して、夐(はるか)に太陽系天体の外(ほか)にも馳騁(ちてい)するではないか。想像の一能を看よ、その働らきは更に自由自在で、あるいは天上に城市を建立し、海底に楼閣を幻出し、虎に翼を傳(つ)け、狐を馬に乗せ、剣山を峙(そば)だて、血海を湛(たた)え何を為(な)して成らざるなく、何を欲して得ざる莫(な)く、而(しか)してこれ皆五尺の小躯体から発する作用にほかならぬのである。

 

《そもそも炭は、小さな固まりの集まりにすぎないが、これから発生する炎は、天を焦がすのに至らせたりする。薪は、山の木の断片にすぎないが、これから発生する火は、一都市を焼き尽くすのに至らせたりする。精神の身体におけるのも、また、このようである。あの推理の一能力を見よ。この理から、あの理へ向かい、積み重ねて上昇して、つまり18里の大気圏を通過して、はるかに太陽系・天体以外にも、行動するのではないのか。想像の一能力を見よ。その働きは、さらに、自由自在で、天上に都市を建立し、海底に楼閣をぼんやりと出現し、トラに翼を授け、キツネをウマに乗せ、剣の山をそびえさせ、血の海をみちさせたりし、何をしても、成り立たないものはなく、何をしたくても、できないものはなく、そうして、これは、すべて、5尺の小身体から発生する作用にほかならないのである。》

 

・記憶の能を看(み)よ、三、四歳の幼時に見聞した事物より、六十、七十の高齢に至るまで、およそその経過せし事の意象(いしょう)は一々蓄(たくわ)えて逸しないで時に応じて引出さるるでないか。また一時わが記憶より逸去(いっきょ)したものが、思考の末再び浮出さるるなどは、随分(ずいぶん)奇な事ではないか。啻(ただ)これのみでなく、吾人(ごじん)の智識の進歩し行くは記憶の能があって、およそ経験して得(う)るごとに脳中の倉庫に仕舞い込みて失わない、以て温故知新の財料と為(な)すからである。即ち人の賢愚の別はその大部分において記性(きせい)の強弱に関係して居る。

 

《記憶の能力を見よ。3・4歳の幼少期に見聞した事物から、60・70歳の高齢に至るまで、だいたい、その経過した事の観念は、ひとつひとつ蓄積して、散逸しないで、時に対応して、引き出されるのではないのか。また、一時、わが記憶から散逸したものが、思考の末、再び思い出される等は、とても奇異な事ではないのか。ただ、これだけでなく、私達の智識が進歩していくのは、記憶の能力があって、だいたい経験して得るごとに、脳内の倉庫に仕舞い込んで失わない。それで温故知新の材料とするからである。つまり人の賢明か愚鈍かの分別は、その大部分において、記憶力の強弱に関係している。》

 

・その他感情や、感覚や、断行や、皆精神の発揮の種類である。それ若干元素の抱合より成れる五尺の躯(み)から、かくの如く燦爛(さんらん)たる金碧(こんぺき)の光彩が放たれて居るので、昧者(まいしゃ)はこの光彩を認めて本体と為(な)し、主人と為して、五尺躯を以て奴隷と為して、彼(か)の虚霊説の囈語(ねごと)が出来たのである。夜光珠(やこうじゅ)の光が余り美麗なるが故に、珠(たま)よりも光が貴(たっと)ばれて、光というものが珠を離れて別に存在して居ると思うたのも、やや無理もなりというても良い。

 

《その他の感情・感覚・断行は、すべて、精神の発揮の種類である。それは、いくつかの元素の抱き合いから成立する、5尺の体から、このように、華美な黄金・碧玉の光彩が放出されているので、愚者は、この光彩を確認して本体とし、主人として、5尺の体によって、奴隷として、あの虚霊説(唯心論)の寝言ができたのである。夜光珠(宝石玉)の光があまりにも美麗であるために、珠よりも、光が貴重として、光というものが、珠を離れて、別に存在していると思ったのも、やや無理もないといってもよい。》

 

・かくの如く精神即ち躯体(くたい)の作用は、躯体より発しながら、これが本体たる躯体の中に局しないで十八里の雰囲気を透過し、太陽系の天体を透過し、直(ただ)ちに世界の全幅をまで領略するの能がある。即ち吾人(ごじん)が宗旨家の卑陋(ひろう)の見(けん)を打破して世界の大理を捕捉せんと擬するは、正(まさ)に精神にこの振抜(しんばつ)挺騰(ていとう)の能力があるから出来るのである。ここにおいて乎(か)、また古今哲学家の極(きわめ)て思(し)を覃(ふかく)し慮を労する事項がある、以下順次に論ずるであろう。

 

《このように、精神、つまり身体の作用は、身体から発生しながら、これが本体である身体の中に限定(局限)しないで、18里の大気圏を通過し、太陽系の天体を通過し、すぐに世界の全体までを理解する能力がある。つまり私達が宗教家の卑劣な見方を打破して、世界の偉大な理を捕獲しようと、熟考することは、まさに、精神に、この奮起・向上の能力があるからできるのである。こういうわけで、また、昔と今の哲学者が、とても思慮深く働く事項がある。以下、順次に論考するであろう。》

 

 

●(6)空間

 

・前にほぼ一、二言して置(おい)た空間と時との二意象(いしょう)である。空間とは、文字の指示せる如く、目前実物の占取し居る場所、即ち一枝の筆あればその筆が容(い)れられて居る場所等より広漠(こうばく)たる太虚(たいきょ)を幷(あわ)せて、およそ大小実物の容れられつつあり、また容れられ得(う)べき虚隙(きょげき)を合(がっ)しての総称である。

 

《前に、ほぼ一言・二言しておいた、空間と時間の2観念である。空間とは、文字が指示するように、目前の実物の占拠している場所、つまり1区画の土地があれば、その土地が受け入れられている場所等から、広漠な大空を合わせて、だいたい大小の実物が受け入れられつつあり、また、受け入れられ得るだろう空隙を合わせての総称である。》

 

・道近きにありこれを遠きに求むで、古来達識の哲学者がこの空間という一事について、嗷々(ごうごう)聚訟(しゅうしょう)して居るけれど、吾人(ごじん)を以てこれを観れば誠に見やすき事である。そもそも空間なるものは、世界の容器と言えば一番早分(わか)りである。万物いやしくもあれば場所を塞(ふさ)げつつあるに極(きまっ)て居る、而(しか)してこれら場所の総(す)べてを指して空間という以上は、これ空間は正(まさ)に世界と一(いつ)を為(な)して居る、即ち空間も無辺無限であって、パスカルの言った如く、到る処真中(まんなか)で縁(ふち)のなき円球である。

 

《道が近くにあるのに、これを遠くに求めるもので、古来の達見のある哲学者が、この空間という一事について、やかましく争議しているけれども、私達によって、これを観察すれば、本当に、よく理解できる事である。そもそも空間なるものは、世界の容器といえば、一番わかりやすいのである。万物が、もしも、あれば、場所を塞ぎつつあるのに決まっている。そうして、これらの場所のすべてを指して、空間という以上は、この空間は、まさに、世界とひとつになっている。つまり空間も、無辺・無限であって、パスカルのいったように、いたるところが、真ん中で、周縁のない円球である。》

 

・或る者はいう、空間とは真にその物のあるのではなく、特に吾人(ごじん)の精神がこの物あるが如くに想像して万事を理会することとなって居ると。これ何たる言ぞ、世界万物なるものは、真にこれあるに違いない、よも空華(くうげ)幻影とは言われまい、いやしくも世界万物ある以上は、或る場所を塞(ふさ)いで居るに違いない、即(すなわち)その場所は空間であるとすれば、吾人の精神を離れて、別にいわゆる空間なるものが存在して居ることは言うまでもない。然(しか)るをかくの如く論道するときは、その弊や竟(つい)に医(い)すべからざる懐疑の一派に陥(おち)いることを免(まぬか)れない。

 

《アル人は、いう、「空間とは、本当に、その物があるのではなく、特に私達の精神が、この物があるように想像して、万事を理解することになっている」と。これは、何という言葉なのか。世界の万物なるものは、本当に、これがあるに違いない。まさか空想・幻影とは、いわないだろう。もしも、世界の万物がある以上は、アル場所を塞いでいるに違いない。つまり、その場所は、空間であるとすれば、私達の精神を離れて、別にいわゆる空間なるものが存在していることは、いうまでもない。ところが、このように道を論考するときに、その弊害は、結局、いやすことができない懐疑の一派に、陥ることを逃れられない。》

 

・また空間は紙に譬(たと)えても良い、而(しか)して万物は絵に比しても良い。空間なる紙の上に寸隙(すんげき)もなく描かれてある絵が、即ち万有の森然(しんぜん)たるものである。仮にこの世界に人類なしとしてもいやしくも他物ある以上は空間のなき訳(わけ)には往かぬ、かつたとい世界茫々(ぼうぼう)無一物(むいちぶつ)でも空間のなき訳にはやはり往かぬ。物あると物なきとに管せず、物の容(い)れられ得(う)べき場所の総(すべ)てを空間と号する以上は、到底如何(いか)に想像するもこの物なき訳には往かぬ。

 

《また、空間は、紙に例えてもよい。そうして、万物は、絵と比較してもよい。空間である紙の上に、わずかな隙間もなく、描かれている絵が、つまり万物の荘厳であるものである。かりに、この世界に人類がいないとしても、もしも、他の物がある以上は、空間がないわけにはいかない。そのうえ、たとえ、世界が広々として、何ひとつなくても、空間がないわけには、やはり、いかない。物があるのと、物がないのに、心をかけず、物が受け入れられ得るであろう場所のすべてを、空間という以上は、到底、いかに想像するのも、この物がないわけにはいかない。》

 

 

●(7)時

 

・また時という問題がある。これまた空間と同じく古来聚訟(しゅうしょう)の一問題であって、やはり吾人(ごじん)の精神にのみ存するもので、真にその物があるのではないという哲学者がある。これまた懐疑の一派に陥(おち)いる恐れがある。

 

《また、時間という問題がある。これは、また、空間と同様、古来の論争の一問題であって、やはり、私達の精神にだけ存在するもので、本当に、その物があるのではないという哲学者がいる。これは、また、懐疑の一派に陥るおそれがある。》

 

・いやしくも物があればその物が経過する時間がある。たといその物は不滅にして窮已(きわまり)なしとしても、甲の形を保つ間の時間があり、また乙の形を保つ時間がある。山の芋(いも)の時間もあれば、鰻(うなぎ)の時間もあるという勘定だ。即ち時とは万物を載(の)せて、この刻限より彼(か)の刻限に運び行く車の如きものである。

 

《もしも、物があれば、その物が経過する時間がある。たとえ、その物は、不滅で、極限がないとしても、甲の形を保つ時間があり、また、乙の形を保つ時間がある。山イモの時間もあれば、ウナギの時間もあるという判断だ。つまり時間とは、万物を乗せて、この時刻から、あの時刻へ、運び行く車のようなものである。》

 

・これに由(よっ)て言えば、空間は世界の大(おお)いさを意味して居り、時は世界の久しさを意味して居る。

 

《これによっていえば、空間は、世界の大きさを意味しており、時間は、世界の長さを意味している。》

 

