生類憐みの令は決して悪法ではないけど、運用はちょっと過激すぎた。それは綱吉の「生い立ち」から? | えいいちのはなしANNEX

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生類憐みの令を「天下の悪法」と決めてかかっている人は「綱吉が、跡継ぎが生まれないのを悩んでいたところをインチキ坊主に騙されたのだ」とか「綱吉がイヌ年生まれだからイヌを大切にすれば子供が生まれると信じてたのだ」とかいう俗説をいまだに信じている人も多いですが。これらは、幕府政治に反感を持つ人々が捏造した俗説であることは実証されています。


この俗説では、綱吉の母・桂昌院に取り入った僧・隆光が、生類憐みの令を勧めたということになっています。しかし、最初の法令が出された1687年は、隆光は江戸に来る(1688年)以前です。従って、綱吉を隆光がそそのかして生類憐みの令を出させるというのは、ありえません。


では、「生類憐みの令」と言われているののの正体は何か。
 綱吉は、戦国以来の殺伐とした社会風潮を、このへんで改めて「文治国家」に変えていきたいと願っていたのです。大名も庶民も力ずくで押さえ込もうとしたのが、父・家光時代の政策です。これを転換し、学問を奨励し、人の心を優しくしようと努力します。何事も「力づく」が横行し武士も町人も何かと言うと喧嘩で殺しあうような気風を、改めようとしていたのです。「幕府は強いんだから、従わなければ殺すぞ」という政治は、「じゃあ、オレより弱いヤツは殺してもいいんだな」という庶民を生みます。イヌを殺してウサを晴らしているものは、いずれ弱い人間を殺して金品を奪うようになります。そういう社会を改めるためには「道徳教育」しかないのです。


 大原則としては、庶民のためにもなる、正しい政策です。つまり綱吉は、並々ならぬ信念を持って政治をしていたのであって、モノの分からない親戚の老人に意見されたくらいで、考えを変えたり反省したりはしません。
 第三に、生類憐みの令、という法令はありません。「野良犬を放置するな」とか「動物をむやみに殺すな」といった数多くの法令の総称を、そう呼んでいるのです。犬に関する法令が多いのは、それだけ当時の江戸に野犬が多くいた、野犬問題が深刻だった、ということで、綱吉が犬好きだったせいではありませんし、人より犬がえらいと言ってるわけでもありません。中には「捨て子をしてはいかん」とか「捨て子を見つけたら放置せず、町内で保護しろ」とかいった、ごくごく人道的な法令もあります。それらを全部ひっくるめて「何もかも悪法だ」という者がいたら、そっちのほうがよほど乱暴です。


 庶民が悪政に苦しんでいたというのも、かなりウソです。
 綱吉は少々パラノイア的というか「思い込んだら極端に走る」性格の人であったようでもありあmすので、中には「それはいきすぎじゃないか」という規則もありました。また、現場の役人が過剰反応して高圧的な取り締まりをしたこともあったようです。実際に「イヌを殺して死罪になった、島流しになった」という実例はありますが、これはみな「確信犯」で、政治批判のために衆人環視のなかでワザとやった者のみです。


 庶民というのは、政権に対してはたいてい反抗的なものです。綱吉の意欲的な政治は、大半の庶民にとって「うるせえなあ」というものだったでしょう。野良犬を保護しろ、捨て子を保護しろ、ったって、その手間と費用は庶民モチなんですから、迷惑な話だと感じていたのは確かでしょう。そういう気風に乗って、政権批判の言動をする者は人気を取り易いです。「将軍は、跡継ぎが欲しいといった身勝手な動機から庶民に迷惑を強いている」という俗説が流れれば、みんな飛びついてしまうのも仕方ないところです。しかし、綱吉の時代に江戸の治安は劇的によくなったというのも紛れもない事実ですし、おかげで経済が大発展し「元禄文化」が花開いたのも事実です。

ここで、余計な話をします。
 三代将軍・家光というのは、ものすごいコンプレックス持ちで、父・秀忠が、自分より優秀に見える弟・忠長ばかりを父母が可愛がったのが、生涯トラウマであったとみえます。家康の裁定で将軍にしてもらったため、祖父を神のように尊敬していた一方、父秀忠のことは「完無視」しています。
 家光の政治は、俺様は偉いんだ、俺の気に入らないものは叩きつぶすんだ、という「マッチョ系」の将軍でした。そういう人間ですので、自分の息子のなかで体も小さく軟弱な綱吉を邪険にしていたのではないかと思います。いずれにせよ幼いときですけど、幼時の記憶ほどトラウマになりやすいもので(綱吉は、歴代将軍の中で飛びぬけて身長が低かった、とも言われます)。


だから、綱吉も「父・家光が大嫌い」であり、将軍になった以上は「父の政策と真逆のことをしたい」という欲望が潜在的に強かったんじゃないか、と密かに想像してます。

綱吉も、父に負けず劣らずのコンプレックス持ちだったんだろうな、という気がします。

誰だって、生きていくのは、大変だ。特に将軍ともなれば。

 

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