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人は何を考え(思想)、何を為し(歴史)、何を作ってきたのか(建築)を、主に書いたブログです。

(つづき)

 

 

■知徳合一

 

 ソクラテスといえば、知徳合一といわれていますが、知とは、知識・知恵を、徳(アレテー)とは、優れた魂(プシュケー、生命、息・気)をいい、ソクラテスは、徳を備え持ち、知を愛し求め(愛知・求知=哲学)、善く生きる(正しく・美しく生きる)べきだと主張しました。

 

 

●知:限界が無知

 

 『弁明』での知は、以下のように、人知・人為には、限界があり、人は皆、問答法によって、無知を意識・自覚することに終着するので(6)、それとは別の、人知を超越した、全知全能の唯一神が想定でき(9)、そこは、自然な無意識・無自覚です。

 

・人知を超越:自然な無意識・無自覚 → 唯一神:全知全能

・人知:人為の意識・自覚 → 限界・終着:無知

 

 ところで、中国には、以下のように、体(本体)という本然的・一元的な見方と、外面の相(様相)と内面の用(作用)からなる分節的・二元的な見方があり、物・事・人等を外面とすれば、知(理知)・情(感情)・意(意志)や理・心・魂等の、内面があると解こうとします。

 しかし、それらの内面では説明できない、人為(人知)を超越したものもあり、それらは、外面の装いに、観念的な霊・聖・神の力(魅力・魔力)が付着し、それが自然に働いたと信じるしかなく、それらは、以下のように、まとめることができます。

 

※内外面合一:体(本体)=内面を外面の一部とみる

・外面:相(様相、「ある」)=物・事・人 → 霊・聖・神の力が付着

 ~ 自然な無意識・無自覚、信、ソクラテス(私人)

・内面:用(作用、「する」)=知・情・意、理・心・魂

 ~ 人為の意識・自覚、解、アテナイ市民(公人)

 

 ここで、アテナイ市民(知者)の知は、知らないのに、知っていると思っていることなので、これは、外面の様相(「ある」)を、内面の作用(「する」)の知で解けるとみています。

 一方、ソクラテスの無知の知は、知らないことを、知らないと思っていることなので、内面の作用がないため、外面の様相に、神の力が付着していると、信じるしかありません。

 たとえば、物・事・人等を、知・情・意や理・心・魂等の作用で、積極的に説明できなければ、信じる・祈る・待つ・受ける等の様相で、消極的に表現するしかありません。

 また、宗教では、人には皆、超越した神(仏)が内在するとし、絶対的な神(仏)に帰依・依存することで、安心・幸福になろうとします。

 

 さて、ソクラテスは、以下のように、公人として、ポリスの民会に参加・勧告・行動せず、神の命令を信じて奉仕するのが、大きな善で(17)、本当の正義だとし、私人として、交際(私交)の形で、ポリスの市民と問答しました。

 

○神によって私交の形で、魂を立派にするよう説得

 ところで、私がまさに、神によってこの国都(ポリス)に与えられたような者であるということについては、次のようなところから、諸君のご理解が得られるかもしれない。すなわち、私は、すでに多年に渡って、自分自身のことは一切顧みることをせず、自分の家のこともそのまま構わずに、いつも諸君のことをしていたということは、それも、私交の形で、あたかも父や兄のように、一人一人に接触して、魂(いのち)を立派にすることに留意せよと説いてきたということは、人間だけの分別や力でできることとは見えないからです。(『弁明』18・p.50)

 

○私交の形で勧告し、公にポリスへ勧告せず

 それにしても、たぶん、おかしなことだと思われるかもしれません。私が、私交の形では、今お話ししたようなことを勧告して回り、余計なおせっかいをしていながら、公(おおや)けには、大衆の前に現われて諸君のなすべきことを国家社会(ポリス)に勧告することをあえてしないというのは。しかしこれには、わけがあるのです。(『弁明』19・p.51)

 

○公人でなく、私人として行動するのが本当の正義

 むしろ、本当に正義のために戦おうとする者は、そして少しの間、身を全(まっと)うしていようとするならば、私人としてあることが必要なのでして、公人として行動すべきではないのです。(『弁明』19・p.52)

 

 なお、柄谷行人は、『哲学の起源』で、ソクラテスに禁止的な警告を合図したとされるダイモンは、アテナイのデモクラシーで抑圧された、イオニア由来のイソノミア(無支配)が、無意識・無自覚に回帰したものだと指摘しており、以下のように、まとめることができます。

 

・私人=イオニアのイソノミア(無支配):ソクラテスの問答法(無知の知)

 ~ 自然な無意識・無自覚、倫理的・非政治的

・公人=アテナイのデモクラシー(直接民主制支配):市民の民会・法廷での弁論術(知)

 ~ 人為の意識・自覚、政治的・非倫理的

 

 以上より、3つの対比(人知を超越/人知、外面/内面、私人/公人)は、それぞれ上・下どうしが対応しています。

 

 

●徳:正義

 

 『弁明』での徳は、優れた魂で、ソクラテスは、徳を備え持ち、正義(善いこと)と法律を遵守し、言動すべきだと主張したので、裁判が不正でも、不正な脱獄で対処せず、死刑を受け入れました。

 つまり、ソクラテスの中では、正義(ロゴス)のもとで、神々や自然(ピュシス)と、法律や慣習(ノモス)は、不可分だとしています。

 それで、徳は、以下のように、対比して説明されています。

 

○優れた魂(徳)

 そしてその時の私の言葉は、いつもの言葉と変わりはしない。――世にも優れた人よ、君は、アテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判地位のことは気にしても思慮真実のことは気にかけず、(いのち)をできるだけ優れたものにするということに気も使わず心配もしていないとは。

 とこう言い、諸君のうちの誰かがこれに異論を差し挟み、自分はそれに心を用いていると主張するならば、私は、その者をすぐには去らしめず、また、私も立ち去ることをせず、これに問いかけて、調べたり、吟味したりするでしょう。そしてその者が、優れたもの()をもっているように主張しているけれども、実はもっていないと思われたなら、私は、一番大切なことを一番粗末にし、つまらないことを不相応に大切にしていると言って、その者を非難するでしょう。……(『弁明』17・p.45)

 

○優れた魂

 つまり、私が歩き回って行っていることはといえば、ただ、次のことだけなのです。諸君のうちの若い人にも、年寄りの人にも、誰にでも、ができるだけ優れたものになるよう、随分気をつかうべきであって、それよりも先に、もしくは同程度にでも、身体金銭のことを気にしてはならない、と説くわけなのです。そしてそれは、いくら金銭を積んでも、そこから、優れた魂が生まれてくるわけでなく、金銭その他のものが人間のために善いものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては、優れていることによるのだから、というわけなのです。(『弁明』17・p.46)

 

 これらから、ソクラテスは、以下のうち、外形の物的・量的な生き方よりも、内実の心的・質的な生き方を選択するのが、正義だとしています。

 

※内外:生死

・外形=金銭・評判(名誉)・地位・身体(健康):物的・量的な生き方(「生き延びる」)、死への恐れ

・内実=思慮(知)・優れた魂(徳)・真実:心的・質的な生き方(「善く生きる」)、死を恐れず

 

 よって、ソクラテスは、以下のように、不正義と、優れた神・人への不服従は、醜悪・害悪・大災悪なので、譲歩していないと言明しています。

 

○不正と優れた神・人への不服従は醜悪

 しかし私は、諸君よ、その点で、この場合も、たぶん、多くの人達とは違うのです。だから、私のほうが人よりも何らかの点で知恵があるということを、もし主張するとなれば、私は、つまりその、あの世のことについてはよく知らないから、その通りにまた、知らないと思っているという点をあげるでしょう。これに対して、不正をなすということ、神でも人でも、自分より優れている者があるのに、これに服従しないということが悪であり醜であるということは、知っているのです。だから私は、悪だと知っているこれらの悪しきものよりも、ひょっとしたら善いものかもしれないもののほうを、まず恐れたり避けたりするようなことは、けっしてしないでしょう。(『弁明』17・p.43-44)

 

○不正は害悪・大災悪

……もし諸君が私を殺してしまうなら、私はこれからお話しするような人間なのですから、それは、私の損害であるよりも、むしろあなた方自身の損害になるほうが大きいでしょう。(中略)というのは、優れた人間が劣った人間から害を受けるというようなことはあるまじきだと思うからです。

 (中略)むしろ、この男(メレトス・アニュトス)が今しているようなことをするのが、はるかに災悪の大なるものだと思うのです。つまり、人を不正な仕方で殺そうと企てることがです。(『弁明』18・p.48)

 

○不正義に譲歩せず

……つまり私は、正義に反することは、何事でも、未だかつて、何人にも譲歩したことはないのでして、私を中傷する人達が私の弟子と言っている者どもの何人に対してもまた、譲歩したことはないのです。(『弁明』21・p.56)

 

 裁判では、以下のように、ソクラテスに不正・犯罪がないのに、一日での結審だったので、自分への中傷を払拭し、陪審員を納得させるまでの時間がなかったと弁解しています。

 

○不正・犯罪なしだが、時間不足

 私の確信では、世の何人に対しても私は故意に不正を加え、罪を犯すようなことはしていません。ただ、その点をあなた方になかなか納得してもらえないでいるのです。これは、お互いに話し合えた時間がわずかしかなかったからです。というのは、私の考えでは、もしあなた方の法律が、他の国でも見られるように、死刑の判決はただの一日でするのではなくて、幾日もかけることになっていたなら、あなた方の納得も得られたことでしょう。しかし今は、わずかの時間で重大な中傷を解こうとするのですから、容易なことではありません。……(『弁明』27・p.69-70)

 

 当時のアテナイの裁判では、まず無罪か有罪かを判別し、つぎに量刑を決定しますが、ソクラテスは、わずかな時間で、陪審員や聴衆を説得しようとしました。

 でも、有罪が決定すると、自分の信念を押し殺すのは、恥辱なので、家族・友人の出廷や、現実的な減刑で、哀訴嘆願せず(23)、逆に当初は、市の迎賓館で食事を受けられることを、科料として要求して挑発し(26)、そののち、罰金刑を申し出ましたが(28)、反感を買ってか、死刑になりました。

 

 最後に、ソクラテスは、以下のように、徳を問答・吟味するのが善だといい、無罪放免のための厚顔無恥な言葉で弁明・説得しませんでしたが、これは、最上の知者とされたソクラテスでさえ、知の限界に終着した瞬間といえます。

 

○徳を問答・吟味するのが善

……さらにまた、人間にとっては、徳その他のことについて毎日談論するという、このことが、まさに最大の善きことなのであって、私がそれらについて問答しながら自分と他人を吟味しているのを諸君は聞かれているわけであるが、これに反して、吟味のない生活というものは人間の生きる生活ではないと言っても、私がこう言うのを諸君はなおさら信じないであろう。しかしそのことは、まさに私の言う通りなのです、諸君。ただ、それを信じさせることが容易でないのです。(『弁明』28・p.72-73)

 

○無罪放免のための厚顔無恥な言葉で弁明・説得せず

……諸君よ、諸君はたぶん、私の敗訴になったのは、言葉に窮したからだと考えておられるでしょう。つまり私が、どんなことでも言い、どんなことでも行って、無罪放免にならねばならぬと思ったなら、それを用いて諸君を説得したかもしれないような、そういう種類の言葉の不足から、私は敗れたのだというのです。

 とんでもない。私が敗訴になったのは、不足は不足でも、言葉のそれではなくて、厚顔と無恥の不足のためなのです。つまり、諸君が聞くのを最も好まれるようなことを、諸君に言うつもりになれなかったからなのです。諸君が求めておられるのは、私が泣いたり、わめいたりすることであり、その他色々、私に相応しくないようなこと――だと、私は主張するのであるが、そういうことを行ったり言ったりすることなのであって、それこそまた、諸君が他の人間から聞き慣れておられることなのです。(『弁明』29・p.74-75)

 

(おわり)

 

(つづき)

 

 

●裁判:中傷・嫉妬での告訴

 

 最初に注意すべきなのは、メレトス・アニュトスによる偽りの訴え以前に、「ソクラテスは、天上地下のことを探究し、弱論強弁を教え、青年に悪影響を与えた」と、ウソのウワサを撒き散らした、厄介至極の連中がいることです。(2)

 そのために、ソクラテスは、裁判で、陪審員ではなく、アテナイ市民へ弁明しています(2)。

 そして、まず、ソクラテスは、自分が、金銭を受け取り、交際・教育し、感謝される、ソフィスト(知者)ではなく(4)、貧乏だとし(18)、以下のように、自分は、人並みの知者なのに、世間は、自分を人並み以上の知者だとウソをつき、中傷していると主張しました。

 

○自分を人並み以上の知者にして中傷

 というのは、アテナイ人諸君、私がこの名前(知者)を得ているのは、とにかく、ある一つの知恵をもっているからだということには間違いないのです。すると、それはいったい、どういう種類の知恵なのでしょうか。それはたぶん、人間並みの知恵なのでしょう。なぜなら、実際に私がもっているらしい知恵というのは、おそらく、そういう知恵らしいからです。

 これに反して、私が今しがた話題にしていた人達というのは、たぶん、何か人間並み以上の知恵をもつ知者なのかもしれません。それとも、何と言ったらよいか、私にはわかりません。なぜなら、とにかく私は、そういう知恵を心得てはいないからです。それをしかし、私が心得ていると主張する人があるなら、それは嘘をついているのです。そういうことを言うのは、私を中傷するためなのです。(『弁明』5・p.14-15)

 

 つぎに、ソクラテスは、以下のように、自分の問答で知者の無知が暴露されるので、青年・若者が寄り集まるようになり、問答を勝手に真似されたりもしたので、世間は、大本の自分を、猛烈に中傷するようになったとみています。

 

○知者の無知が暴露されるので、猛烈に中傷

 なおまた、その他に、若い者で、自分は暇もたくさんあり、家には金もたくさんあるといったような者が、何ということなしに自分達のほうから私に付いて来て、世間の人が調べ上げられるのを興味をもって傍聴し、しばしば自分達で私の真似をして、そのため、他の人を調べ上げるようなことをしてみることにもなったのです。そしてその結果、世間には、何か知っているつもりで、その実、わずかしか知らないか、何も知らないという者が、無闇にたくさんいることを発見したのだと思います。