・それ空間なり、時なり、或る哲学者は、真にその物があるのではなく、特に吾人(ごじん)の精神がこれありとして、事物を了解する根本的条件となして居るのだ、というかと思えば、また他の哲学者は、空間の意象(いしょう)や、時の意象や、吾人の生れざる以前より伝わり来(きた)ったもので、いわゆる生知の意象である、人より告知せられて始(はじめ)て得たる意象ではない、而(しか)してこの意象こそ、唯一神が吾人の精神に対しその兆朕(ちょうちん)を見(あら)わして居るのだという。乃(すなわ)ち空間と時とを以て神の一資格と為(な)して居る、奇怪の極というべきではないか。

 

《そもそも空間なり、時間なり、アル哲学者は、本当に、その物があるのではなく、特に私達の精神が、これがあるとして、事物を了解する根本的条件としているのだ。というかと思えば、また、他の哲学者は、空間の観念や、時間の観念が、私達の生まれていない以前から伝来したもので、いわゆる生まれながらに知っている観念である。人から告知されて、はじめて得た観念ではない。そうして、この観念こそ、唯一神が私達の精神に対し、その兆候を現わしているのだという。つまり空間と時間によって、神の一資格としている。奇怪の極致ということができるのではないか。》

 

・おおよそ生知の意象(いしょう)というべきは一(いつ)もないはずである。人生れて後、日々種々の事物を視聴し、嗅味し、接触して、各種物体の意象自然に発生して深く記憶に入るのである。生れながらにして即ちいまだ外物に接せずに居て、一の意象も生ずべきはずがない。かつ空間といい時といい、少数なる哲学者にして始(はじめ)て理会すべき、否な哲学者の講釈を聴きて理会すべきもので、児童や田舎人の徒は始よりこの意象は所持して居ない。然(しか)るを生知の意象とは何に縁(よ)りて言うのであるか、これ皆荒誕無稽(むけい)の甚(はなはだ)しいものである。而(しか)してかく謬戻(びゅうれい)を致すについてはまた主観客観の論が聚訟(しゅうしょう)して居る。

 

《だいたい生まれながら知っている観念ということができるのは、ひとつもないはずである。人が生まれた後、日々・種々の事物を見て聞いて、嗅いで味わって、接触して、各種の物体の観念が、自然に発生して、深く記憶に入るのである。生まれながらにして、つまり、まだ外物に接さないでいれば、ひとつの観念も生じるであろうはずがない。そのうえ、空間といい、時間といい、少数の哲学者で、はじめて理解することができ、いや、哲学者の講釈を聞いて、理解できるもので、児童や田舎者の人達は、はじめから、この観念は、所持していない。ところが、生まれながらに知っている観念とは、何によって、いうのであるのか。これは、すべて、荒唐無稽がひどいものである。そうして、こう誤り・背(そむ)きをいたすことについては、また、主観・客観の論が争議している。》

 

 

(つづく)

 

(つづき)

 

 

■第2章:再論

 

・以上論ずる所ろによりて更に積極に立論すれば、精神は不滅のものでない、精神の本体源頭たる躯体こそ、若干元素の抱合になれるもので、たとい解離しても不滅である。

 

《以上、論考することによって、さらに積極的に立論すれば、精神は、不滅のものではない。精神の本体・根源である身体こそ、いくつかの元素の抱き合いで成立したもので、たとえ、解離しても、不滅である。》

 

・即ち拿破崙(ナポレオン)豊太閤(ほうたいこう)の死するや、その体躯(からだ)を構成した元素の中でその気体のものは、あるいは空中を飛翔する禽獣に吸収せられたかも知れない、その固体のものは地中の水に溶解せられ胡蘿(にんじん)大根に摂取せられて、誰人かの腹中に入ったかも知れないのである。しかしかくて輾転(てんてん)して居所を変じつつあっても微塵(みじん)もなくなるはずはない。故に人死すれば従前あった所ろの五尺の躯(み)は解離して、散りぢり破落破落(ばらばら)になって、各元素皆不滅である。故に人一旦死すれば、天道の望むべきもなく、地獄の畏るべきもなく、かつまた二度再び人体を受けてこの世に生れ出るはずはない。この世における吾人(ごじん)の二代は即ち児子(じし)である。

 

《つまりナポレオン・豊臣秀吉が死んだのは、その身体を構成した元素の中で、それが気体のものは、空中を飛散して、鳥・獣に吸収したりしたのかもしれない。それが固体のものは、地中の水に溶解して、ニンジン・ダイコンに摂取され、誰かの腹の中に入ったりしたのかもしれないのである。しかし、こうして流転して居場所を変化しつつあっても、ちっとも、なくなるはずはない。よって、人が死ねば、以前あった5尺の体は、解離して、チリヂリ・バラバラになるが、各元素は、すべて、不滅である。よって、人がいったん死ねば、天国を望むであろうこともなく、地獄を恐れるであろうこともなく、そのうえ、また、二度と再び人体を受けて、この世の中に生まれ出るはずはない。この世の中における、私達の2代は、つまり子供である。》

 

・神は多数にもせよ唯一にもせよ、始めよりあるべきはずでない。この世界万彙(ばんい)は無始無終で、現世の状を為(な)す前には何の状を為せしかは知れないけれども、ともかくも何らかの状を為して居たものが、絪縕(いんうん)浸化して現状を為し来(きた)りたるに違いない。神などという怪しき物体の干渉を蒙(こうむ)らずとも、元素離合の作用で、甲より変じて乙に之(ゆ)き、丙丁と変化して窮已(きわまり)なく、以てこの世界の大歴史を成して居る。

 

《神は、多数にせよ、唯一にせよ、はじめから、あるであろうはずはない。この世界の万物は、無始・無終で、現世の状態になる前には、何の状態をしていたのかは、知らないけれども、ともかく、何らかの状態をしていたものが、元気に深化して、現状になってきたに違いない。神等という怪しい物体の干渉を受けなくても、元素の分離・融合の作用で、甲から変化して乙にいき、丙・丁と変化して、極限がなく、それで、この世界の偉大な歴史を成立させている。》

 

 

●(1)世界

 

・前章では宗旨家及び虚霊派哲学者の説を駁(ばく)して、反対に霊魂の死滅と肉体の不滅、並(ならび)に神のあるべきはずはないということを論道したが、本章においては、更にまた世のいわゆる現実派哲学なる者を駁せねばならぬ。

 

《前章では、宗教家・虚霊派(唯心論)哲学者の説を非難して、反対に、霊魂の不滅と肉体の不滅、また、神があるであろうはずはないという道を論考したが、本章においては、さらに、また、世の中のいわゆる現実派哲学なるものを、非難しなければならない。》

 

・この一派の哲学は、仏国サーンシモンより濫觴(らんしょう)し、オーギユストコントこれを唱道し、従前虚霊派の説を駁倒(ばくとう)し、一切幽怪詭幻なる想像に仮借せずして、およそ唱(とな)うる所ろは一々実験を以てこれを確(たしか)めんとするのがこの派の特色である。また各種科学、殊(こと)に理、化、数、天文、生理、社会の六つの者を以て重なる学科と為(な)して、これが刈獲(がいかく)したものを綜合(そうごう)して、即ちそのいわゆる現実派哲学を組織するのがこの派の特色である。故にこの一派に属する者は皆宏覧(こうらん)博物の学士であって、専(もっぱ)ら詩韻的想像力を資実とする虚霊派人士(じんし)とは、大(おおい)に選を異(こと)にして居る。即ちリツトレーの如き、この派に浸淫(しんいん)した人で、博識匹俦(ひっちゅう)なしと称せられ、この派諸説を伝うるにおいて、尤(もっと)も力があったと称せられて居る。

 

《この一派の哲学は、フランスのサン=シモンからが起源で、オーギュスト・コントが、この道を提唱し、以前、虚霊派(唯心論)の説を非難・打倒し、すべて幽冥(ゆうめい)・怪奇・詐欺(さぎ)・幻惑な想像を許さずに、だいたい提唱することは、ひとつひとつ実験によって、これを確かめようとするのが、この派の特色である。また、各種の科学、特に物理学・化学・数学・天文学・生理学・社会学の6つのものを重視する学科とし、これらが刈り取ったものを総合して、つまり、そのいわゆる現実派哲学を組織するのが、この派の特色である。よって、この一派に所属する者は皆、博覧・博物の学士であって、ひたすら、詩韻的想像力を資本とする虚霊派の人達とは、大いに選別を異ならせている。つまりリトレ(フランスの文献学者)のように、この派に、しだいに浸透した人で、博識・仲間なしと称せられ、この派が諸説を伝えることにおいて、最も力があったと称せられている。》

 

・かく論ずる時は、この一派は極(きわめ)て確実拠(よ)るべきが如くに見えるが、その現実に拘泥(こうでい)するの余り、皎然(きょうぜん)明白なる道理も、いやしくも実験に徴し得ない者は皆抹殺して、自ら狭隘(きょうあい)にし、自ら固陋(ころう)に陥(おち)いりて、その弊や大(おおい)に吾人(ごじん)の精神の能を誣(し)いて、これが声価(せいか)を減ずるに至るのである、これ正(まさ)にこの派において放過すべからざる欠失である。

 

《こう論考する時、この一派は、とても確実さによるだろうというようなものに見えるが、その現実に執着するあまり、光り輝く明白な道理も、もしも、実験に証拠(徴証)が得られないものは、すべて、抹殺して、自分で狭小にし、自分で固執に陥って、その弊害は、大いに私達の精神の能力をあざむいて、これが評判を低減するのに至るのである。これは、まさに、この派において、放置することができない欠点・失点である。》

 

・この輩(はい)輒(すなわ)ちいう、世界は無限である乎(か)、世界は如何(いか)なる原因で出来て、如何なる原因で終るべき乎は、これ吾人(ごじん)の容喙(ようかい)すべき所ろでない。千数太陽が旋躔(せんてん)する太虚(たいきょ)の一隅(いちぐう)に屏息(へいそく)するこの太陽系の、そのまた一小球の住民たる吾人人類がかくの如き問(とい)に遇(お)うて、如何(いかが)の答を与うべき乎。もし漫然これが答を与うれば、僭(せん)にあらざれば妄(もう)である、わが現実派哲学の本旨は背反するのである云々(うんうん)。その意けだしこれらの事は、彼の理、化、数、天文、生理、社会の六科に由(よ)りて検証し得ないがために到底確実の答を為(な)すべきにあらずとの考(かんがえ)である。

 

《この人達は、つまり、いう、世界は、無限であるのか、世界は、どんな原因でできて、どんな原因で終わるのであろうかは、これが私達の口出しすることではない。何千もの太陽が旋回する大空の、一角に息を殺して静かにしている太陽系の、そのまた、ひとつの小さな球の住民である私達人類が、このような問いに会って、どのような答えを与えることができるのか。もし、ぼんやりと、これが答えを与えれば、僭越でなければ、妄想である。わが現実派哲学の本旨は、背反するのである、等々。その意味は、思うに、これらの事は、彼らの物理学・化学・数学・天文学・生理学・社会学の6科目によって、検証し得ないために、到底、確実な答えをすべきでないとの考えである。》

 

