磯崎新の都市デザインの4段階(実体論的→機能論的→構造論的→象徴論的) | ejiratsu-blog

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建築の造形(外面)/機能(内面)1・2

内容(内面)のない・みえない外形(外面)は、独り歩きする

内容(内面)を外形(外面)の一部とみて、内外一体とする

外面/内面と個体/全体

~・~・~

 

 建築家の磯崎新は、「都市デザインの手法」(『建築年鑑1963』・『建築文化』1963年12月号、『空間へ』・『日本の都市空間』に収録)で、都市・建築の計画的方法の概念が、次の4段階に推移・発展したとし、それらは、前段階を包含・消化しながら、新段階に解消するとみています。

 

・実体論的段階

・機能論的段階

・構造論的段階

・象徴論的段階

 

 なお、この4段階は、ドイツの哲学者のエルンスト・カッシーラーの言説をもとにしていますが、都市・建築の実体は、形態・空間や構成要素なので、各段階で、最終的には、実体に引き戻す必要があります。

 ここでは、その4段階を、私なりに、まとめることにし、各段階での典型的な都市を、取り上げることにしました。

 

 

●実体論的段階:様相(相)優先、 ~ 前近代、物的・可視的

 

 実体とは、そのものの正体・本質をいい、その本質が、個物(固有名)にあるのか、個物を超越した普遍(一般名、イデア)にあるのかで、対立・論争されてきましたが、たとえば、前近代のヨーロッパでは、建築を普遍とみるのか、広場・街路等の都市を普遍とみるのかで、二分できます。

 建築を普遍とみるのは、神殿・宮殿・教会等があり、いずれも、中心性・対称性・正面性等で、部屋を建築の一部として、したがわせており、それぞれ神・王・宗教等の永遠・普遍が表現されています。

 都市を普遍とみるのは、四周の建築に取り囲まれた広場や、両側の建築に挟み込まれた街路があり、それらも、中心性・対称性・正面性等で、建築を都市の一部として、したがわせており、これも永遠・普遍が表現されているといえます。

 この両者は、建築を主(図)、街路・広場を従(地)とみるのか、街路・広場を主、建築を従とみるのかの、違いですが、いずれも、何かをしたがわせているのは、同じで、したがわせた、建築での部屋や、都市での建築は、内面の機能(用)よりも、外面の様相(相)のほうを、優先させています。

 つまり、いずれも、物的な様式・美的な造形を重視し、可視的な物体(外物)・形態(外形)どうしを調和・統一させようとしています。

 建築を普遍としたのは、自然発生的な、古代都市や中世都市で、このうち、中世都市は、教会・庁舎・広場・市場等を中心、城壁を周縁とし、集合住宅が不規則な道路網で、分権社会を反映しており、部分が優先です。

 一方、都市を普遍としたのは、人為計画的な、ルネサンス理想都市やバロック都市で、このうち、バロック都市は、放射状の街路と、それが交差する広場での、中心性・対称性・正面性等で、集権社会を反映しており、全体が優先です。

 

○バロック都市

 バロック様式とは、静的な円形等、均整や調和のある、ルネサンス様式とは対照的に、動的な楕円形等、迫力のある、劇的な芸術表現をいいます。

 バロック都市は、まず、16世紀末から、ローマ教皇のシクストゥス5世が、ローマをわかりやすく巡礼できるよう、地形の起伏を無視し、教会・広場(+オベリスク・記念碑)どうしを直線街路で結び付け、改造したのに、はじまります。

 つぎに、17世紀後半には、フランス国王のルイ14世が、政治+生活の中心として、放射状の軸線を多用し、整然とした、幾何学式庭園の、ベルサイユ宮殿+都市を造営しました。

 さらに、19世紀後半には、ナポレオン3世の帝政下で、セーヌ県知事のオースマンが、首都パリを、諸施設どうし直線街路で結び付け、道幅を拡張し、建築ファサードを統一、中心のシテ島に公共施設を集積する一方、周縁の四方に、ほぼ風景式庭園の森・公園を整備する等、大改造しています。

 

 

●機能論的段階:作用(用)優先 ~ 近代:工業社会

 

 機能とは、役割・作用や活動の能力をいい、産業革命での工業化と大量生産により、道具・機械が発達することで、機能が優先されるようになりました(機能主義)。

 アメリカの建築家のルイス・サリヴァンは、「形態は機能にしたがう」といい、内面の機能(用、働き)を、外面の様相(相、装い)に、そのまま表現すべきとし、前近代での外物・外形の様式美から、近代での内実の機能美へと、追求が変化しています。

