藤原氏の総本家、摂政・関白を持ち回りで務める「五摂家」は、公家の最高峰です。「近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家」、藤原道長・頼通の直系子孫が分かれた家です。
ところで、この「鷹司」というのは、動物の飼育係のことでしょ、どう考えても高い身分とは思えないんだけど、なんで? という人がいました。
うーん、そういうふうに言うヒトがいるかあ。
まず、この鷹司は、「家名」です。本姓は藤原です。
公家の半分以上は本来の姓は「藤原」ですが、誰も彼も藤原では不便でしょうがないので、平安の末期ころから、分家ごとに「屋敷の名前」を通称として用いるようになります。
武士の場合は「領地の名前」(北条とか足利とか)を通称として名乗るので「苗字」とか「名字」とかいいますが、公家は「屋敷の場所」を名乗るので正しくは「家名」というのだそうです(ここ、訂正します)。
鷹司家は「鷹司小路」に屋敷があったからこう通称されたのであって、本人が鷹を飼っていたわけではもちろんありません。
「鷹司小路」の名前は、おそらく、兵部省に付属する「主鷹司(しゅようし)」に由来すると思われます。主鷹司の役場か、ここに勤める者の屋敷があった通り、ということでしょう。
ちなみに鷹は決して「卑しい畜生」ではありません。古代には天皇も豪族もみんな「武人」でしたから、鷹狩りは昔から高貴な人の必須の趣味というか訓練ですから、その鷹を飼うをいうのは高尚で重要な役職です。その役場か役人の家が都の真ん中にあるのは、何の不思議もありません(とはいえ、公家文化の平安時代には、鷹狩りの習慣は途絶えていて「主鷹司」も開店休業状態であったようですが)。
「鷹狩り」はただの遊戯ではありません。支配者層にしかできない、とっても贅沢で高尚なスポーツ、というより「軍事演習」ですらあります。
たとえば徳川家康が生涯にわたって暇さえあれば鷹狩りに精を出していたのは有名です(一富士二鷹三茄子ってのは、家康の好きなものベスト3とも言われています)。
「鷹匠」は豊富な知識と戦略眼がなければ勤まらない役割で、ここで有能さを発揮してそのまま側近、政治顧問に抜擢された者もいます。本多正信です(「真田丸」の近藤正臣ですね)。
日本史のほとんどの時代に、鷹狩りは極めて高尚な趣味であり、茶道や華道にも劣らない、日本文化の精華のひとつであると言って過言ではないのです。
「鷹司小路」の名前の由来として、藤原道長の妻の一人・源倫子(通称・鷹司殿)の屋敷があったからそう呼ばれた、と書いてあるもののもありますが、これは話の順序が逆でしょう。源倫子も大臣の娘であり、その親戚に鷹司はいませんから。「鷹司殿」と呼ばれたのは鷹司小路に屋敷があったから、というほうが、理屈に合います。のちの五摂家のひとつ鷹司家は、その屋敷を引き継いだのかも知れません。
つまり、まるっというと、「鷹司」は藤原氏にとって縁起いい名前である、ということです。「いきものがかり」はマイナスイメージの名前ではないんです。