・惟(おも)うに今日世の中の事、必ず目視て耳聴き科学検証を経たるもののみ確実で、余は悉(ことごと)く不確実だといわば道理の半(なかば)以上は抹殺せねばならぬこととなり、極(きわめ)て偏狭固陋(ころう)の境に自画(じかく)せねばならぬこととなる。かつ日常の事、必ずあり得(う)べきもの、または必ずあるべからざるものは、皆直(ただ)ちに人言を信じて、必(かならず)しも検証を施さないで、それで己(おの)れも許し人も許して、而(しか)して真に確実で動(うごか)すべからざるものが幾何(いくら)もある。且(か)つたとい科学の検証を経ずとも、道理上必ずあるべき、またあるべからざる事も、幾何もある。即ち世界が無限であるという事の如き、たとい科学の検証がなくとも限極があるといえば、大変大怪大幻詭(げんき)であるといわねばならぬ。世界とは唯一の物で、およそ容(い)れざる所ろないもので、有も容るべく無も容るべく、空気も容れ依天児(エーテル)も容れ、太陽系天体も容れ千数太陽系の天体も容れ、もしこの系の外(ほか)真空界なりとせば、この真空界をも容れて居るはずである。かくの如きものに限極のある道理がない、もし限極ありとの科学の検証があっても信ずべからずではないか、何ぞ現実派の想像に怯懦(きょうだ)なるやといわねばならぬ。

 

《思うに、今日、世の中の事は、必ず目で見て、耳で聞いて、科学の検証を経たものだけが確実で、私は、すべて、不確実だといえば、道理の半分以上は、抹殺しなければならないことになり、とても偏向・狭小・固執の境界を、自己で画定しなければならないことになる。そのうえ、日常の事で、必ずありえることができるもの、または、必ずあることができないものは、すべて、すぐに人の言葉を信じて、必ずしも検証を施さないで、それで自己も許し、人も許して、そうして、本当に確実で、動かすことができないものが、いくらでもある。そのうえ、たとえ、科学の検証を経ないでも、道理上、必ずあるべき、または、あるべきでない事も、いくらでもある。つまり世界が無限であるという事のようなものが、たとえ、科学の検証がなくても、極限があるといえば、大変化・大怪奇・大幻惑・大詐欺であるといわなければならない。世界とは、唯一の物で、だいたい許容しないことがないもので、有も許容することができ、無も許容することができ、空気も許容し、エーテルも許容し、太陽系・天体も許容し、数千の太陽系の天体も許容し、もし、この系以外が真空界なのだとすれば、この真空界も許容しているはずである。このようなものに極限がある道理はない。もし、極限があるとの科学の検証があっても、信じることができないのではないか。どうして現実派の想像に臆病なのかと、いわなければならないのか。》

 

・かつ現実派が、およそ科学中最も確実と称すべき算数について言うなら、物の数もし限りあり、即ち十億百億十兆百兆といえるが如く限りありといわば、現実派はこれを信ぜんとするのである乎(か)。もし世界森然(しんぜん)元素を以て充(み)たさるるにおいて、これが原子の数は無限にあらずとすることを得る乎、限りなきこそ当然ではない乎。

 

《そのうえ、現実派が、だいたい科学の中で最も確実と称すことができる、算数についていうならば、物の数が、もし、限りがあり、つまり10億・100億・10兆・100兆といえるように、限りがあるといえば、現実派は、これを信じようとするのであるか。もし、世界の荘厳さが、元素によって充満させることにおいて、これが原子の数は、無限にないとすることを得るのか。限りがないことこそ、当然ではないか。》

 

・またこの無限無極の世界が何らかの原因ありて、無中に有とせられて即ち創造せられて出来たといわば、たとい千百科学の検証ありても信ずべきでない、吾人(ごじん)がしばしば論じた如く、無よりして有とは道理においてあるべきではない。故に世界が今日の状を為(な)す前には、何の状を為したかは知れないが、とにかく何らかの状を為して居たには相違ない、畢竟(ひっきょう)創造せられたるものではなく、固(もと)より無始のものでなければならぬ。

 

《また、この無限・無極の世界が、何らかの原因があって、無の中に有とさせられて、つまり創造されて、できたといえば、たとえ、1000・100の科学の検証があっても、信じることができない。私達が、しばしば論考したように、無から有とは、道理において、あるであろうことではない。よって、世界が今日の状態になる前には、何の状態をしていたのかは、知らないが、とにかく、何らかの状態をしていたには、相違ない。結局、創造させたものではなく、元々、無始のものでなければならない。》

 

・またこの世界が何らかの原因ありて終るべきもの、即ち有より無に入るべきものといえば、これまた道理上あり得べからざる事である。何となれば、実質が如何(いか)にするも消滅すべき道理がない、場所を替え形を易(か)ゆることはあっても、純然消えて無となる道理がない。この道理は決して吾人(ごじん)人類中の道理でなく、十八里の雰囲気中の道理でもなく、直(ただち)に世界の道理である、何ぞ現実派の推理に怯懦(きょうだ)なるやといわねばならぬ。世界の無限、無始無終なるべきは、なおこの先において論述するであろう。

 

《また、この世界が、何らかの原因があって、終わるであろうもの、つまり有から無に入るであろうものといえば、これは、また、道理上、ありえることができない事である。なぜかといえば、実質が、どのようにしても、消滅することができる道理がない。場所を変え、形を変えることがあっても、純粋に消滅して、無となる道理がない。この道理は、けっして私達人類の中の道理ではなく、18里の大気圏の中の道理でもなく、直接、世界の道理である。どうして現実派の推理に臆病なのかと、いわなければならないのか。世界の無限・無始・無終であるはずなのは、なお、この先において、論述するであろう。》

 

・世界はかくの如く広大無辺でも、万有はかくの如く蕃庶(ばんしょ)でも、その形状かくの如く万殊(ばんしゅ)であっても、若干元素の抱合によりて成れるものである。いわゆる元素はその数六十余であるも、学術更に進みたる上は、あるいは増して七十、八十、百数となるかも知れぬ、また減じて五十、三十となるかも知れぬ。要するに若干数の元素が或る割合に相聚(あつま)りては甲の形色を為(な)し、相離れて他の割合に再び相聚りては乙の形色を成し、かくの如くに万物変化し進化し将(も)ち行くのである。故に今の太陽や地球や、億万斯(し)年の後一旦解離するやも知れないのである、しかし解離したとて毫末(ごうまつ)も消滅するのではなく、必ずまた何処(どこ)かに何種類かの物体を形成してるに違いない。故にいう実質は都(すべ)て不滅であると。

 

《世界は、このように、広大・無辺でも、万物は、このように、とても多くても、その形状は、このように、様々に異なっていても、いくつかの元素の抱き合いによって、成立するものである。いわゆる元素は、その数が60余であるが、学術が、さらに進歩した上は、増えて、70・80・100の数になったりするかもしれない。また、減って、50・30となったりするかもしれない。要するに、いくつかの数の元素が、ある割合に相互に集まっては、甲の形・色をして、相互に離れて、他の割合に再び相互に集まっては、乙の形・色を成立し、このように、万物が変化・進化し、実行するのである。よって、今の太陽・地球は、数え切れないほどの永年の後に、いったん解離するかもしれないのである。しかし、解離したとしても、ごくわずかも消滅するのではなく、必ず、また、どこかに何種類かの物体を形成しているに違いない。よって、いう、「実質は、すべて、不滅である」と。》

 

・かくの如く元素相抱合して人獣草木ここに形ちされ、太陽系天体ここに形(あらわ)されて居る。即ち周囲何千里何万里という宏大(こうだい)なる星宿(せいしゅく)も馬糞の一片も、同じく若干元素が相抱合し形されて居る。もし太陽系天体以上、更にこの天体を一部分として他に幾多の部分を并(あわ)せて包容せる一系の天体ありとせば、その天体中のものもやはり元素の抱合物でなければならぬ。要するにこの無始無終無辺無極の世界は、畢竟(ひっきょう)有数元素の抱合にほかならぬのである。而(しか)して地球十八里の雰囲気中に蠢動(しゅんどう)して居る人類もこの大理を免(まぬ)がるる訳(わけ)には往かぬのである。彼れ独り勝手に不朽不滅の霊魂、虚霊真空の精神、躯殻の中に居て躯殻を支配し、躯殻死すれば独存して記憶を存する精魂を有するという不論理非哲理は、決して容(ゆ)るされぬのである。

 

《このように、元素が相互に抱き合って、人・獣・草木が、ここに形成され、太陽系・天体が、ここに形成されている。つまり周囲の何千里・何万里という広大な星座も、ウマのフンの一片も、同じく、いくつかの元素が抱き合って、形成されている。もし、太陽系・天体以上、さらに、この天体を一部分として、他に数多くの部分を合わせて包み込む、一系の天体があったとすれば、その天体の中のものも、やはり、元素が抱き合った物でなければならない。要するに、この無始・無終・無辺・無極の世界は、結局、有限な数の元素の抱き合いにほかならないのである。そうして、地球の18里の大気圏の中に、騒ぎ立てている人類も、この偉大な理を免除されるわけにはいかないのである。それらは、単独で勝手に不朽不滅の霊魂・虚霊真空の精神、身殻の中にいて身殻を支配し、身殻が死ねば、単独で存在して、記憶を保存する精神をもつという、不論理・非哲理は、けっして許容されないのである。》

 

 

●(2)無始

 

・世界万有既に無始である以上は、造(ぞう)という事はないはずである。何となれば甲の形の前には、必ず何らかの形で存して居たものであれば、別に新(あらた)に造る必要はないのである、自然に摩蘯(まとう)化醇(かじゅん)して他の形に転ずる以上は、何を苦しんで他の形を造ることを為(な)さんやである。吾人(ごじん)死して形躯(けいく)解離するが故に、精神独り存して生前の記憶を保つよう致したいという乎(か)、それは都合は好(よ)いかは知らねど真面目には言えぬ不道理である。かつこの希望といい都合といい、吾人五尺の身に執着しての言い事であるということは、くれぐれも記憶して居てもらいたい。

 

《世界の万物が、すでに無始である以上は、創造という事がないはずである。なぜかといえば、甲の形の前には、必ず何らかの形で存在したものであれば、別に新たに造る必要はないのである。自然に、勢い盛んで変化・純粋になり、他の形に転換する以上は、何を苦しんで、他の形を造ることをするのかである。私達が死んで、形身が解離するために、精神が単独で存在して、生前の記憶を保持するように、いたしたいというのか。それは、都合がよいかは、知らないが、真面目にはいえない不道理である。そのうえ、希望といい、都合といい、私達5尺の身に執着しての言葉であるということは、どうか記憶していてもらいたい。》

 

・無始とは何であるか、およそ物は大小を問わず、皆無始でなければならぬはずだ。何故(なぜ)かといえば、始(はじめ)とはこの人界の語で、他にあったものが目前に来るのか、他の形のものが目前の形に変じたのか、即ち蛾(が)が卵を生じ卵が蚕(かいこ)を生ずる如く、一の形から他の形に変じても、吾人(ごじん)の浅智(せんち)でかかる成行(なりゆき)に気附かずしてまるでなかったものが出来たかの如く思うよりして始という語が意義を見(あら)わして来るのである。その実およそ何物も無よりして有なる道理はなく、研究を加うれば必ず卵の蛾における、蚕の卵におけるが如くである。だから始という語は、真の意義即ち哲理的の意義はないのである。