 フランスの建築家のル・コルビュジェは、「住宅は住むための機械である」といい、工学技師が、商船には、水に浮かび進む機能、飛行機には、空を飛ぶ機能、自動車には、道を走る機能を満足させたように、建築家は、住宅には、住む機能を満足させるべきだとしました。

 しかも、商船は、魚の、飛行機は、鳥の、自動車は、獣の、動作をそのまま模倣していないように、住宅も、その機能を論理的に研究し、合理的に実現する必要があるとしています。

 また、産業革命とともに、階級社会から市民社会へ変革したので、市民が使用する、工場・学校・オフィス・ホテル・病院・駅舎・空港・公共施設等、新規のビルディング・タイプが必要にあり、それらは、人々の行為を抽出し、その諸機能を図式化・体系化し、建築の実体に表現しました。

 機械は、固定的な機能で、それを要素に分解し、部品(部分)に各機能を付与し、それらを組み立てて、装置(全体)を構成するので、個体の総和が全体といえますが、これを建築・都市に持ち込むと、機械論的・無機的になりがちです。

 それで、機能に合わせて建築の形態・空間を作りすぎると、やがて、機能不全になれば、転用できず、建築解体の危機が到来し、使い捨ての短命にもなりかねません。

 サリヴァンは、「形態は機能にしたがう」とともに、「機能が変化しないところでは、形態は変化しない」ともいっており、これは、機能(内面)が変化すれば、形態(外面)も変化する、という意味です。

 ここまでは、モノ(外面の様相)と機能(内面の作用)の一対一対応でしたが、機能とは、英語のファンクションで、関係・関数(数学でのf)でもあるので、諸機能どうしの相互関連性も大切ですが、その第一歩が、機能どうしを近接させるか、遠隔させるかの、ゾーニングになります。

 

○ゾーニング都市

 ゾーニングとは、空間・領域を、用途別・機能別に区分することをいい、ゾーニング都市は、条例で、住居地域・業務地域・商業地域・工業地域等に区分し、各々に用途・形状・数量等を許可・規制することで、土地利用をコントロールします。

 これは、産業革命にともなう、賃労働者の過密で、都市環境が劣悪化し、スラム化・公害が顕著になるとともに、鉄道・自動車交通が発達したので、都心の工場群から、住宅群を郊外に離隔することが、はじまりでした(職住分離)。

 しかし、地域ごとで、機能を極度に分化・純化すれば、長距離・長時間移動しなければならず、不便になるので、大工場群等の離隔を前提に、諸機能を複合化し、都市居住を確保するため(職住近接)、別棟や上下階層でゾーニングしたうえで、エレベーターを設置して対応してもいます。

 なお、建築のゾーニングは、建築家が、各部屋の細部まで決定できるので、部屋どうしの関連性を重視できます。

 ですが、都市のゾーニングでは、階級社会から市民社会へ変革し、市民に土地所有者の自由が確保されたため、都市計画家が、各建築の細部まで決定できないので、建築どうしの関連性を軽視せざるをえず、つながりのない、寄せ集めで、バラバラになりがちです。

 

 

●構造論的段階:本体(体)優先 ~ 後近代:情報社会

 

 構造とは、多の個体から一の全体が成立する際の、構成要素の相互関係性だと、定義すれば、それらの個体が自立的なうえ、その相互関係も固定的で、硬直化してしまう、無機的な機械論を、想像しがちで、たとえば、建築・都市では、構造を、骨格という意味でみています。

 でも、近代では、無機的な機械論の行き詰まりから、後近代では、それとは対照的に、それらの個体が依存的なうえ、その相互関係も流動的で、柔軟に対応する、有機的な生命論(または生態学)を、想像するようになりました。

 たとえば、言葉・商品・芸術作品は、各々に意味・価値が、事前に内在しておらず、他との相互関係性の中で、事後に意味・価値が規定され、しかも、意味・価値が、しだいに変動していきます(構造主義、ソシュール・マルクス・ヴァレリー)。

 すなわち、言葉・商品・芸術作品が、一方から他方へ、伝達・売買・感動してはじめて、意味・価値があったといえ、そうできたのは、言葉・商品・芸術作品(外面の様相)に、力(魅力)があったからとし、意味・価値(内面の作用)の説明は、後付にすぎず、建築も、これらに類似しています。

 建築は、特定の機能(内面)を想定し、空間・形態(外面)を創造しても、それが機能不全になれば、その空間・形態自体に、力(魅力)がなければ、解体・建替で適切な機能が改変され、力があれば、保存・転用しようと、用途を画策することになります。

