真田家って、老中を出しているけど、つまり「譜代」なの? | えいいちのはなしANNEX

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 真田昌幸の長男・信幸(信之)と、本多忠勝の娘で家康の養女・小松姫 が結婚した時点で、真田は徳川に従ったので「譜代」である、というのは、誤りです。
 よく「関ヶ原以前に徳川家に臣従していたのが譜代大名、関ヶ原以降に臣従したのが外様大名」というふうに言われ、教科書などにもそう書いてあったりしますが、これは間違いではないけど、ものすごく誤解を招く表現だ、って話は何度かしました。このせいで、「関ヶ原で徳川に味方していた東軍の大名が譜代、敵だった西軍のが大名が外様」だと勘違いしている人が、多くいます。
 違います。
 「譜代大名」「外様大名」の定義 を最初に確認しましよう。
 「外様大名」というのは、徳川家が将軍になるまでは、同格の大名だった家のこと。つまり、徳川家にとっては「お客様」のことです。
 これに対して「譜代大名」というのは、先祖代々、三河松平家に仕えていた家。つまり、「徳川家の家来」のことです。

 前にも書いた話ですが、もういっぺん書きます。
 関ヶ原の戦いでは、徳川家康は豊臣家の大老、つまり豊臣の家来であり、東軍についた大名はみな、家康の家来ではなく、同じ豊臣の家臣ということでは同格です。つまり、味方してくれる大事なお客様です。
関ヶ原で東軍が勝利しますから、徳川に見方した者は、加増されて大大名として残ります。
 負けた西軍の者は、取り潰された者もいますが、領地を減らされたものの大名として残った家もあります。毛利とか島津とか上杉とか、ですね。「参りました、今後は徳川さんの指導に従います」ということで許してもらうわけですが、この時点でもまだ、かれらは家康の「家来」になったわけではありません。豊臣家大老たる家康に従うだけで、まだ、豊臣家の大名として同格です。
 しかしこのあとすぐ、家康は「征夷大将軍」になります。ここで全ての武士は自動的に「将軍の家来」になるわけです。しかし、徳川家にとっては依然としてお客様みたいなもんですので、「外様」と呼ぶのです。
 「譜代大名」と「外様大名」は、そもそも、由来が違うわけです。
お客様と、使用人は、どう違うか。簡単に言えば「徳川家の台所に入れるかどうか」です。
徳川幕府というのは、三河松平家という片田舎の小大名がそのまんま大きくなったもので、天下の大老、老中といっても、平たく言えば徳川家の年寄、爺や、です。これは家来がなるものであって、お客様や、殿様のご親戚がする仕事ではありません。
 だから、外様大名は、幕政には一切かかわりません。意地悪でいれてやらない、わけではないんです。幕府の運営はすべて徳川家の使用人である譜代大名がやるのは、あたりまえです。
 外様大名の多くは、関ヶ原で東軍だった「勝ち組」ですから、そのとき加増さえたまんま、大きな領地を持っています。しかし、いくら昔から徳川家と仲がよかったとしても、徳川から嫁を貰ったとしても、あくまでお客様ですから、台所には入れてもらえません。
 「外様大名には、大きな石高を与える代わりに、幕政には参加させない」というのも、間違いではありませんが、家康が深い考えでそういう仕組みを作ったわけではなく、自然の流れでそうなった、ということです。
 では、真田は・・・というはなし、つづきます。