 

《無始とは、何であるのか。だいたい物は、大小不問で、すべて、無始でなければならないはずだ。なぜかといえば、始とは、この人間界の語句で、他にあったものが、目前にやってきたのか、他の形のものが、目前の形に変化したのか、つまりガが卵を生み、卵がカイコにかえったようなもので、一方の形から他方の形へと変化しても、私達の浅はかな智恵で、こんな成り行きに気づかないで、まるで、なかったものが、できたかのように思うから、始という語句が、意義を現わしてくるのである。それが実際には、だいたい何物も、無から有である道理はなく、研究を加えれば、必ず卵のガにおける、カイコの卵におけるようなものである。だから、始という語句は、本当の意義、つまり哲理的な意義がないのである。》

 

・翻(ひるがえっ)て人寰(じんかん)中の事物について言えば、「始(はじめ)て何々した」「始て爾々(しかじか)した」「始て来た」「始て去(さっ)た」の如く、立派に意義を有して居ても、いやしくも実質即ち元素の抱合に成るものに関して、形色ばかりでなく本質にも始があると思うと大謬(たいびゅう)である。それでは真空より何かが出来て、排気鐘(しょう)中より駒が飛出すというが如き荒誕無稽(むけい)の言となり了(お)わるのである。

 

《振り返って、人間界の中の事物についていえば、「始めて何々した」・「始めてシカジカした」・「始めて来た」・「始めて去った」のように、立派に意義をもっていても、もしも、実質、つまり元素の抱き合いで成立するものに関して、形・色ばかりでなく、本質にも始めがあると思うのは、大きな誤りである。それでは、真空から何かができることになり、(例えば、)排気して真空にできる釣鐘状のガラス器の中から、駒が飛び出すというようなもので、荒唐無稽の(でたらめで根拠がない)言葉となって、終了するのである。》

 

 

(つづく)

 

(つづき)

 

 

●(6)唯一神の説

 

・唯一神の説は、多数神の説に比すれば数層進歩した痕迹(こんせき)が見える。けれどもその源頭は多数神の説に胚胎(はいたい)し、時世と共に幾分か進歩し、幾分か学術的となったので、その間高華雄深の才を負うて当世を風靡(ふうび)し後代を圧倒せんとする者が、その想像の能力を思うままに馳騁(ちてい)して、凡を厭(いと)い平を嫌い奇を衒(てら)い新を耀(かがや)かすの余に出(いで)たのと、並(ならび)に彼らも人生限りありて朝夕を図らざるに、心窃(ひそか)に憂愁(ゆうしゅう)し、身後(しんご)に憑頼(ひょうらい)する所ろあるを願うと同時に、己(おの)れ既にこの弱点があるので、人もまた同じかるべきことを料(はか)り、縦説横説その詭弁(きべん)を弄(ろう)して、ここに一神の説を称(とな)うるに至ったものと見ゆるのである。波羅門(バラモン)教、仏教、猶太(ユダヤ)教、基督(キリスト)教、回々(フイフイ)教及(および)古昔(こせき)プラトン、プロタンの徒より、デカルト、マルブランシ、ライプニツトの属、皆唯一神説を皇張(こうちょう)するにおいて、基督教僧侶とその説を上下し、人をして恍然これ恐(おそら)くは推理を本(もと)とする哲学者ではなくて、妄信を基とする僧人なるべしと想(おも)わしむる度に至(いたっ)て居る。

 

《唯一神の説は、多数神の説と比較すれば、数段進歩した痕跡が見える。けれども、その根源は、多数神の説に、はじまり、時代とともに、いくらか進歩し、いくらか学術的となったので、その間に、高上・立派・雄大・深遠な才能を請け負って、当時に流行し、後世を圧倒しようとする者が、その想像の能力を思うままに行動して、平凡を忌み嫌い、新奇を誇示(衒耀/げんよう)するあまりに、出現したのと、また、彼らも人生にかぎりがあって、朝夕を図らないで、心ひそかに憂い悲しみ、死後を頼りにすることがあるのを願うと同時に、自己がすでに、この弱点があるので、人も、また、同じであるべきことを図り、自由自在に述べ説き、そのこじつけを、もてあそんで、ここに一神の説を称えるのに至ったものと見えるのである。バラモン教・仏教・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教や、昔のプラトン・プロティノスの門徒から、デカルト・マルブランシュ・ライプニッツの同属は、すべて、唯一神説を大いに主張することにおいて、キリスト教は、仏僧と、その説を上位と下位で競い合い、人をうっとりさせ、これは、おそらく、推理を基本とする哲学者ではなくて、妄信を基本とする聖職者であろうと、思わせるほどに至っている。》

 

・惟(おも)うにその説、瓢々(ひょうひょう)然塵寰(じんかん)の表に抜き大(おおい)に俗紛を脱した如くであるが、実は死を畏れ生(せい)を恋い、未来においてなお独自一己(いっこ)の資格を保たんとの都合好(よ)き想像、即ち自己一身に局し、人類に局したる見地より起(おこ)ったのである。その卑陋(ひろう)なのは霊魂不滅の説と全く同一である。

 

《思うに、その説は、フラフラとし、俗世の表世界を抜け出し、大いに世俗の紛糾を脱出したようなものであるが、実際には、死を畏怖し、生を恋慕し、未来において、なおも独自・一人の資格を保とうと、都合のよい想像、つまり自己一身に限定し、人類に限定した見地から生起したのである。それが卑劣なのは、霊魂不滅の説と、まったく同一である。》

 

・唯一神説には二種ある、一(いつ)は余これを名(なづ)けて主宰神の説といい、一はこれを名けて神物同体説という。

 

《唯一神説には、2種ある。1つは、私が、これを名づけて、主宰神の説といい、もう1つは、これを名づけて、神物同体の説という。》

 

 

●(7)神物同体説

 

・古昔(こせき)希臘(ギリシア)の学士中、及び後世和蘭(オランダ)スビノザー、独逸(ドイツ)ヘーゲルの徒、皆神物同体説の一派に属して居る。

 

《昔のギリシアの学士の中や、後世の、オランダのスピノザ、ドイツのヘーゲルの門徒は皆、神物同体説の一派に所属している。》

 

・神物同体とは世界の大理即ち神で、およそこの森羅万象は皆唯一神の発現である、即ち吾人(ごじん)人類の如きも神の段片である、故に神は、世界万有を統(す)べたるもの即ち神である云々(うんうん)。但(ただ)この説にあっては、唯一神とはいうけれど、実はほとんど無神論と異(ことな)らぬのである。何となればこの神や無為無我で、実はただ自然の道理というに過ぎないのである。故に宗旨家及び宗旨に癮黴(いんばい)せられたる哲学者は、神物同体説を以て邪説として痛くこれを排斥して居る。それはそのはずである、宗旨家の唯一神説は正(ま)さに主宰神の説で、即ち左の如くである。

 

《神物同体とは、世界の偉大な理、つまり神で、だいたい、このあらゆる事象は、すべて、唯一神の発現である。つまり私達人類のようなものも、神の断片である。よって、神は、世界の万物を統一するもの、つまり神である、等々。ただ、この説にあっては、唯一神というけれども、実際には、ほとんど無神論と異ならないのである。なぜかといえば、この神は、無為・無我で、実際には、ただ自然の道理というのにすぎないのである。よって、宗教家・宗教の主旨に中毒化・バイ菌化させられた哲学者は、神物同体説によって、邪説として、ひどく、これを排斥している。それも、そのはずである。宗教家の唯一神説は、まさに、主宰神の説で、つまり左記(下記)のようである。》

 

 

●(8)主宰神の説

 

・曰(いわ)く、神は智徳円満豊備(ほうび)で、知らざる莫(な)く能(あた)わざる莫く、真の独立不倚(き)の勢(いきおい)に拠(よっ)て挺然(ていぜん)この世界万彙(ばんい)の表に立ち、而(しか)してこの世界万彙はその創造する所ろであるが故に、またその中にも寓(ぐう)せざる莫く、吾人(ごじん)浅智(せんち)の思議すべからざる霊威無限のものである。

 

《(こう)いう、神は、智恵・道徳が円満で充分に具備し、知らないことはなく、できないことはなく、本当に独立し、頼らない勢いによって、超然と、この世界の万物の表に確立し、そうして、この世界の万物は、それが創造することであるために、また、その中にも宿らないことはなく、私達は、浅はかな智恵で、思考することができない霊威が無限のものである。》

 

・また曰(いわ)く、神は万物を造り、万物を護(まも)り、特に人類を造り、これに自由を与えて、善悪共に自己の衷情(ちゅうじょう)から割出してこれを行うことを得せしめて居る。神は無始、無終、無限、無極で世界あらざる所ろなく、また過去、現在、未来を一串(いっかん)して通知せざる所ろなく、即ち神のためには過去もなく未来もなく皆現在である。

 

《また、(こう)いう、神は、万物を造り、万物を守り、特に人類を造り、これに自由を与えて、善悪ともに、自己の本当の心情から割り出して、これを行うことを得させている。神は、無始・無終・無限・無極で、世界にないことはなく、また、過去・現在・未来を一連して、通じていて知らないことがなく、つまり神のためには、過去もなく、未来もなく、すべて、現在である。》

 

・また曰(いわ)く、神は吾人人類の各個が、あるいは善を為(な)しあるいは悪を為すを前知して、一箇半箇も遺漏(いろう)する所ろはない。しかもかく吾人の所為に放任し置くのは、乃(すなわ)ち吾人人類に意思の自由を附与せる所以(ゆえん)であって、吾人この自由あればこそ、善を為せば吾人の功、悪を為せば吾人の責(せめ)で、未来の大裁判において、あるいは賞を得あるいは罰を獲(え)る所以である。

 

《また、(こう)いう、神は、私達人類の各個が、善をしたり、悪をしたりするのを、事前に知って、わずかも抜け落ちることはない。しかも、こうも私達の振る舞いを放任しておくのは、つまり私達人類に意思の自由を付与させる理由であって、私達は、この自由があればこそ、善をすれば、私達の功績、悪をすれば、私達の責任で、未来の最後の審判において、賞賛を得たり、刑罰を得たりする理由である。》

 

・また曰(いわ)く、神の吾人人類を造るや、その形は自己に象(かたど)りて、乃(すなわ)ち万物に霊長たらしむる事と為(な)したのである云々(うんうん)。果(はたし)てこの言が真(まこと)ならば、神もまた横目縦鼻(おうもくじゅうび)の一箇具体のものといわねばならぬ。

 

《また、(こう)いう、神が私達人類を造るのに、その形は、自己を型どって、つまり万物の中で、霊妙な長にさせる事をしたのである、等々。本当に、この言葉が真実ならば、神も、また、目が横・鼻が縦の動物(人間)の、1個の具体のものといわなければならない。》

 

