ピンカートンと蝶々さんみたいな話って、「王女メディア」もそうだし、「夏の夜の夢」もそうだし(シーシュース=テセウスって、英雄だけど屑だよね、という話はあとで書く)、「ドン・ジョバンニ」なんか勿論そうだし、あっちこっちの世界の名作で、同じ話が繰り返されてる。
衣装デザインは中国人の女性で。和漢折衷みたいなビジュアルは却ってエキゾチックで面白い、とも言えるが。
世界観が昔の「SHOGUN」みたいな(真田広之ではなく、島田陽子が出てたやつ)。東洋人は倫理観がヤバいから気をつけろ!みたいな、ノックスの十戒的なイメージって絶対あるよね。
ピンカートンも、まさか蝶々さんが死ぬとは思ってなかった風だ。日本人の覚悟を舐めてたよね、やっぱ。
十五歳(!)の蝶々さんは、嫁入りに際して、自分は今は没落しているが由緒ある家の娘だ、と強調する。
彼女が持参した宝箱の中には、鏡や化粧道具とともに「刀」がある。父の形見だという。
父は、主命で何かの罪を被り、その刀で切腹して死んだ、らしい。
貧困した蝶々さんは「芸者」として生きてきた(ペリクリーズのマリーナと同じ?)。そこに、アメリカ戦艦の士官の「妻」となる話がくる。まだ子供の蝶々さんにとって、ピンカートンは力も知識もある、「海の向こうからやってきた英雄」に見えた。
王女メディアのイアソン、夏の夜の夢のシーシュース(テセウス)、そしてピンカートンの共通点は、船に乗ってやってきて、異国の「姫」を権力的な手段でモノにして「妻」にすること。
しかし、彼らは「海から来て、いずれは海に去っていく」男である、というのは(実は最初から)決まっていて、そこに何の痛痒もない。
なぜなら、捨てられる女は「異邦人」であり、文化(倫理観)を共有していない、つまり最初から「同じ人間ではない」から、生涯を共にする気など毛頭ないんだ。
だから、平気で妻を捨てて、忘れる。
残された女は、そんな「奢った英雄」に、どう反撃するのか?
「蝶々夫人」は、幕末の王女メディアなんだ。
随所に日本風の演じがあったが、なかでも、蝶々さんの子供が完璧に文楽人形!なのは、素直に「凄え!」と感動した。