 すると、そのことから、彼らによって調べ上げられた人達は、自分自身に対して腹を立てないで、私に向かって腹を立て、ソクラテスは実にけしからんやつだ、若い者によくない影響を与えている、と言うようになったのです。そして、それは何をし何を教えるからなのですか、と尋ねる人があっても、そんなことは知らないし、答えることもできないのです。しかし、その困っているところを、そう思われないように、学問をしている者についてすぐに言われるような、例の「空中や地下のこと」とか、「神々を認めない」とか「弱論を強弁する」とかいったものを持ち出すわけなのです。それはつまり、彼らが本当のことを言いたくないからだろうと思うのです。なぜなら、そうすれば、知ったかぶりをしていても、何も知らないのだということが暴露するからなのです。そこで彼らは、負けん気だけは強いですから、激しい勢いで、多人数をなし、組織的かつ説得的に、私について語り、以前から今日に至るまで、猛烈な中傷を行って、諸君の耳を塞いでしまったのです。(『弁明』10・p.24-25)

 

 なお、メレトスは、青年に対して有害な影響・害悪が与えられていることに、一度も関心がなく、心配もしていないので、ソクラテスは、メレトスを、ふざけていながら真面目なふりをしているので、犯罪人だと主張しています(11)。

 それに、メレトスは、青年を立派な善い人間へと導くのが、ソクラテス以外の市民だといいましたが、ソクラテスは、自分1人だけが害悪を与えて、それ以外の市民が利益を与えていたならば、世間は、幸福になるはずだと反論しました(12)。

 また、悪い人は、自分に近い者に悪いことをし、善い人は、自分に近い者に善いことをしますが、自分に近い者から、利益を受けるよりも、害悪を受けようと欲する者はいません(13)。

 そのうえ、自分に近い者に悪いことをしたら、その者から、悪いことを受け取る危険もあるのを、知っているので、故意に害悪を作り出さないといっています(13)。

 万一、ソクラテスが、青年に、悪影響を及ぼしているのならば、それは、不本意な誤りなので、メレトスが、ソクラテスと個人的に会って、教え諭すのが普通の方法ですが、裁判に引っ張り出したのは、懲らしめるためなのが、確実だとしました(13)。

 

 さらに、ソクラテスは、以下のように、悪影響を与えたとされる人々は、自分の問答の聴衆か、自分が質問に回答しているだけで、師弟関係でないので、責任を負う必要がなく、聴衆は、知者の無知が暴露されるのを、おもしろがって寄り集まり、自分の問答は、神託によると主張しています。

 

○師弟関係でないので、責任なし

 なおまた、私は、未だかつて何人の師となったこともありません。しかし誰か、私の本業としての私の話を聞きたいという人があるなら、老若を問わず何人にも、聞かせることを惜しんだことは、未だかつてありません。また、金銭をもらえば問答に応ずるけれども、もらわなければ応じないというようなことはしないで、金持ちからも、貧乏人からも、同じように質問を受けることにしているのであって、また、もし希望があれば、私の言おうとしていることについては何でも答え手になって聞いてもらうことにしているのです。そして、それらの人達について、私は、誰が善くなろうと、なるまいと、まだ誰にも何の知識を授ける約束もしたことはなし、また実際に教えたこともないのだとすれば、責任を負う筋はないということになるでしょう。また、もし誰かが、私のところから、他の誰でも聞いているのとは違う何か別のものを、個人的に教えてもらったとか、聞いたとか言っても、いいですか、諸君、その言うことは本当ではないのです。(『弁明』21・p.56)

 

○聴衆は知者の無知の暴露がおもしろい、問答は神託

 しかしそれなら、好んで私と一緒に長い時間を過ごす者があるのは、いったい、どうしてなのでしょうか。そのわけは、すでに聞かれた通りです、アテナイ人諸君。私は諸君に、その真実をすべてお話ししたはずです。つまり彼らは、知恵があると思っている人が調べられて、そうでないことになるのを、聞いているのが、面白いからなのです。確かに、面白くないことはないのですからね。

 しかしそれは、私にとっては、私の主張では、神によってなせと命じられたことなのです。それは神託によっても伝えられたし、夢知らせによっても伝えられたのです。また、他に、神の決定で、人間に対して、まあ何であれ、何かをなすことが命ぜられる場合の、あらゆる伝達の方法がとられたのです。(『弁明』22・p.57-58)

 

 もし、青年が、ソクラテスに、害悪を受けたならば、年長になった彼らや、彼らの親類縁者が、仕返しするはずですが、実際には、法廷へ助けに来ているので、それを、メレトスが虚偽で、ソクラテスが真実だという、正当・正義の理由としています(22)。

 ただし、ソクラテスは、神を信じているので、最後は、神に委ねており、判決を陪審員に一任しています(24)。

 当時のアテナイは、スパルタ的な反民主制から直接民主制への復活後で、報復の連鎖を断ち切るため、「政治的な既往はとがめず」という原則を宣言していたので、以下のように、市民がソクラテスを我慢できず、嫌悪していたので、ソクラテスを神への不敬罪で訴訟したと推測できます。

 

○市民が自分を我慢・嫌悪

……あなた方は、私の同市民だけれども、私が日常していること、特にその言論を我慢することができなくなっており、それは諸君にとって、ますます耐えがたく嫌悪すべきものとなってしまい、今はそれから解放されることを諸君は求めておられる……(『弁明』27・p.71)

 

 しかし、ソクラテスは、理知的でなく、感情的に裁定した陪審員が、やがて、真実によって、兇悪(きょうあく)と不正の刑を負わされ(29)、以下のように、吟味の逃避・解放に、懲罰が下されて、辛い思いをするとみています。

 

○市民が吟味の逃避・解放に懲罰が下されて辛い思い

私の言うことは、すなわち、こういうことです。諸君よ、諸君は私の死を決定したが、その私の死後、間もなく諸君に懲罰が下されるでしょう。それは、諸君が私を死刑にしたのよりも、ゼウスに誓って、もっと辛(つら)い刑罰となるでしょう。なぜなら、今諸君がこういうことをしたのは、生活の吟味を受けることから解放されたいと思ったからでしょう。しかし実際の結果は、私の主張を言わせてもらえば、多くはその反対となるでしょう。諸君を吟味にかける人間はもっと多くなるでしょう。彼らを今まで私が引き止めていたので、諸君は気づかないでいたわけなのです。そして彼らは、若いから、それだけまた手ごわく、諸君もまたそれだけ辛い思いをすることになるでしょう。

 というのは、もし諸君が、人を殺すことによって、諸君の生き方の正しくないことを人が非難するのを止めさせようと思っているのなら、それはいい考えではないでしょう。なぜなら、そういう仕方で片づけるということは、立派なことではないし、完全にできることでもないのですから。むしろ、他人を押さえ付けるよりも、自分自身をできるだけ善い人になるようにするほうがはるかに立派で、ずっと容易なやり方なのです。(『弁明』30・p.77-78)

 

 最後に、ソクラテスは、他人を死・殺人で押さえ付けるのではなく、自分が善く生きるべきだと主張しています。

 

 

●死:無知なので、恐れず・免れず

 

 ソクラテスは、ペロポネソス戦争(ソクラテスが38~65歳の時)に3度出陣・活躍し、裁判で死刑を受け入れたので、死への恐怖がないようですが、それは、以下のように、死を知らないので、恐れていないのだといっています。

 

〇死を知らないので、恐れず

 なぜなら、死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのにあると思っていることにほかならないのです。なぜなら、それは、知らないことを知っていると思うことだからです。なぜなら、死を知っている者は誰もいないからです。ひょっとすると、それはまた、人間にとって、一切の善いもののうちの最大のものかもしれないのですが、しかし彼らは、それを恐れているのです。つまり、それが害悪の最大のものであることをよく知っているかのようにです。そしてこれこそ、どう見ても、知らないのに知っていると思っているというので、今さんざんに悪く言われた無知というものにほかならないのではないでしょうか。(『弁明』17・p.43)

 

 ソクラテスには、政務審議会の一員だった経験があり、そこでの違法な措置に、自分だけが反対しており(20)、以下のように、死よりも、法律・正義の遵守を優先しました。

 

○死よりも、法律・正義の遵守を優先

……これを諸君が聞かれたなら、私が死を恐れて正義に反した譲歩を行うというようなことは、いかなる人に対してもありえないだろうということを、しかし、もし譲歩しなければ、同時に身を亡ぼすことになるだろうことを、知られるでしょう。……

(中略)

……私は、拘禁や死刑を恐れて正しくない提案をしている諸君の仲間となるよりは、むしろ法律と正義に与(くみ)してあらゆる危険を冒さなければならないと思っていたのです。

(中略)

 その時は、しかし私は、言葉によってではなく行動によって、もう一度こういうことを示したのです。つまり、私には死は、ちっとも――と言って乱暴すぎる言い方にならないのなら――気にならないが、不正不義はけっして行わないということ、このことにはあらゆる注意を払っているということです。つまり、当時の支配者達は、あれほど強力なものでしたが、私を脅かして不正を行わせることはできなかったのです。(『弁明』20・p.52-54)

 

 ソクラテスが、法律・正義の遵守を優先したのは、以下のように、死を恐れて免れようとすれば、その工夫は、たくさんあり、それが行き過ぎてしまうと、体(物質)は、生き残りますが、魂(精神)は、劣ってしまうからで、ソクラテスは、優れた魂(徳)を備え持つべきとしています(後述)。

 

○死を免れる工夫

 なぜなら、裁判の場合にしても戦争の場合にしても、私に限らず他の誰でも、死を免れるためには何でもやるというような工夫は、なすべきものではないからです。というのは、戦場においても、ただ死だけを免れるというのならば、武器を捨てて追い手の情けにすがればできるということが、幾度も明らかにされているからです。そして他にも、危険のそれぞれに応じて、あえて何でも行い、何でも言うとなれば、死を免れる工夫はたくさんあるのです。(『弁明』29・p.75-76)

 

 こうして、ソクラテスは、死に無知なので、恐れず・免れずとしていますが、以下のように、死後の世界を想像しており、感覚のない無か、別の場所へ移り変わるか、とすることで、死を最大の害悪とみていないのです(17)。

 

○死後は無か別の場所か

 しかし、考えてみようではないですか。また、こういうふうにしても、それが善いものだということは、大いに期待できるからです。つまり、死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは、まったくない無といったようなもので、死者は何も少しも感じないか、あるいは、言い伝えにあるように、それは魂にとって、この場所から他の場所へと、ちょうど場所を取り変えて住居を移すようなことになるわけなのです。

 そして、もしそれが何の感覚もなくなることであって、人が寝て夢一つ見ないような場合の眠りのごときものであるとすれば、死とは、びっくりするほどの儲(もう)けものであるということになるでしょう。(中略)

 また他方、死というものが、ここから他の場所へ旅に出るようなものであって、人は死ねば誰でもかしこ(彼処)へ行くという言い伝えが本当だとすれば、これよりも大きい、どんな善いことがあるでしょうか、裁判官諸君。(『弁明』32・p.80-81)

 

 死後の世界が、もし、感覚のない無であれば、それは、夢も見ないくらいに熟睡した夜のようだとし、その夜よりも、もっと善くて楽しい生涯は、ごく数えるほどしかないので、その夜がずっと続くほうがよいといっています(32)。

 他方、死後の世界が、もし、別の場所へ移り変わるのであれば、以下のように、来世でも、現世と同様に問答・親交し、知者の無知を吟味して、幸福に生活しようとしています。

 

○かの世でも問答・親交・吟味

……またそのうえ、最大の楽しみとしては、かの世の人達を、この世の者と同様に、誰が彼らのうちの知者であり、誰が知者とは思ってはいるがそうでないのかと吟味し、検査して暮らすということがあるのです。(中略)それらの人達と、かの世において、問答し、親しく交わり、吟味するということは、測り知れない幸福となるでしょう。(『弁明』32・p.82)

 

 でも、ソクラテスは、以下のように、来世の知者は、不正義をしていないので、幸福なうえ、現世でも不死だとみています。

 

○来世の知者は不正義でないので幸福、現世でも不死

 何にしても、そのために死刑にするというようなことは、かの世の人達は、きっとしないでしょう。というのは、他の点でも、かの世の人は、この世の者に比べて、もっと幸福にしているのですが、特にまた、その後生(ごしょう)においては、もし言い伝えが本当だとすれば、彼らはすでに不死なのですからね。(『弁明』32・p.82-83)

 

 ここまでみると、人々は、死を恐れて免れようとするあまり、悪く生きてしまいがちで、不幸になるので、ソクラテスは、以下のように、善く生きれば、幸福なうえ、死んでも善い希望があるとし、神々の配慮が受け取れることを期待しています。

 

○善く生きれば、死んでも善い希望あり

 しかしながら諸君にも、裁判官諸君、死というものに対して善い希望をもってもらわなければなりません。そして善き人には、生きている時も、死んでからも、悪しきことは一つもないのであって、その人は、何に取り組んでいても、神々の配慮を受けないということはないのだという、この一事を、真実のこととして、心に留めておいてもらわなければなりません。(『弁明』33・p.84)

 

(つづく)

 

内容(内面)のない・みえない外形(外面)は、独り歩きする

内容(内面)を外形(外面)の一部とみて、内外一体とする

外面/内面と個体/全体

~・~・~

 

■問答・神から裁判・死へ

 

 古代ギリシア・アテナイ(現・アテネ)の哲学者のソクラテスは、プラトン(師と43歳差)の師で(クセノフォンも)、プラトンの弟子がアリストテレス(師と43歳差)ですが、3人は、思想に相違があります。

 このうち、ソクラテスは、執筆した書物が一切なく、公人として、アテナイの直接民主制下の、アゴラ(広場、市場)での民会(市民集会、成人男子=戦士が参加)で活動せず(ダイモンの神託にしたがいました)、私人として、アゴラで誰とでも1対1で問答しました。

 ただし、彼は、問答相手の主張を肯定し、繰り返し問うだけで、他人自身が真理に到達するのを助けようとしました。

 ソクラテスは、知識人とも問答しましたが、自身は、知恵を産出しないので、産婆術だといい(母が助産婦)、最後には、問答相手の全員が、言葉に行き詰まり(アポリア)、人間の知恵・弁論術の限界が露呈し(流産)、それが市民の面前なので、相手に憎まれたり、暴力を振るわれたりもました。

 それが原因で、メレトスとアニュトスに、「ポリス(国家)が認める神々を認めず、新奇な神霊(ダイモン)を信じ、青年に害悪を及ぼし堕落させた罪」で訴えられ、裁判の法廷で陪審員から有罪・死刑の票決を受け、獄中で弟子や友人の国外逃亡の助言も拒否し、毒杯で刑死しました。

 