・およそこれらの言、宗教家の口から出(いず)れば、中以下根機(こんき)の人を済度(さいど)するための方便として、やや恕(ゆる)すべきであるが、一切方便を去りてただ真理これ視るべき哲学者にして、かくの如き無意義非論理なる囈語(ねごと)を唱(とな)えて、而(しか)してその人、実にこの学において大家(たいか)の名を擅(ほしいまま)にして居るとは驚くべきである。神もし果(はたし)て万能にして為(な)すべからざるなく、遂(と)ぐべからざるなしとすれば、人類社会に賚(たま)うに、善あって悪なきを以てすれば、この世の裁判さえも不必要に帰すべきである、いわんや未来の裁判をやだ。故(ことさ)らに人に与うるに自由の意思を以てして、あるいは悪を為すを得せしめ、しかる後未来の裁判においてこれを殛罰(きょくばつ)するとは、これ神はその心を設(もう)くることが甚(はなはだ)陰険というべきでないか。

 

《だいたい、これらの言葉は、宗教家の口から出れば、中程度以下の教えを受ける能力がある人を、救済するための方便として、やや許すことができるのであるが、すべての方便を取り去って、ただ真理、これを見ることができる哲学者で、このように、無意義・非論理な寝言を唱えて、そうして、その人が、本当に、この学問において、大家の名をほしいままにしているとは、驚くことができるのである。神が、もし、本当に、万能で、成し遂げないわけにはいかないとすれば、人類社会に与えるのに、善があって、悪がないことによってすれば、この世の裁判さえも、不必要に帰着することができる。まして、未来の最後の審判は、なおさらだ。故意に、人に与えるのに、自由の意思によってして、悪をするのを得させたりし、そうして、はじめて、未来の最後の審判において、これを死刑にするのは、これでは、神が、その心を設定することが、とても意地悪ということができるのではないか。》

 

・此輩(このはい)また神の造物の説を唱えて居る。

 

《この人達は、また、神の造物の説を提唱している。》

 

 

●(9)造物の説

 

・曰(いわ)くこの世界の森羅万象は、神の創造する所ろである。その肇(はじ)め世界は実に無極であったが、神がその大威徳を発揮し、その大通力を播揚(はよう)して、無極よりして太極(たいきょく)を造り、ここに以てこの宇宙、この世界、山河草木、人獣虫魚より土石瓦礫(がれき)に至るまで、その掌裡(しょうり)から捏出(ねっしゅつ)せられて、この整然たる万物始(はじめ)て成立することを得たのである云々(うんうん)。

 

《(こう)いう、この世界のあらゆる事象は、神が創造することである。その最初に、世界は、本当に無極であったが、神が、その偉大な威徳を発揮し、その偉大な神通力を起こし広めて、無極から太極を造り、こういうわけで、この宇宙・この世界・山河・草木・人・獣・虫・魚から、土・石・瓦礫に至るまで、その手中から生み出されて、この整然とした万物が、はじめて成立することを得たのである、等々。》

 

・それ無よりして有を得る、これ何の言(こと)ぞ、完全な脳髄を所持する者に、理解し得らるべき言であるか。無は何処(どこ)までも無なるべきはずである、無が有となるを得るほどならば、その無は真の無ではないので、何かの種子を包容して居たものではないか。排気鐘中(しょうちゅう)の真空を、一年の間放過したとて、何物にも変ずるを得(う)べきはずはあるまい、これ無の有となるべからざる証拠である。如何(いか)に万能の神でも、悖理(はいり)の事の出来べきはずはないのである。造物の説はミケランジ、ラファエルの属(やから)が、その奇傑(きけつ)の腕前を揮霍(きかく)するための画題と為(な)すには極(きわめ)て適当ではあるだろうが、冷澹(れいたん)平静一(いつ)も非論理の禁を犯すを容(ゆ)るされない哲学者の口からして、神の造物の説を主張するとは驚くべきの極である。

 

《そもそも無から有を得る、これは、何の言葉か。完全な脳内を所持する者に、理解して得られることができる言葉であるのか。無は、どこまでも無であろうはずである。無が有となるのを得られるほどならば、その無は、本当の無ではないので、何かの種子を包み込んでいたものではないのか。排気できる釣鐘状のガラス器の中の真空を、1年間、放置しても、何物も変わり得ることができるはずはないだろう。これは、無が有となるはずがない証拠である。いかに万能な神でも、背理の事ができるはずはないのである。造物の説は、ミケランジェロ・ラファエルの同属が、その奇抜な豪傑の腕前を、振り回すための画題とするには、とても適当ではあるだろうが、冷淡・平静で、ひとつも非論理の禁制を犯すことを許されない哲学者の口から、神の造物の説を主張するのは、驚くべき極致である。》

 

・かつ神の造物の説が真だとすれば、実に近時の学術において大攪乱(かくらん)の種子を播(ま)き来(きた)ることとなる。何となれば、彼の仏蘭西(フランス)ラマルクに由(よ)りて創唱せられ、英国ダーウインに由りて集大成せられて、近代の科学に大効力を及ぼした事物進化の一説と造物の説とは、固(もと)より両立するを得(う)べからざるものである。

 

《そのうえ、神の造物の説が、本当だとすれば、実際に、近頃の学術において、大混乱の種子をまいてきたことになる。なぜかといえば、あのフランスのラマルクによって、はじめて提唱され、イギリスのダーウィンによって、集大成されて、近代科学に偉大な効力を及ぼした事物進化の一説と、造物の説は、元々、両立し得ることができないものである。》

 

・それ神万物を造りて、大は天体より小は蠛蠓(べつぼう)に至るまで、一定渝(か)ゆべからざる模型を製した以上は、甲の物は何日(いつ)までも甲(こう)の形を保ちて親子相い伝え、乙丙丁(おつへいてい)皆かくの如くで、即ち吾人の遠祖が尻尾(しっぽ)を有したなどの説とは相い容(い)るることは出来ない、獼猴(びこう)の或る種族が進化して人と成ったなどの論とは並び立つことは出来ない。古昔(こせき)学術草昧(そうまい)の世、今時よりいえばほとんど精神病者の如き人物に由(よ)りて想像せられて、一(いつ)も論理に適(かな)わない造物の説と、尋常に度越して居る博学俊傑(しゅんけつ)の士がこれを理に揆(はか)り、これを学に質(ただ)し、観察し、経験し、苦心惨澹(さんたん)の余に得たる進化の説と、いずれを信じいずれを非とすべきである乎(か)。胸中いささかの為(た)めにする所ろのない者は、この間に躕躇(ちゅうちょ)することあるまいと思われる。

 

《そもそも神が万物を造って、大は、天体から、小は、糠蚊(ぬかか)に至るまで、一定で変化することができない模型を製造した以上は、甲の物は、いつまでも、甲の形を保って、親子が相互に遺伝し、乙・丙・丁も、すべて、このようで、つまり私達の遠い祖先が、シッポをもっていた等の説とは、相互に許容することはできない。大ザルのアル種族が進化して、人となった等の論考とは、並び立つことはできない。昔の学術の初めで暗い時代、現在からいえば、ほとんど精神病者のような人物によって想像され、ひとつも論理に適合しない造物の説と、普通の程度を超越している博学・優秀な学士が、これを理にはかり、これを学問に問いただし、観察・経験し、苦心して思慮するあまりに得た進化の説と、どちらを信じ、どちらを非(誤り)とすべきであるのか。心中が、わずかのためにすることがない者は、この間に、ためらうことはないだろうと思われる。》

 

・造物の説にまた極(きわめ)て謬巧(びゅうこう)なのがある。

 

《造物の説には、また、とても巧みな誤りなのがある。》

 

・曰(いわ)く、吾人途(みち)を行(ゆ)いて物を拾(ひろ)うことがあるとせよ。竹頭木屑(ぼくせつ)ならばともかくも、いやしくも人巧(じんこう)を経(へ)たる物、譬(たと)えば各種器物でるとか、更にはまた極(きわめ)て縝密(しんみつ)の機械に具(そな)えてる時辰儀(じしんぎ)等であった時には、誰れかこの物を作った者があるだろうということは不言の間に明瞭である。箇様(かよう)の品物が偶然独りで出来て途に落て居る道理はないからである。しかるにこの世界の万有は如何(いかん)、その巧妙なること人造の器物時辰儀に比すべき所ろでない。それ鳥は空中を飛行する、故に羽翮(うかく)がある。それ魚は深淵に潜(しず)む、故に尾䰇(おひれ)がある。鶴鷺(かくろ)は泥沢(でいたく)に下りて、鰌鰻(しゅうまん)の属を食とする、故に嘴(くちばし)が長い。鴨鵞(おうが)は水中に住(すみ)て常に游泳する、故に足に水掻(みずかき)がある。その他禽獣(きんじゅう)について言うならば、これを大にして鷲鯨(しゅうげい)の類がある、これを小にして蠛蠓(べつぼう)の属がある。蚊の足の繊(ほそ)いのも神経筋肉細胞より成立して、而(しか)して細胞中にはまた核を具えて居る。更に人体に至りてその精緻はまた他の獣魚の比俦(ひちゅう)でない、肺の呼吸における、胃腸の消化における、脾(ひ)の血球における、肝の胆液における、脳神経の運動知覚における、その他極精の顕微鏡にさえ看(み)るべからざる神経血管の抹消細胞組織等に至(いたっ)て、いよいよ研究すればいよいよ精緻なことが解(わか)る。もしそれ天体に至っては、日月星辰(じつげつせいしん)の大物が空中に旋躔(せんてん)廻転して、各々その軌道を守って寸毫(すんごう)も違(たが)わない、あるいは一月一廻転、あるいは一年一廻転、あるいは十年十数年一廻転して、かつてその約を渝(か)えることがない。この精微の極、広大の極、微妙の極、雄深(ゆうしん)の極たる世界万物人獣虫魚の属が、造主なくして自然に湧(わき)出したとは受取れぬ議論である。護持(ごじ)する者なくして保たれて居るとは承諾の出来ぬ言い事である。一箇の時辰儀すらなおかつ造主なくして独りでは出来ない、この世界万象が造主なしに出来たとは何の論理であるか云々(うんうん)。

 

《(こう)いう、私達が道を行って、物を拾うことがあるとせよ。竹の切れ端・木クズならば、ともかくも、もしも、人の技巧を経た物、例えば、各種の器物であるとか、さらには、また、とても精密な機械が備わっている時計等であった時には、誰か、この物を作った者があるだろうということは、無言の間に明瞭である。このような品物が、偶然ひとりでにできて、道に落ちている道理はないからである。それなのに、この世界の万物は、どうか。それが巧妙であることは、人工の器物の時計に比較できることでない。そもそも鳥は、空中を飛行する。よって、羽・翼がある。そもそも魚は、深くに潜る。よって、尾ヒレがある。ツル・サギは、泥沼に下りて、ドジョウ・ウナギを食べる。よって、口ばしが長い。カモ・ガチョウは、水中に住んで、いつも遊泳する。よって、足に水かきがある。その他の鳥・獣についていうならば、これを拡大して、ワシ・クジラの同類がある。これを縮小して、糠蚊(ぬかか)の同属がある。蚊の足が細いのも、神経・筋肉・細胞から成立して、そうして、細胞の中には、また、核を備えている。さらに、人体に至って、その精緻は、また、他の獣・魚の仲間ではない。肺の呼吸における、胃腸の消化における、脾臓の血液における、肝臓の胆液における、脳神経の運動・知覚における、その他の至極精密な、顕微鏡でさえ見ることができない、神経・血管の抹消細胞等に至って、いよいよ研究すれば、いよいよ精緻なことがわかる。さて、天体に至っては、日・月・星々の大物が、空中で旋回・巡転して、各々がその軌道を守って、ほんのわずかも違わない。1ヶ月で1回転したり、1年で1回転したり、10年・10数年で1回転したりして、かつての、その制約を変化することがない。この精緻の極致・広大の極致・微妙の極致・雄大で深遠の極致である世界の万物の人・獣・虫・魚の同属が、創造主がなくて、自然に湧き出たとは、受け入れられない議論である。守護するものがなくて、保たれているとは、承諾のできない言葉である。1個の時計ですら、それでもやはり、創造主がなくて、ひとりでにできない。この世界のあらゆる事象が、創造主なしにできたとは、何の論理であるのか、等々。》

