まひろが「今語る言葉は何もない」と言って別れた場面は、二人の夢の中、仮想空間なのでは?という仮説 | えいいちのはなしANNEX

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「昔のおのれに会いにきたのね。
でも、今語る言葉は、何もない。」
これ、いろんな解釈ができるシーンだと思うのですが。


これは画面演出の印象からも「現実ではない、象徴的な場所」の出来事だと、私は解釈しました。
まひろの夢の中に道長が現れた、同時に道長の夢の中にまひろが現れた。お互いの存在を確認して、言葉を交わすことなく分かれた。そういうシーンだ、と見ました。
「せっかく再会したのに、挨拶もせずに分かれるなんて、そんな冷たい関係になってしまったのか、悲しい」という感想の方もおられるようですが、それは違うのではないかなあ、と私は考えています。

もちろん、NHKから公式に発表されている粗筋でも、「夢の中」なんて一言も書いてありませんから、これはあくまで私の解釈です。
脚本の大石静さんは、ちょっと前のインタビューで「歴史のストーリーを進めるばかりだと、まひろと道長が全く会わずに話が進んでしまう、だからこれからは、二人が出会うシーンを意図的に作っていく」といった趣旨のことを仰っていた、と聞いています(私の意訳です)。
しかし、まひろと道長は、直秀の死などの事件を経て、世の中を良くするために恋愛を封印し、「お互い自分の出来ることをやっていこう」と誓って別れた、わけです(と私は大づかみに解釈しています)から、このあと出会ったとしても、中途半端に恋愛感情を再燃させてはいけないんです。


倫子さまの屋敷の橋掛かりの両端で偶然ばったり出会ったときも、人目もあるので、言葉を交わさずにすれ違いました。
道長が悲田院にやってきて、まひろが感染して倒れたのに遭遇した場面、「貴族がそんな所に来るはずがない」とか言うのは、筋違いです。
「光る君へ」というドラマの構成上、そろそろ、二人を出会わせなければならない。そこで必然性を持って選ばれたのが、「庶民のための疫病対策施設」です。


まひろが病で意識を失っていたあいだずっと看病していた道長が、まひろが目覚める前に立ち去ったのも、「ここで言葉を交わすわけにはいかない」からだ、と私は思っています。
一言でも言葉を交わせば、必ず「焼けぼっくいに火が付くのか?」って展開になってしまう、それは「光る君へ」というドラマの大方針とは、違うんです。


道長が「庶民のための政治ができるポジションに就く」という人生の大目標のためには、北の方の「倫子さま」の存在が絶対に欠かせません。経済力だけでなく、精神的な支えとしも。
まひろは、道長の北の方にはなれない、なったとしても倫子のようには道長の力にはなれない。だったら、「恋人」のような立場で道長と繋がっているのは「違う」。


だから、ここで偶然出会ったとしても、まひろには「今、話す言葉は、何もない」んですよ。
民放時代劇なら別ですが、NHK大河ドラマは「恋愛至上主義」であってはいけないのです。主人公(たち)には「生涯かけて、日本という国を前に進める」という義務がある。すべてを捨てて恋に邁進したりしてはいけないんです。
脚本家の書いた設定と、現場の演出の間に、違いが出てくることは、あり得る、と私は思うんです。


思い出の場所で偶然出会った、でも、敢えて言葉を交わさずに分かれた。
この脚本を、現実の俳優を動かして映像にしたとき、「これを、リアルな行動様式でやるのは、ちょっともたないなあ」と判断した。だから「現実とも夢ともつかない、曖昧な演出でいこう」と考えた。
そういうシーンなんではないかな、と私は考えています。いや、すみません、あくまで私の個人的感想にもとづく解釈ですが。


この場では、まひろも、道長も、生身の人間ではなく、ある意味「抽象的な存在」として演出されているんじゃないかな、というのが、(いわゆる演劇マニアでもある)私の思うところです。
舞台劇だと、こういう「別の場所にいるはずの二人が、仮想空間で出会う」みたいなシーンは、普通によくありますからね。