武士の魂は「一所懸命」、それが分かってるほうにみんな味方するんですよ。 | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

黒田官兵衛は、どうして秀吉とのあいだに齟齬ができたのか。 てゆうか、官兵衛はいつ豊臣政権を見限ったのか、という話の、つづきです。


  黒田官兵衛が関ヶ原で家康についたのは 、「秀吉 流の政治はをいつまでも続けたら、日本を滅ぼす」ということが分かっていたからです。
  だから、「秀吉の縮小コピー」三成に加担することなど、考えられなかった、といえます。
  秀吉流とは、つまり「大きいことはいいことだ」というイケイケドンドン政治です。極めつけが「朝鮮、唐を征服すれば、みんな百万石の大領主になれるぞ」という朝鮮出兵です。

  日本の十万石のかわりに大陸の百万石をやるぞ、だからガンガン働け働け」という秀吉の掛け声に、熱に浮かされて海を渡った大名たちも、終わってみれば「そんなに苦労して海外に領地なんか貰ったって、今の日本の領土を代わりに取り上げられるんだったら、御免だよ」という気分になっていた。
  その空気をまるで読めなかったのが、秀吉命の、三成なんです。コイツに国を任せたら、どうなるか。こいつが勝ったら「また海外出兵」とか言いかねません。だって、秀吉流とは「皆でどんどん大きくなる」ことがドグマなんですから、日本に土地がなきゃ海外に行くしかないでしょ。

  あの「大失敗政策」の実行責任者でありながら、その反省をまったくしない。しようというマインドがない。秀吉命の三成には、それが持ちようがない。なぜなら彼も「一所懸命」の武士の心を持ってないからです。
  かたや家康は、三河の小領主から出発して、「一所懸命 」という武士の根本マインドを分かっている人物です。人望がどっちに集まるかは、明らかです。
  官兵衛は、私怨で東軍についたわけじゃありません。他の武将だってみんなそうです。「三成じゃ、ダメ」なんです。