信長と秀吉の時代は「安土桃山時代」。桃山って何? なんで「安土大坂時代」じゃあないのか? | えいいちのはなしANNEX

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信長と秀吉の時代を「安土桃山時代」といいますけど、秀吉といえば大坂城ですから、「安土大坂時代」になりそうなもんです。

なんで大坂でなく桃山なのか? てゆうか桃山って何だ?

ちなみに、これが現在の「伏見桃山城」です。

昭和に再建された模擬天守閣、もとは遊園地の一施設だったのが、老朽化で取り壊されかけたところを、東映が映画ロケ用に、大坂城ふうに改装したものと聞いています。

ここにかつて、秀吉の「伏見城」が建っていたのだそうです。

秀吉にとって大坂城は「居城」つまり私邸、自宅です。秀吉は関白ですから、天皇のすぐそばにいるのが原則です。

秀吉が実際に政治をおこなった本拠地は伏見城であり、当時の人々は秀吉の政権を「伏見政権」であると認識していました。だから秀吉の死後、政治を託された徳川家康は真っ先に伏見を押さえ、秀頼の後見を託された前田利家は大坂城に入りました。この時点で豊臣政権の実質首班は家康となったわけです。つまり「大坂ではなく、伏見にいるのが、日本の首相」ということです。
いろいろあって徳川幕府成立後、秀吉政治の象徴であった伏見城は徹底的に破却され、跡地には桃が植えられました。以降、ここは「桃山」と呼ばれるようになり、「伏見城」という言葉自体が禁句というか、口にするのが憚られるようになります。


大坂城は徳川の手で再建されましたが、伏見城は跡形もなく記憶ごと消し去られたんです。「伏見城」こそ豊臣政権の代名詞であり、だからこそ忘れられなければならない名前なんです。
「時代」というのは、後世の歴史学者が過去を区切るために名付けるものです。だから、秀吉の時代は「伏見の時代」ではなく「桃山の時代」と呼ばなければいけないんです。たとえ秀吉が生きていたとき「桃山」なんて地名はまだなくても、です。

ついでに言うと。桃の木というのは生命力の象徴であり、その下には「死の怨念」が埋まっている、というのがお約束です。桃の木は「滅びたものの怨念」を抑えるために植えられるのがセオリーらしい、というのが私の説ですが、その話はここに。

 

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