 

・吾人は反対に言いたくなる、人巧に出(いで)たる器具時辰儀(じしんぎ)の類は、如何(いか)に緻密でも、これを天然物に比すれば、天然物の最も麁末(そまつ)なるもの、蛞蝓(なめくじ)の如き海月(くらげ)の如きものに比しても、なお遠く及ぶべきでない。いわんや人獣の構造組織の如き、広大無辺なる星象(せいしょう)の旋躔(せんてん)廻転の如き、如何なる通力あるにせよ、一箇の力でこれを造ったとは、それこそ論理において受け取れぬ、自然の理に頼(よ)りて、絪縕(いんうん)し、摩蘯(まとう)し、化醇(かじゅん)し、浸漬(しんし)して出来たという方(ほう)如何ほど道理に近くはあるまいか。

 

《私達は、反対にいいたくなる。人の技巧で出現した器具・時計の同類は、いかに緻密でも、これを天然物と比較すれば、天然物で最も粗末なもの、ナメクジのようなもの、クラゲのようなものと比較しても、やはり遠く及ぶことはできない。ましてや、人・獣の構造組織のようなものは、広大・無辺な星座の旋回・巡転のようなもので、どんな神通力があるにせよ、1個の力で、これを造ったとは、それこそ論理において、受け取れられない。自然の理によって、元気で、勢い盛んで、変化・純粋になり、浸透してできたという方が、どれほど道理に近くではないだろうか。》

 

・また果してこの世界万象を製造したる神があるならば、世界の那処(どこ)に居るのであるか、もしまた神はあらざる所ろなしといえば、何日(いつ)か何処(どこ)かで吾人にこれが兆朕(ちょうちん)を見(あら)わしそうな物である。神の形が既に吾人人類に同じといえば、その顔はいくばくの大(おおき)さである、その四肢(しし)はいくばくの長さである、その胸腹(きょうふく)はいくばくの容積である、宗旨家は神が某処(ぼうしょ)に現われたる事があると言(いっ)て居る、けれどもこれは特にその仲間中での言のみで、固(もと)より信を置くには足らず。

 

《また、本当に、この世界のあらゆる事象を製造した神があるならば、世界のどこにいるのであるか。もし、また、神はいないことがないといえば、いつか・どこかで、私達に、これが兆候を現わしそうな物である。神の形が、すでに私達人類と同じといえば、その顔は、どれほどの大きさであるか、その手足は、どれほどの長さであるか、その胸・腹は、どれほどの容積であるか。宗教家は、神が、何々の場所に現われた事があるといっている。けれども、これは、特に、その仲間の中での言葉だけで、元々、信用するのには不足だ。》

 

 

●(10)神に遇う

 

・モイーズ、アーロンの徒が神に某(それ)山の巓(いただき)で逢ったとか、斯々(かくかく)云々(しかじか)の垂示(すいじ)を授(さず)かったとか、当時風気(ふうき)未開の世にあって、かつ宗教上衆生(しゅじょう)済度(さいど)の方便としてかくの如き言を為(な)しても、必ずしも咎(とが)むべきではなかったが、学術進闡(しんせん)した今日にあっては、たとい宗旨家といえどもその荒誕無稽(こうたんむけい)この度に至るを容(ゆる)さない。まして哲学者としてはこれを主張するは勿論(もちろん)、これを攻撃するさえ恥かしさに堪(た)えぬほどである。

 

《モーセ・アロン(弟・兄)の門徒が、神に何々山の頂上で逢ったとか、カクカク・シカジカの教示を授かったとか、当時の気風が未開の時代にあって、そのうえ、宗教上の人々救済の方便として、このような言葉を作為しても、必ずしも非難すべきではなかったが、学術が開発・推進した今日にあっては、たとえ、宗教家といっても、それが、荒唐無稽で(でたらめで根拠がなく)、この度合に至るのを許容しない。まして、哲学者としては、これを主張するのはもちろん、これを攻撃することさえ、恥ずかしさに耐えられないほどである。》

 

・かつ日用器具時辰儀(じしんぎ)の類も、人巧(じんこう)を経なければ自然に出来べきものでない、まして世界万彙(ばんい)が自然に出来べきはずがない、必ず造化主宰の手に出来たに違いないとは、これ正(まさ)に余が前に論じた如く、人類社会に局しての言語である。目を世界の上に放(はな)ち、心を塵寰(じんかん)の表に遊ばしての言論ではない。なるほど時辰儀は人巧に成れるに違いない、しかしこれが財料たる金属宝石の類は、元より存在して居たものである。即ち時辰儀工はこれら財料を聚(あつ)めて、時辰儀と号する一箇の形を与えたるに過ぎないのである、文字の真の意味においての造ではない。

 

《そのうえ、日用器具・時計の同類も、人の技巧を経なければ、自然にできるはずのものではない。まして、世界の万物が、自然にできるはずがない。必ず造化の主宰の手で、できたに違いないとは、これが、まさに、私が前に論考したように、人類社会に限定しての言語である。目を世界の上に解放し、心を俗世の表世界に交遊しての言論ではない。なるほど、時計は、人の技巧で成立するに違いない。しかし、これの材料である金属・宝石の同類は、元々、存在していたものである。つまり時計の職工は、これらの材料を集めて、時計という、1個の形を与えたのにすぎないのである。文字の本当の意味においての創造ではない。》

 

・神の造物の業におけるのはこれと異なる。従前あった所ろの財料を聚(あつ)めて、世界万彙(ばんい)を製出したのではなく、全く無よりして有、即ち真空の中にこの森然(しんぜん)たる世界万彙を造ったもので、それかとすれば、また物は造らねば自然には出来ぬというて、無よりして有なると、有の中でただ場所を換(か)ゆるのとを混同して居る。余は繰返していう、この広大無辺の世界、この森然たる万物が、一個の勢力に由(よ)りて一々に造り出されたというよりは、従前他の形体を有せしものが自然に化醇(かじゅん)して、この万彙に変じ来(きた)って乃(すなわ)ち自然に出来たというこそ、更に数層哲学的である。完全なる判断力を有するものは、この二説の間に、決して躊躇(ちゅうちょ)せぬであろうと思われる。

 

《神の創造物の事業におけるのは、これとは異なる。以前にあった材料を集めて、世界の万物を製造・出現したのではなく、まったく無から有、つまり真空の中に、この荘厳な世界の万物を造ったもので、そうだとすれば、また、物は、造らなければ、自然にはできないといって、無から有になると、有の中で、ただ場所を変化するのを、混同している。私は、繰り返しいう、この広大・無辺の世界で、この荘厳な万物が、1個の勢力によって、ひとつひとつ造り出されたというよりは、以前、他の形体であったものが、自然に変化・純粋になって、この万物に変わり切って、つまり自然にできたということこそ、さらに、数段哲学的である。完全な判断力をもつものは、この2説の間に、けっして、ためらわないであろうと思われる。》

 

 

(つづく)

 

(つづき)

 

 

●(3)躯殻の不滅

 

・この故に躯殻は本体である、精神は躯殻の働き即ち作用である。さればこそ躯殻一たび絶息すれば、その作用たる視聴言動は直(ただち)にやむのである。即ち躯殻死すれば精神は消滅する、あたかも薪(たき)燼(じん)して火の滅ぶと一般である。

 

《これだから、身殻は、本体である。精神は、身殻の働き、つまり作用である。そうであればこそ、身殻が一度、絶命すれば、その作用である視覚・聴覚・発言・行動は、すぐに、やむのである。つまり身殻が死ねば、精神は、消滅する。あたかも薪が燃え残って、火が滅ぶのと同様である。》

 

・この道理からいえば、いわゆる不朽とか不滅とかは精神の有する資格ではなく、反対に躯体の有する資格である。何となれば、彼れ躯体は若干元素の抱合より成れるもので、死とは即ちこの元素の解離の第一歩である。しかし解離はしても元素は消滅するものではない、一旦解離して即ち身腐壊(ふかい)するときは、その中の気体の元素は空気に混入し、その液体若(もし)くは固体のものは土地に混入して、要するに各元素相離れても、各々この世のいずれの処にか存在して、あるいは空気と共に吸嘘(きゅうきょ)せられ、あるいは草木の葉根に摂取せられ、啻(ただ)に不朽不滅なるのみならず、必ず何かの用を為(な)して、転輾(てんてん)窮已(きわまり)なしというのである。

 

《この道理からいえば、いわゆる不朽とか・不滅とかは、精神がもつ資格ではなく、反対に、身体がもつ資格である。なぜかといえば、この身体は、いくつかの元素の抱き合いにより、成立するもので、死とは、つまり、この元素の解離の第一歩である。しかし、解離しても、元素は、消滅するものではない。いったん解離して、つまり身体が腐敗・壊滅するとき、その中の気体の元素は、空気に混入し、その液体か固体のものは、土地に混入して、要するに、各元素が相互に離れ去っても、各々が、この世の中のどこかの場所に存在して、空気とともに、呼吸させられたり、草木の葉・根に摂取させられたりし、ただ不朽不滅なだけでなく、必ず何かの作用をして、転変は、極限がないというのである。》

 

・故に躯体、即ち実質、即ち元素は、不朽不滅である、これが作用たる精神こそ、朽滅して跡を留(とど)めないのである。これは当然明白の道理で、太鼓が破(やぶ)るれば鼕々(とうとう)の音絶える、鐘が破るれば鍧々(こうこう)の音は止まる。而(しか)してその破敗した太鼓や鐘は、その後如何(いか)なる形状を為(な)しても、如何に片々毀壊(きかい)せられても、一分(ぶ)一厘(りん)消滅することなく、何処(どこ)かで存在して居る、これが実質即ち元素の資格である、これが物の本体と、働らき即ち作用との別である。

 

《よって、身体、つまり実質、つまり元素は、不朽不滅である。これは、作用である精神こそ、朽ち滅して、跡をとどめないのである。これは、当然、明白な道理で、太鼓がやぶれれば、トントンという音も途絶える。鐘がこわれれば、カンカンという音も止まる。そうして、そのこわれた太鼓や鐘は、その後、どのような形状をしても、どのように粉々にこわされても、ごくわずかも消滅することなく、どこかで存在している。これが実質、つまり元素の資格である。これが物の本体と、働き、つまり作用の分別である。》

 

