リアル水戸黄門・光圀公の人柄、実像とは?について、ひたすら私の偏見に基づく分析 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

水戸光圀、黄門サマですね。このひと、若い頃はとんでもないワルで、街で辻斬りとかしてたんですって。

当時は部屋住みの次男坊でヤケクソになってたからで、いろんな事情で(兄を差し置いて)水戸家の跡継ぎになって以来は、この悪事はおさまった、といわれます・

で、光圀は晩年「今思えば、昔はヒドイことをしたものだなあ」と回顧した、って話しですけど。

これ、私には、真剣に反省しているようには、どうも感じられません。むしろ「俺も若い頃はワルかったんだぜ~」という、元ヤンのおっさんの自慢、いわゆる「武勇伝」にしか聞こえない。「可愛そうなことをしたもんだ」なんて、本気で後悔してる人間の台詞じゃないですよ。


人間の本性なんて、そうそう変わるもんじゃありません。三つ子の魂百までって言いますけど、光圀って、ジイサンになっても「そういう感性の持ち主」だったように思います。

つまり、武士は強くあれ、強さは正義、面倒くさいものは叩ききればいい、そういう人だったのではないか。いや、テレビドラマの水戸黄門の印象で語っているわけではないつもりですけどね。


そんな光圀が見るところ、将軍綱吉は「軟弱な若造」でしかないでしょう。

光圀は、つねに将軍綱吉の「生類憐みの令」をつねに、強硬に批判していた、といわれます。

「生類憐みの令」という名前の法令はなくて、綱吉が次々に発令した弱者救済政策、「あれを守れ」「これを守れ」「これはするな」「アレも駄目だ」という命令の総称なわけですけど。

「弱い者を守れ、守れ」という綱吉を、光圀が相当苦々しく思っていたことは間違いありません。

だってこの若造、自分が若い頃にしたことを悉く非難して否定してくるわけですから、面白いはずがない。

皮肉も言いたくなるでしょうし、反抗もしたくなるでしょう。自分は一族の長老だから、何を言っても罰せられまい、という「上から目線」の驕りがあったとも思えます。


大陸で明が滅亡して、多くの遺臣、儒学者が日本に亡命してきます。光圀は彼らを保護し、「幕府が、明を助けて大陸に出兵すべきだ」と主張したと言われています。バリバリの武断派です。もちろんそんな案は通りません、時代が違うのです。光圀は亡命儒学者を水戸で保護し、彼らの指導で中華ソバを作って食い、彼らの思想「尊王攘夷」(漢民族の王を担いで、異民族の侵略を退けろ)に感化されて「大日本史」の編纂を始めました。過激思想のカタマリの歴史書です。


光圀は、絶対に「温厚なご隠居サマ」ではありません。むしろ、暴走老人です。そうであれば、いきなり家老を斬り殺したという「藤井紋太夫事件」も、さもありなん、と思われます。