 ちなみに、そののち、アテナイ市民は、ソクラテスが無実の罪だったと、判決を撤回し、彼を虚偽告訴した、メレトス(作家)を死刑に、アニュトス(手工者で政治家)を国外追放しており、作家・手工者・政治家の3者は、知識人・知者の代表といえます。

 当時は、ペロポネソス戦争(スパルタ等のペロポネソス同盟がアテナイ等のデロス同盟に戦勝)で敗戦し、アテナイにスパルタ的な反民主制が樹立され、そこから民主制を復活させた混乱期で、裁判時の前後には、市民も含めて、理知よりも、感情のほうが、勝っていました。

 よって、弟子のプラトンは、ソクラテスの有罪・死刑の教訓から、市民は、理知よりも、感情のほうに、扇動されるので、民主制を信用せず、哲学者(権力欲・名誉欲・金銭欲等のない者)の統治・支配を理想(イデア)とし、これは、個人の哲学と、国家の政治の、合一です。

 

 ソクラテスの言動は、弟子のプラトン・クセノフォン等の執筆から、知るしかありませんが、その2人が、彼を知ることのできた期間は、せいぜい弟子になった10代後半から、70歳で死刑になるまでとしても、晩年の10年程度とみられます。

 なので、ソクラテスを理解するのには、限界があるのを前提に(無知の知)、彼の言動をみていきますが、プラトンの『ソクラテスの弁明』(以下、『弁明』)は、大勢の市民が裁判の経緯を見ていたので、筆者の勝手な創作が許されず、彼の実際の発言とみられるので、これを取り上げていきます。

 

 

●問答:無知の知に終着

 

 ソクラテスが、知識人達と問答するようになったのは、彼の友人のカイレフォンが、聖域のデルポイで、巫女(みこ)から「ソクラテス以上の知者はいない」と、アポロン(唯一神ゼウスの息子)の神託があったからです(5、カッコ内は章、以下同)。

 その神託に疑問をもったソクラテスは、対話・問答し、自分よりも、知恵のある者を発見することで、神託を反証しようとしました。(6)

 そこで、ソクラテスは、まず政治家(6)と問答しましたが、以下のように、知者も自分も、善美の事柄に無知ですが、無知に無自覚な知者よりも、無知を自覚した自分のほうが、勝っていることを知りました(無知の知)。

 

○知者よりも、無知者の自分のほうが、勝っている

 ところがその人物――というだけで、特に名前をあげる必要はないでしょう、それは政界の人だったのですが、その人物を相手に問答しながら仔細(しさい)に観察しているうちに、アテナイ人諸君よ、私は次のようなことを経験したのです。つまり、この人は他の多くの人達に知恵のある人物だと思われているらしく、また、特に自分自身でもそう思い込んでいるらしいけれども、実はそうではないのだと私には思われるようになったのです。そしてそうなった時、私は、彼に、君は知恵があると思っているけれどもそうではないのだと、はっきりわからせてやろうと努めたのです。するとその結果、私は、その男にも、そして、その場にいた多くの者にも、憎まれることになったのです。

 しかし、私は、彼と別れて帰る途(みち)で、自分を相手にこう考えたのです。この人間より、私は知恵がある。なぜなら、この男も、私も、おそらく善美の事柄は何も知らないらしいけれど、この男は、知らないのに何か知っているように思っているが、私は、知らないから、その通りにまた、知らないと思っている。だから、つまり、このちょっとしたことで私のほうが知恵があることになるらしい。つまり、私は、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことで、勝っているらしいのです。(『弁明』6・p18-19、中公クラシックス、田中美知太郎・訳、以下同)

 

 そして、つぎに作家(7)と、さらに手工者(8)と、問答しましたが、以下のように、名声のある人は、欠点があり、つまらない身分の人ほど、立派だということがわかりました。

 

○つまらない身分の人ほど立派

 そして、犬(神)に誓って、アテナイ人諸君、諸君には本当のことを言わなければならないのですから、誓って言いますが、私としてはこういう経験をしたのです。つまり、名前の一番よく聞こえている人のほうが、神命によって調べてみると、思慮の点ではまあ九分九厘まで、かえって最も多く欠けていると私には思えたのです。これに反して、つまらない身分の人のほうが、その点、むしろ立派に思えたのです。(『弁明』7・p.20)

 

 当時のソフィスト(知者、外国人もいました)は、市民に家庭教師として、直接民主制下の民会に必要な知識・技術を教え、報酬を受け取っていましたが、ソクラテスは、それらを教えていないため、金をもらわないのが基本で、民会に参加せず、問答をしていました。

 それで、ソクラテスは、問答による本質を優先した説得が、自利(私利)でもあり、利他(公利、最大の親切)でもあると辿り着いています。

 

○自分は善良なので、自利・利他のために本質を優先して説得

 私はしかし、大多数の人達とは異なり、銭をもうけるとか、家事をみるとか、あるいは、軍隊の指揮や民衆への呼びかけに活動するとか、その他また、官職につくとか、徒党を組んで騒動を起こす等々、今の国家社会(ポリス)に普通行われていることには関心をもたなかったのですが、それは、そういうことに入っていって身を全(まっと)うするのには、自分は、本当のところ、善良すぎると考えたからなのです。それで、そこへ入っていっても、あなた方のためにも私自身のためにも、何の利益もあるはずのないようなところへは、私は行かないで、最大の親切と私が自負するところのものを、そこへ行けば、各人に個人的に尽くすことになるような、そういうところへ赴いたのです。つまり、あなた方の一人一人をつかまえて、自分自身ができるだけ優れた者となり思慮ある者となるように気をつけて、自分にとって付属物となるだけのものをけっしてそれに優先して気づかうようなことをしてはならない、また、国家社会のことも、それに付属するだけのものを、そのもの自体よりも先にすることなく、その他のこともこれと同じ仕方で気づかうようにと、説得することを試みていたのです。(『弁明』26・p.67-68)

 

 

●神:唯一神と託宣神を信仰

 

 ソクラテスにとっての神は、唯一神(ゼウス)と、託宣神(ダイモン)で、このうち、唯一神については、以下のように、人々の中では、ソクラテスが最上の知者とされていますが、全知全能の唯一神が本当の知者で、それに比べれば、人知は、価値がないとみています。

 

○神(唯一神)が本当の知者

 つまり、こういう詮索(せんさく)をしたことから、アテナイ人諸君、たくさんの敵意が私に向けられることになってしまったのです。しかもそれは、いかにも厄介至極な、この上なく耐えがたいものなのでして、多くの中傷もここから生ずる結果となったのです。しかし名前は、知者だというように言われるのです。なぜなら、どの場合においても、私が他の者を何かのことでやり込めたりすると、そのことについては私自身は知恵をもっているのだと、その場にいる人達は考えるからなのです。

 しかし実際は、諸君よ、おそらく、神だけが本当の知者なのかもしれないのです。そして、人間の知恵というようなものは、何かもう、まるで価値のないものだと、神はこの神託の中で言おうとしているのかもしれません。そしてそれは、ここにいるこのソクラテスのことを言っているようにも見えますが、私の名前は付け足しに用いているだけのようです。つまり、私を一例にとって、人間達よ、お前達のうちで一番知恵のある者というのは、誰であれ、ソクラテスのように、自分は知恵に対しては実際何の値打ちもないのだということを知った者がそれなのだと、言おうとしているもののようなのです。(『弁明』9・p.23-24)

 

 このように、神と比べる理由は、人は皆、無知で平等だと、意識・自覚することができるからではないでしょうか。

 

 一方、託宣神については、以下のように、ダイモンは、神(唯一神)の傍系の子供とされ、ソクラテスは、神の子を信じているので、神も信じているとし、知者との問答は、神(ダイモン)の指図にしたがって、神に仕えて助けているとしています(9)。

 

○神もダイモンも信じる

 つまり、神を信じないはずの僕がダイモンを信じている限りにおいて逆に神を信じている、というのが君の主張だということになるだろう。また他方、ダイモンというものが神の傍系の子供であって、女精(ニュンベ)その他の伝説されているような女性から生まれて来たものであるとするならば、神の子の存在は信ずるけれども神は信じない等という者が世に誰かあるだろうか。……(『弁明』15・p.39)

 

 ダイモンは、姿形や役割が明確な人格神ではなく、漠然とした原始的な神霊で、かつての古代ギリシア人は、人知を超越した(人間の思い通りにならない)、奇妙・不思議な出来事を、ダイモンの介入の仕業としていたようです。

 それが直接民主制下になり、アテナイ市民は、知識・知恵や弁論術等の、人知を修得するようになりました。

 ですが、ソクラテスは、以下のように、人に服従せず、神に服従し、知を愛求(哲学)して問答で勧告・言明しており、こうして、神の命令を信じて奉仕するのが大きな善で、これは、神によって、ポリスに付着させられたともいえます。

 

〇人に服従せず、神に服従し、知を愛求して勧告・言明

 私は、アテナイ人諸君よ、君達に対して切実な愛着を抱いている。しかし君達に服するよりは、むしろ神に服するだろう。すなわち、私の息の続く限り、私にそれができる限り、けっして知を愛し求めることを止めないだろう。私は、いつ誰に会っても、諸君に勧告し、言明することを止めないだろう。(『弁明』17・p.44-45)

 

〇神の命令を信じて奉仕するのが大きな善

 つまり、私がこういうことをしているのは、いいかね、諸君、それが神の命令だからなのです。この点は、よく承知しておいて欲しいものです。そして私の信ずるところでは、諸君のために、この国都(ポリス)の中で、神に対する私のこの奉仕以上に大きな善は、まだ一つも行われたことがないのです。(『弁明』17・p.46)

 

○神によってポリスに付着

 私は、何のことはない、少し滑稽(こっけい)な言い方になるけれども、神によってこの国都(ポリス)に付着させられている者なのです。それはちょうど、ここに一匹の馬がいるとして、これは素姓(すじょう)のよい大きな馬なのですが、大きいためにかえって普通より鈍いところがあり、目を覚ましているのには、何か虻(あぶ)のようなものが必要だという、そういう場合に当たるのです。つまり神は、私をちょうどその虻のようなものとしてこの国都に付着させたのではないかと、私には思われるのです。つまり私は、あなた方を目覚めさせるのに、各人一人一人に、どこへでも着いて行って、膝を交えて、丸一日、説得したり、非難したりすることを、少しも止めない者なのです。(『弁明』18・p.49)

 

 託宣神のダイモンは、以下のように、何かしようとする時、差し止めるのに合図するとされ、その合図は、善いこと・優れたもの(徳、正義)だと信じるのが前提で、気になって禁止的な警告を受け取るのが先行し、後付で禁止の理由を解き、徳を留意・思慮・吟味・成就しました。

 

○ダイモンの合図で言動

 つまり、私から諸君はたびたびその話を聞かれたでしょうが、私には、何か神からの知らせとか、ダイモンからの合図とかいったようなものが、よく起こるのです。それは、メレトスも訴状の中に茶化して書いておいたものです。これは、私には、子供の時から始まったもので、一種の声となって現れるのでして、それが現れるのは、いつでも、私が何かをしようとしている時、それを私に差し止めるのでして、何かをなせと勧めることは、いかなる場合にもないのです。そして、まさにこのものが、私に対して、国政に携わることに反対しているわけなのです。そしてそれが反対するというのは、充分肯(うなず)けることのように、私には思えるのです。『弁明』19・p.51)

 

 なお、ダイモンの合図(神からの知らせ、神のお告げ)は、ソクラテスの言動が当を得ていない場合には、反対しており、裁判では、行動においても、言論においても、反対を受けなかったため、善いことだったらしいので、死を最大の災悪と思うのは、正しくないと結論づけています(31)。

 

(つづく)

 

 トラフとは、海底の細長の窪地で、南海トラフは、フィリピン海プレート北端の、駿河湾以西をいい、プレートが沈み込むことで発生する地震の位置によって、駿河湾~遠州灘が東海、遠州灘~紀伊半島沖が東南海、紀伊半島沖~四国南方沖が南海と、区分されています。

 

 

●東海・東南海・南海地震での大津波の歴史

 

 東海・東南海・南海地震は、次のように、近年では、約90~150年の間隔で発生しています(9つの地震の間隔の平均は、約157年です)。

しかも、大半は、連動するのが特徴で(同時期または数年後)、東日本大震災(最大震度7)と同規模程度の、地震発生・津波襲来が予想されています。

 

○白鳳地震(東海・東南海・南海)(684年)

・マグニチュード:8.0~8.3

 

○仁和地震(東海・東南海・南海)(887年)~203年後

・マグニチュード:8.0~8.5

 

○永長東海地震(1096年)~209年後

・マグニチュード:M8.0~8.5

○康和南海地震(1099年)

・マグニチュード:8.0~8.5

 

○正平南海地震(1361年)~262年後

・マグニチュード:8.0~8.5

 

○明応地震(東海・東南海・南海)(1498年)~137年後

・マグニチュード:8.2~8.4

・死者:約3~4万名

 

○慶長地震(東海・南海・東南海連動型)(1605年)~107年後

・マグニチュード:7.9~8.0

・死者:約1~2万名

・特徴:地震の被害は少なかったが、津波の被害は甚大

 

○宝永地震(東海・南海・東南海連動型)(1707年)~102年後

・マグニチュード:M8.4~8.6

・最高津波高:23m(高知県高知市種崎)

・死者:約2万名

 

○安政地震(東海・東南海・南海)(1854年)~147年後

・マグニチュード:M8.4

・最高津波高:11m(南海/和歌山県串本)、6~10m(東海/東南海)

・死者:(東海)約2,000~3,000名、(南海)約1,000~3,000名

 

○昭和東南海地震(1944年)~90年後

・マグニチュード:7.9

・最高津波高:9m(三重県尾鷲市賀田地区)

・死者・行方不明者:1,223名

○昭和南海地震(1946年)

・マグニチュード:8.0

・最高津波高:4~6m(三重・徳島・高知沿岸)

・死者:1,330名

 

 昭和地震で、東海地震は、発生しておらず、駿河湾周辺の岩盤だけが、ズレないで残っていると考えられ、この付近に、地殻のひずみが蓄積されていることも、確認されており、安政地震から現在まで、170年経過しているので、東海地震は、いつ発生してもおかしくありません。

 2024年現在、昭和東南海地震から80年経過しており、10年後には、約90~150年の範囲内となるので、東海・東南海・南海の連動型となることもありえます。

 連動は、すぐの場合もありますが、2(昭和東南海→昭和南海)~3(永長東海→康和南海)年後の場合もあるので、結局、おおまかな周期しか、わからないのが、現状です。

 