・春首(しゅんしゅ)路上南風に吹(ふき)揚げらるる黄埃(こうあい)、彼れ如何(いか)に疎末に、如何にはかなく見られても、これまた不朽不滅のものである、あるいは河水に混じ、あるいは廛頭(てんとう)の物品に附着し、時に随(したご)うて処を変じても、必ず存在して決して消滅しないのである。彼れ如何に疎末でもやはり若干元素の抱合に成って、吾人(ごじん)の躯体と類を同(おなじ)くして居る。宗旨家若(もし)くは宗旨に癮黴(いんばい)せられたる哲学者のいう所ろの虚無なる精神、または吾人のいう所ろの躯体の一作用なる精神とは、科を同くせぬのである。故に塵埃(じんあい)は不朽不滅なるも、精神は朽滅すべき資格のものである。

 

《春先の路上で、南風に吹き上げられた、黄色の土ボコリ、これが、いかに粗末に・いかにはかなく見られても、これは、また、不朽不滅のものである。川の水に混入したり、店先の物品に付着したりし、時にしたがって、場所が変わっても、必ず存在して、けっして消滅しないのである。それらが、いかに粗末でも、やはり、いくつかの元素の抱き合いで成立して、私達の身体と同類でいる。宗教家・宗教の主旨に中毒化・バイ菌化させられた哲学者がいう、虚無である精神、または、私達のいう、身体の一作用である精神とは、科目を同類としないのである。よって、チリ・ホコリは、不朽不滅であるが、精神は、朽ち滅びるべき資格のものである。》

 

・釈迦耶蘇(ヤソ)の精魂は滅して已(すで)に久しきも、路上の馬糞(ばふん)は世界と共に悠久(ゆうきゅう)である、天満宮即ち菅原道真の霊は身死して輒(すなわ)ち亡(ほろ)びても、その愛した梅樹の枝葉は幾千万に分散して、今に各々世界の何処(いずこ)にか存在して、乃(すなわ)ち不朽不滅である。

 

《シャカ・キリストの精魂は、滅びて、すでに長いが、路上の馬のフンは、世界とともに、永久である。天満宮、つまり菅原道真の霊は、身体が死んで、つまり滅亡しても、彼が愛した梅の木の枝・葉は、何千万に分散して、今は、各々が世界のどこかに存在して、つまり不朽不滅である。》

 

・不朽不滅の語は、宗旨家の心においては如何(いか)に高尚に、如何に霊妙に、如何に不可思議かは知らないが、冷澹(れいたん)なる哲学者の心には、これはおよそ実質皆有する所ろの一資格で、実物中不朽不滅でないものは一(ひとつ)もない。真空に等しい虚無の霊魂は、啻(ただ)に不朽不滅でないのみならず始より成立て居ないのである、虚霊派哲学士の言語的泡沫である。

 

《不朽不滅の言葉は、宗教家の心においては、いかに立派で上品か、いかに霊妙か、いかに不思議かは、知らないが、冷淡な哲学者の心に、これは、だいたい実質が、すべて、もつ一資格で、実物の中で、不朽不滅でないものは、ひとつもない。真空に等しい、虚無の霊魂は、ただ不朽不滅でないだけでなく、はじめから、成立していないのである。虚霊派(唯心論)の哲学者の言語的泡沫である。》

 

 

●(4)未来の裁判

 

・宗旨家及び宗旨に魅せられたる哲学家、往々言う、この世界は洵(まこと)に不完不粋のもので、善を為(な)すも必(かならず)しも賞せられず、悪を為すも必ずしも罰せられず、甚(はなはだし)きは悪人栄耀(えいよう)栄華に飽いて、善人はあるいは寒(かん)餓死を免(まぬが)れない、これだけでも吾人(ごじん)の良心は如何(いか)にも満足することが出来ぬ、これ必ず未来の世界の存する証拠である、故に未来の世界において、完粋(かんすい)整備なる裁判のあるありて、善の大小、悪の軽重に従うて、それぞれ賞罰して寸分も権衡(けんこう)を錯(あや)まらず、而(しか)してこの世界の不公平を償(つぐの)うて、以て不平なる良心を満足させるのである、しかるに人もし身死して精魂即ち滅するにおいては、この最後の裁判を受くることが出来ない、万能なる神の所為はかくの如き不完全なるものではない、善人必ず賞を得て、悪人必ず罰を蒙(こう)むりて、幸(さいわい)に逭(のが)るることを得ないことになって居る云々(うんうん)、それには精魂の不朽不滅が必要である云々。

 

《宗教家・宗教の主旨に魅了された哲学者が、しばしば、いう。この世界は、本当に、不完全・不純粋なもので、善をしても、必ずしも賞賛されず、悪をしても、必ずしも刑罰されない。ひどいのは、悪人が栄光・栄華に飽きて、善人は、寒さでの餓死を逃れられなかったりする。これだけでも、私達の良心は、どうしても満足することができない。これは、必ず未来の世界が存在する証拠である。よって、未来の世界において、完全・純粋に整備された最後の審判があって、善の大小・悪の軽重にしたがって、それぞれ賞賛・刑罰して、わずかも均衡を錯誤しない。そうして、この世界の不公平を補償して、それで不公平になった良心を満足させるのである。それなのに、人は、もし、身体が死んで、精魂が、つまり滅びることにおいては、この最後の審判を受けることができない。万能な神の振る舞いは、このように、不完全なものではない。善人は、必ず賞賛を得て、悪人は、必ず刑罰を受けて、幸いに、逃れることができないことになっている、等々。それには、精魂の不朽不滅が必要である、等々。》

 

・ああこの言(げん)や非道理非哲理の極、意義ますます糾紛(きゅうふん)し錯雑し、あたかも古昔(こせき)の迷室の中に足を容(い)れたる如くに成り了(お)わるほかない。意義なき語句を聯結(れんけつ)して、いささかの意義を発せんと欲する故に、いよいよますます淆乱(こうらん)を致すのである。

 

《ああ、この言葉は、非道理・非哲理の極致で、意義は、ますます紛糾・錯綜し、あたかも昔の迷宮の中に、足を踏み入れたように、成立して終了するしかない。意義のない語句を連結して、わずかな意義を発語したいとするために、いよいよ、ますます、混乱になるのである。》

 

・それこの世界の裁判が不完全であるとは、正に五尺躯に局しての言い事である、人類の中に局しての議論である、善人あるいは賞に漏れ悪人多く罰を免(まぬか)るるは、果(はたし)て誰れの所為ぞ、吾人(ごじん)人類の自業自得ではないか。誰れに赴愬(ふそ)しても「これ汝(なんじ)ら自ら作(な)せる孽(つみ)なり、汝ら自ら改むるほか他に道なし」と一言に刎(は)ね付(つけ)られるべきものである。十八里の雰囲気外には不通の訴訟である、否な十八里の雰囲気中でも、特に横目縦鼻(おうもくじゅうび)の動物にのみ通用する議論である。盗蹠(とうせき)が栄えて顔回が窮(きゅう)したとて、鮒(ふな)や鯉(こい)には少(すこし)も関係はない、一時の風雲に乗じて僥倖(ぎょうこう)に顕達(けんたつ)の地を得てる不義の徒が、天下の大柄(たいへい)を弄(ろう)したとて、豕(ぶた)や牛のためには利害倶(とも)に頓着(とんじゃく)なしである。

 

《そもそも、この世界の裁判が不完全であるとは、まさに、5尺の体に限定(極限)しての言葉である。人類の中に限定しての議論である。善人が賞賛に抜け落ちたりし、悪人が多数、刑罰を免除されるのは、本当に、誰の振る舞いか。私達人類の自業自得ではないか。誰に告知しても、「これは、あなた達が自分でした罪なのだ。あなた達が自分で改める以外に、道はない」と、一言で、はねつけられるべきものである。18里の大気圏外には、通用しない訴訟である。いや、18里の大気圏の中でも、特に、目が横・鼻が縦の動物(人間)だけに通常する議論である。盗跖(春秋時代の魯/ろの盗賊の親分)が繁栄して、顔回(孔子の高弟)が困窮したとしても、フナ・コイには、少しも関係ない。一時の風雲に乗って、幸運にも栄達の地を得た不義の人達が、天下の大権力をもてあそんだとしても、ブタ・ウシのためには、利害とともに、執着がないのである。》

 

・それ無始無終無辺無限の世界に立ちて、芥子粒(けしつぶ)にも比すべからざる人類間の出来事を把(と)りて、この世の裁判の、未来の裁判の、神の、霊魂の、善人の、悪人のと喋々(ちょうちょう)して、而(しか)して人類中の事は人類中で遣(やっ)て除(の)け、不正は追々(おいおい)と避け、正義は追々近寄ることを勗(つと)めて、乃(すなわ)ち自己脚跟(きゃっこん)下の事は自己の力で料理するよう做(な)し将(も)ち去らずして、世界あるべからざる神を影撰(えいせん)し、事理容(ゆ)るすべからざる霊魂の不滅を想像して、辛(かろ)うじて自己社会の不始末を片付けんとするのは、むしろ生地(いくじ)なしといわねばならぬ。

 

《そもそも無始・無終・無辺・無限の世界に存立して、ケシ粒とも比較することができない人類の間での出来事を取り上げて、この世の中の裁判の・未来の最後の審判の・神の・霊魂の・善人の・悪人のと、よくしゃべり、そうして、人類の中の事は、人類の中でやってのけ、不正は、しだいに避け、正義は、しだいに近寄ることを努力して、つまり自己の足下の事は、自己の力で処理するように実行しないで、世界にあることができない神をイメージし、事の理を容認することができない霊魂の不滅を想像して、どうにか、自己社会の不始末を片づけようとするのは、むしろ、意気地なしといわなければならない。》

 

・見よ社会の現状は此輩(このはい)の囈語(ねごと)に管せず、人類中の事は人類中で料理して、古昔(こせき)に比すれば悪人は多くは罰を免(まぬか)れず、善人は世の称賛を得て、乃(すなわ)ち社会の制裁は漸次(ぜんじ)に力を得つつあるではないか。法律制度漸次改正せられて、蛮野(ばんや)より文明に赴(おもむ)き、大数(たいすう)において進歩しつつあるではないか。何ぞ必ずしも未来の裁判を想像し、神を想像し、霊魂の不滅を想像するの必要はないのである。宗教及び宗教に魅せられたる哲学の囈語を打破しなければ、真の人道は進められぬのだ。

 

《見よ、社会の現状は、この人達の寝言に、心をかけない。人類の中の事は、人類の中で処理して、昔と比較すれば、悪人は、多数が刑罰を免除されず、善人は、世の中の称賛を得て、つまり社会の制裁は、しだいに力を得つつあるのではないか。法律・制度は、しだいに改正されて、野蛮から文明へ向かい、大体において、進歩しつつあるのではないか。どうも、必ずしも未来の最後の審判を想像し、神を想像し、霊魂の不滅を想像する必要は、ないのである。宗教・宗教に魅了された哲学の寝言を打破しなければ、本当の人道は、進められないのだ。》

 

