東寺(教王護国寺)1~東寺真言宗総本山 | ejiratsu-blog

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(八幡山、 京都市)
 
 平安京遷都の際、天智天皇系の桓武天皇(50代)は、天武天皇系の影響下にあった南都六宗等の寺社勢力から距離をとるため、京内は東寺・西寺のみ計画し、平安京南側中央の正門(羅城門)付近の東西に配置、都城(左京と右京)・国家(東国と西国)鎮護のための官寺として、平安初期に建立しました。
 一方、空海は、20年の留学予定を2年で切り上げて帰国したため、当初は入京できず、数年を大宰府・観世音寺で滞在、最澄の尽力で入京が許可されると、しばらく京都の北西部の山間にあった神護寺(じんごじ)を拠点として活動、皇室・貴族に密教の呪術性を強調した加持祈祷を浸透させていきました。
 特に嵯峨天皇(52代)は、平城天皇(51代)との対立(薬子/くすこの変)で、空海に戦勝祈願してもらったので平城天皇らを排除でき、これを契機に皇室・貴族は空海を帰依、嵯峨天皇は空海に金剛峰寺創建を許可して7年後の平安前期には東寺の運営を委任し、真言密教の根本道場として繁栄しました。
 平安中期には観賢(かんげん、東寺9代目住職)が東寺と金剛峰寺の住職を兼務すると、東寺が本寺、金剛峰寺が末寺とする体制が確立され、東寺の住職が真言宗を統括するようになりしたが、平安後期には一時衰退しました。
 しかし、平安末期から鎌倉初期にかけては、武士出身の真言密教僧・文覚(もんがく)が後白河法皇(77代)や源頼朝の援助で、神護寺とともに、東寺も再興しました。
 また、後白河法皇の娘(宣陽門院/せんようもんいん)は、空海を尊崇し、東寺に莫大な荘園を寄進、空海が存命中のように、毎朝食事を奉納する儀式(生身供/しょうじんく)や、毎月命日の供養(御影供/みえく)は彼女がはじめており、生身供は現在も、御影供は露天市として継続されています。
 鎌倉中期には高僧の憲静(けんじょう)が五重塔を再建する等、公家・武家の援助で再興しましたが、室町後期の京都での土(徳政)一揆では、戦乱に巻き込まれ、主要施設のほとんどが焼失、豊臣家・徳川家等の援助で再建されています。
 
 
■伽藍
 
 南から北へ南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が軸線上に直列する配置で、これらは平安京の条坊制の南北道路の延長線上にあり、かつては南大門と金堂の間には中門があり、中門から金堂へと回廊か取り付き、中門の東側には五重塔、中門の西側には灌頂院(かんじょういん)を配置しています。
 
