「プリンセス トヨトミ」映画版の「男である旭ゲーンズブール」とは何者か?を推理する | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

 この項も映画「プリンセス トヨトミ」を見てから読んでください、ネタバレです、というより見てないと何が書いてあるのか分からないですから。すみません。

 岡田将生クンは「悪人」と「雷桜」で見て「コイツ、何やっても普通の善人に見えない俳優だな」と注目してたので(いや、褒めてるんですよ)、今回の「プリンセストヨトミ」で旭の役と聞いたときも、設定が変わってるにしても必ずなんかやってくれると思ってました。
 大阪府庁の前に集まってくる大群衆を見下ろして「いったい、何が起こってるんですか」という旭の表情、秀逸だったと思います。台詞は驚いているのに、顔は笑いを押し殺したような、というより抑えきれずに笑ってしまっているような・・・、「あ、こいつ、この光景が見たかったんだ、この光景が見たいがためにここに来たんだ」というのが電撃的に観客に伝わります。「・・・おまえが仕組んだのか?」


 彼は「自分は大阪国の人間だ」「大阪国は日本から独立すべきなんだ」と言います。唐突というかイキナリすぎる展開ですが。どうやら旭は大阪国政府側の人間というのでもなく、事態を急展開させて一気に「革命」に持ち込もうとしている、ようです。
 これは原作にない設定です。原作小説では、彼女(女性です)の設定はまったく違うものになっています(興味あれば、小説をお読みください)。

 

 横文字の名前、日本人離れした容姿、尋常でない高身長、しかしもちろん、日本の国家公務員なのだから彼女は日本人です。彼女は何かしらの「アイデンティティへの不安」を抱えて育ってきたのでしょう(今調べてみたら、「セルジュ・ゲンスブール 」という有名な作詞家、作曲家、映画監督がいるんですね。ゲンスブール家はもとはロシアのギンスブルグ家で、革命の混乱を逃れて移民してきたユダヤ人だそうです、なるほどね)。
 そんな彼女だからこそ、自分の理解不能なほどの強烈なアイデンティティの塊「大阪国」という存在を知ったとき、敵味方を越えたアコガレを抱き、本当に実在するなら、見てみたい・・・と念じるようにな。とまあ、これは私なりの小説の解釈ですが。

 

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 映画のほうの、男性である「旭ゲーンズブール」も、日仏ハーフという設定ですが、とすると父親がゲーンズブールというフランス人だと考えるのが普通です(母がフランス人なら、日本で生きるのに母方の姓をわざわざ名乗る理由はありません)。しかし、それだと少々おかしい。大阪国民の資格は、父から息子にのみ受け継がれるのですから、フランス人の父を持つ大阪国民はいないはずです。
 ここんところ、映画向けに脚色した人間は、ちゃんと考えていたのでしょうか、それとも「うっかりしてた」んでしょうか。問いただしたいところではあります。が、ここは敢えて深読みしてみましょう。

 いろいろな解釈の余地がありますが、ともかく彼は大阪国の人間を名乗りながらも「父から息子へ」という正規の方法で秘伝を受けた者ではないのかも知れません。母が大阪人だったので特別に、とか、母方の祖父から「一代飛ばし」で、とか、そういう方法が認められるのかどうか分かりませんが、ともかく、彼の生い立ちには、なにがしかの欠落があります(おそらく)。それはたぶん「父の不在」です(たぶんね)。
 父からの伝授が絶対、というのが大阪国のルールは、彼のコンプレックスを刺激するものなのではないか。しかし、なぜ「秘伝」でなければならないかといえば、それは大阪国が「極秘国家」だからです。独立して満天下に公の組織になれば、もう秘伝の必要もないわけです。ところが、真田の演説を聞くと「大阪国は父子の秘伝だからこそ意味がある」ということになります。「秘密のまま大阪国を維持しよう」としか考えない現政府は、旭に言わせれば「あんな頼りない総理大臣に任せておけない」ということになるのです。
 とまあ、こんな話は映画のどこにも出てこないので、深読みすぎかも知れませんが。でも、彼が上司の松平に「父」を求めていること、これだけは確実だろうと思います。
 彼は、同僚の鳥居には旭というファーストネームで呼ばれることを拒否しますが、松平が旭と呼ぶのは「副長はいいんです」といいます。一人で調査する途中で、ソフトクリームをなめながら、「(松平さんは)なんでこれがそんなに好きなんだろう・・・」と呟きます。彼がいっしょうけんめい松平を理解しようとしているのが、映画の画面からよく伝わってきます。意識的にせよ無意識的にせよ、旭は松平に「父」を見ています。
 そして、父である以上、それは挑み、倒すべき存在でもあるわけです。 とまあ、そういう意味でかなり「意思的に物語を動かす」存在になってます。

 映画版のこの脚色については、(尺のないなかで消化不良の感もありましたが)とても面白い、と思った次第です。。

 

ゲーンズブールという名前の由来、そのほか、について、このはなし明日に続きます。