・此輩(このはい)輒(すなわ)ち言う、未来においての至厳至密の裁判を畏(おそ)るればこそ、吾人(ごじん)人類の過半数否なほとんど全数が幾分か自ら戒慎(かいしん)して善に就(つ)き悪を避くるよう勗(つと)むるのである。それこの畏れがありてすら、刑辟(けいへき)に触れる者があるのに、ましてこの世はこの世限り、栄耀(えいよう)をすればそれだけの利益、刑罰を逭(のが)るればそれだけの幸福、公正にして貧窮(ひんきゅう)に陥(おち)いるは愚の極と言う事になったならば、道徳風俗は如何(いか)に壊乱するか測られないのだ。即ち欧米人が無宗旨の人を忌(い)むこと、盗賊も啻(ただ)ならざる姿であるのは、此処(ここ)の道理である云々(うんうん)。

 

《この人達は、つまり、いう、未来においての至極厳密な裁判を畏怖すればこそ、私達人類の過半数、いや、ほとんど全員が、いくらか自分で、いましめ・つつしんで、善をし、悪を避けるよう、努力するのである。そもそも、この畏怖があってすら、刑罰に抵触する者があるのに、まして、この世の中は、この世かぎりで、栄光をすれば、それだけの利益が、刑罰を逃れれば、それだけの幸福が、公正であって、貧困に陥るのは、愚鈍の極致という事になったならば、道徳・風俗は、どんなに破壊・混乱するのか、測れないのだ。つまり欧米人が、無宗教の主旨の人を忌み嫌うこと、盗賊も、普通でない姿であるのは、ここの道理である、等々。》

 

・ああこれ何たる卑陋(ひろう)の言(げん)ぞ、およそ善のために善を為(な)し、悪のために悪を避け、一切身外(しんがい)の利益を眼底に措(お)かず、即ちいささかの為(た)めにする所ろなくしてこそ、善称すべくして悪罰すべきである。もし他に為めにする所ろあるときは、善も善にあらず、悪も悪にあらず、善悪混乱し、邪正淆雑(こうざつ)して適従する所ろを知らなくなる。かつ宗教の道徳におけるのは、その力実に微弱である、その証拠は欧洲にあって宗教の尤(もっと)も盛(さかん)なのは中古の時であった。しかるにこの時諸国皆封建制度に循(したが)って、君主と諸侯と常に相軋(あつ)し、刑罰の如き実に苛酷(かこく)を極めたもので、爾来(じらい)科学が漸(ようや)く盛に赴(おもむ)いて、宗教の信仰漸く減退に向った十七、八世紀が、かえって人道において夐(はるか)に多くの進歩を為(な)し、中古の時の比でなかったのではないか。更に支那日本に観よ、二国倶(とも)に宗教には極めて冷澹(れいたん)なるにかかわらず、人民の温和で、人をして酸鼻(さんび)せしむる悪事を敢行(かんこう)する者は、古昔(こせき)欧洲諸国に比して大(おおい)に罕(まれ)であるではないか。故に未来の裁判の畏(おそ)れが巨悪大憝(だいたい)に対して銜轡(がんぴ)の功を奏し居るということは、吾人(ごじん)の信せざる所ろである。

 

《ああ、これは、何という卑劣な言葉なのか。だいたい、善のために善をし、悪のために悪を避け、すべて、自身以外の利益を眼中におかず、つまり、わずかのためにすることを、なくしてこそ、善を称賛することができて、悪を刑罰することができるのである。もし、他のためにすることがあるときは、善も善でなく、悪も悪でない。善悪が混乱し、正邪が混雑して、つきしたがうことが、わからなくなる。そのうえ、宗教の道徳におけるのは、その力が、本当に、微弱である。その証拠は、ヨーロッパにあって、宗教の最も盛んなのは、中世の時代であった。それなのに、この時代の諸国は、すべて、封建制度にしたがって、君主と諸侯が、いつも相互に軋轢(あつれき)があり、刑罰のようなものは、本当に、過酷を極めたもので、それ以来、科学が、ようやく隆盛に向かって、宗教の信仰が、ようやく減退に向かった、17~18世紀が、反対に、人道において、はるかに多くの進歩をし、中世の時代の比ではなかったのではないか。さらに、中国・日本を観察せよ、2国ともに、宗教には、とても冷淡なのにもかかわらず、人民が温和で、人によって悲痛させられる悪事を敢行する者は、昔のヨーロッパ諸国と比較して、大いに、まれであるのではないか。よって、未来の最後の審判の畏怖が、巨悪・大悪に対して、抑止の功能を成し遂げ(奏効し)ているということは、私達の信じないことである。》

 

・かつこの世界で善を勧(すす)め悪を懲(こ)らすために、未来の裁判を想像し、神を想像し、霊魂を想像するのは、これ方便的である、決して哲学的ではない。哲学的はたとい一世に不利であっても、いやしくも真理ならばこれを発揮するこそ本旨というべきである。

 

《そのうえ、この世界で、勧善懲悪のために、未来の最後の審判を想像し、神を想像し、霊魂を想像するのは、これが方便的である。けっして哲学的ではない。哲学的は、たとえ、一時代に不利であっても、もしも、真理ならば、これを発揮することこそ、本旨というべきである。》

 

・今や英、仏、独、即ち科学の最も盛(さかん)なる欧洲の第一流国にあって、その中心学術を信ずるので、辻褄(つじつま)の合わない宗旨の事条に関しては、窃(ひそか)に冷澹(れいたん)を極めつつある輩(はい)が随分(ずいぶん)寡(すくな)くない。乃(すなわ)ち旧教檀越(だんおつ)の尤(もっと)も多い仏国の如きでも、精進日たる水曜日において、公々然牛仔(ぎゅうし)を食して憚(はば)からざる者極めて衆(おお)いのである、しかも一般道徳は、中古に比してすこぶる進めりというべきである。宗教の方便的信条が道徳の実際に力のないことは、他にも証拠を挙げようと思えば沢山ある。

 

《今は、イギリス・フランス・ドイツ、つまり科学の最も盛んなヨーロッパの一流国にあって、その中心の学術を信じるので、辻褄の合わない宗教の主旨の事項(条項)に関しては、ひそかに冷淡を極めつつある人達が、とても少ない。つまり旧教は、信者の最も多いフランスの国のようなものでも、精進の日である水曜日において、おおっぴらに、子牛を食べて恐れない者は、とても多いのである。しかも、一般の道徳は、中世と比較して、たいそう進んでいるということができる。宗教の方便的信条が、道徳の実際に、力のないことは、他にも証拠を挙げようと思えば、たくさんある。》

 

 

●(5)多数神の説

 

・神に至(いたっ)ては、その唯一たると多数たるとに論なく、その非哲学的なる尤(もっと)も甚(はなはだ)しといわねばならず。

 

《神に至っては、それが、唯一であるのと、多数であるのは、いうまでもなく、その非哲学的なのが、最もひどいと、いわなければならない。》

 

・先(ま)ず多神から点検しよう。即ち太陽、太陰、その他山川、雲物(うんぶつ)等を神としてこれを崇拝しこれを祭祀する等の如きは、一噱(いっきゃく)にも直(あた)いせぬ、論破する価値はないのである。もしそれ古昔(こせき)豪傑(ごうけつ)、及び国家に功あった人物、または一宗派の開山たる祖師の如きも、これを祭り、自己敬虔(けいけん)の意を致すことは別に不便なことはないが、禱祠(とうし)して霊験を求むるが如きは尤(もっと)も謂(いわ)れないのである。これらの人物も、身死すると同時にその神は滅したもので、これを禱祠してもいささかの応験のあるべきはずがない、いわゆる淫祠(いんし)たるを免(まぬか)れない。三家村里の翁媼(おうおう)が、これら雲物または古人既滅(きめつ)の泡沫を拝禱(はいとう)するのはなお恕(ゆる)すべきも、読書し理義を弁ずる五尺躯の大男子にして真面目にこれらの物を拝するに至(いたっ)ては、実に言語に絶するのである。

 

《まず、多神から点検しよう。つまり太陽・月、その他、山川・雲の変異等を神として、これを崇拝し、これを祭祀する等のようなものは、一笑の値打ちもない、論破する価値がないのである。さて、昔の豪傑・国家に功績があった人物・一宗派を開山した祖師のようなものも、これを祭り、自己の信仰の意思をいたすことは、別に不都合なことはないが、祈祷・祭祀して御利益を求めるようなものは、最も根拠がないのである。これらの人物も、身体が死ぬと同時に、その神は滅んだもので、これを祈祷・祭祀しても、わずかの御利益があるであろうはずがない。いわゆる、いかがわしい祭祀であるのを免除されない。家がわずかな村里の爺さん・婆さんが、これら雲の変異・昔に死滅した人達を拝礼・祈祷するのは、まだ許すことができるが、読書し、理・義を弁別する、5尺の体の立派な男子で、真面目に、これらの物を拝礼するのに至っては、本当に、言葉で説明できないのである。》

 

・而(しか)してこれ啻(ただ)に悖理(はいり)笑うべきのみならず、人事の実際に害すること甚(はなはだし)きものがある。即ち疾病(しっぺい)あるに方(あた)って、医師に頼り適当の治を施すことはしないで、叨(みだり)に禱祠(とうし)祈誓(きせい)して自(みずか)ら得たりとし、竟(つい)に癒すべからざるに至る者が往々(まま)あるのである。また一日一刻を争う商工事業に関して、行旅しようとする者が、これら神祠(しんし)の告示に由(よっ)て、俄(にわか)に逡巡し延期して、期を逸(いっ)し、了(お)わる者も往々あるのである。甚きに至ては禱祠に藉口(しゃこう)して、男女慇懃(いんぎん)を相通ずるの媒(なかだち)をして以て利を博し、阿芙蓉(アヘン)莫爾比涅(モルヒネ)の毒薬を菓餅(かへい)の中に入れて一時の効験を示し、若(もし)くは止痛の功を誇って信徒を蠱惑(こわく)する者も往々あるのである。これは哲学者にあってはこれを言うさえ慙(は)ずべきである、哲学を題目とした書には、これを筆するさえ厭(いと)うべきである。しかも霊魂不滅の囈語(ねごと)の弊は、正に此(ここ)にまで至るのである、而して牛矢の不滅馬糞(ばふん)の不滅は、科学的真理なる故に絶(たえ)てその弊を見ぬのである。

 

《そうして、これは、ただ背理で、笑うことができるだけでなく、人の事が、実際に危害になることは、ひどいものがある。つまり病気があるにあたって、医師に頼り、適当な治療を施すことをしないで、無闇に、祈祷・祭祀・誓願して、自分で得られたとし、結局、治癒ことができかったことに至る者が、まあまあ、いるのである。また、一日・一刻を争う商工事業に関して、行程しようとする者が、これら神の祠(ほこら)の告示によって、すぐに決断せず、延期して、時期を逃し、終了する者も、まあまあ、いるのである。ひどいのに至っては、祈祷・祭祀にかこつけて、男女関係で通じ合うのを媒酌(ばいしゃく)して、それで利益を獲得して、アヘン・モルヒネの毒薬を菓子の中に入れて、一時の御利益を示し、または、痛み止めの功能を誇って、信徒を魅惑する者も、まあまあ、いるのである。これは、哲学者にあって、これをいうことさえ、恥じるべきである。哲学を題目とした書物には、これを執筆することさえ、避けるべきである。しかも、霊魂不滅の寝言の弊害は、まさに、ここにまで至るのである。そうして、ウシのクソの不滅・ウマのフンの不滅は、科学的真理であるために、途絶えて、その弊害を見ないのである。》

 

 

(つづく)