 地震は、プレート型地震よりも、直下型地震のほうが、甚大な被害のおそれがあるので、普段から対策する必要があり、津波は、生活圏だけでなく、訪問先でも、想定しておかないと、そこの地形にうとければ、逃げ遅れるおそれがあります。

 静岡県・和歌山県・三重県・高知県・徳島県は、南海トラフ地震での津波が、10分以内に到達すると、予想されています。

 

 なお、地震の予知は、数日前・数分前等に、確実な情報が提供されないと、意味がなく、数秒前ならば、緊急地震速報がありますが、震源地付近では、対応できず、今回のような、不確実な巨大地震注意の臨時情報で、予定を自粛しても、意味がありません(いつまで自粛するのでしょうか)。

 

金剛峯寺~高野山真言宗総本山

東寺(教王護国寺)1・2~東寺真言宗総本山

高山寺~単立(真言宗)

~・~・~

 

(高雄山、京都市右京区梅ヶ畑高雄町)

 

 平安初期の淳和天皇(53代)の時代(824年)に、和気氏(備前国和気郡が本拠の地方豪族)ゆかりの神願寺と高雄山寺が、合併してできた仏寺で、正式名称は、「神護国祚(こくそ)真言寺」です(祚は、幸福という意味です)。

 神願寺は、和気清麻呂(称徳天皇/48代の時代には、宇佐八幡宮神託事件で、宇佐に派遣され、道鏡への皇位継承の神託なしを確認、桓武天皇/50代の時代には、平安京遷都を進言・尽力)が、奈良後期(781年)に創建したとされています。

 一方、高雄山寺は、山岳修行僧達の道場が、発祥とみられ、平安初期(799年)に、和気清麻呂の墳墓となり、それ以降、和気氏の菩提寺となったようです。

 高雄山寺は、最澄や空海にゆかりがあり、最澄は、和気広虫(清麻呂の姉で、孝謙=称徳天皇/46・48代の女官で、側近)の3周忌(802年)の法事供養に、『法華経』を講義しました。

 最澄は、そののち、桓武天皇の命令で、唐へ短期留学し(804年)、天台教学を修得、帰国(805年)後には、自分が持ち帰った密教が不充分だったので、高雄山寺で空海から、密教を伝授してもらっています(812年)。

 空海は、最澄と同時期に、唐へ長期留学しましたが、20年の予定を2年で切り上げて帰国したため(806年)、当初は、入京できず、数年を大宰府・観世音寺で滞在しました。

 最澄の尽力で、入京が許可されると、空海は、高雄山寺に入山(809年)、皇室・貴族に、密教の呪術性を強調した加持祈祷を、浸透させていきました。

 特に、嵯峨天皇(52代)は、平城天皇(51代)との対立(薬子/くすこの変、810年)で、空海に戦勝祈願してもらったので、平城天皇らを排除でき、これを契機に、皇室・貴族は、空海を帰依しました。

 この時点で、最澄は、平安京外の北東部(鬼門)の山岳の、比叡山延暦寺を、空海は、平安京外の北西部の山岳の、高雄山寺を、拠点としていたことになります。

 嵯峨天皇は、空海に、高野山金剛峰寺の創建を許可したり(816年)、平安京内の東寺(教王護国寺)の運営を委任しており(823年)、両寺は、田舎と都会の真言密教の根本道場として繁栄しました。

 そののち、神護寺は、火災焼失等で、一時衰退し、平安末期に、文覚(もんがく)が、後白河法皇(77代)や源頼朝の援助で再興しましたが(東寺も高野山も)、戦国期には、兵火で全焼、江戸前期にも、再興され、明治維新の廃仏毀釈でも、一時衰退し、昭和前期にも、再興されています。

 

 このように、空海は、次の3寺に、とてもゆかりがあるといえます。

 

※平安2宗:山岳修行を重視

・最澄:比叡山延暦寺 ~ 平安京外の北東部の山岳

・空海:高雄山寺(現・神護寺) ~ 平安京外の北西部の山岳

 

※空海:真言密教の根本道場

・田舎=高野山金剛峰寺 ~ 胎蔵界曼荼羅

・都会=平安京内の東寺 ~ 金剛界曼荼羅

 

 高野山は、8つの峰々に囲まれ、蓮(ハス)の花が開いたような盆地に立地するので、中央が蓮の花で内包(内へ包容)しようとする、胎蔵界曼荼羅(後述)を、東寺は、碁盤目状の平安京内に立地するので、中央から四方へ外延(外へ延長)しようとする、金剛界曼荼羅(後述)を、想起します。

 

 

 

●楼門

 

 江戸前期(1629年)の再建で、両脇に2天王(南脇に増長天・北脇に持国天)立像が安置されています。

 

 この2天は、4天王のうち、それぞれ東方・南方を守護する神で、4天王は、次のようで、北方を守護する毘沙門天も、毘沙門堂に安置されています。

 

※4天王:四方の守護神 ~ 国家鎮護:『金光明最勝王経』に基づく

・東方:持国天 → 楼門

・南方:増長天 → 楼門

・西方:広目天

・北方:多聞天(毘沙門天) → 毘沙門堂

 

 

 

●金堂

 

 昭和前期(1935年)に、大阪の実業家・山口玄洞の寄進で再建され、間口7間×奥行6間・入母屋屋根・本瓦葺で、本尊は、薬師如来立像、周囲には、日光菩薩・月光菩薩立像や、12神将立像・4天王立像が、安置されています。

 日光菩薩・月光菩薩は、薬師如来のそれぞれ左右の脇侍(薬師3尊)、12神将は、薬師如来を守護する神で、これらは、『薬師経』に基づきます。

 12神将は、宮毘羅(くびら)・伐折(ばさ)羅・迷企(めき)羅・安底(あんて)羅・頞儞(あんに)羅・珊底(さんて)羅・因陀羅(いんだ)・波夷(はい)羅・摩虎(まこ)羅・真達(しんだ)羅・招杜(しょうと)羅・毘羯(びか)羅の12大将で、12方位(12支)に配当します。

 真言密教は、対外的な皇室・貴族の儀式では、顕教の流行仏だった薬師如来を中心とし、病気治癒・怨霊退散(薬師悔過/けか)の現世利益を祈願する一方、対内的な僧達の修行・修学では、密教の根本仏である大日如来を中心とし、密教的世界観を表現することで、使い分けていました。

 余談ですが、最澄の天台教学は、『法華経』に基づき、根本仏は、釈迦如来で、学問中心の理論的な奈良仏教から、修行中心の実践的な平安仏教へと、移行する際に、古いものを捨て去り、新しいものを取り入れたのではなく、為政者の需要に対処し、薬師如来の加持祈祷を供給しました。

 こうして、平安前期には、安定した社会の理想から、生について、現世利益の薬師如来で対応した一方、平安後期には、社会が不安定化した現実から(末法元年が1052年)、死について、来世利益の阿弥陀如来で対応しています(浄土教)。

 

 これらをまとめると、次のようです。

 

※仏教

・奈良6宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗):理論(理法)的、学問中心

・平安2宗(天台宗・真言宗):実践(実行)的、修行中心

 

※真言密教:外/内

・対外的=皇室・貴族の儀式:流行仏の薬師如来が中心 → 加持祈祷で現世利益

・対内的=僧達の修行・修学:根本仏の大日如来が中心 → 密教的世界観

※天台教学=『法華経』に基づく:根本仏の釈迦如来が中心

 

※生/死

・生=現世利益:薬師如来 ~ 東方の瑠璃光浄土:顕教

・死=来世利益:阿弥陀如来 ~ 西方の極楽浄土:浄土教

 

 

▽薬師如来

 

 

●高雄曼荼羅

 

 密教は、手に印を結び、口に真言を唱え、心に曼荼羅(まんだら)を観想すれば(身口意)、仏と一体化するとされ(即身成仏)、そのためには、感性が必要で、出家の高僧が内陣で護摩焚(ごまだき)し、在家の皇室・貴族が外陣に列席することで、5感が刺激されるので、官能的な仏教といえます。

 曼荼羅は、密教の世界観を図示したもので、両界曼荼羅は、『大日経』に基づく、退蔵界曼荼羅と、『金剛頂経』に基づく、金剛界曼荼羅の、一対をいい、空海が唐留学で日本に持ち帰っており、この高雄曼荼羅は、平安初期に、淳和天皇が発願したとされ、それをもとに、作成されたようです。

 退蔵界曼荼羅は、理法(理論、因)・認識(「ある」)段階での慈悲が表現され、同心円状で人々を救済・内包(内へ包容)し、害を少なくする守りといえ、東壁に設置するので(本尊は、北側中央に南面して安置)、上が東・下が西なので、左が北・右が南になり、儒教道徳の仁に呼応します。

 他方、金剛界曼荼羅は、実行(実践、果)・活動(「する」)段階での智恵が表現され、碁盤目状で人々を教化・外延(外へ延長)し、利を多くする攻めといえ、西壁に設置するので、上が西・下が東なので、左が南・右が北になり、儒教道徳の知に呼応します。

 ちなみに、福沢諭吉は、智徳(智恵と道徳)・才徳(才能と人徳)を、渋沢栄一は、論語と算盤(そろばん)を、重視しており、道徳(人徳)・論語は、仁に、智恵(才能)・算盤は、知に、相当するので、胎蔵界と金剛界の両界曼荼羅と共通し、人間の思考を突き詰めると、酷似するのがわかります。

 

 両界曼荼羅の対比は、以下のようになります。

 

※両界曼荼羅

・退蔵界曼荼羅=『大日経』に基づく:理法(理論、因)・認識(「ある」)段階での慈悲が表現

 → 同心円状で内包、害を少なくする守り、儒教道徳の仁

・金剛界曼荼羅=『金剛頂経』に基づく:実行(実践、果)・活動(「する」)段階での智恵が表現

 → 碁盤目状で外延、利を多くする攻め、儒教道徳の知

 

▽高雄曼荼羅・胎蔵界

 

▽高雄曼荼羅・金剛界

 

 

●五大堂

 

 江戸前期(1623年)に建立され、3間角・向拝付の入母屋屋根・銅板葺で、5大明王(中央の不動明王、東方の降三世/ごうざんぜ明王、南方の軍荼利/ぐんだり明王、西方の大威徳明王、北方の金剛夜叉明王)像を安置していますが、元・講堂で、講堂は、対内的な僧達の修行・修学の場でした。

 

 

●毘沙門堂

 

 江戸前期(1623年)に建立され、5間角・入母屋屋根・銅板葺で、北方を守護する毘沙門天立像を安置していますが、元・金堂で、金堂は、対外的な皇室・貴族の儀式の場でした。

 

 だから、東寺の金堂と講堂と同様、次のように、2堂が南北に直列していると、理解できます。

 

※仏堂:外/内

・南側:毘沙門堂 ← 金堂=対外的:皇室・貴族の儀式の場 ~ 薬師如来

・北側:五大堂 ← 講堂=対内的:僧達の修行・修学の場 ~ 大日如来

 

 

 

●大師堂

 

 江戸前期に、細川忠興の寄進で再建され、間口4間(南面)か5間(北面)×奥行3間・入母屋屋根・柿(こけら)葺で、住宅風の仏堂です。

 大師とは、弘法大師・空海をいい、空海の高雄山寺の住房(納涼房/どうりょうぼう)を再興したものとされ、住宅風なので、組物(柱頭の装飾)がなく、非瓦葺で、本堂とは対照的です。

 

 

●鐘楼

 

 江戸前期に、京都所司代の板倉勝重の寄進で再建され、梵鐘(三絶之鐘)は、平安前期(875年)の作です。

 

●多宝塔

 

 昭和前期(1935年)に、山口玄洞の寄進で再建され、一木造の5大虚空蔵菩薩座像を安置し、5大虚空蔵は、密教の5智如来(中央の大日如来、東方の阿閦/あしゅく如来→薬師、南方の宝生/ほうしょう如来、西方の観自在王如来→阿弥陀、北方の不空成就如来→釈迦)の化身とされています。

 曼荼羅では、中央が法界(ほっかい)虚空蔵(白色)で、東方が金剛虚空蔵(黄色)、南方が宝光虚空蔵(青色)、西方が蓮華虚空蔵(赤色)、北方が業用(ごうよう)虚空蔵(黒色)となっていますが、多宝塔では、西から東へ、金剛→業用→法界→蓮華→宝光の順序で配置されています。

 5大は、万物の5元素(地・水・火・風・空)が由来ともいわれますが(色は、それぞれ黄・白・赤・黒・青が配当)、中心+4方位も意味しており、これは、大日如来をはじめとする、5智如来と呼応します。

 虚空蔵菩薩は、天空・大空(おおぞら、虚空)のように、広大な智恵で、人々を教化しようと外延し、求聞持法(ぐもんじほう、密教の修法のひとつ)の本尊とされています。

 虚空蔵菩薩と対比するのは、地蔵菩薩とされ、地蔵菩薩は、土地・大地のように、広大な慈悲で、人々を救済しようと内包します。

 つまり、虚空蔵菩薩は、天の父で、地蔵菩薩は、地の母といえます。

 6地蔵は、6道輪廻のどこでも、地蔵菩薩が救済することを意味します。

 6道の地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道で、救済する地蔵菩薩は、それぞれ檀陀(だんだ)地蔵・宝珠地蔵・宝印地蔵・持地(じじ)地蔵・除蓋障(じょがいしょう)地蔵・日光地蔵か、金剛願地蔵・金剛宝地蔵・金剛悲地蔵・金剛幢(とう)地蔵・放光王地蔵・預天賀地蔵です。

 

 虚空蔵菩薩と地蔵菩薩の対比をまとめると、次のようになります。

 

※菩薩:天/地

・虚空蔵菩薩=天の父:大智恵で教化・外延 ~ 知、攻め

・地蔵菩薩=地の母:大慈悲で救済・内包 ~ 仁、守り

 

※5虚空蔵菩薩:中央+四方に対応 ~ 5智如来

・中央:法界虚空蔵(白) ~ 大日如来の化身

・東方:金剛虚空蔵(黄) ~ 阿閦如来の化身 → 薬師如来と同一視

・南方:宝光虚空蔵(青) ~ 宝生如来の化身

・西方:蓮華虚空蔵(赤) ~ 観自在王如来の化身 → 阿弥陀如来と同一視

・北方:業用虚空蔵(黒) ~ 不空成就如来の化身 → 釈迦如来と同一視

 

