歌劇「蝶々夫人」は、屑な英雄(男)にどう対抗するか、幕末のメディアの物語だ。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

「蝶々夫人」って、こんな話だったのか! ピンカートンって、人間の屑だな。アメリカ人って日本を舐めまくってるな。いや、これイタリア人が書いたフィクションだろ、って言われれば、そうなんだけどね。要するに世界中どこでも、どんな時代でも、男は屑だ、ってことかも。

ピンカートンと蝶々さんみたいな話って、「王女メディア」もそうだし、「夏の夜の夢」もそうだし(シーシュース=テセウスって、英雄だけど屑だよね、という話はあとで書く)、「ドン・ジョバンニ」なんか勿論そうだし、あっちこっちの世界の名作で、同じ話が繰り返されてる。

衣装デザインは中国人の女性で。和漢折衷みたいなビジュアルは却ってエキゾチックで面白い、とも言えるが。

「中国ではおめでたい時は牡丹をつけるんです、だこら花嫁衣装に大きく牡丹を付けました」
「日本の記者さんから、日本人はあんな服は着ませんよ、といわれましたが、いえ、創造(想像?)の世界ですから」
ぅーん?

世界観が昔の「SHOGUN」みたいな(真田広之ではなく、島田陽子が出てたやつ)。東洋人は倫理観がヤバいから気をつけろ!みたいな、ノックスの十戒的なイメージって絶対あるよね。

ピンカートンも、まさか蝶々さんが死ぬとは思ってなかった風だ。日本人の覚悟を舐めてたよね、やっぱ。

十五歳(!)の蝶々さんは、嫁入りに際して、自分は今は没落しているが由緒ある家の娘だ、と強調する。

彼女が持参した宝箱の中には、鏡や化粧道具とともに「刀」がある。父の形見だという。

父は、主命で何かの罪を被り、その刀で切腹して死んだ、らしい。

貧困した蝶々さんは「芸者」として生きてきた(ペリクリーズのマリーナと同じ?)。そこに、アメリカ戦艦の士官の「妻」となる話がくる。まだ子供の蝶々さんにとって、ピンカートンは力も知識もある、「海の向こうからやってきた英雄」に見えた。

王女メディアのイアソン、夏の夜の夢のシーシュース(テセウス)、そしてピンカートンの共通点は、船に乗ってやってきて、異国の「姫」を権力的な手段でモノにして「妻」にすること。

しかし、彼らは「海から来て、いずれは海に去っていく」男である、というのは(実は最初から)決まっていて、そこに何の痛痒もない。

なぜなら、捨てられる女は「異邦人」であり、文化(倫理観)を共有していない、つまり最初から「同じ人間ではない」から、生涯を共にする気など毛頭ないんだ。

だから、平気で妻を捨てて、忘れる。

残された女は、そんな「奢った英雄」に、どう反撃するのか?

「蝶々夫人」は、幕末の王女メディアなんだ。

随所に日本風の演じがあったが、なかでも、蝶々さんの子供が完璧に文楽人形!なのは、素直に「凄え!」と感動した。