源頼朝はジオン・ダイクン、北条時政がデキン、義時がギレンってことです。って何言ってるんだオレは? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

あなたがもし、冗談の分かるくだけた人であれば、

「源頼朝はジオン・ズム・ダイクンで、北条時政はデキン・ザビ、義時はギレン・ザビ、みたいなもんです」

という説明をすると、とっても分かりやすいと思うんですが。

分かるヒトには「なるほどー」と言って貰えるのではないかな。
つまり、サイド3が「ザビ王国」ではなく「ジオン公国」と名乗っているのと同じだ、って話で、関東武士団は源頼朝を象徴的に旗頭に担いでいるから「源氏の軍勢」と便宜的に呼ばれているだけなんだ、っていう話です。

NHKの「日本人のおなまえ」で、先生が「頼朝に馳せ参じた関東武士は平氏のほうが多かった、だから源平合戦は、実は平平合戦なんです」っていう、よく言われる冗談を、また言ってましたね。
これは、日本史を少しでも知ってる人間にとっては、「ちょっとしたジョーク」に過ぎないんですよ。

源平合戦、源氏対平氏の戦い、っていう観念が、あまりに一般に流布してしまっているので、いまさら否定するのも野暮なので、こういう言い方をすることで「治承寿永の乱は、ホントは源氏対平氏の戦争じゃあありませんよ」ってのを、やんわりと言ってるだけ、と解釈してあげるべきです。

一昔前に、ある安目の歴史バラエティが「源平合戦の真実は平平合戦だった!」なんていう大見出しで番組を作ってまして。見てみたらやっぱり、
「平家の一族でありながら、末流として冷遇されていた北条氏が、頼朝を操って軍を起こして京都の本家を倒し、平家を乗っ取ったのだ」
という、なんだ、聞いてみれば、歴史がまるで分かってない、いつものバカ話でした。

昔は教科書ですら「治承・寿永の乱」のことを「源平合戦」って書いていた、つまり源氏と平氏の戦いであるかのように習ったものだから、頼朝のバックにいた北条氏や三浦氏がみんな「平氏」であるというのをあとから知ると、ビックリしてしまうわけですよ。
そういうビックリ世代が、テレビ東京とかでプロデューサーをやっていて、そんなトンチンカン番組を作ってしまうです。そんなのを見て素直にビックリする視聴者がまた多いから、いまだに誤解が蔓延しています。
そもそも「源平合戦」とか「源平争乱」とかいう言葉が間違っているのです。
現在は教科書にも「治承・寿永の乱」と書いてあるでしょう?この一連の戦いは、源氏と平氏という血族集団の戦いではないんですよ。

ひとことで言えば、農場経営者として力を蓄えた関東武士団が、相変わらず経済的に搾取してこようとする京都朝廷に対し、独立戦争を仕掛けたのです。そのとき京都朝廷に君臨していたのが武士出身の平家です。


平氏のなかでも、清盛の近親者で公家化してしまった一族のみを「平家」と呼びます、この話はいつもしていますが、ここを絶対に混同しないでください。
いっぽう、関東武士団が「旗頭」として担いだのが、たまたま伊豆に流罪となっていた源頼朝です。
彼らの敵は「平氏」ではなく「平家」です。つまり、都にいてふんぞり返って地方を収奪している、平清盛とその家族たちです。
頼朝を担いだ関東武士団には当然、平氏も源氏も藤原氏もいましたが、そんな十代以上前の先祖が同じか違うかは、どうでもいいことです。

もちろん、「経済的自立」とか「独立戦争」なんていうのはテクニカルターム(学術用語)です。後世から歴史を見て言ってるだけのことで、当時はそんな概念も言葉もないし、戦っている本人たちですら、この戦いの意義を説明しろと言われても理路整然とは答えられないでしょう。
そこで、物語的に分かりやすい説明として、「平家によって親を殺され島流しにされた源頼朝公が、打倒平家の兵を挙げたので、我々は義によって馳せ参じたのだ」という、仇討ちのようなストーリーを大義名分として掲げたのです。これは嘘というわけではありませんが、実は順序が逆です。「頼朝の挙兵に関東武士が味方した」のではなく、「関東武士の挙兵に、頼朝が旗頭として担ぎ出された」のです。
そういう「歴史の本質」を見ずに、歴史年表の巻末についている家系図を覚えて喜んでるのが、いかにピント外れであるか、明らかです。


北条や三浦は確かに「平氏」ですが、公家化して搾取側に回ってしまった京の「平家」は、本家でも親戚でも、ましてや仲間でもなんでもない、敵対することに、道義的にも何の痛痒もありません
「治承・寿永の乱」は、源氏と平氏の戦いではなく、ましてや平氏と平氏の内輪もめでもありません。「関東武士団と、中央貴族の争い」です。
攻められる中央貴族(平家)側はともかく、攻める関東武士団のほうは、頼朝も北条も三浦も、みんなそれが分かっていました。
ただ一人、勘違いして「わかりやすい仇討ちストーリー」を信じてしまっていたのが、九郎義経です。彼の失敗の根本はそこにあるんですが、それはまた別のはなし。

ところで、実朝がガルマで、公暁はシャアってことになるんかな。


 

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