※6地蔵菩薩:6道に対応

・地獄道:檀陀地蔵、金剛願地蔵

・餓鬼道:宝珠地蔵、金剛宝地蔵

・畜生道:宝印地蔵、金剛悲地蔵

・修羅道:持地地蔵、金剛幢地蔵

・人道:除蓋障地蔵、放光王地蔵

・天道:日光地蔵、預天賀地蔵

 

 

▽5大虚空蔵菩薩

 

文化(芸術・スポーツ)堪能の流儀

徳治/法治と道義的責任/法的責任

サッカー日本代表の監督・選手間の関係と孔子型/老子型

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●スポーツの堪能:過程+連続性

 

 スポーツを堪能するには、まず、勝敗の結果よりも、その過程のほうを、味わい尽くすことが、大切です。

 つぎに、他人が、一部を切り取った、ダイジェスト(要約)やハイライト(見所)ではなく、自分が、始めから終りまで全部を観賞した、ノーカット(連続性)を、最重要視すべきで、結果や切り取りは、断片化された情報にすぎず、それだけでは、とても感動できません。

 

 

●スポーツの観賞:選手の外形を見て、観客の内心が入る

 

 そして、スポーツを観賞した際には、次のように、選手の振る舞い(外形)を見て、そこに観客の感情(内心)が入って、感動したり、つまらなかったりするので、観客の内心が、選手の内心と、一致することは、ありえません。

 

※スポーツの観賞

・外形(外面):選手の振る舞いを見る

・内心(内面):観客の感情が入る → 感動するか、つまらないか

 

 つまり、感動は、選手が故意にさせるものではなく、観客が不意にするもので、つまらない試合もあるからこそ、感動する試合もあるのです。

 だから、選手が、早く負けても、観客が、感動することも、極稀にあり、勝利と感動が、必ず比例するとは限らず、そうなるのは、結果よりも、過程のほうが、大切な証拠です。

 

 

●各種スポーツ文化の相違点

 

 さて、スポーツは、1対1での対戦型と、複数人での競技型・演技型に、大別でき、対戦型は、他人(達)との戦いといえ、点数で、勝敗が決定する一方、競技型・演技型は、自分(達)との戦いといえ、競技型は、客観的・明確な量で、演技型は、やや主観的・曖昧な質で、勝敗が決定します。

 そのうえ、接触(コンタクト)の度合により、ここでは、非接触系・半接触系・接触系としましたが、接触の度合が多いほど、相手を邪魔(ディフェンス、守り)して得点(オフェンス、攻め)するので、審判のジャッジ(判定)も難しくなりがちで、それらを、まとめると、次のようです。

 

○非接触系

・非接触系演技型:複数人が接触せずに演技し、質(美醜)で勝敗が決定

 → 体操、新体操、トランポリン、フィギアスケート、水泳飛込、シンクロ、…

・非接触系競技型:複数人が接触せずに競技し、量(遅速・長短・高低・多少・軽重)で勝敗が決定

 → 陸上、競泳、ゴルフ、ウエイトリフティング、…

・非接触系対戦型:1対1で接触せずに対戦し、点数で勝敗が決定

→ テニス、バドミントン、卓球、バレーボール、カーリング、…

○半接触系

・半接触系対戦型:1対1でやや接触して対戦し、点数で勝敗が決定

 → フェンシング、剣道、野球、ソフトボール、バスケットボール、ホッケー、…

○接触系

・接触系対戦型:1対1で接触して対戦し、点数で勝敗が決定

→ レスリング、柔道、ラグビー、アメフト、ハンドボール、サッカー、…

 

 スポーツを選手側からみると、競技型・演技型は、自分のベストを出そうと尽くすしかできないですが、対戦型は、相手の攻めと守りのパターンを研究し、自分(達)の長所を出しつつ、短所を消し、他人(達)の長所を消しつつ、短所を出すことが、求められるので、いやらしさがあります。

 一方、スポーツを観客側からみると、観賞の目的が、技術の高さを見て楽しむことと(第三者的)、特定の人(達)を応援して楽しむことに(当事者的)、あるとすれば、高いパフォーマンスを見たい、第三者的よりも、特定の人(達)が勝つのを見たい、当事者的のほうが、差別的になりやすいです。

 また、接触するスポーツほど、いやらしさもあるので、競技型・演技型よりも、対戦型のほうが、差別的になりやすいので、対戦型や当事者的な応援には、非難のブーイングもあり、このような各種の異なりが、スポーツ文化の違いになるのです。

 ちなみに、選手には、各種共通で、試合のルールを遵守し、相手・仲間や審判をリスペクト(尊重)する、スポーツマン・シップが要求されますが、日本では、それを私生活にまで拡大適用し、道義的責任で追及されるおそれもあります。

 ですが、それを容認すると、道義的責任が濫用され、誹謗中傷にも、つながってしまうので、法(内規)的責任のみで処分するべきです。

 

恥の文化/罪の文化

普遍的日本論3~本性以外の中国・日本

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●前近代の日本の徳と恥/欧米の法と罪

 

 アメリカの文化人類学者のルース・ベネディクト女史は、『菊と刀-日本文化の型』(1946/昭和21年に出版)で、日本を、恥を基調とする文化(恥の文化)、欧米を、罪を基調とする文化(罪の文化)と、区分しましたが、それらには、それぞれ前提とすべき概念を、考慮する必要があります。

 日本が恥の文化といえるのは、個人の徳(内心)が前提にあり、徳に反する(悪徳・不徳)ならば、社会の恥(外形)となるから、欧米が罪の文化といえるのは、社会の法(外形)が前提にあり、法に反する(違法・不法)ならば、個人の罪(内心)となるからで、それらは、次のようです。

 

※個人‐社会

・日本:個人の徳(内心)が前提 → 悪徳・不徳=社会の恥(外形) ~ 恥の文化

・欧米:社会の法(外形)が前提 → 違法・不法=個人の罪(内心) ~ 罪の文化

 

 こうして、日本は、徳が前提で、欧米は、法が前提だといえるのは、次のような、理由からです。

 

○前近代の日本:法の軽視・徳の重視

 前近代の日本は、古代には、朝廷が、中国から律令を摂取しましたが、律(刑律)・令(政令)を変更(改正)せず、格(補足・修正の法令)・式(施工細則)の次々追加で対応し、天皇親政・貴族政から武家政へ移行しても、律令は、形骸化しながらも温存され、幕末まで廃止しませんでした。

 中世には、鎌倉幕府・室町幕府が、貞永(御成敗)式目・建武式目を変更(改正)せず、法令の次々追加で対応しました。

 ですが、律令・式目とは真逆の格式・法令も躊躇なく追加され、状況しだいで、都合よく、改変したので、遵守すべき法があったとはいえません。

 近世には、江戸幕府が、各種の法度(はっと)を制定しましたが、たとえば、赤穂47士は、法に訴えず、私裁の敵討(かたきうち)を行い、幕府も、法より徳で(死罪より切腹)、かれらを処分するほど、儒教道徳が重視されていました。

 近代(戦前・戦中)には、当初、文明先進国の欧米のように、法の遵守を重視しようとしましたが、しだいに、軍人勅諭・教育勅語・国定教科書・戦陣訓等で、日本独自の、天皇への忠孝・一大家族国家観が絶対化されました。

 特に、武士は、中世には、主君が徳(御恩)を提供し、主君への忠(奉公)が、家への孝につながれば服従し、つながらなければ離反する、家礼型臣下(忠孝分離)と、主君の徳が圧倒的で、主君への忠が、家への孝につながると信奉するしかない、家人型臣下(忠孝一致)が、並存していました。

 しかし、近世には、戦乱の終結で、主君が固定化したので、身分・地位・家柄の維持や出世のために、武士全員が家人型臣下になり、町人も、商人は、旦那(だんな)‐番頭‐手代(てだい)‐丁稚(でっち)、職人は、親方‐子方と、地位が固定化したので、上位への忠が必要でした。

 それが近代には、君主の天皇が国の父、皇后が国の母、全国民が国の子とみなされ(一大家族国家観)、天皇・皇后への忠が、天皇家=日本国への孝につながると信奉するしかない、臣民が創出されています(忠孝一緒)。

 それをもとに、先の大戦では、天皇家=日本国の永久不死・不滅のため、全臣民の必死・必滅(一億玉砕)が強要され、甚大な犠牲となりました。

 ここまでみると、いずれの時代も、根本法を置き去りにし、時代とともに、評価基準が曖昧な、徳が優先され(徳治)、徳の対象を徐々に拡大していき、数々の戦争で、個人の私的な内心(内面)の、道徳規範を肥大化させ、社会の公的な外形(外面)の、国家繁栄と直結させました。

 忠孝一致は、中国の儒教でも、君主(皇帝)への忠が、家への孝につながる、役人には、当て嵌まりますが、人民には、皇帝・役人への忠を要求しておらず(なびかせようとする程度)、納税を要求し、皇帝の臣民ではないので、一大家族国家観や、忠孝一緒(一君万臣民)は、日本独自なのです。

 

○前近代の欧米:法の重視

 ヨーロッパは、古代には、ローマ法、中世には、キリスト教法、近世・近現代には、世俗的な実定法と、いずれの時代も、評価基準が明確な、法が優先されました(法治)。

 そのうえ、近世の絶対王政や、欧米の近現代の民主政は、社会の公的な外形(外面)では、法律を確立するとともに、個人の私的な内心(内面)では、自由が確保され、この自由は、他者の自由を犠牲にしない範囲での、自己の自由です。

 つまり、欧米では、近世に、社会の公的な外形は、実定法(慣習・立法・判例で規定)、個人の私的な内心は、宗教法(宗教倫理・道徳で規定)と、住み分けたので、個人と国家を直結させなくなりました。

 

 

●前近代の中国:支配者層には徳、被支配者層には法

 

 前近代の日本は、法の軽視・徳の重視、欧米は、法の重視と、対照的でしたが、前近代の中国は、支配者層の皇帝・役人(中央・地方)には、儒教道徳が要求され、有徳者(聖人・君子)であることが、支配の正当性で、非支配者層の人民(小人)には、儒教道徳を要求せず、法規で支配しました。

 すなわち、支配者層は、個人の徳(内心)が前提で、被支配者層は、社会の法(外形)が前提と、住み分けており、それらは、次のようです。

 

※中国

・支配者層(特定少数):個人の徳(内心)が前提(徳治)

・被支配者層(不特定多数):社会の法(外形)が前提(法治)

 

 支配者層は、自分達の都合のいいように、法律・規則(外面、形)を制定・改正・廃止できる立場にあるので、道徳・倫理(内面、心)を必要とし、官僚は、儒教等を試験する科挙で、しだいに選出されるようになり、法律・規則は、道徳・倫理に反しないことが、前提条件になります。

 古代中国では、周王朝が、儒家の主張した徳治主義でしたが、徳治は、特定少数にしか通用せず、武力で春秋・戦国時代の争乱になり、秦王朝が、不特定多数でも通用する、法家の主張した法治主義で、中国全土を統一しましたが、過酷な法治だったので、すぐに滅亡しました。

 そうして、前漢王朝以降は、支配者層の皇帝・役人には、徳を、非支配者層の人民には、法を、重視することが、定着しました。

 なお、前近代の君主制の法治国家は、君主が法の対象外になりがちでしたが、近現代の民主制の法治国家は、中央・地方のトップ自体が人民から選出され、中央・地方政府の中枢や役人も、法の対象内なので、支配者層・被支配者に関係なく、法のもとの平等です。

 

 前近代の中国で、皇帝・役人・人民は、次のようなことが、要求されます。

 

○皇帝の天命思想・王朝交代の易姓革命

 まず、皇帝は、周辺国の異民族も、中国に侵入・征服し、王朝を樹立したので、皇帝を血統(外形)以外で正当化しなければならず、それが道徳(内心)でした。

 よって、そこから、天(天帝・上帝)が、皇帝(天子)にふさわしい有徳者へ(実際は武力で制圧)、中華(中国大陸の中央=世界の中心)の統治を委任するという思想が、定着しました(天命思想)。

 中国の皇帝は、有徳者であるとともに、官吏は、儒教道徳で選抜されたため、政権には有徳者ばかりなので、善政・徳政が当然になり、それが連続すれば、皇帝の子孫も有徳者とみなされ、帝位を世襲、後宮と宦官で血統を維持し、後継者には、帝王学を教育しました。

 でも、悪政・失政が連続すれば、名目上は、天意(天命)で、実質上は、民意(民衆の反乱)で、現王朝を滅亡させ、別の有徳者が皇帝となり、新王朝が樹立されるという思想も定着し(易姓革命)、王朝交代が反復するようになりました。

 

○役人を徳治

 つぎに、役人は、徳治されましたが、徳治とは、道徳・倫理(内心)による統治で、特定少数にしか通用せず、日本で戦時に、全臣民を徳治できたのは、単一民族・単一文化だったからでしょう。

 

○人民を法治

 さらに、人民は、法治されましたが、法治とは、法律・規則(外形)による統治で、不特定多数にも通用するので、欧米等の、多民族・多文化に、有効です。

 

○人民を礼治

 皇帝・役人(聖人・君子)は、人民(小人)に、儒教道徳を要求せず、納税を要求しましたが、聖人・君子の徳で、小人の徳を、なびかせようとしました。

 そのために、人民は、礼治もされましたが、礼治とは、礼(儀礼)・楽(音楽)による統治で、内心の道徳でなく、外形の礼楽で、したがわせようとしました。

 礼楽は、たとえば、欧米の学校には、校内行事の全校集会(始業式・終業式等)・運動会・学芸会や、校歌がほとんどなく(校歌斉唱も)、これらは、近代日本の式典での礼楽復古に由来し、大勢の人々を、無意識で自然に、したがわせるのに、有効です。

 古代中国の諸子百家では、儒家の孔子・孟子(性善説)による徳治主義(内心)→儒家の荀子(性悪説)による礼治主義(外形)→法家の管子・商子・韓非子による法治主義(外形)へと、進展しました。

 儒家は、詩・書・礼・楽(『詩経』・『書経』・『礼記』・『楽記』)等を重視しましたが、それらには、古代中国の伝説上の帝王達の、それぞれ詩歌・歴史・儀礼・音楽等による徳治の先例(先王の道)が記述されているとし、統治の模範としました。

 また、中国の歴代王朝は、礼・楽・刑・政(儀礼・音楽・刑律・政令)を重視しましたが、礼楽は、徳治(内心)の礼治(外形)化、刑政は、律令による法治(外形)で、これらは、いずれも、外形で、したがわせようとしています。

 

