「奥州藤原氏」って何? 藤原氏なのに、なんで京都にいないの? 都落ちしたの? | えいいちのはなしANNEX

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 えーと、ですねえ・・・。
 「藤原氏は京都で貴族の地位を独占し、源氏、平氏は地方で武士になった」という、あまりにもざっくりした説明が「常識」のように通用してしまっていて、それを頭から信じておられるので、こういう「疑問」が出てくるのだと思います。道長、頼通の系統は確かに藤原氏の本家ですが、それ以外に藤原氏の一族は山ほど、それこそ星の数ほどいます、京都だけでなく、全国に。
 藤原は公家で、源氏・平氏は武士、というのは、全く誤解です。
 源氏にも平氏にも藤原氏にも、公家も武士もいます。橘、清原、菅原、大伴(伴)、阿部(安倍)、いろんな姓がありますが、みんな同じです。氏族の名前で属性が決まるわけではありません。
 日本史における武士とは「地方の農場経営者」のことです。
 簡単にいえば、都で貴族でござい、公家でございと言って暮らしている一族も、その子、孫の代になれば数が増えますから、当然、全員が同じような高い身分に昇れるわけではなくなります。大臣の息子が三人いれば、親と同じ大臣になれるのは一人だけで、ほかのふたりはあぶれる、これは自然の理屈です。
 そこで、京都に残って中級貴族、下級貴族に甘んじるか、さもなければ地方官の位を貰って、地方に下って、そこで土着して武士になるか。つまり、親が東京に家屋敷を持ってても、相続できるのは長男だけ、遺産の分け前を貰った次男坊は、都心で狭いマンションを買うか、郊外に広い庭付き一戸建てを買うか、みたいな選択を、源氏だろうが藤原氏だろうが、みんな迫られるわけです。
 関東に下ろうが、東北に下ろうが、べつに「追放」されたわけではありません、「地方に土着したほうが、食える」と判断した、というだけのことです。
  去年の大河ドラマ「平清盛」でいえば、時子の実家の家系が前者(下級公家)、忠盛・清盛の家系が後者(地方武士)の選択をしたものの子孫です。「公家平氏/武家平氏」といった言い方がされます。
 藤原氏も同じです。都で「関白でござい、大臣でござい」と言っていられるのは、藤原北家のなかでも本家筋にあたる、ほんの一握りです。大半の家系は、代を重ねれば次第に中級、下級とランクが下がっていきます。だったら地方で武士になろう、と思う者が大勢出るのが当然です(まあ、武士になろうと最初から思って地方に下るわけではないですが、ここは話を簡単にするため、ざっくりはしょってます)。

 そこで、奥州藤原氏の先祖とされる「俵藤太秀郷」ですが、平将門の乱の鎮圧にも功績があった英雄です。関東武士のうちの半分近くが「俵藤太の子孫」を名乗っている、と言っていいくらい、メジャーな存在です。つまり、藤原氏出身の武士は、源氏、平氏にヒケを取らないくらい数が多いです。
 なんで「源平は武士、藤原は貴族」と誤解してるひとが多いかというと、「平家物語」「源平盛衰記」などが、「源平合戦」と書いてしまって、後世の日本人がみんなそれにとらわれているからです。あれは源氏対平氏の血族集団の争いではないので、現在では「治承・寿永の乱」と教科書にもこう載ってるはずです。
 地方にくだって土着したものは、平安時代後期あたりから、自分の領地や官職の名前を取って「苗字」を名乗るようになります。関東の武士は「北条」とか「三浦」とか「千葉」とか、みんな領地の名前を苗字にしてますが、こいつらはみんな平氏です。同様に、佐藤とか、伊藤とか、後藤とかが藤原氏の子孫とされますが、要は「誰も彼も藤原では、区別つかずに不便だから」ということです。
 しかし、こういうことの普及には必ず地方によってタイムラグがあります。奥州あたりでは、まだこの頃は「苗字」を名乗るというのが一般化していなかったのかも知れません。周囲に有力な藤原の子孫が他にいなければ、「藤原」という名乗りをしていたほうが立派そうでいいでしょう。
 奥州藤原氏は、藤原氏の子孫です、たぶん。それは別になんの珍しいことでもないんです。全国に山ほどいた藤原氏の子孫のひとつです。それが、たまたま地方で勢力を持ったので目立った、ということです。