 したがって、建築の生成・消滅を勘案すれば、造形(外面)優先・機能(内面)後付になり、このように、建築は、絵画・彫刻のように、芸術作品(外面の様相、造形)だけで、存在することができず、利活用(内面の作用、機能)がなければ、放置・空家化することになります。

 ここまでみると、人々の活動(内面の作用)を喚起・誘発させる、魅力ある空間・形態(外面の様相)が必要で、造形優先・機能後付なので、これは、内面を外面の一部とみて、内外面合一の本体(体)が優先といえるのではないでしょうか。

 ちなみに、コルビュジェは、「住宅は住むための機械である」とともに、「建築は効用性の彼方(かなた)にある。建築は造形性にある」ともいっており、これは、建築が、機械のように、有用・機能(内面)を前提としつつも、それを超越した造形(外面)をこそ追求すべきだ、という意味です。

 そうなると、都市も、たとえば、道路は、人や車が通行するモノ、という単一で明確な機能性だけを想定しても、画一・均質・退屈なだけなので、多様で曖昧な快適性も画策するようになりました(都市は、コルビュジェのいうように、住む・働く・憩う・巡る、の4機能だけで割り切れません)。

 その際、都市のインフラを、樹木(ツリー)の幹・枝・葉、人体の頭脳・脊椎(せきつい)・器官・血管・神経等、生物の比喩や、核(コア)・軸(アクシス)・房(クラスター)等、多義語が、多用されましたが、これは、内面の機能を暗示した外面の様相で、内外面合一の本体の表現といえます。

 ただし、ウィーン出身の建築家のクリストファー・アレグザンダーは、人為計画的な都市が、序列的・階層的な、ツリー構造なので、単調・退屈だと批判し、様々な要素が網目状に絡み合い重なり合った、セミ・ラティス構造の、自然発生的な都市のように、複雑・活気を創造すべきだとしました。

 そのうえ、生命は、環境に適応しようとするので、人間も、建築・都市を計画する際には、周辺の既存の自然環境・都市環境に適応すべきで、抽象的な空間や時間ではなく、具体的な地域・場所(プレイス)や歴史・機会(場合、オケイジョン)を、創造の条件とする必要があるとしています。

 それに、都市は、道路等の都市基盤(インフラ)が不変・不動で(スケルトン)、建築が変化・変動(インフィル)とはいえず、むしろ、更新(新陳代謝)は、建築よりも、インフラのほうが、大変困難で、こうして、建築も都市も、生起・成長・衰退・消滅の過程を、みるべきだとしました。

 

○コラージュ都市

 コラージュとは、様々な異質で断片の素材を、貼り付けて並置させ、漸次的な統一性を構成しようとする、絵画技法をいい、コラージュ・シティは、イギリスの建築史家のコーリン・ロウが提唱し、都市は、寄り集まった要素が、辻褄の合うように作るべきだとしました(ブリコラージュ)。

 ロウは、大きなことをひとつだけ知っているのをハリネズミ型、多くのことを知っているのをキツネ型とし、近代建築は、科学・技術が優先の、抽象的な理想主義で、頑固な、ハリネズミ型、前近代建築は、歴史・伝統が優先の、具体的な経験主義で、柔軟な、キツネ型と、対比させました。

 そして、近代建築では、疎(ヴォイド)の中に、密(ソリッド)が集中している一方、前近代建築では、密の中に、疎が分散しているので、都市で、物体を図(フィギュア)、空間を地(グラウンド)とすれば、近代建築の都市は、地が、ヨーロッパの前近代建築の都市は、図が、大半といえます。

 そこから、地が大半で、単体が孤立した、近代建築の都市は、周囲や既存との時間的・空間的な連続性が切断され、短所としました。

 他方、ヨーロッパの前近代建築は、頑強で、容易に取り壊しできず、利活用するのが合理的なので、解体・新築ではなく、増改築・転用が多用されます。

 そのため、図が大半な、前近代建築の都市は、時間的・空間的な連続性が保持でき、こうして、複合体が関連しながら、多様な断片が集積・積層されるのが、長所です。

 よって、ロウは、ハリネズミ型の近代建築の手法さえも、都市の一部として、キツネ型の前近代建築の手法が、包含するように、コラージュすべきとしているので、各々が無関係な、私的な物体(ソリッド)を、徐々に関係づけながら、共的・公的な空間(ヴォイド)で、つなぐことになります。

 ここで注意したいのは、ロウが、前近代建築の都市でも、新しい建築が、古い建築を包含するように、コラージュしてきた歴史があると、みていることです。

 ゾーニング都市との相違点は、周囲や既存に、無関心・無関係になるのではなく、対外的・具体的な場所や機会による特殊性で、受動的に協調・同化するにせよ、対内的・抽象的な空間・時間による一般性で、能動的に衝突・異化するにせよ、何らかに関心・関係するようになったことです。