 

●道義的責任/法的責任

 

 徳治と法治に関連する責任は、道徳・倫理(内心)に反した際の、道義的責任と、法律・規則(外形)に反した際の、法的責任が、あります。

 道義的責任は、基準が曖昧で、相対的に判断し、能動的・自発的に、個人が責任をとる一方、法的責任は、基準が明確で、絶対的に判断され、受動的・強制的に、社会によって責任をとらされ、それらは、次のようです。

 

※責任

・道義的責任:相対的(基準が曖昧)、能動的・自発的(責任をとる) ~ 徳治

・法的責任:絶対的(基準が明確)、受動的・強制的(責任をとらされる) ~ 法治

 

 道義的責任は、法的責任がなくても、道徳・倫理に反していれば、責任をとる場合と、法律・規則が未整備ならば、法的責任で追及できないので、道義的責任のみに依存する場合が、あります。

 ここで注意したいのは、法規(外形)の正否は、客観的・明確である一方、誠意(内心)の有無は、主観的・曖昧なので、際限なく、道義的責任を濫用するおそれがあることで、誹謗中傷は、道徳・倫理に反していることが原因なのが、大半です。

 道義的責任の濫用の例としては、サービス業等で、不当な対応が微小なのに、過大な謝罪を要求する、行き過ぎで理不尽・迷惑なクレームの、カスタマー・ハラスメント(カスハラ)があり、これは、不当の度合で、謝罪の度合を決定する必要があり、法的責任のとらせ方に近似させるべきです。

 道義的責任の濫用の究極が、敗戦直後の一億総懺悔(ざんげ)で、天皇・軍部・政府の戦争責任を、財界・思想界・国民にも道義的責任があったと、なすりつけ、責任の範囲を広範にし、責任を希釈・回避しようとしました。

 なので、まず、内心的に、戦争の主導者は、道義的責任をとるのが、普通ですが(たとえば、中曽根康弘・石原慎太郎・渡邉恒雄は、昭和天皇には、戦争責任があり、敗戦後に、退位すべきだったと、発言しています)、それが不充分で、外形的に、東京裁判によって、法的責任をとらせたのです。

 他方、法的責任は、事実を確認し、法律・規則に反していれば、処分・刑罰が判断されますが、基本原則は、罪と罰のバランスで、小さな罪には、小さな罰、大きな罪には、大きな罰なのが、適正です。

 法的責任には、犯罪者に刑罰させる(死刑・投獄・罰金等)、刑事上の責任と、加害者に損害賠償させる(金銭に換算)、民事上の責任が、あります。

 したがって、近現代の民主制の法治国家では、法律・規則を制定・改正・廃止できる立場にある、上の者(支配者層、為政者・経営者)には、法的責任と道義的責任があり、その立場にない、下の者(被支配者層、国民・社員)には、法的責任のみがあるとみるのが、通例です。

 だから、もし、下の者にも、道義的責任を要求するならば、上の者が、下の者を、したがわせようとしているからだと、読み取ることができ(たとえば、道徳のない政治家が、学校で道徳を教科化)、上の者が、まったく道義的責任をとろうとしないならば、ならず者の専制国家とみていいでしょう。

 

 

●異様な日本:道義的責任の濫用

 

 日本は、戦時に道徳が、個人から国家へと、異様に肥大化したので、その名残から、法治国家なのに、現在も、道義的責任で、安直に問題を解決しようとしがちで、法的責任ならば、その過程も可視化しますが、道義的責任ならば、辞任・辞退等の結果のみで、事実がウヤムヤになってしまいます。

 それに、法治よりも、徳治のほうを、優先するということは、「みせしめ」が露見することにも、なるのです。

 

○法規より道徳が支配的:上の者が強制せず、下の者に自発させる

 たとえば、高校では、停学が積み重なって、退学させる際、まず、教師側が、法規(内規)的に、退学処分せず、生徒側へ、道徳的に、自主退学させるよう、誘導する傾向にあります。

 これは、もし、教師側が退学処分し、生徒側が不服で裁判になれば、退学の根拠となった事実を正確に把握し、処分が過重・報復でなく、公平・公正で、教育上やむをえず、手続も形式的・機械的でなかったことを、証明しなければならないからです。

 それで、その処分や手続が不当・違法となれば、後々相当厄介なので、それを回避するためもあるのでしょう。

 退学等の重大な処分には、充分な検討・適切な判断が要求されるので、上の者が、刑罰で処分することで、手を汚さず、下の者に、潔さを尊重させたという主張のもと、死刑でなく、切腹させるようなもので、姑息で卑怯な手法といえます。

 

○「みせしめ」が露見:違反(犯罪)の度合と、処分(刑罰)の度合が、釣り合わない

 上の者による「みせしめ」は、下の者に対して、再発を抑止するため、世間に対して、対処が充分だと強調・誇張するためで、だから、法規の違反・犯罪の重さよりも、処分・刑罰の重さのほうが、過剰になるのです。

 ちなみに、古代中国の秦王朝は、過酷な法治主義でしたが、軍法の規定で、遅刻すれば、斬首だったので、罪と罰が釣り合わず、兵士の陳勝・呉広は、遅刻で斬首になるくらいならば、反乱しようと思い立ち、それをきっかけに、秦は、短期で滅亡しました。

 このように、厳罰な法治は、軍隊・警察等の武力と、恐怖政治・「みせしめ」等で、いつも国民を充分に抑圧しておかないと、反乱・革命が勃発し、短命になってしまいます。

 余談ですが、「みせしめ」国家・恐怖政治の代表は、儒教道徳が発達した、北朝鮮や中国ですが(裁判は、非公開で不透明)、日本も、名目上は、法治国家ですが、実質上は、現在でも、「みせしめ」が見え隠れするのが、現状です。

 

 以上を背景としたうえで、未成年(未成人)の選手が飲酒・喫煙した際、協会(上の者)が処分せず、選手(下の者)に代表を辞退させたのをみると、次のように、日本特有の、道義的責任の濫用の一例といえます。

 

・法規より道徳が支配的:上の者が法(内規)的責任をとらせずに、下の者が道義的責任をとった

・「みせしめ」が露見:軽微な飲酒・喫煙と、過重な代表取消が、釣り合わない(だから辞退させた)

 

 未成年に、道義的責任を要求することは、トンデモナイことだと、認知されない国家は、税金が投入されているという主張のもとで、道義的責任が濫用され、誹謗中傷が蔓延するでしょう。

 

建築の造形(外面)/機能(内面)1・2

内容(内面)のない・みえない外形(外面)は、独り歩きする

内容(内面)を外形(外面)の一部とみて、内外一体とする

外面/内面と個体/全体

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 建築家の磯崎新は、「都市デザインの手法」(『建築年鑑1963』・『建築文化』1963年12月号、『空間へ』・『日本の都市空間』に収録)で、都市・建築の計画的方法の概念が、次の4段階に推移・発展したとし、それらは、前段階を包含・消化しながら、新段階に解消するとみています。

 

・実体論的段階

・機能論的段階

・構造論的段階

・象徴論的段階

 

 なお、この4段階は、ドイツの哲学者のエルンスト・カッシーラーの言説をもとにしていますが、都市・建築の実体は、形態・空間や構成要素なので、各段階で、最終的には、実体に引き戻す必要があります。

 ここでは、その4段階を、私なりに、まとめることにし、各段階での典型的な都市を、取り上げることにしました。

 

 

●実体論的段階:様相(相)優先、 ~ 前近代、物的・可視的

 

 実体とは、そのものの正体・本質をいい、その本質が、個物(固有名)にあるのか、個物を超越した普遍(一般名、イデア)にあるのかで、対立・論争されてきましたが、たとえば、前近代のヨーロッパでは、建築を普遍とみるのか、広場・街路等の都市を普遍とみるのかで、二分できます。

 建築を普遍とみるのは、神殿・宮殿・教会等があり、いずれも、中心性・対称性・正面性等で、部屋を建築の一部として、したがわせており、それぞれ神・王・宗教等の永遠・普遍が表現されています。

 都市を普遍とみるのは、四周の建築に取り囲まれた広場や、両側の建築に挟み込まれた街路があり、それらも、中心性・対称性・正面性等で、建築を都市の一部として、したがわせており、これも永遠・普遍が表現されているといえます。

 この両者は、建築を主(図)、街路・広場を従(地)とみるのか、街路・広場を主、建築を従とみるのかの、違いですが、いずれも、何かをしたがわせているのは、同じで、したがわせた、建築での部屋や、都市での建築は、内面の機能(用)よりも、外面の様相(相)のほうを、優先させています。

 つまり、いずれも、物的な様式・美的な造形を重視し、可視的な物体(外物)・形態(外形)どうしを調和・統一させようとしています。

 建築を普遍としたのは、自然発生的な、古代都市や中世都市で、このうち、中世都市は、教会・庁舎・広場・市場等を中心、城壁を周縁とし、集合住宅が不規則な道路網で、分権社会を反映しており、部分が優先です。

 一方、都市を普遍としたのは、人為計画的な、ルネサンス理想都市やバロック都市で、このうち、バロック都市は、放射状の街路と、それが交差する広場での、中心性・対称性・正面性等で、集権社会を反映しており、全体が優先です。

 

○バロック都市

 バロック様式とは、静的な円形等、均整や調和のある、ルネサンス様式とは対照的に、動的な楕円形等、迫力のある、劇的な芸術表現をいいます。

 バロック都市は、まず、16世紀末から、ローマ教皇のシクストゥス5世が、ローマをわかりやすく巡礼できるよう、地形の起伏を無視し、教会・広場(+オベリスク・記念碑)どうしを直線街路で結び付け、改造したのに、はじまります。

 つぎに、17世紀後半には、フランス国王のルイ14世が、政治+生活の中心として、放射状の軸線を多用し、整然とした、幾何学式庭園の、ベルサイユ宮殿+都市を造営しました。

 さらに、19世紀後半には、ナポレオン3世の帝政下で、セーヌ県知事のオースマンが、首都パリを、諸施設どうし直線街路で結び付け、道幅を拡張し、建築ファサードを統一、中心のシテ島に公共施設を集積する一方、周縁の四方に、ほぼ風景式庭園の森・公園を整備する等、大改造しています。

 

 

●機能論的段階:作用(用)優先 ~ 近代:工業社会

 

 機能とは、役割・作用や活動の能力をいい、産業革命での工業化と大量生産により、道具・機械が発達することで、機能が優先されるようになりました(機能主義)。

 アメリカの建築家のルイス・サリヴァンは、「形態は機能にしたがう」といい、内面の機能(用、働き)を、外面の様相(相、装い)に、そのまま表現すべきとし、前近代での外物・外形の様式美から、近代での内実の機能美へと、追求が変化しています。

 フランスの建築家のル・コルビュジェは、「住宅は住むための機械である」といい、工学技師が、商船には、水に浮かび進む機能、飛行機には、空を飛ぶ機能、自動車には、道を走る機能を満足させたように、建築家は、住宅には、住む機能を満足させるべきだとしました。

 しかも、商船は、魚の、飛行機は、鳥の、自動車は、獣の、動作をそのまま模倣していないように、住宅も、その機能を論理的に研究し、合理的に実現する必要があるとしています。

 また、産業革命とともに、階級社会から市民社会へ変革したので、市民が使用する、工場・学校・オフィス・ホテル・病院・駅舎・空港・公共施設等、新規のビルディング・タイプが必要にあり、それらは、人々の行為を抽出し、その諸機能を図式化・体系化し、建築の実体に表現しました。

 機械は、固定的な機能で、それを要素に分解し、部品(部分)に各機能を付与し、それらを組み立てて、装置(全体)を構成するので、個体の総和が全体といえますが、これを建築・都市に持ち込むと、機械論的・無機的になりがちです。

 それで、機能に合わせて建築の形態・空間を作りすぎると、やがて、機能不全になれば、転用できず、建築解体の危機が到来し、使い捨ての短命にもなりかねません。

 サリヴァンは、「形態は機能にしたがう」とともに、「機能が変化しないところでは、形態は変化しない」ともいっており、これは、機能(内面)が変化すれば、形態(外面)も変化する、という意味です。

 ここまでは、モノ(外面の様相)と機能(内面の作用)の一対一対応でしたが、機能とは、英語のファンクションで、関係・関数(数学でのf)でもあるので、諸機能どうしの相互関連性も大切ですが、その第一歩が、機能どうしを近接させるか、遠隔させるかの、ゾーニングになります。

 

○ゾーニング都市

 ゾーニングとは、空間・領域を、用途別・機能別に区分することをいい、ゾーニング都市は、条例で、住居地域・業務地域・商業地域・工業地域等に区分し、各々に用途・形状・数量等を許可・規制することで、土地利用をコントロールします。

 これは、産業革命にともなう、賃労働者の過密で、都市環境が劣悪化し、スラム化・公害が顕著になるとともに、鉄道・自動車交通が発達したので、都心の工場群から、住宅群を郊外に離隔することが、はじまりでした(職住分離)。

 しかし、地域ごとで、機能を極度に分化・純化すれば、長距離・長時間移動しなければならず、不便になるので、大工場群等の離隔を前提に、諸機能を複合化し、都市居住を確保するため(職住近接)、別棟や上下階層でゾーニングしたうえで、エレベーターを設置して対応してもいます。

 なお、建築のゾーニングは、建築家が、各部屋の細部まで決定できるので、部屋どうしの関連性を重視できます。

 ですが、都市のゾーニングでは、階級社会から市民社会へ変革し、市民に土地所有者の自由が確保されたため、都市計画家が、各建築の細部まで決定できないので、建築どうしの関連性を軽視せざるをえず、つながりのない、寄せ集めで、バラバラになりがちです。

 

 

●構造論的段階:本体(体)優先 ~ 後近代:情報社会

 

 構造とは、多の個体から一の全体が成立する際の、構成要素の相互関係性だと、定義すれば、それらの個体が自立的なうえ、その相互関係も固定的で、硬直化してしまう、無機的な機械論を、想像しがちで、たとえば、建築・都市では、構造を、骨格という意味でみています。

 でも、近代では、無機的な機械論の行き詰まりから、後近代では、それとは対照的に、それらの個体が依存的なうえ、その相互関係も流動的で、柔軟に対応する、有機的な生命論(または生態学)を、想像するようになりました。

 たとえば、言葉・商品・芸術作品は、各々に意味・価値が、事前に内在しておらず、他との相互関係性の中で、事後に意味・価値が規定され、しかも、意味・価値が、しだいに変動していきます(構造主義、ソシュール・マルクス・ヴァレリー)。

