黒田官兵衛は、どうして秀吉とのあいだに齟齬ができたのか。 てゆうか、官兵衛はいつ豊臣政権を見限ったのか、という話の、つづきです。
黒田官兵衛が関ヶ原で家康についたのは
、「秀吉
流の政治はをいつまでも続けたら、日本を滅ぼす」ということが分かっていたからです。
だから、「秀吉の縮小コピー」三成に加担することなど、考えられなかった、といえます。
秀吉流とは、つまり「大きいことはいいことだ」というイケイケドンドン政治です。極めつけが「朝鮮、唐を征服すれば、みんな百万石の大領主になれるぞ」という朝鮮出兵です。
日本の十万石のかわりに大陸の百万石をやるぞ、だからガンガン働け働け」という秀吉の掛け声に、熱に浮かされて海を渡った大名たちも、終わってみれば「そんなに苦労して海外に領地なんか貰ったって、今の日本の領土を代わりに取り上げられるんだったら、御免だよ」という気分になっていた。
その空気をまるで読めなかったのが、秀吉命の、三成なんです。コイツに国を任せたら、どうなるか。こいつが勝ったら「また海外出兵」とか言いかねません。だって、秀吉流とは「皆でどんどん大きくなる」ことがドグマなんですから、日本に土地がなきゃ海外に行くしかないでしょ。
あの「大失敗政策」の実行責任者でありながら、その反省をまったくしない。しようというマインドがない。秀吉命の三成には、それが持ちようがない。なぜなら彼も「一所懸命」の武士の心を持ってないからです。
かたや家康は、三河の小領主から出発して、「一所懸命
」という武士の根本マインドを分かっている人物です。人望がどっちに集まるかは、明らかです。
官兵衛は、私怨で東軍についたわけじゃありません。他の武将だってみんなそうです。「三成じゃ、ダメ」なんです。