これは歴史ではなく文学の問題ですね。
「非業(ヒゴウ)」というのは仏教用語だそうで、「業(ゴウ=前世の因縁)に依らない、ということだそうです。仏教では因果応報とかいって、前世で悪いことをすれば今の世で報いがある、ってことです。
とまあ、難しい話をおいとけば、要するに「因果応報」である場合は「非業」とは言わない。悪事の報いであったり、本人の責任で納得づくで戦って死んだ場合は「非業の死」ではない、ってことですね。
たとえば石川五右衛門がかまゆでで処刑されたとして、どんなに殺され方が残忍せも、五右衛門がいっぱい盗みをしたのが事実なら、これは「非業」ではありません。
関ヶ原で負けた石田三成が首を切られたのを「非業」と言ったら、もしかしたら本人に失礼かもしれません。自分の信念に従って戦って敗れたのだから、本望、武士の本懐、と本人が思っていたなら、これは非業の死ではありません(これは本人に聞くしかないけど)。
武田信玄が上洛戦の途中で病死したのは、もしかしたら本人が「畜生、こんなところで死ぬなんて~」と思っていたなら「非業の死」かも知れません。
まあ、周囲が見て「こんなところで死ぬなんて理不尽だな、可哀想だな」という場合を「非業の死」と呼ぶ、と考えていいんじゃないでしょうか。