平清盛が、平治の乱のあと源頼朝を殺せなかったのは、「王家サークル」の内側にいる少年だったから。 | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

平清盛が、平治の乱で勝利できた大きな要因のひとつが、さいしょ義朝方に囲いこまれていた後白河法皇と、その同母姉の上西門院を、自分の側に取り込むことに成功したことにあります。これによって大義名分は一挙に清盛側に傾きました。
つまり、後白河と上西門院は、戦勝における恩人であり、戦後処理においてその意向は無視できないものがあります。
 

上西門院は後白河の一歳上の姉で、母は同じ待賢門院ですから、後白河とは非常に親密です。
この独身皇族・上西門院に仕えていたのが、源頼朝の母・由良御前です。なので頼朝も、子供の頃から上西門院のもとに出仕し、子供のように可愛がられていたのです。
平治の乱の結果、頼朝は捕らえられますが、ここで上西門院サイドから、猛烈な「頼朝助命運動」が起こります。十三歳で、鎧着て座ってただけの少年を、殺す必要はないだろう、と。
もちろん、後白河も、姉の意向を最大限に汲んで、清盛にプレッシャーをかけます。
この時点の清盛は、戦に勝ったとはいても決して絶対権力を掌握したわけではなく、いろんなところに気を使いがら戦後処理をしなければならなかった。
特に、後白河と上西門院の意向は、最大限に尊重する必要がありました。平治の乱で勝てたのは、この二人がこっちについてくれたおかげなんですから。とても「オレ様が好きなようにして何が悪い」とか言ってられる立場じゃあないんです。
後白河にしてみれば、清盛が対抗勢力を子供にいたるまで皆殺しにして、権力を確立するのを見るのは愉快でない、というのもあります。
そこで後白河は切り札を使います。母の待賢門院に仕えていた池禅尼です。

池禅尼というのは夫の忠盛が死んで出家したあとの名前で、本名は藤原宗子です。
このひとは忠盛の後妻です。清盛は先妻の子なので血のつながりはありません。
この先妻というのがよく分かっていなのですが、いずれにせよ宗子より家柄は低い家の女性だったと思われます。
後妻になった藤原宗子は、かつて崇徳天皇や後白河天皇の母であった待賢門院(鳥羽法皇の妃)に仕えていました。「王家」とのパイプが強かったんです。

もちろん、忠盛が後妻に迎えたのも、それを見込んでのことです。トロフィーワイフ、というやつですね。
宗子は、家盛・頼盛と、二人の男子を産んでいますが、日本の家督相続というのは出生順ではなく、母の身分順です。
宗子にしてみれば、先妻の子が長男というだけで家督を継ぐのは、納得いかなかったはずです。
実際、一時期、宗子の子の家盛が、清盛の対抗馬として有力と見られていた時期もあったんです。母の身分からすれば、そのほうがむしろ自然です。
ところが、この家盛が、若くして病気で死んでしまいます。おかげで清盛は悶着なく跡取りになることができたわけです。
別に清盛が暗殺したとか、そんなことはないでしょうけど、池禅尼にしてみれば悔しい思いもあったでしょうし、清盛はなんとなく、この継母に借りというか遠慮があったのも事実です。
このひとに「頼朝を助けてあげてください、後白河様と上西門院様のご希望です」といわせれば、清盛も断るわけにはいかないんです、立場上。
「頼朝は、死んだ息子に似ているんです」。その息子っていうのが、家盛のことです。これ、言われたら怖いでしょう。「あんたの後ろには、ほら、若死にした私の息子が、ずーっとついてんのよ、忘れないでね」と言ってるんですよ、この継母は。
あの子が無念にも早死にしたおかげで、あんたはいまそこにいるのよ。家盛が気の毒だという気持ちがあるなら、私の頼みだって聞けるでしょう。
「息子に似てる」というのは、言葉のアヤなんですよ。恨みも因縁もある継母と息子が、胃が痛くなるようなギリギリの鞘当なんです、これは。
結果、清盛には、頼朝を殺すことはどうしても出来なかった。政治情勢的に、それは不可能だったわけです。

義朝の長男・義平の母はおそらく三浦氏、次男・朝長の母は波多野氏。どちらも関東豪族の娘です。

義朝は、父の為義と折り合いが悪く、若い頃に関東に下向して勢力を養っていたんですが、その時代の息子です。関東武士たちと縁を結んで後ろ楯にしようと活動していました。
やがて力を蓄え京都に戻った義朝は、熱田大宮司の娘、由良御前を妻にして、頼朝が生まれます。


熱田大宮司といってもただの神主ではなく、れっきとした貴族です。その娘の由良御前が上西門院に仕える女官になれたのも、家柄が(義朝の前妻たちに比べても)格段に高いからです。
由良御前は「王家」に連なるキャリア・ウーマンであり、義朝にとっては出世したおかげで妻に出来た高目の女であり、トロフィーワイフである、という意味では、池禅尼とよく似た立場です。
つまり京都には、源氏だ平氏だ、という武士側の区分けとは全く別の次元で、天皇・上皇を中心にした「王家サークル」とでもいうものが隠然と存在して、少なくとも頼朝は、その輪の内側にいたから、殺されなかった、と言えます。

貴族の女性が産んだ息子である頼朝が、兄二人を押しのけて「嫡男」になっていたのも、当然です。
その兄二人は、平治の乱ののちにアッサリ殺されています。
しかし、頼朝は、その生まれの高貴さで、王家(後白河サイド)と強烈なコネを持っていたこともあり、清盛としてもこれを殺すことはできなかったんです。

結果、ある意味後白河の思惑通り、自分と繋がりのある少年を「流罪」の形で生かしておいて、布石とすることに成功したんです。
のちに関東に独立自治組織ができて、頼朝が御神輿に担がれたのも、大きな意味で「後白河の布石が生きた」と言えるでしょう。
後白河にとって、頼朝は「元々サークルのなかにいたヤツ」つまり話ができる相手です。


それが関東方の総大将となって戻ってくるならば、それは、まったく身も知らずの人間(たとえば木曽義仲)が率いる叛乱軍がやってくるのに比べれば、かなりマシなことなのは確かです。

 

 

 

 

 

 

あなたもスタンプをGETしよう