 すなわち、言葉・商品・芸術作品が、一方から他方へ、伝達・売買・感動してはじめて、意味・価値があったといえ、そうできたのは、言葉・商品・芸術作品(外面の様相)に、力(魅力)があったからとし、意味・価値(内面の作用)の説明は、後付にすぎず、建築も、これらに類似しています。

 建築は、特定の機能(内面)を想定し、空間・形態(外面)を創造しても、それが機能不全になれば、その空間・形態自体に、力(魅力)がなければ、解体・建替で適切な機能が改変され、力があれば、保存・転用しようと、用途を画策することになります。

 したがって、建築の生成・消滅を勘案すれば、造形(外面)優先・機能(内面)後付になり、このように、建築は、絵画・彫刻のように、芸術作品(外面の様相、造形)だけで、存在することができず、利活用(内面の作用、機能)がなければ、放置・空家化することになります。

 ここまでみると、人々の活動(内面の作用)を喚起・誘発させる、魅力ある空間・形態(外面の様相)が必要で、造形優先・機能後付なので、これは、内面を外面の一部とみて、内外面合一の本体(体)が優先といえるのではないでしょうか。

 ちなみに、コルビュジェは、「住宅は住むための機械である」とともに、「建築は効用性の彼方(かなた)にある。建築は造形性にある」ともいっており、これは、建築が、機械のように、有用・機能(内面)を前提としつつも、それを超越した造形(外面)をこそ追求すべきだ、という意味です。

 そうなると、都市も、たとえば、道路は、人や車が通行するモノ、という単一で明確な機能性だけを想定しても、画一・均質・退屈なだけなので、多様で曖昧な快適性も画策するようになりました(都市は、コルビュジェのいうように、住む・働く・憩う・巡る、の4機能だけで割り切れません)。

 その際、都市のインフラを、樹木(ツリー)の幹・枝・葉、人体の頭脳・脊椎(せきつい)・器官・血管・神経等、生物の比喩や、核(コア)・軸(アクシス)・房(クラスター)等、多義語が、多用されましたが、これは、内面の機能を暗示した外面の様相で、内外面合一の本体の表現といえます。

 ただし、ウィーン出身の建築家のクリストファー・アレグザンダーは、人為計画的な都市が、序列的・階層的な、ツリー構造なので、単調・退屈だと批判し、様々な要素が網目状に絡み合い重なり合った、セミ・ラティス構造の、自然発生的な都市のように、複雑・活気を創造すべきだとしました。

 そのうえ、生命は、環境に適応しようとするので、人間も、建築・都市を計画する際には、周辺の既存の自然環境・都市環境に適応すべきで、抽象的な空間や時間ではなく、具体的な地域・場所(プレイス)や歴史・機会(場合、オケイジョン)を、創造の条件とする必要があるとしています。

 それに、都市は、道路等の都市基盤(インフラ)が不変・不動で(スケルトン)、建築が変化・変動(インフィル)とはいえず、むしろ、更新(新陳代謝)は、建築よりも、インフラのほうが、大変困難で、こうして、建築も都市も、生起・成長・衰退・消滅の過程を、みるべきだとしました。

 

○コラージュ都市

 コラージュとは、様々な異質で断片の素材を、貼り付けて並置させ、漸次的な統一性を構成しようとする、絵画技法をいい、コラージュ・シティは、イギリスの建築史家のコーリン・ロウが提唱し、都市は、寄り集まった要素が、辻褄の合うように作るべきだとしました(ブリコラージュ)。

 ロウは、大きなことをひとつだけ知っているのをハリネズミ型、多くのことを知っているのをキツネ型とし、近代建築は、科学・技術が優先の、抽象的な理想主義で、頑固な、ハリネズミ型、前近代建築は、歴史・伝統が優先の、具体的な経験主義で、柔軟な、キツネ型と、対比させました。

 そして、近代建築では、疎(ヴォイド)の中に、密(ソリッド)が集中している一方、前近代建築では、密の中に、疎が分散しているので、都市で、物体を図(フィギュア)、空間を地(グラウンド)とすれば、近代建築の都市は、地が、ヨーロッパの前近代建築の都市は、図が、大半といえます。

 そこから、地が大半で、単体が孤立した、近代建築の都市は、周囲や既存との時間的・空間的な連続性が切断され、短所としました。

 他方、ヨーロッパの前近代建築は、頑強で、容易に取り壊しできず、利活用するのが合理的なので、解体・新築ではなく、増改築・転用が多用されます。

 そのため、図が大半な、前近代建築の都市は、時間的・空間的な連続性が保持でき、こうして、複合体が関連しながら、多様な断片が集積・積層されるのが、長所です。

 よって、ロウは、ハリネズミ型の近代建築の手法さえも、都市の一部として、キツネ型の前近代建築の手法が、包含するように、コラージュすべきとしているので、各々が無関係な、私的な物体(ソリッド)を、徐々に関係づけながら、共的・公的な空間(ヴォイド)で、つなぐことになります。

 ここで注意したいのは、ロウが、前近代建築の都市でも、新しい建築が、古い建築を包含するように、コラージュしてきた歴史があると、みていることです。

 ゾーニング都市との相違点は、周囲や既存に、無関心・無関係になるのではなく、対外的・具体的な場所や機会による特殊性で、受動的に協調・同化するにせよ、対内的・抽象的な空間・時間による一般性で、能動的に衝突・異化するにせよ、何らかに関心・関係するようになったことです。

 そうした中で、都市計画の目的は、部分(建築や構成要素)の多様性と、全体(都市や地区)の統一性の、両立にあります。

 

 

●象徴論的段階 ~ 虚体:本体(実体)が独り歩き、心的・不可視的

 

 4段階をまとめると、以下のようになります。

 

・前近代=実体論的:外面の様相(相)優先 ~ 物的・可視的、外物・外形の様式美

・近代=機能論的:内面の作用(用)優先 ~ 工業社会、機械論・無機的、内実の機能美

→後近代=構造論的:内外面合一の本体(体)優先 ~ 情報社会、生命論・有機的

→未来=象徴論的:本体が独り歩きして虚体に ~ 心的・不可視的

 

 以上より、未来の都市は、人々が知覚・体験し、生活・交流する中で、建築や構成要素を、断片的な記号(外面の様相)として、把握すると、やがて、その記号が、通常の機能的な意味(内面の作用)からズレ・乖離して独り歩きし、そこに、他の象徴的な意味が後付されるようになります。

 フランスの哲学者のロラン・バルトは、言葉(記号、外面の様相、シニフィアン)と意味(内面の作用、シニフィエ)の関係で、通常の意味(一時的・明示的意味、デノテーション)に加えて、別の意味(二次的・暗示的意味、コノテーション)が派生し、それが重ねられていくとしました。

 この独り歩きは、個々が自立的で、その相互関係も固定的ならば、外面の様相と内面の作用が一致し(一対一対応)、記号の意味が明確なので、独り歩きしませんが、個々が依存的で、その相互関係も流動的ならば、内外面がズレ・乖離し、記号の意味が曖昧なので、独り歩きしやすくなります。

 こうして、本体(実体)が独り歩きするということは、その実体(本体)が、意識や人智から離れ去って(超越して)、虚体になり、シンボル(象徴)化するということで、それは、無意識で自然に、生成・消滅するので、全体が個体の総和以上といえます。

 ここで、シンボルとは、記号(外面の様相)と意味(内面の作用)の間に、何ら関連性がないことをいい(無契性)、関連性がないからこそ、独り歩きするのです。

 このシンボル化は、内面に知(理知)・情(感情)・意(意志)がある(内在する)と、説明できないので(シニフィエなきシニフィアン)、外面に霊・聖・神的な力(魅力)が付着し、それが働いたと、大勢が信じたからといえ、流行や空気も、内面のない・みえない外面によって、醸成されます。

 こうした状況を、磯崎は、建築や構成要素が、場に浮遊しつつ、揺れ動く記号だといい、形態は、記号の分布、数量は、記号の密度なので、同一次元で把握でき、数量と形態を統合できるとし、各種の記号の流れと淀みの濃度分布が、空間表現になるとみています。

 それは、霧や気配・雰囲気(非実体)をイメージしており、世間一般には、界隈(かいわい)といわれ、数量・形態の記号の入力と、空間の出力は、コンピューターでのシミュレーションによるモデル化が想定されています。

 

○ジェネリック都市

 ジェネリックとは、「無印の」・「さえない」という意味で、ジェネリック・シティは、資本主義のグローバル化を背景とし、アイデンティティ(個性)の束縛から解放させた、非地域・非歴史・脱中心・計画不在の都市をいい、オランダの建築家のレム・コールハースが提唱しました。

 現代の都市は、ゾーニング都市を前提とし、周囲や既存に、関心・関係しようとする、コラージュ・シティか、無関心・無関係な、ジェネリック・シティか、に大別できます。

 コラージュ・シティは、地域性(場所)・歴史性(機会)が理解できる、特定少数にしか通用せず、(イギリス)経験論的な手段といえる一方、ジェネリック・シティは、非地域・非歴史なので、不特定多数に通用し(外人も移民も)、(大陸)合理論的な手段と、いえるのではないでしょうか。

 このうち、ジェネリック・シティは、表面的に差異化された、シンボリックな建築や構成要素が、競い合って乱立し、過剰・雑多に並置されることで、逆に、画一・均質・退屈で、無個性・平板化した都市につながります。

 個性(実体)とは、各々が自立的で、その相互関係も固定的な状況をいいますが、これでは、変化・変動の際、柔軟に対応できないので、各々が依存的で、その相互関係も流動的な状況が得策で、よって、無個性(非実体、虚体)・脱中心となるのです。

 このように、どこも似たり寄ったり、どこに行っても同じならば、磯崎のいうように、数量と形態から、空間を表現できることになります。

 

 差し迫った万博について、調べたこと、考えたことを、書き連ねてみました。

 

 

●万博の概要

 

 万博(万国博覧会、正式には、国際博覧会)は、諸国が、文明の産物と、その知恵・技術等を、展示する機会といえ、産業革命の成果物品を、発表したい動機から、はじまりました。

 人類史上で、産業の中心が、狩猟採集社会→農業社会→工業社会→情報社会へ、移行したとみると、農業社会以前には、地域的な産業規模だったのが、工業社会には、国家的な産業規模に拡大しました。

 だから、各国ごとが、文明の産物と、その知恵・技術等を、展示することで、競い合い、切磋琢磨する意味がありました。

 そうなると、近年の情報社会には、国際的な産業規模になったのに、各国ごとの展示に意味があるのか(ハコモノの中身が、チープにならざるをえません)、むしろ、GAFAMのような巨大企業の参加にこそ、意味があるのではないのかとなります。

 だって、先進国を自称する、日本の人々でさえ、日本製でない、Googleで検索し、Appleのスマホを持ち、Instagram(Facebook)・Tik Tok・Xに投稿し、Amazonで買い(楽天市場でない)、Microsoftのパソコンソフトを使い、Lineで交流し、Uber Eatsを頼む(出前館でない)、日常生活なのだから。

 また、近代の工業社会では、モノ(物)中心だったのが、現代の情報社会では、コト(事)中心になってきており、今後も、出来事(コト)を優先にした、文明の産物(モノ)が、表現されることになっていくでしょう。

 

 万博の第1回は、1851年のロンドンで、万博を建築的(ハコモノ的)にみると、クリスタル・パレスがあり、1889年のパリ万博では、エッフェル塔が有名で、1893年のシカゴ万博では、平等院鳳凰堂を模造した鳳凰殿(日本館)に、フランク・ロイド・ライトが影響されたといわれています。

 1929年のバルセロナ万博には、ミース・ファン・デル・ローエ設計のバルセロナ・パビリオン(ドイツ館)、1967年のモントリオール万博には、バックミンスター・フラー設計のジオデシック・ドーム(アメリカ館)や、モシェ・サフディ設計のアビタ67団地があります。

 

 当初の万博は、時期や主体(官か民か)が不定で、1928年に、国際博覧会条約が締結され、まず、総合的なテーマの、一般博と、特定したテーマの、特別博に、大別されました。

 このうち、一般博の1種は、参加国がパビリオンの容器と中身の両方を用意する方式で、一般博の2種と、特別博は、開催国がパビリオンの容器を、参加国がその中身を、用意する方式でした。

 つぎに、1972年の条約で、一般博の1種と2種の区分が廃止され、さらに、1988年の条約で、一般博が登録博に、特別博が認定博に、改変されました。

 そして、2005年から、登録博は、5年おきで、期間が6ヶ月以内、会場規模に制限なし、認定博は、登録博の間で、期間が3ヶ月以内、会場規模が25ヘクタール以内と規定されました。

 

 国際博覧会条約締結以降の、一般博・登録博の万博は、次に示す通りです。

 

・1935年:ブリュッセル一般博1種(ベルギー)

・1937年:パリ一般博2種(フランス)

・1939年:ニューヨーク一般博2種(アメリカ)

・1949年:ポルトープランス一般博2種(ハイチ)

・1958年:ブリュッセル一般博1種(ベルギー)

・1962年:シアトル一般博2種(アメリカ)

・1967年:モントリオール一般博1種(カナダ)

1970年:大阪一般博1種

・1992年:セビリア一般博(スペイン)

・2000年:ハノーヴァー一般博(ドイツ)

2005年:愛知(愛・地球)登録博(特別博で申請) ~ 立候補(以下同):カルガリー(カナダ)

・2010年:上海登録博(中国) ~ メキシコシティ、モスクワ(ロシア)、麗水(韓国)、ヴロツワフ(ポーランド)

・2015年:ミラノ登録博(イタリア) ~ イズミル(トルコ)

・2021年(コロナで1年延期):ドバイ登録博(アラブ首長国連邦) ~ イズミル(トルコ)、エカテリンブルグ(ロシア)、サンパウロ(ブラジル)

2025年:大阪関西登録博 ~ エカテリンブルグ(ロシア)、バクー(アゼルバイジャン)

・2030年:リヤド登録博(サウジアラビア) ~ 釜山(韓国)、ローマ(イタリア)

 

 以上より、5年おきになった、2005年以降、先進国がほとんど立候補しておらず(G7では、日本・イタリア・カナダ)、国威発揚が必要な、新興国が顕著なので、万博が時代錯誤・オワコンといわれる理由です。

 

 なお、以下の日本開催は、特別博・認定博です。

 

・1975年:沖縄海洋博

・1985年:つくば科学博

・1990年:大阪花緑博

・2027年:横浜園芸博

 

