「関ヶ原で徳川の敵についた大名は、江戸時代に冷遇された」というのは、ほんとうか? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 長州(毛利)と薩摩(島津)が「関ヶ原の恨み」で倒幕運動を起こした、といういわゆる「司馬ストーリー」がある時期、国民的スタンダードになっていました。私が若い頃Dすね。
 その頃の認識のままの人は、「関ヶ原の負け組は、江戸時代ずっと迫害された」という神話(司馬遼太郎先生も、も実はそこまでは言ってない)を信じてたりします(私も子供の頃はそう信じていました、もちろん)。

 関ヶ原の戦いは「豊臣対徳川」ではなく、豊臣家の大老同士(毛利と徳川)のトップ争いです。負けた西軍に属していた大名は、豊臣秀頼の名において、ある者は領地を没収され、ある者は減らされました。
 その三年後に「江戸幕府」というものができ、いままで豊臣家の家来として徳川と同格だった大名も、自動的にすべて将軍の家来となります。これが「外様大名」、徳川幕府にとってはお客様みたいなものだからです。関ヶ原で勝って大きくなった大名も、負けて小さくなった大名も、この時点でみな同じ扱いになります。

 つまり、「それぞれの領地を自由に治めろ。幕府は基本、口出ししない。幕府の運営はもともとの徳川の家来(譜代大名)だけでやるから、一切心配してくれなくてよろしい(つまり、口出し厳禁)」ということです。
 関ヶ原で負け組だったからといって、幕府に従順である限り、特別に迫害されることはありません。取り潰された大名はよほど反抗的な態度だったか、あるいはよほどのヘタを打ったかであり、外様だからってむやみに取り潰されることはありません。ときどき「お手伝い普請」といって国家的公共工事を分担させられることがありますが、これだって関ヶ原の勝ち組負け組関係なく命ぜられています。

 江戸幕府というのは、織田、豊臣の「中央集権独裁体制」にうんざりした大名たちが家康を選んだことで成立した「究極の地方分権体制」なんです。おかげで応仁の乱みたいなことは全く起こらず、平和が続いたわけです。江戸時代に外様大名が恨みつらみを蓄積していた、というのは、お話としては面白いけど、実態とはかなり違う認識です。