「公家」と「武家」はどう違う? 要は京都に住んでる貴族が公家。 | えいいちのはなしANNEX

えいいちのはなしANNEX

このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

ものすごくざっくり言い切れば「公家+武家=貴族」で、京都に住んでる、代々ずっと天皇のそばにいるのが「公家」、地方で土地の領主をやりながら貴族の位(五位以上)にまで昇ったものを「武家」と呼ぶのだ、と考えてください。

公家のほうが武家より格上、というのは間違いです。武家だろうが公家だろうが、五位より四位のほうが格上、四位より三位のほうが格上です。
もっとも、守護大名や戦国大名は、どんなに大きな領地を持っていても四位がせいぜい、三位の位は都に住んでる大臣級に限られますので、「トップ武家よりトップ公家のほうが格上」とは言えます。

もともと、貴族というのは原則的に京都に住んでるもので、地方に下ったとしても一時的な赴任、いずれ戻ってくる、という建前でした。

しかし、平安時代なかばから、地方にいたまんま土着して土地領主になってしまう者が増えます、これが「武士」。さらに、そのなかから、再び京都に昇ってきて出世して貴族に復帰した家が出てきました。

そこで、これを区別するために、地方領主あがりを「武家」と呼び、ずーっと京都にいた者を「公家」と呼んで分類するようになった、と考えてください。

この区別ができたのは、だいたい鎌倉時代以降だと思われます。平清盛は普通に京都生まれで京都の貴族社会のなかで出世した普通の貴族です。しかし次の源頼朝は、どんなに高い位をやって「貴族の仲間に入れてやる」と言っても、一向に京都に住もうとしませんでした。依然として地方領主の親玉として関東に住み続けました。こういう「異端者」は怖いものです。こういう異質(イレギュラー)な存在を「武家」と呼び、京都で天皇の傍で代々暮らす自分たちのような正統(レギュラー)な貴族を「公家」と呼んだわけです。

これは、別に資格があるわけでも、境界線がキッチリあるわけでもありません。ですから、公家が「よーし、俺も武家になるぞー」というのは全然アリです。

公家といっても上中下といますから、室町時代でも戦国時代でも、「都にいてウダツがあがらない地位にいるより、地方に下って肩書きを利用して領主に納まろう」と思うヤツは常にいます。そういうヤツラのなかで成功した者が「公家がいつのまにか武家になった」と言われる人々です。南北朝時代に活躍した北畠親房なんかもその例で、戦国時代には北畠氏は伊勢の大名になり、代々、「公家上がり」に相応しくやたら高い官位を誇っていました(結局、織田信長にのっとられ、息子の信雄を養子に送り込まれて、ってのは「忍びの国」で知念くんがやってましたよね、あの家です。武家なんだけどプライドは公家、っていう)。

逆に、足利将軍家は、関東生まれなのに、京都に居着いているうちに「公家化」してしまいました。なので全国の武士からいまいち尊敬されませんでした。

豊臣秀吉も、京都に居ついちゃって、結局武家なんだか公家なんだか分かんなくなってしまいました、たぶんそれが武士たちの人気を取り切れず、一代で家がつぶれた原因だと思いますけど。

そんなわけで、武家と公家のキッチリした分類基準なんて、ありません。敢えて言えば、京都に住んで天皇べったりなら出自がなんであれ公家、地方に住んで領地を自分で治めれば武家です。武士というのは自分の土地を自分で守る者のことをいいます。

「武士の棟梁になりたいなら、武家に徹しよう、公家の真似事は程々にしといたほうがいいよ」とは言えるでしょう。

あなたもスタンプをGETしよう