信長の弟・勘十郎「信勝」は、実は父の生前から、尾張の統治権を持っていた、とか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

織田信長の弟は、信長公記では「織田勘十郎」とだけ記されています。

彼の諱(実名)は、後世に作られた系図では「信行」となっていますが、同時代の史料には信行という名前はなく、本人が信勝、達成、信成などと署名した文書が残っています。

少なくとも彼が生前に信行と呼ばれたことも名乗ったことも記録にないようです。
なので、近年では彼は「織田信勝」と書かれるようになっており、「麒麟がくる」でもこの名前を採用しているわけです。

信行、という名前は、司馬遼太郎や国盗り物語で育った世代の人間にとっては馴染み深いものなので、今になって違いますと言われてもなかなか納得できないところでしょうが。

柴田勝家は、最初は勘十郎の家来でした。それが土壇場で見限って信長についた、というのは先日の「麒麟がくる」でもやってましたが。この「勝家」という名前は、主君の「信勝」の偏諱であることは明らかです。

いろんな意味で、勘十郎の諱は信勝のほうが理屈に合うのは事実なので、ここはおとなしく、信勝、でいきましょう。

ということなんですが。

尾張国内の国人領主か寺社に対して、「おまえの土地の領有権を保証してやるぞ、織田信勝」といった内容の文書がいくつも現存している、ということらしい。信秀がまだ生きているうちから。
このような公文書を発給するのは、尾張の支配権を握っている者でなければ意味がありません。つまり、信勝は尾張の支配者である、あるいは支配を代行する権限を持っている、ということになります。

信秀が生きているうちに、こんな文書を無断で出したら、父への謀反ってことになりますが、そんなことは有り得ないんで。つまり信秀は、自分の統治権を信勝に委任していた、ということになるのでしょう。

そこで調べてみると、信秀(末森城主)はある時期から、息子の信長(那古屋城主)に尾張統治の仕事を半分任せていた、尾張は信秀と信長の共同統治という形になっていた。つまり、この時点では信長が後継者であることに疑いはなかった、わけです。

ところが、信秀は晩年になって、一緒に住んでいた勘十郎信勝に、自分のかわりに「判物の発給」を任せるようになった。つまり、信秀は「自分の後継者は信勝である」と皆に宣言しているも同然の形になったわけです。

かといって信長の廃嫡を宣言したわけでもない、非常に曖昧な状態のまま信秀は死に、信勝がその跡を継いで末森城主となりました。結果、尾張は信長と信勝の二重統治のような形になってしまいます。

跡継ぎをちゃんと決めずに死ぬとは、これは織田信秀、戦国大名としては明らかに失策ですね。

織田弾正忠家は事実上、那古屋城の信長と、末森(末盛)城の信秀→信勝に分裂してしまった、ということになるわけです。
平和共存、とは到底いきません。どちらも「こっちが父信秀の跡継ぎだ、こっちが本家であっちは家来だ」と考えているからです。

当然、衝突は避けられなくなる、というわけで、信長と信勝はやがて、武力衝突し(稲生の戦い)、信勝側が負けて多数の被害者を出しました。この件については先週の「麒麟がくる」で、帰蝶が一言だけで言及しています。これ、知らないと、何のことを言ってたのか、さっぱりわかりません。池端俊策先生、なかなかストロングタイプの脚本です。

一度は服従した信勝ですが、結局、信長に「病気」と称して呼び出されて殺害されます。

「麒麟がくる」でやっていたように、信勝が再び謀反を企てたのが事実なのか、史実としては、わかりません。
信長を暗殺しようとして返り討ちにあったとか、帰蝶の仕組んだオフサイドトラップにかかったのだとか、そのへんは創作でしょうけど。

帰蝶、どこまで突っ走るのか? 撮影は間に合うのか?

 
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