 そうした中で、都市計画の目的は、部分(建築や構成要素)の多様性と、全体(都市や地区)の統一性の、両立にあります。

 

 

●象徴論的段階 ~ 虚体:本体(実体)が独り歩き、心的・不可視的

 

 4段階をまとめると、以下のようになります。

 

・前近代=実体論的:外面の様相(相)優先 ~ 物的・可視的、外物・外形の様式美

・近代=機能論的:内面の作用(用)優先 ~ 工業社会、機械論・無機的、内実の機能美

→後近代=構造論的:内外面合一の本体(体)優先 ~ 情報社会、生命論・有機的

→未来=象徴論的:本体が独り歩きして虚体に ~ 心的・不可視的

 

 以上より、未来の都市は、人々が知覚・体験し、生活・交流する中で、建築や構成要素を、断片的な記号(外面の様相)として、把握すると、やがて、その記号が、通常の機能的な意味(内面の作用)からズレ・乖離して独り歩きし、そこに、他の象徴的な意味が後付されるようになります。

 フランスの哲学者のロラン・バルトは、言葉(記号、外面の様相、シニフィアン)と意味(内面の作用、シニフィエ)の関係で、通常の意味(一時的・明示的意味、デノテーション)に加えて、別の意味(二次的・暗示的意味、コノテーション)が派生し、それが重ねられていくとしました。

 この独り歩きは、個々が自立的で、その相互関係も固定的ならば、外面の様相と内面の作用が一致し(一対一対応)、記号の意味が明確なので、独り歩きしませんが、個々が依存的で、その相互関係も流動的ならば、内外面がズレ・乖離し、記号の意味が曖昧なので、独り歩きしやすくなります。

 こうして、本体(実体)が独り歩きするということは、その実体(本体)が、意識や人智から離れ去って(超越して)、虚体になり、シンボル(象徴)化するということで、それは、無意識で自然に、生成・消滅するので、全体が個体の総和以上といえます。

 ここで、シンボルとは、記号(外面の様相)と意味(内面の作用)の間に、何ら関連性がないことをいい(無契性)、関連性がないからこそ、独り歩きするのです。

 このシンボル化は、内面に知(理知)・情(感情)・意(意志)がある(内在する)と、説明できないので(シニフィエなきシニフィアン)、外面に霊・聖・神的な力(魅力)が付着し、それが働いたと、大勢が信じたからといえ、流行や空気も、内面のない・みえない外面によって、醸成されます。

 こうした状況を、磯崎は、建築や構成要素が、場に浮遊しつつ、揺れ動く記号だといい、形態は、記号の分布、数量は、記号の密度なので、同一次元で把握でき、数量と形態を統合できるとし、各種の記号の流れと淀みの濃度分布が、空間表現になるとみています。

 それは、霧や気配・雰囲気(非実体)をイメージしており、世間一般には、界隈(かいわい)といわれ、数量・形態の記号の入力と、空間の出力は、コンピューターでのシミュレーションによるモデル化が想定されています。

 

○ジェネリック都市

 ジェネリックとは、「無印の」・「さえない」という意味で、ジェネリック・シティは、資本主義のグローバル化を背景とし、アイデンティティ(個性)の束縛から解放させた、非地域・非歴史・脱中心・計画不在の都市をいい、オランダの建築家のレム・コールハースが提唱しました。

 現代の都市は、ゾーニング都市を前提とし、周囲や既存に、関心・関係しようとする、コラージュ・シティか、無関心・無関係な、ジェネリック・シティか、に大別できます。

 コラージュ・シティは、地域性(場所)・歴史性(機会)が理解できる、特定少数にしか通用せず、(イギリス)経験論的な手段といえる一方、ジェネリック・シティは、非地域・非歴史なので、不特定多数に通用し(外人も移民も)、(大陸)合理論的な手段と、いえるのではないでしょうか。

 このうち、ジェネリック・シティは、表面的に差異化された、シンボリックな建築や構成要素が、競い合って乱立し、過剰・雑多に並置されることで、逆に、画一・均質・退屈で、無個性・平板化した都市につながります。

 個性(実体)とは、各々が自立的で、その相互関係も固定的な状況をいいますが、これでは、変化・変動の際、柔軟に対応できないので、各々が依存的で、その相互関係も流動的な状況が得策で、よって、無個性(非実体、虚体)・脱中心となるのです。

 このように、どこも似たり寄ったり、どこに行っても同じならば、磯崎のいうように、数量と形態から、空間を表現できることになります。