 これらをみると、日本は、1970年の大阪万博以降、5年後(沖縄)→10年後(つくば)→5年後(花博)→15年後(愛知)→20年後(関西)→2年後(横浜)と、頻繁に万博を開催していることがわかります(平均9.5年に1回)。

 

 ちなみに、1981年のポートアイランドでの神戸博、1989年のみなとみらい21地区での横浜博、1996年予定で中止された東京の世界都市博は、国内のパビリオンが中心の、地方博で、博覧会を契機に、埋立地の都市基盤を整備することが、共通しています。

 よって、今回の新・大阪万博は、夢洲に整備したインフラを、外資系のカジノに差し出すことを、意味しています。

 

 これらを前提に、新旧の大阪万博の会場構成を、みていくことにします。

 

 

●旧・大阪万博:1970年、330ヘクタール、6422万人

 

 旧・大阪万博は、吹田市千里丘陵が会場で、基礎調査(1965年11月)から、基本計画の前半(1966年4月の1次案・同年5月の2次案)までを、京大の西山卯三が担当し、基本計画の後半(1966年9月の3次案・同年10月の4次最終案)から、実施計画までを、東大の丹下健三が担当しました。

 この敷地には、東西を横断する幹線道路(大阪中央環状線)・高速道路(中国縦貫道)があり、敷地を南北に分断しているので、それをまたぐように、敷地の中央で、人工地盤のシンボルゾーンを縦断させています。

 その北端には、人造湖を、敷地北西側・南東側の両端には、駐車場を、配置しており、これらは、最初(西山)から最後(丹下)まで、継承されましたが、西山が得意とした調査と、丹下が得意とした実務が、適時・適材・適所だったからこそ、結果的に、うまくいったのでしょう。

 

〇前半:西山案(1・2次案)

 お祭り広場は、西山が発案し、1960年に、西山が中国の北京を訪れた際、国慶節の夜に、天安門広場で行われていた、群衆の乱舞に感銘を受け、お祭り広場の着想を得たそうです。

 パビリオンは、お祭り広場等のシンボルゾーンから分岐したストリート沿いに配し、5つのクラスターが形成され(A~E)、大阪中央環状線の、北側に多くを(A・B・C)、南側に少しを、配分しています(D・E)。

 そうして、いずれも、シンボルゾーンから、遠くに大型のパビリオンを配置することで、観客を遠くまで、引き込もうとしました。

 

〇後半:丹下案(3・4次案)

 西山から丹下へと主導が変更した際には、経費削減が提示され、やや散漫だったゾーニングが(京大系の人達は、田園都市型やブドウの房型と表現)、明確化されるようになり、シンボルゾーンの南端に、展望塔(エキスポタワー)を設置させたので、会場でのわかりやすさが向上したといえます。

 変更点は、すべてのパビリオンを幹線道路・高速道路以北に集積させたこと、敷地北半分での人流を分散させようとしたこと、シンボルゾーンの、北端に静的な日本庭園(上代・中世・近世・現代)を、南端に動的な遊園地(エキスポランド)を、設置したことです。

 特に、敷地北半分での人流の分散化は、「幹」の中央ゲート+お祭り広場から、東・西・南・北ゲートへと、「枝」の装置道路が四方に伸び、「花」のパビリオンが咲くように配置したと、表現しており、四方のゲートをつなぎ、会場と駐車場を内外で区分するように、周回道路が設定されました。

 それとともに、東・西・北ゲートをつなぎ、お祭り広場とパビリオン群を取り囲むように、敷地北半分に、モノレールを周回させ、北大阪急行(地下鉄御堂筋線)を、幹線道路・高速道路に沿って延伸させ、シンボルゾーンの中央直下に最寄駅を配しました。

 シンボルゾーンの中心は、何といっても、お祭り広場での、丹下健三の近代的(外来的)な大屋根・装置類と、岡本太郎の縄文的(土着的)な太陽の塔(内部は展示空間で、生命の樹)の、対比・貫入でした。

 

▽最終形

 

 

●新・大阪万博:2025年、155ヘクタール、想定2820万人

 

 新・大阪万博は、大阪市此花(このはな)区夢洲(ゆめしま)が会場で、規模が、旧大阪万博の半分以下ですが、東京ディズニーリゾート(ランド51+シー49=100ヘクタール)の1.5倍です。

 余談ですが、新・大阪万博の来場者の想定が2820万人で、期間が183日間なので、1日あたり15.4万人になり、東京ディズニーリゾート(ランド+シー)が、1日平均8.9万人ということは、ディズニーリゾート並みの人口密度を、見込んでいるようです(失笑)。

 新・大阪万博も、前半と後半で、計画が変化していますが、継承されたものが、ないといっていいほど、2018年11月に誘致が成功した案と、藤本壮介が2020年7月に会場デザインプロデューサーに就任し、同年12月に変更された案で、大きく違います。

 

〇前半:豊田啓介の非中心・離散案

 誘致案は、シンボル性がなく、非中心・離散がコンセプトで、多角形のパビリオンを、国外と国内で区分せず、ランダムに配置しました。

 5つの大広場(空/くう)+東・西のエントランスと、それらをつなぐ大通りに、大屋根を架け、そこをVR(仮想現実)・AR(拡張現実)・MR(複合現実)の技術を活用した、交流の場にすることで、多極化が提案されています。

 パビリオンを、多角形にしたのは、自然界にも存在する、幾何学的パターンの、ヴォロノイ分割(離散した複数の点の垂直二等分線で領域が形成)で、自動生成しようとしており、国外と国内で区分しないのは、大小や優劣で評価しない、情報社会を暗示しているようにもみえます。

 

〇後半:藤本壮介の大屋根リング案

 変更案は、パビリオンを、国外と国内で、大屋根リングの高架が区分しており(内側が国外、外側が国内)、その中心には、静けさの森(ロラン・バルトのいう、空虚な中心)+8つのテーマ館が配置されているので、明らかにシンボル性があり、誘致案のコンセプトとは、真逆といえます。

 しかし、基本計画書には、非中心・離散という言葉を残存させているので、迷路性よりも、会場でのわかりやすさのほうを確保したと、主張してもいいのではないでしょうか。

 旧・大阪万博の丹下案は、機能的で、工業社会らしい一方、新・大阪万博の豊田案は、等価的で、情報社会らしいですが、藤本案は、まだ秩序的で、工業社会から抜け出せず、情報社会まで振り切れない、日本の現況を暗示しているようにもみえます。

 リングは、多様性をひとつにつなげる象徴だと主張していますが、現在は、万博の賛成派と反対派で、無駄な分断を生み出す元凶となっているのが、現実です。

 今回の大阪関西万博の最大の環境問題は、SGDs(持続可能な開発目標)達成への貢献を、開催目的としながら、最も均質化されていて、再利用しやすそうな、大屋根リングの木材でさえ、開催終了後の利活用が不明なことです。

 20年に1度に建て替えられる、伊勢神宮の式年遷宮は、解体された古材を、全国の神社に譲渡され、再利用されるのに、半年しか使用されない、大屋根リングの木材の再利用が、不定というのは、日本は、昔も今も、実がなく、名ばかり・形だけで、進歩せず、退歩していることがわかります。

 リングの前例としては、2005年の愛・地球博や、1996年(中止)の東京都市博が、あるので、とても斬新というわけではありません。

 

▽2005年:愛・地球博

 

▽1996年(中止):東京都市博

 

 

●万博の終焉

 

 たとえば、演劇・音楽のライブで、リアルでは、舞台と客席で区分され、有限の観客と俳優・アーティストに、遠近の格差ができても、ヴァーチャルでは、無限の観客が、俳優・アーティストのそばにいるような没入体験を、同時に作り出すことができれば、高質かつ多様なライブが楽しめます。

 そうなれば、混雑が皆無にできるうえ、リアルよりも、ヴァーチャルのほうが、勝ることにもなり、万博も終焉するでしょう(遥か遠いリアルより、直近のヴァーチャルを、選び取ります)。

 最新の万博は、各施設での平面的(2次元的)な巨大映像が主流で、まだ完全に立体的(3次元的)な没入になっておらず、映像(2次元)と実物(3次元)が混成した、チーム・ラボのような体験は、すでに日常化してきたので、どうしても、中途半端でチープな表現になってしまいがちです。

 

 

●「見える主体」/「見えない主体」

 

 オリンピックの開催者は、都市ですが、万博の開催者は、国家なので、最高責任者は、政府になり(新・大阪万博での大阪府知事・大阪市長の役職は、副会長理事14人中の2人にすぎません)、旧・大阪万博では、実働部隊のトップが、通産官僚だった堺屋太一でした。

 堺屋は、浪人中に設計事務所でアルバイトしており、大学内の設計コンペで1等を受賞するほど、建築に造詣があったようで、万博が成功したといえる要因は、予算・工期・安全の管理と黒字化だと言及しています。

 経費削減は、その都度、折衝・実行されていたようで(西山から丹下へと主導が変更した際から)、たとえば、エキスポタワーは、当初、会場デザインプロデューサーの丹下健三らが、高さ400mを提案しましたが、航空法規や予算不足で、再三変更され、最終的には、高さ127mに縮小しました。

 そのうえ、公式組織でない、勝手連的な知識人達(万国博を考える会)も活動し、特に、太陽の塔の地下展示品の収集に協力しています。

 一方、新・大阪万博では、予算が増え、工期が遅れ、安全もメタンガス爆発の懸念があり、赤字化が確実とみられ、勝手連的な活動も顕著でなく、悪いことばかりですが、その要因は、主体が見えず、責任者が曖昧だからで、大屋根リングが突如出現した際も、活発な議論の痕跡がありません。

 現代都市は、姿・形が固定せず、揺れ動くので、「見えない都市」だと、磯崎新が表現していますが、日本には、「見えない主体」も多々あり、責任回避したいようなので、今後は、議論しない寄合所帯を責任の主体とする、オリンピック・万博等の巨大事業を、すべきでないでしょう。

 もし、そのような事業組織が樹立されれば、マスコミは、最高経営責任者(CEO)と最高財務責任者(CFO)が誰に相当するのか、追及する必要があり、それが返答できなければ、失敗がほぼ確実なので、その事業組織を糾弾すべきでしょう。

 

(つづき)

 

 

●老いた生活での照明器具を考える

 

 実家の照明器具は、かつて、居室では、引っ掛けシーリングに、蛍光灯のシーリングライトタイプで統一し、キッチン・水廻りでは、電球タイプか手元用の蛍光灯タイプだったが、蛍光灯は、居室と手元用で長さが違い、電球は、口径の大きさが違ったので、全種類をストックしていたようだった。

 それが、父の死後に、兄は、居室の照明器具を、蛍光灯からLEDタイプへ、すべて交換しており、最近、その中で、ダイニングキッチンのものが不具合になったので、兄が購入したものに交換したが、近年のLEDのシーリングライトタイプは、器具ごとゴミになってしまうことがわかった。

 

 また、シーリングライトタイプは、天井が比較的高い居室に設置するが、中・高身長者がイスに昇ってギリギリの高さなので、低身長者や高齢者には、大変困難で、しかも、電球や蛍光灯管だけではなく、器具本体の取り替えなので、天井に手が届かないと、テーブルに昇らなければならない。

 ダイニングキッチンには、テーブルがあるので、まだ何とか取り替えができるが、リビングや寝室には、テーブルのように昇れる高さがないので、シーリングライトタイプは、リモコンがあって便利な反面、弱者が自力で独り暮らしするには、不便な面もあることがわかった。

 一方、電球タイプは、天井が比較的低い水廻り等に設置しており、電球のみの取り替えなので、低身長者や高齢者でも、イスに昇れば、手が届くのではないか。

 そう考えると、居室も、引っ掛けシーリングに、電球のペンダントライトタイプで統一すれば、ほとんどすべてが同じ電球になるので(異なるのは、キッチンと洗面台の手元用ぐらい)、ほぼ1種類をストックしておけば、どこでも使用できるうえ、取り替えも容易にできるのでは、と思っている。

 

 最近では、ダイニングキッチンや和室でのペンダントライトタイプを、見る機会が減ったが、弱者になれば、LEDのシーリングライトタイプでのリモコンの便利さは、他力や、まるごと使い捨てのうえに、成り立っていることを把握しておくべきではないだろうか。

 LED自体は、蛍光灯よりも、消費電力が低く、省エネだが、LEDのシーリングライトは、光源部分だけを交換することができず、まるごと廃棄なので(まだ使える部分も捨てている)、従来の照明器具よりも、環境負荷が大きいといえる。

 寿命は、光源部分よりも、機器部分のほうが、明らかに長いというのが実感で(LEDは、思ったほど、長くない)、買い替えの促進がメーカーの思惑にみえてしまう。

 そのうえ、LEDのシーリングライトよりも、LED電球のほうが、長寿命だそうだ。

 だから、実家では、LEDのシーリングライトタイプが不具合になった段階で、弱者が自力でも交換が容易な、LED電球のペンダントライトタイプへ、徐々に切り替えていこうとしている。

 そもそもリモコンは、寝室以外に、あまり利用せず、消灯時に使用したいリモコンは、ベッドサイドランプや常夜灯等、別の方法で対応できるのではないか。

 

 たとえば、パナソニックの住宅用照明器具のカタログをみると、LED交換不可のものが、どんどん増殖しつつあり、メーカーのシステムキッチン・洗面化粧台・ユニットバス等のLED照明も、もし、点灯しなくなれば、自力ですぐに交換できず、電気業者が必要になってくる。

 そうなれば、発注から工事まで数日かかり、素人の自力での対応が、玄人の他力への依存になることで、生活に多大な影響があるだろう。

 もしかすると、欧米の住宅の照明で、ペンダントライト・スタンドライト等を多用し、オフィスのようなシーリングライトを敬遠するのは、明るさを抑えたやさしさだけでなく(LEDでも、電球色が可能)、弱者でも交換可能なやさしさや、環境負荷へのやさしさも、あるのではないだろうか。

 ここまでみると、昔よりも、今のほうが、本当に進歩したといえるのだろうか。

 LEDのシーリングライトの現状や、日本の設備機器メーカーの現況は、退歩といえ、環境問題は、一進することもあれば、一退することもあるので、俯瞰的・懐疑的にみる必要があるだろう。

 特にLEDのシーリングライトは、使い捨てが前提なので、安物を買いやすく、品質が悪くなりがちなので、故障で短命になったり、出火の原因になったりしやすくなるのではないか。

 

▽居室のLEDのシーリングタイプ

 

▽水廻りのLED電球タイプ

 

(つづく)