大宰権帥、といっても赴任と流罪では全然違う。仕事で行くなら大宰府はすごくいい所だけど。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 

 

大宰府いき、といっても、赴任と流罪では実態がまるっきり違うんですよね。

菅原道真、源高明、藤原伊周の三人が、大宰権帥として配流、の歴代メンバーですが。大臣の職にあったものが罪を犯したときは、太宰権帥というのがお約束です。

左遷ではなく流罪ですから、赴任先で仕事は一切ありません。

配流、という場合、たいていは一室に軟禁されたまま何年も過ごし、そのまま病気になって死んでしまうケースも多い。観光なんてとんでもない、ろくな食事が出るかも微妙なところ。

菅原道真や、のちの讃岐の崇徳院はこのパターンです。鹿ケ谷の陰謀の藤原成親のように流罪先で餓死させられた者もいます。

但し、数年で許されて都に戻れる場合も多い。明子女王の父の源高明も実はこのパターンで。大宰府で死んだわけじゃない、晩年は都の郊外で隠遁生活でした。だから明子さんも、あんなに、我が身を削って執念深く呪詛する話ほどのでもなかったんじゃないの、とも思うんだけど。

伊周が太宰府でどういう扱いになるか、何年で帰れるかも、心がけ次第ってこともあるし、あまり見苦しく悪あがきしないほうがいいです、と回りの人は教えてあげるべきです、特にお母さん。

大宰府にちゃんと仕事で赴任するのは、これとは全く別です。日本で唯一の貿易港である博多を管轄する大宰府で数年働けば、一財産築ける、サイコーにいいところだぞ太宰府!と藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)も自慢してましたし、のちの平清盛も、大宰大弐(事実上の長官)に赴任した時期に勢力を蓄え、貿易立国のプランを温め、天下を取ったのちに日宋貿易の振興に熱中します。

のちに藤原隆家(伊周の弟)が太宰権帥に自ら志願して赴任したのも、この仕事で一旗上げて中関白家を再興しようっていうポジティブ転勤です。で、刀伊の入寇という非常事態に遭遇、奮戦して撃退、国家的英雄に返り咲きます。

伊周の太宰府と、隆家の太宰府は、全く意味が違うのです。