これね。日本史七不思議。
信長と秀吉の時代なら「安土大坂時代」でよさそうなもんなのに、なんで、桃山なのか。
ってことですよね。
まず、秀吉が実際に政治をしていたのは大坂城より京都に近い伏見城だった、ということです。秀吉は関白ですから、なるべく天皇のそばにいるのが正しいんです。
つまり、大坂城というのは秀吉の自宅(豪邸)で、伏見城のほうが本社ビルだ、ってことです。
豊臣政権が崩壊したあと、江戸幕府は、この「豊臣政治の象徴」伏見城を徹底的に破却して、再建もしませんでした。大坂には、ちゃんと徳川の大坂城を再建したのに、です。
伏見城の跡地には、桃の木を徹底的に植えて、むかしここに城があったという記録ごと消そうとしました。以降、この城跡の丘は「桃山」と呼ばれました。
この「跡地に桃を植える」ってのを、のちに江戸幕府はもういちどやってます。
「生類憐みの令」が廃止されたあと、中野にあった広大な犬小屋(じゃなく犬屋敷か)は破却され更地にされ、跡地には桃が植えられました。
そこに飼われていたはずの何万匹もの犬はどうなったんでしょうね。桃の木の下に埋まってるんでしょうかね。いまも中野駅前に「桃園」という地名が残ってますので、行ってみてください(イヤだな)。
余計な話をしました。
桃を植えるということは、その土の下に埋まっている怨念を封じ込める、という意味があるんです、たぶん。桃には、そういう霊力があるって信じられていたんでしょう。
というわけで。「桃山」の下に埋まっているのは、豊臣家の怨念です、たぶん。
江戸時代、ここに「伏見城」があったということすら、大声で言うのは憚られた。
だから、秀吉の時代は「伏見時代」ではなく「桃山時代」と呼ばれるようになったのです。
信じるか信じないかは、あなた次第です。