   ▽境内
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●金堂
 間口7間・奥行5間の平面で、本瓦葺・裳階(もこし)付の入母屋屋根、下層の正面中央の屋根が一段切り上げられており(扉を開ければ、堂外からも本尊が見られるようにしてあり、東大寺大仏殿や平等院鳳凰堂の正面中央も同様です)、和様と大仏様(貫や挿肘木を多用)が併用されています。
 堂内の中央には本尊として薬師如来座像(光背/背後の光明には七仏薬師像、台座には十二神像が彫刻)、両脇には日光菩薩像と月光菩薩像が安置され(薬師三尊)、対外的な皇室・貴族の儀式では、顕教の流行仏・薬師如来、対内的な僧達の修行・修学では、密教の中心仏・大日如来と使い分けています。
 嵯峨天皇が東寺の運営を空海に委任したのは、平安京内で加持祈祷が執り行えるようにするためで、空海はその要望に対応しようと、諸堂塔のなかで最初に金堂を整備しており、室町後期の土一揆で焼失、現在の建物は豊臣秀頼の援助による江戸初期の再建です。
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●講堂 
 間口9間・奥行4間の平面で、本瓦葺・入母屋屋根の和様です。
 堂内の須弥檀の中央には五智如来、東側には五大菩薩、西側には五大明王、両端の中間には仏教の守護神として東に梵天・西に帝釈(たいしゃく)天、四隅には2天を支え仕える四天王(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)の各像が安置され、21体で立体曼荼羅を構成しています。
 ここで胎蔵界(大日如来の慈悲の面)5仏よりも、金剛界(大日如来の知恵の面)5仏(五智如来)が取り上げられているのは、ここが修行の道場で、知恵をもとに徳行することが目的だからではないでしょうか(胎蔵界だけでは、南都六宗等の従来の仏教から抜け出していないことになります)。
 密教では、仏には3つの姿があり、宇宙の真理や悟りの境地そのものを現す姿(如来)、宇宙の真理や悟りの境地を穏やかに優しく説く姿(菩薩)、欲望で苦悩する人々を脅迫し、強引に救済しようとする厳しく恐ろしく説く姿(明王)で、3者間を自由に化身できるとされています(三輪身/さんりんじん)。
 五智如来とは、大日如来を中心に、東方の阿閦(あしゅく)如来、南方の宝生(ほうしょう)如来、西方の阿弥陀如来、北方の不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の5仏で、密教で大切な5つの知恵(法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)を5体の如来に投影しています。
 五大菩薩とは、金剛波羅蜜多(はらみった)菩薩を中心に、東方の金剛薩埵(さった)、南方の金剛宝(ほう)菩薩、西方の金剛法(ほう)菩薩、北方の金剛業(ごう)菩薩の5仏で、穏やかに優しく教えを説きます(正法輪身/しょうぼうりんじん)。
 五大明王とは、不動明王を中心に、東方の降三世(ごうざんぜ)明王、南方の軍荼利(ぐんだり)明王、西方の大威徳(だいいとく)明王、北方の金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王の5仏で、厳しく恐ろしく教えを説きます(教令輪身/きょうりょうりんじん)。
 つまり、五智如来はそのもので(自性輪身/じしょうりんじん)、わかりにくいため、五大菩薩と五大明王で感情を上下させ、一般の人々にもわかりやすく教えを説くことができるので、五智如来・五大菩薩・五大明王は中心と東西南北でそれぞれ対応させています。
 法界体性智(ほうかいたいしょうち)は、宇宙(世界)の真理・仏教の本質をもとに、他の四智を統合する知恵で、中心の大日如来‐金剛波羅蜜多菩薩‐不動明王が担当します。
 大円鏡智(だいえんきょうち)は、すべてを正確に映し出す知恵で、東方の阿閦如来‐金剛薩埵‐降三世明王が担当し、平等性智(びょうどうしょうち)は、すべてを平等に観察する知恵で、南方の宝生如来‐金剛宝菩薩‐軍荼利明王が担当します。
 妙観察智(みょうかんざっち)は、個性や特徴を把握する知恵で、西方の阿弥陀如来‐金剛法菩薩‐大威徳明王が担当し、成所作智(じょうそさち)は、意識を変化させて成就する知恵で、北方の不空成就如来‐金剛業菩薩‐金剛夜叉明王が担当します。
 これらは、空海が本当に創り上げたかった密教の世界観で、講堂は16年の歳月をかけて空海の没後に完成しており、室町後期の土一揆で焼失、現在の建物はその5年後には再建しており、最重要視されていたことが感じ取れます。
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●五重塔
 間口・奥行とも3間の平面で、本瓦葺・宝形屋根、和様(柱上は三手先、柱間は間斗束/けんとづか)で、各層の中央は扉、その両脇は連子(縦格子)窓とし、床は低い板張に須弥壇、天井は須弥壇上が格天井(太格子)、四周が折り上げ小組格天井(太格子+細格子)、現存する五重塔では日本一の高さです。
 心柱下には、空海が唐から持ち帰った仏舎利(ぶっしゃり、インドでは当初、釈迦の遺骨・遺灰等でしたが、伝来した中国では、仏舎利を安置したインドのストゥーパ前で供養された、宝石等で代用しています)が奉納されています。
 塔内の初層には、心柱を大日如来とみなし、その周囲を金剛界の如来4仏(阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就如来)と菩薩8仏(弥勒・金剛蔵・除蓋障・虚空蔵・文殊・観音・普賢・地蔵菩薩)が取り巻き、四方の柱には両界曼荼羅、四面の側柱には八大龍王、板壁には真言八祖が描き込まれています。
 平安前期の空海没後に建立され、落雷や不審火で4度焼失しており、現在の建物は3代将軍・徳川家光の援助による江戸前期の再建です。
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   ▽宝生如来座像
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   ▽阿弥陀如来座像
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(つづく)